デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
1節 記念事業
3款 聖徳太子一千三百年御忌奉賛会
■綱文

第49巻 p.36-39(DK490014k) ページ画像

大正10年4月11日(1921年)

是日当会、奈良県公会堂ニ於テ、久邇宮邦彦王総裁奉戴式ヲ挙行ス。栄一出席ス。

次イデ、四月十二日奈良県法隆寺ニ於ケル聖徳太子一千三百年御忌法要ニ参列シ、実業家代表トシテ頌徳文ヲ朗読ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正一〇年(DK490014k-0001)
第49巻 p.36 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一〇年         (渋沢子爵家所蔵)
三月二十五日 雨 寒
○上略 四時過ギ日本クラブニ抵リ聖徳太子奉賛会ニ出席シ、評議員会ヲ開キ要件ヲ議決ス、加藤・黒板諸氏来会ス ○下略


集会日時通知表 大正一〇年(DK490014k-0002)
第49巻 p.36 ページ画像

集会日時通知表  大正一〇年         (渋沢子爵家所蔵)
三月廿五日 金 午後四時 聖徳太子御忌奉賛会評議員会(日本クラブ)
  ○中略。
四月十一日 月 午前九時半 聖徳太子千三百年御忌奉賛会評議員会(奈良ホテル)
        午前十時  同会総裁宮奉戴式(奈良県庁)
        午後六時  久邇総裁宮御主催、晩餐会(奈良ホテル)


聖徳太子一千三百年御忌奉賛会小史 同会編 第六―八頁 大正一三年一〇月刊(DK490014k-0003)
第49巻 p.36-37 ページ画像

聖徳太子一千三百年御忌奉賛会小史 同会編
                     第六―八頁 大正一三年一〇月刊
(イ)総裁奉戴式 大正十年春奉行の記念大法用に先だち、久邇宮邦彦王殿下を本会総裁に奉戴し、四月十一日奈良県公会堂に於てその奉戴式を挙げ、優渥なる左記の令旨を賜ふ。
 今玆大正十年四月十一日適々
 聖徳太子ノ一千三百年忌辰ニ値フ、本会ハ則法隆寺及叡福寺ニ於テ
 - 第49巻 p.37 -ページ画像 
厳修スル所ノ法用ヲ助ケ、又太子ノ徳業ヲ憲章シ奉リ、且其ノ御遺蹟ヲ護持セント擬ス、而シテ辱クモ
 両陛下 東宮殿下ヨリ厚ク金幣ヲ錫ヒ之ヲ嘉奨セラル、任重クシテ道遠シト謂フ可シ、本会ニ従事スル者須ラク至誠ヲ主トシテ弘毅ノ志ヲ致シ、心ヲ協ヘ力ヲ戮ハセ、以テ其実績ヲ挙ケンコトヲ望ム
  大正十年四月十一日
        聖徳太子一千三百年御忌奉賛会総裁
                大勲位功四級 邦彦王
  更に同夜奈良ホテルに於ける賜餐会に於いて、畏くもまた左の令旨を賜ひて本会々員を激励したまへり。
 御挨拶をいたします。
 私は図らず聖徳太子一千三百年御忌奉賛会総裁として、本日法隆寺に於て厳修せられました、一千三百年の御忌法用の盛儀に参列することの光栄を得ました。太子は国歩艱難の時に方つて、外国威を海外に輝かし、内 皇室の御稜威を高められ、その他我国文化に関する事業を企画し、之を実施せられました、不幸にして早世せられ、その事業の完成を見られなかつたのは遺憾の至りでありましたが、太子の意志を受継がれ、大化の革新が行はれまして、引いて明治・大正の御世の鴻業を仰ぐに至りました。今爰に太子の御忌に際しまして、奉賛会を設けられましたのは、誠にその時機を得たものと私は考へます。会長初め各員の御尽力に依つて斯く盛大に赴きましたが、尚将来の事業もあることでありますから、同心協力一層御奮励になりまして、本会有終の美を完うせられん事を希望いたします。
             (本会理事文学博士高楠順次郎謹記)
(ロ)御忌法用 叡福寺は四月八日より、法隆寺は四月十一日より、各一七日間、共に古式に拠りて奉行し、荘厳を極めたり、法用中総裁 久邇宮殿下、伏見文秀女王殿下をはじめ英・仏両国大使其他朝野諸名士及び一般参拝の男女織るが如く、ために奈良・法隆寺・貴志太子口の三駅はことに雑沓し、開駅以来未曾有の乗降者なりと云へり、その異常の盛況推して知るべし。而して右両法用の初日に当り本会々長徳川頼倫侯が親しく捧読したる頌徳文○略ス は左の如し。
○下略


