デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
1節 記念事業
3款 聖徳太子一千三百年御忌奉賛会
■綱文

第49巻 p.25-34(DK490011k) ページ画像

大正7年5月25日(1918年)

是日、聖徳太子一千三百年御忌奉賛会発起人会東京銀行倶楽部ニ於テ開カル。栄一出席シ、副会長ニ推サル。


■資料

渋沢栄一 日記 大正六年(DK490011k-0001)
第49巻 p.25 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正六年        (渋沢子爵家所蔵)
二月六日 晴 寒
午前七時起床、風邪気ニテ入浴ヲ止メ洗面シテ朝食ス、畢テ黒板・正木・村田等ノ三氏来訪、聖徳太子千三百年遠忌奉賛会ノ件ニ付種々ノ協議ヲ為ス○下略
  ○中略。
三月十七日 晴 軽寒
○上略 午前九時前自由亭ヲ発シテ湊町停車場ニ抵リ汽車ニテ法隆寺ニ抵ル、北川知事・佐伯管主其他数氏案内者トシテ来リ迎フ、十一時過着直ニ寺内ノ各営造物及宝物ヲ拝覧ス、壁画其他ノ古物ニ付寺僧又ハ技師ノ説明アリ、畢テ寺内ニ於テ午飧ヲ供セラル○下略
  ○栄一、是月十四日東京ヲ発シ関西ニ赴ク。傷病兵慰問ニ関スル寄付募集ノ為メナリ。二十二日帰京。


渋沢栄一 日記 大正七年(DK490011k-0002)
第49巻 p.25 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正七年          (渋沢子爵家所蔵)
一月二十一日 晴 寒
○上略 十時黒板勝美氏来リ、聖徳太子遠忌紀念会ノ事ヲ談ス○下略


中外商業新報 第一一五四一号 大正七年五月一八日 聖徳太子を記念すべく御忌奉賛会成る 其の事業の内容(DK490011k-0003)
第49巻 p.25-26 ページ画像

中外商業新報  第一一五四一号 大正七年五月一八日
    ○聖徳太子を記念すべく
      御忌奉賛会成る
      其の事業の内容
聖徳太子が我国文明の祖として文化史上に重きをなすは云ふ迄もない事であるが、来る大正十年は恰も太子薨後千三百年に当るので其御忌日たる四月十一日を以て
△太子が建立 された法隆寺と御陵のある泉州南河内郡磯長村なる叡福寺に於て追遠の式が行はれる、之を機として徳川頼倫侯・渋沢男・穂積男・正木美術学校長、黒板・三上・萩野・高楠・三宅各博士其他各方面の士は相図つて御忌奉賛会を組織し、太子の為に御忌奉修を荘厳ならしむると同時に進んで各種の事業をして、以て太子を永遠に記念し奉るべく、来廿五日を以て其発会を行ふ筈である、右奉賛会の
△事業に就て 黒板博士は曰く「聖徳太子の御偉業は今更云ふ迄もない事であるが、仏教家は余りに仏教に引入れ過ぎて居るし歴史家も水戸学派は甚だ御事蹟を過り伝へてゐる、奉賛会は其誤りを正し隠れた
 - 第49巻 p.26 -ページ画像 
を顕して完全なる御伝記を編纂したい、又全国各学校で唱へしむべき唱歌をも作製したい、之等は共に懸賞募集法に依る考へである、又法隆寺は太子と離る可らざるもので且つ世界最古の木造建築として
△千三百年の 星霜を経て今日厳として存してゐる、殆ど奇蹟的貴重品であるが、政府としては其金堂の壁画保存の研究をして居る位なもので、建築全体としては一の防火設備さへ施してない、此際最も貴重なる建築博物館、仏像の陳列館たる同寺に完全なる防火設備を設けられん事を政府に建議し其実行を期したい、又日本の学界には古い時代の研究が甚だ進んでゐない、此際一の財団法人と云つた形のものでも作つて
△其研究機関 たらしめたい、即ち大体以上の希望の下に奉賛会は四十五万円の醵金を得たいと思ふので、更に其使途を細別すると御忌奉修費六万六千円、防火設備費寄附五万円、御伝及唱歌編纂費三万円、記念研究基金二十万円、研究設備五万五千円、寄附金募集費二万五千円、予備費二万四千円と云ふので、之だけの計画を完全に遂行して、以て太子洪恩の万一に酬い、聖徳を後代に記念し奉りたいと思ふのである」


集会日時通知表 大正七年(DK490011k-0004)
第49巻 p.26 ページ画像

集会日時通知表  大正七年        (渋沢子爵家所蔵)
五月廿五日 土 午後五時 聖徳太子千三百年御忌奉賛会発起人会(銀行クラブ)


中外商業新報 第一一五四九号 大正七年五月二六日 聖徳太子御忌奉賛会発会式(DK490011k-0005)
第49巻 p.26 ページ画像

中外商業新報  第一一五四九号 大正七年五月二六日
    ○聖徳太子御忌
      奉賛会発会式
既記の如く聖徳太子一千三百年御忌奉賛会の発会式は二十五日午後六時から丸の内銀行集会所に於て開かれた、黒板博士先づ起つて従来の経過を詳細に報告し、次で穂積陳重男座長席に着き、座長指名の形式で会長に徳川頼倫侯、副会長に渋沢栄一男を推す事とし、両氏から鄭重な就任の挨拶があつた、食堂を開くや沢柳博士・本多日生氏・片山医学博士等交々起つて聖徳太子に対する所感を述べ同九時散会、来会者は学界・実業界・美術界其他各方面知名の士であつた、猶実行委員は追つて選定発表の筈


竜門雑誌 第三六一号・第八一―八二頁 大正七年六月 ○聖徳太子御忌奉賛会(DK490011k-0006)
第49巻 p.26-27 ページ画像

竜門雑誌  第三六一号・第八一―八二頁 大正七年六月
○聖徳太子御忌奉賛会 大正十年四月十一日は我文化の母たる聖徳太子の千三百年忌に相当するを以て、太子の遺徳を永久に記念せんが為め、御忌奉賛会を設立すべく、五月廿五日永楽町東京銀行倶楽部に於て発起人会を開き、徳川頼倫侯・青淵先生・柳沢伯・近藤男及び穂積男・萩原・黒板・前田(慧)・三宅(雄)等の諸博士、並に木田川奈良県知事・佐伯法隆寺住職等、学者・宗教家・美術家・実業家等約百名。穂積男爵座長席に著き、会則を制定し、会長に徳川頼倫侯、副会長に青淵先生を推挙して其承諾を得、別室に於て食堂を開き、席上柳沢伯、黒板・三宅両博士及び権田僧正の太子に関する事蹟の講演あり
 - 第49巻 p.27 -ページ画像 
又青淵先生の述懐談等ありて散会したる由なるが、聞く所に依れば青淵先生は太子に対する青年時代の誤れる考へを懺悔すべしとて
 仏教の伝来を想へば太子と仏教との間に密接な連鎖があるので、若い血気から尊王攘夷の思想に感染れて、異邦の仏教を帝国へ移植遊ばされた結果、毛色の変つた思想が弥漫したことを痛罵したものであるが、是は全く太子の反面を誤り観たものであつた、現代の人にも私と同じやうな考へを持つて、太子の真の御事業を理解し得ない者が居ることを怖れる
と述べられたる由なるが、黒板博士の談によれば
 歴史を案ずるに、太子薨去の際国民は日月光りを失ひ天地既に崩ると哀んだ、太子薨去の翌年、師たる高麗の恵慈法師が殉死してゐるこれによつてもその霊徳を偲び奉ることが出来る、崇峻天皇を蘇我馬子が弑し奉つた際に、これ因果の理によると述べられたと伝へられてゐるが、此は後世仏教家が因果の説を述べる都合から作つたもので、太子の正伝にはない、制定した憲法の中にも閥族の横暴を憤つて滅さうとした精神が明かである、大化の改新は太子の御志の遂げられたものである
云々とて、太子の功績の我国史上に重要なる所以を縷述して、世上伝来の誤謬を嘆ぜりと云ふ。因に同会の主なる事業としては法隆寺法要賛助、太子記念研究基金、法隆寺防火設備費等にして、其経費四十五万円を募集する由、而して此事業中には汎く太子の伝記及唱歌の懸賞募集を含み、不日応募方法を発表すべく、又防火設備費は文部省へ建議して国庫の補助を受ける予定なりと云ふ。