集会日時通知表 大正一〇年(DK490014k-0004)
第49巻 p.37 ページ画像

集会日時通知表  大正一〇年       (渋沢子爵家所蔵)
四月十二日 火 午後 法隆寺ニ於ケル御遠忌ニ出席


頌徳文(DK490014k-0005)
第49巻 p.37-38 ページ画像

頌徳文                  (財団法人竜門社所蔵)
(写)
恭シク惟ルニ、聖徳太子上古豪強専権ノ世ニ当リ 上天皇ヲ奉シテ万機ノ政ヲ摂シ、下衆生ヲ愍ミテ三宝ノ教ヲ弘メ給フ、憲法ヲ制定シテハ天ニ二日ナキノ大義ヲ宣明シ、冠位ヲ創設シテハ人ニ六徳ノ守ルベキヲ表示セラル、人心内ニ諧ヒ国威外ニ振ヒシカハ、隋帝敬ヲ致シ聘使信ヲ表ス、乃彼ノ文物ヲ採リテ我ガ国体ニ培フ、凡厥設施シ給ヘル政事ハ範ヲ千歳ニ垂レ、其誘発シ給ヘル芸術ハ、恵ヲ百工ニ及ボシ給
 - 第49巻 p.38 -ページ画像 
ヘリ、大ナル哉、聖徳太子赫々タル徳業巍々タル威儀其ノ流風余韵ハ富ノ緒川ノ水絶ユルコトナク、胆駒山ノ雲終古碧ヲ峙ツ、栄一今ノ世ニ生マレテ遠ク遺績ヲ仰ギ、爰ニ一千三百年ノ遠忌ヲ修スルニ当リテ産業ノ発達ガ太子ノ恵沢ニ由ルコト大ナルヲ懐ヒ、爰ニ頌徳ノ辞ヲ陳ベテ鑽仰ノ敬忱ヲ表シ奉ル
  大正十年四月    正三位勲一等 子爵渋沢栄一
                           敬白