聖徳太子一千三百年御忌奉賛会小史 同会編 第一―六頁 大正一三年一〇月刊(DK490011k-0007)
第49巻 p.27-30 ページ画像

聖徳太子一千三百年御忌奉賛会小史 同会編
                     第一―六頁 大正一三年一〇月刊
 起源 聖徳太子一千三百年御忌法用をして国民的に且つ最も意義あるものたらしむべく、法隆寺貫首佐伯定胤師の発願に賛同し、大正二年の春、文学博士高楠順次郎・高島米峰・正木直彦・文学博士黒板勝美・菅瀬芳英の諸氏相謀り、先づ法隆寺会を興して朝野の名士を集め屡々会合を重ねて機運を促し、遂に大正五年秋に至つて聖徳太子一千三百年御忌奉賛会を設立することゝなり、村田俊彦氏新に加はりて、その会則及び事業計画を定め、次いで会長以下役員の就任を得て本会玆に成立を告げたり。
 趣旨 我が国の文化日に進み、月に盛んなるもの、その淵源遠くこれを聖徳太子に求めざるべからず。こゝに於てか、太子薨後正に一千三百年に当れる大正十年の春を以て、法隆寺及び叡福寺に於ける太子追遠の大法用を奉賛し、且つ太子を永遠に記念し奉るべき事業を計画し、その洪恩の万一に報じ霊徳を後代に宣揚すると共に、漸く悪化せんとする我国民思想を極力善導せんとすること、実に本会趣旨の眼目たり。而してその発表したる趣意書は左の如し。
    聖徳太子一千三百年御忌奉賛会趣意書
我が帝国の文物醇美にして中外に秀絶せるは、その淵源するところ太だ遠し、然れども宗教・法制・文学・美術・工芸をはじめ、感化救済
 - 第49巻 p.28 -ページ画像 
の施設に至るまで、燦然たる光輝を放つことを得たりしは、一に聖徳太子の鴻業に帰し奉らざるべからず、太子は推古天皇の摂政として、内は憲法を制定し、以て東方君子国の実を挙げ、外は支那と交り、以て日出処天子の尊を示す、夫の大化改新の如き、多く太子の遺策に出づと称するも、敢て過言にあらざる也。太子又神祇を崇び、儒学を奨め、特に心を仏教に潜めてその興隆に任じ、三教を苞貫して、先皇の宏献を纂ぐ、宮を大和斑鳩に造り、又その地に法隆学問寺を建て、堂塔伽藍今猶儼として存す、実に世界に於ける最古の木造建築にして、多数の霊像宝器と共に、皆太子の偉績を伝ふるものに非ざるはなし。太子は、推古天皇卅年四月十一日斑鳩宮に薨じ給ひ、河内磯長に葬り奉る、史官之を記して、日月輝を失ひ、天地既に崩るといへり。大正十年は太子薨後正に一千三百年に当る、乃ち斑鳩宮趾の法隆寺に於ては古例に准して聖霊御会を修し、磯長墓前の叡福寺に於ては追遠の御式を行ふの議あり、余輩幸に聖世に生れ、文化日に進み国運月に盛なるを観、ますます太子の遺沢に浴するもの多きを知る、ここに聖徳太子一千三百年御忌奉賛会を組織し、両寺を助けて法会を荘厳にし、且つ太子を永遠に記念し奉るべき事業を計画し、以て洪恩の万一に報し霊徳を後代に宣揚せんとす、大方の諸賢庶幾くは賛襄あらむことを。
 事業 本会は其趣旨に基きて記念事業を大成せしむべく、先づ左記の計画事業額を設定したり。
一金五万円      法隆寺法用費賛助額
一金一万六千円    叡福寺法用費賛助額
一金二拾万円     太子記念研究基金
一金五万円      同上設備費
一金五万円      法隆寺応急防火設備費
一金三万五千円    太子御伝並唱歌編纂出版費 以上
次でこれを天下に周知せしむべく、左の理由書を発表して、大に力をこの方面に尽くしたり。
    聖徳太子一千三百年御忌奉賛会計画事業並理由書
      一、法隆寺及び叡福寺の法用賛助
  法隆寺に於ける聖徳太子御忌の法会は聖霊会と称し、天平七年 聖武天皇の勅願によつて始めて行はれ、永く播磨の水田一百町を寄せ給ひて、毎年厳修せしめられたところ、戦乱の世となつては寺領をはじめ、彼の水田まで殆ど皆地方の豪族に占有せられ、法会もまた廃絶の姿となつたので、江戸時代以後は、五十年ごとに大法会を行ふことゝなつたが、この大法会には太子の尊像及び宝物を奉じて上京し、禁裏仙洞各宮家の御拝を受け、御下賜があつたなど、他に類例のないことで、我が皇室が太子の御鴻業を追懐思慕あらせ給ふ思召の深きを拝察するに足るのである、然るに明治三年恰も一千二百五十年の御忌には維新の際とて、僅に寺中の僧侶や附近の信徒が形ばかりの法会を営んだに過ぎなかつた。元来同寺は 用明天皇の御為めに 推古天皇聖徳太子の御創建にかゝつた皇室の寺院で、申さば官寺と称すべきものだから、江戸時代にも法会の奉行に、清華家の柳原氏が補せられた程であつたが、明治以後朱印地は奉還した
 - 第49巻 p.29 -ページ画像 
し、檀家はなし、たゞ金堂以下諸堂の拝観料により辛うじて維持して居る有様、到底大法会を奉修する資力がないのである、若し大正の御世に一千三百年御忌を挙行することが出来ぬやうならば、聖武天皇以来特にこの法会に大御心を留め給ひし列聖に対し奉り、恐懼の至りであり、太子の御偉徳により今日ある国民としても相済まぬ次第であるまいか。本会が特に法隆寺の大法会を厳修せしめんが為め、微力を致す所以は、実に此大法会が一法隆寺の法会にあらずして、実に 聖武天皇の勅願を復興し、全国民をして太子を讚仰せしめんが為めである。
  叡福寺は河内磯長の太子御墓前にある寺で、俗に上の太子と称して居る、叡福寺に於ける太子の法会は、御墓前祭に准ずべきものである、本会は法隆寺と共にまたその法用を賛助し、太子の聖霊を慰め奉らんと思ふ。
      二、聖徳太子記念研究基金の設定並研究設備費
  聖徳太子一千三百年御忌に当り、法隆寺及び叡福寺の法用を賛助するは、固より本会を組織した動機であるが、太子が 推古天皇の摂政として宗教・法制・文学・美術を始め政治・外交及び社会事業等に於ける御鴻業と、その御鴻業によつて我国体の精華を発揮せられた偉大なる功績とを如何に記念し奉るべきかは、この一千三百年御忌をして意義あらしむるに於て、我々国民の最も心を致すべきところである。而して太子が国民思想の根柢を建国の精神に置きたまへるを想へば、我が古代文化を中心としたる研究をますます盛にしその精髄を闡明するは、以て七千万国民の帰趨するところを知らしむるばかりでなく、また以て天壌無窮の皇運を扶翼する所以である是れ本会記念事業として聖徳太子記念研究基金を設定した理由で、金弐拾万円を基金とし、金五万円を設備費とし、篤学の士に古代文化を研究せしめて、その成績を発表することゝし、財団法人を組織して学識徳望高き人々をして代表せしむる予定である、本基金が募集全額の中、勧募費等を除きたるものゝ二分の一に相当し、法隆寺叡福寺法用賛助金の略三倍に近いのは、本会が記念事業として学術研究に最も力を致すことも明なるべく、我が文明の父たり母たる太子の鴻業を顕彰するに於て、また太子の思召に合ふことゝ信ずる次第である。