竜門雑誌 第三九六号・第七二―七四頁 大正一〇年五月 ○青淵先生関西旅行日誌(DK490014k-0006)
第49巻 p.38-39 ページ画像

竜門雑誌  第三九六号・第七二―七四頁 大正一〇年五月
○青淵先生関西旅行日誌 左は青淵先生が四月十日令夫人同伴の上奈良・大阪・京都其他へ旅行せられたる際の日誌なり。
大正十年四月十日(日曜日) 晴
 午前八時卅分、数多諸氏の見送りを受け令夫人と共に東京駅を発せらる、青淵先生の副会長たる聖徳太子千三百年御忌奉賛会に於て奉修せし聖徳太子の御遠忌に参列せらるゝ為め、関西に赴かれたるなり。
 御殿場を過ぐる頃、東京より同車せられたる桐島像一氏の訪問を受けらる、同氏も亦聖徳太子千三百年御忌奉賛会理事の一人として、法隆寺御法要に赴かるゝなり、沼津を過ぐる頃浜岡五雄氏の訪問を受け浜松に近づきし頃、塩沢富貞氏の来訪を受けらる。
 午後七時三十一分、京都駅着、中井三郎兵衛氏・田中源太郎氏・大覚寺門跡竜池密雄氏・舟坂八郎氏・野口第一京都支店支配人・同令夫人・中古賀同副支配人、中田五条支店・大西西陣支店各支配人等諸氏出迎へらる、高楠順次郎氏亦京都駅に在りて聖徳太子御遠忌に関し種種打合さる。
 午後八時三十分、前記諸氏の見送りを受け、京都駅を発せらる、村上専精氏・南弘氏・桐島像一氏等同車せらる。
 午後十時過ぎ奈良着、黒板勝美氏・斎藤内務部長・小栗警察部長外数氏の出迎を受け、直ちに自動車にて奈良ホテルに向はる。
四月十一日(月曜日) 曇、小雨
 午前九時、青淵先生には聖徳太子千三百年御忌奉賛会総裁久邇宮殿下に拝謁せられたる後、殿下に従ひ、公会堂に於て行はれたる総裁宮奉戴式に臨席せらる、令夫人は午前十時頃姉崎博士・正木美術学校長令夫人等と共に自動車にて法隆寺に赴かる、奉戴式終りて宮殿下には法隆寺に御出向遊ばされ、青淵先生は徳川会長・加藤理事長・桐島理事と同乗随行せらる、黒板博士・南文部次官・木田川知事・正木理事外諸氏五台の自動車に分乗随行さる。
 午後四時半、自動車にて総裁宮殿下に御随行、法隆寺を発し、午後五時半奈良ホテルに帰着せらる、同夜総裁宮殿下御主催の晩餐会に出席せらる。
四月十二日(火曜日) 雨
 午前九時半、阪谷良之進氏の東道にて令夫人と共に自動車にてホテルを出で、博物館に赴かれ、阪谷氏及関安之助氏の説明にて観覧せられ、午前十一時頃同所を辞し、東大寺を見、更に春日神社を参拝し、転じて興福寺を訪ひたる後帰宿せられ、食後直ちに自動車にて法隆寺
 - 第49巻 p.39 -ページ画像 
に赴かる、青淵先生は実業家代表として式場に臨まれ、頌徳文を奉読せられ、其間令夫人は阪谷氏の案内にて、金堂・五重塔・経蔵等を拝観され、午後四時過ぎ共に辞去し、午後五時二十三分王寺駅発の列車にて大阪に向はれ、午後六時十三分湊町に着し、大川英太郎氏・田中二郎氏・有川金吉氏・石川範三氏等の御出迎へを受け、直ちに自由亭に投宿せらる。
 午後七時半折柄来阪中の添田敬一郎氏来訪せられ、午後八時半松方幸次郎氏、岸博士同伴来訪せらる。
四月十三日(水曜日) 晴
○中略
四月十四日(木曜日) 晴
 午前九時十八分、湊町発列車にて叡福寺に向はる、田中・有川・石川・武田諸氏見送らる、大川英太郎氏同行せらる、柏原にて其日の御法要の導師たる本願寺連枝梅上尊融氏並に藤岡博士同車せらる、かくて午前十一時叡福寺に着、暫時御休息の上、陵墓監川口知雄氏の案内にて聖徳太子御廟を参拝せられたる後、式に列せられ、午後二時五十三分太子口貴志駅を発し、午後四時三十分湊町着、自動車によりて梅田駅に赴き、午後五時二十五分同駅を発す、田中一馬氏同行せらる、午後六時三十分京都駅に着き、中井三郎兵衛氏・舟坂八郎氏・野口支店長夫人・中田庄三郎氏・大西卯雄氏等出迎へられ、直ちに歌舞練場に赴かれ、都踊を見物せられ、これより中井氏の御招待にて一力に赴かれたる後、午後十時半頃玉川楼に投宿せらる。
○下略