      三、聖徳太子御伝及び讚仰唱歌の編纂出版
  前項に述べたやうに、聖徳太子の御精神御事業等が猶ほ未だ明にせられぬ為めに、平易な読物すらその正確なるものが甚だ稀であるのは遺憾のことである。殊に太子に対しては従来多少の誤解あり、蘇我馬子が、崇峻天皇を弑し奉りし際に於ける御態度の如き、又神祇崇拝に対する御思召の如き、或は太子を非議し奉るものがないではないが、我が金甌無欠の皇室に出でたまひて、国体の精華を発揮し、外支那と対等の交際を開き、内憲法を制定して国法の基を定め給へる太子に、国体に反する行動ありしと誤信するが如き、実に国民思想上由々しき事と謂はねばならぬ。本会は一千三百年御忌を機とし、弘く太子の御精神を国民に宣伝すると共に、懸賞によつて御
 - 第49巻 p.30 -ページ画像 
伝を募集し、その当選せるものにつき、現代に於ける歴史文学の権威者をして増補訂正を加へしめ、その稿成るを待つて之を国民に提供し、太子の御功績を顕彰し、聊か国民教育に資したいと思ふ、又国民をして太子の御遺徳を景仰せしめんが為めに、同じく懸賞方法により唱歌を募集して既に当選者を得、文部省の検定を経、普く之を頒つことゝし、毎年四月十一日太子の御忌に全国の小学児童に之を歌はせたいのである。
      四、法隆寺防火設備
  法隆寺は 推古天皇及び聖徳太子の御創建に係り、金堂・五重塔廻廊および中門等は実に我国に於ける最古の建築であるのみならず亦世界に於ける最古の木造建築である、その既に特別建造物に指定せられたるもの三十一棟の多きに及び、内に本尊以下国宝の保存せらるゝものまた二百五十七点に上つて居る、かく多数の特別保護建造物・国宝を一廊《(廓カ)》の内に有するは他に類を見ざるところで、文部省古社寺保存会に於ても、その建造物・国宝等につき個々の保存法を講じ、金堂内の壁画の如き保存に関し特に調査委員を設くるに至つた程である、若し一朝祝融の災に罹らんか、この貴重なる建造物をはじめ、全部の国宝忽ち烏有に帰し、個々の保存また何等の効がないであらう、故に本会は防火設備に関し当局に交渉し、国家事業として完全なる計画を立てしむるに力むると共に、先づ一日も忽にすべからざる部分につき応急の設備を加へ、既に之に著手して居るのである。
右の如く最初の計画としては法隆寺法用費賛助額金五万円、叡福寺法用費賛助額金壱万六千円なりしが、実際に於ては前者に金壱万円を後者に金壱万五千円を増額し、更に太子記念研究基金弐拾万円の外に宣伝基金五万円、遺蹟保護基金五万円及び其他の基金拾万円の新設定額を合せたる金四拾万円を以て、今や既に財団法人聖徳太子奉讚会(大正十三年九月十一日附許可)を設立し、また法隆寺応急防火設備費は初め金五万円の予定なりしが、これまた金壱万円を増加せり、ただ太子御伝並に唱歌編纂出版費金参万五千円は指定寄附者のありしため増額の必要を認めざりしが、太子の御影をはじめ十七条憲法等の出版費全部を計上すれば事実上殆どその倍額に及べり。
 これその事業費の大略にして軈てまたその事業の如何に予定以上に拡大したるかを語るものといふべし、以下項を分ちて略説せんとす。


黒板勝美談話筆記(DK490011k-0008)
第49巻 p.30-32 ページ画像

黒板勝美談話筆記             (財団法人竜門社所蔵)
                    昭和十年一月二十二日 於同氏邸増山記
    聖徳太子奉讚会に就て
 「聖徳太子奉讚会」は「聖徳太子千三百年御忌奉賛会」がその事業を終つて後、その剰余金を用ひ、永久の施設として成立されたものでありますから、まづ後者と渋沢子爵との関係に就てお話しませう。
 大正六年の末頃か七年の始と記憶します。聖徳太子千三百年御忌が数年後(大正十年)に迫つたけれども祭典を主催すべき法隆寺は檀家を持たない、従つて自ら主催する財力がないので、私達東京在住の関
 - 第49巻 p.31 -ページ画像 
係者が学士会に集つて相談しましたけれども、祭典の費用を集める方法が全然目当がつかない、そこで種々の公共事業に力を入れて居られる渋沢子爵(当時は男爵でしたが)の御尽力を仰がう、もし子爵の御承諾を得られなかつたならば遺憾乍ら中止の外はないといふ事に相談が決し、それで子爵にお願するには只祭典だけといふのでは如何かと思つて、その他に法隆寺の保存と全国一般に太子を讚仰する企、特に水戸学者の太子に対する非難を雪ぐのをも会の目的に加へ費用を四拾五万円と見積り、正木直彦氏と私とが交渉委員に挙げられました。
 私は従来子爵とは御懇親を願つてないので、大学の関係で穂積先生○陳重の御紹介を願つた処、先生も非常に賛成されて「渋沢子爵はあまりいろいろな方面に関係されるので、自分は出来るだけ抑へるやうにして来たのであるが、この会の趣旨は誠に結構で、且自分から見れば太子は日本憲法の始祖でもあられる。是非子爵の出馬をわずらはすやう尽力しよう」とのお話でした。この時先生のお部屋には太子の像が置いてあつたやうに記憶します。幾何もなく先生からのお電話で「子爵に出来るだけ勧めて見たがどうも賛成されない。それで一度君から直接お話した方がよからう」との事で、私を子爵に御紹介下つたので飛鳥山のお邸に参上してお願した処、子爵の御趣旨は、自分は元来水戸学を修めた者であるが、大逆の臣蘇我馬子と、事を共にされた太子の挙措は、大義名分上から賛成出来ないとの事でした。そこで私は水戸学者の説は基く資料に誤があるので、事実は斯く斯くと申上た処、大分御諒解になつたやうで、尚子爵の御希望で、大正七年一月十七日湯河原へ転地される際、小田原迄お伴して車中で色々申上た処十分御諒解になつて「何とかしてあげよう」とお引受下さつたのでした。そこで私は子爵に会長をお願した処、皇室の御方の祭典に会長となるのは恐縮だからとて、副会長をお引受下さつて、会長には徳川慶久公にお就任願つた方がよいとの御意見で「自分は慶久公にとつては大久保彦左衛門のやうな関係であるから、自分からお願すれば多分お引受願へるだらう」と言はれました。併し慶久公も「こればかりは……」と御承諾にならない。それから二三人物色しましたが、会長がきまらなければ会を作る事が出来ないので、私から徳川頼倫侯をお薦めした処子爵も賛成されて、すぐに侯の御都合を伺ひ、私と同車して侯のお邸を問ひ、会長就任を懇請されたのでした。(この場合のやうに、頼倫侯にといふ相談がきまると、すぐに電話で都合を伺つて、自動車で出掛るといふテキパキしたお世話は子爵以外にはやつて下さらない。)頼倫侯は事を慎重に運ばれる方で、容易に承諾されない。併し遂に御承諾を得て「聖徳太子一千三百年御忌奉賛会」の発会式を挙げたのは大正八年三月の始と記憶します。つまりこの会は全く子爵の御世話で出来上つたもので、裏面には穂積先生の御尽力もあるといふ訳です。
○中略
 奉賛会関係の事は大小となく子爵に御相談申上げ、その度に常に要領よく決裁して下さいました。子爵の御決裁を得て置くと非常に安心して仕事が出来るので小さな事でも子爵迄持込む事になるのです○中略
 寄附金が予定の一倍半に達した時などは非常に喜ばれて「自分の関
 - 第49巻 p.32 -ページ画像 
係した数多くの寄附金募集の中で、予定を超過したのは明治神宮奉讚会とこの会あるばかりである。以て皇室中心思想の弥盛なるを知ると共に水戸学に基く自分の旧の考の間違つてゐた事を証明するものである」と言はれた。大正十年千三百年御忌に際しては子爵夫妻は幾日も奈良に滞在して祭典に列席されました。
○中略
 私は子爵の激怒したのを只一度見た事があります。それは十五銀行が破綻した時で、奉讚会の会計理事が十五銀行内部の人で、同行に預金して置き、何等の対策をも講じなかつたので、会では大分損失を生じたのです。この時子爵は理事会の席上満面朱を注いで
 「自分はもとより十五銀行の内容の悪くなつたのは知つてゐる。しかも徳川家始め同行預金者債権者に何の忠告もしなかつたのは、個人として同行に対し義理を失ふからである。然るにこの世人の浄財より成る財団法人は一文たりとも無為に費消すべきでないのに、十五の内容を知悉する身で何等の対策をも講ぜぬとは……何のための会計理事か……」
と言つて面責されたのでした。やがてその理事は辞職して、他の人を容れる事になりました。
○下略


渋沢栄一翁 白石喜太郎著 第七三〇―七三二頁 昭和八年一二月刊(DK490011k-0009)
第49巻 p.32-34 ページ画像

渋沢栄一翁 白石喜太郎著  第七三〇―七三二頁 昭和八年一二月刊
 ○第五篇『仲秋』
    八 聖徳太子奉賛会
 聖徳太子千三百年御忌奉賛会は、法隆寺貫首佐伯定胤氏の発願を起源とするもので、大正二年春、文学博士高楠順次郎・高島米峰・正木直彦・文学博士黒板勝美・菅瀬芳英の諸氏によつて組織せられた法隆寺会によつて其基礎をつくり、大正五年秋に至つて具体化されたものである。その目的は『聖徳太子薨後正に一千三百年に当る大正十年の春を以て、法隆寺及び叡福寺に於ける太子追遠の大法要を奉賛し、且つ太子を永遠に記念し奉るべき事業を計画し、その洪恩の万一に報じ霊徳を後代に宣揚すると共に、漸く悪化せんとする我国民思想を極力善導せん』とするに在つた。
 子爵の同会に関係したのは、大正四年黒板勝美氏の懇談によるものであつた。当時の事情は後に同会主事となつた山岡超舟氏の談話に明かである。
 『大正四年春に至つて、黒板勝美博士は経営の具体案を提げて渋沢子爵を尋ね、其援助を乞はれたのでありますが、子爵は水戸学派の流れを汲まれた人で、聖徳太子の御事蹟に反感を抱いて居られました。徳川時代の漢学者は、聖徳太子が政治を執られるに当り、崇峻天皇を殺し奉つた所の蘇我馬子と、相共に事業をおやりになつた事を非難したのでありますが、渋沢子爵は此説を学んで居られたのであります。黒板博士は此説の誤れる事を陳べ、子爵は自分の考の非なる事を悟られました。玆に於て子爵も会の為めに御尽力を承諾なされました。最初会長を懇望したのですけれども、辞退されて副会長に就任され、一
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同と会長の人選に意を用ゐられた結果、徳川家達公を訪はれて御相談になつたのであります。家達公は徳川慶久公を推されましたので、渋沢子爵は慶久公に会長御就任を願はれたのであります。此時慶久公は聖徳太子の如き貴い方をお祀りする会の会長としては其任にあらずと御辞退になりました。依つて更に家達公と子爵と御相談の末、徳川頼倫侯に会長御引受を懇願の結果、遂に其承諾を得て、玆に正副両会長の御就任を得た次第であります。渋沢子爵は副会長として寄附金募集の御指導役として力を竭され、実際の事務は、日本郵船の加藤正義氏が理事長としておやりになりました。』
 大正六年三月子爵は関西に旅行したとき、特に一日を奈良訪問に費し、法隆寺を訪うたことがある。要務を以て終始する子爵としては、唯単なる懐古的趣味の為め一日を費したことが不思議であつた。今にして思へば矢張り単なる観光でなく、事業の為であつたことが分る。蓋し新たに関係を生じた聖徳太子千三百年御忌奉賛会のことに関し、発意者たる佐伯法隆寺貫首と懇談せん為であり、同会と離るべからざる法隆寺を見ん為であつた。忙しい旅行の一日を特に割いて奈良を訪うた程の子爵は、其初め寧ろ関係するを躊躇したことは念頭になく、一意専心、会の為に尽力を怠らなかつた。毎月一回開催せられる理事会には必ず出席し、寄附金募集の協議に熱心に参画した。子爵の熱心に拘らず応募が思ふに任せなかつたので、理事会の決議により、大正九年春上野東京府美術館に於て、純正美術・工芸美術の各派を網羅する聖徳太子一千三百年記念美術展覧会を催し、聖徳太子の御功績を宣揚すると共に、出品者に売上高の一部を奉賛の意味を以て寄附せしめ又各地に於て頻りに宣伝講演を行つた。子爵も東京に於て二回演壇に起つた。斯くの如く努力した結果は八十五万余円の寄附金として現はれ、予定額の倍以上になつた。
 かくて大正十年四月十一日法隆寺に於て聖徳太子一千三百年御忌法要を厳修し、総裁久邇宮邦彦王殿下、伏見宮文秀女王殿下、徳川会長、英・仏両国大使、其他朝野の参拝者引きもきらず、奈良・法隆寺・貴志太子口の三駅は殊に雑沓し、開駅以来の乗降客があつた。子爵も亦特に西下して法要に列し頌徳文を捧げた。此時の子爵の旅行は聖徳太子千三百年御忌法要に列することが目的で、四月十日午前八時半東京駅を発し、同夜十時過奈良につき、奈良ホテルに投じ、翌十一日朝奈良ホテルに於て開催せられた聖徳太子千三百年御忌奉賛会評議員会に列席し、午前十時より奈良県庁に於ける総裁宮奉戴式に臨み、転じて法隆寺に於ける御遠忌に参列の上、同夜奈良ホテルに於て催された総裁宮御主催の晩餐会に出席した。十二日午後再び法隆寺に於ける大遠忌に参列し、同夕大阪に赴き、翌十三日を同地に送り、十四日叡福寺に於ける御遠忌に列して京都に到り、十五日を京都に送り、翌十六日岐阜県養老に遊び、十七日に帰京した。
 聖徳太子一千三百年御忌奉賛会は御忌祭典を行ふ事が目的であつたが、其目的を予期以上の成績を以て了した後、猶巨額の資金を残したので、之を基金として永続的の事業を起さうと云ふことになり、大正十二年四月十一日の評議員会に於て財団法人設立のことが議題となり
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之を可決し、爾来準備を怠らず、翌十三年二月設立許可の申請をなし同年九月許可せられ、財団法人聖徳太子奉賛会が出来た。子爵は引続き理事・副会長の任についた。