デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
1節 記念事業
12款 財団法人楽翁公遺徳顕彰会
■綱文

第49巻 p.126-139(DK490036k) ページ画像

昭和4年6月14日(1929年)

是日栄一、深川区霊巌寺ニ於ケル当会主催楽翁公百年忌墓前祭ニ臨ミテ、挨拶ヲナシ、更ニ丸ノ内東京商工奨励館ニ於ケル神式祭典ニ出席、式後、記念講演会ニ於テ演説ス。尚、同時ニ開カレタル展覧会ニ出品ス。


■資料

楽翁公遺徳顕彰会書類(DK490036k-0001)
第49巻 p.126-127 ページ画像

楽翁公遺徳顕彰会書類           (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
拝啓 向暑の候益御清適奉賀候、然ば徳川幕府寛政度の賢相白河楽翁公の墓は深川霊巌寺内に有之、大正大震災に甚しく損傷致候処、昨年内務省より史蹟に指定せられ候上、今年六月は恰も公の満百年忌に相
 - 第49巻 p.127 -ページ画像 
当致候に付、先般来吾等平素公の人格徳業を景仰致候者相謀り、別紙趣意書○略スの通り楽翁公遺徳顕彰会を組織して、墓石を修理し、墓域を拡げ、此に永久保存の施設をなす事と相成、愈工事も落成致候に付来る十四日左記の順序に依りて祭典を執行し、引続き記念講演会・展覧会相開き候間、御繰合同日午後一時丸の内商工奨励館へ御来臨被下候はゞ、同人の本懐之に過ぎず候 敬具
  昭和四年六月八日        楽翁公遺徳顕彰会長
                   子爵 渋沢栄一
    (宛名手書)
    子爵 渋沢栄一殿
 再白、当日御来会の節は此状受附へ御示し被下度候

    順序
昭和四年六月十四日
一祭典
 仏式  午前十時より深川霊巌寺墓前に於て
    (随意御参拝)
 神式  午後一時より丸の内商工奨励館に於て
一講演会 午後二時より同所に於て
 挨拶            子爵 渋沢栄一
 松平楽翁公の事蹟に就て 文学博士 三上参次
一展覧会 午後五時まで同所に於て
  但展覧会は引続き十五・十六両日公開致候


楽翁公遺徳顕彰会書類(DK490036k-0002)
第49巻 p.127-128 ページ画像

楽翁公遺徳顕彰会書類           (渋沢子爵家所蔵)
  昭和四年六月十四日
    松平楽翁公百年祭次第
      墓前法要  (司会福島理事)
一、午前十時参列者着席
一、導師(増上寺貫主道重大僧正)入場
一、奏楽
一、四奉請
一、三尊礼
一、開経偈
一、阿弥陀経  (此間焼香)
   ――
   ――
   ――
   ――
一、称讃偈
一、念仏一会
一、回向文
一、送仏偈
一、奏楽
一、導師退場
 - 第49巻 p.128 -ページ画像 
一、参列者退席
           以上

      霊前祭  (司会星野理事長)
当日早旦斎場ヲ装飾ス
午後一時参列者着席
次祭員着席
次祓主祓詞ヲ奏ス              一同起立
次大麻司大麻行事ヲ行フ           受祓者起立
次斎主(平田神田神社社司)迎神ヲ奉仕ス   一同起立
        (此間奏楽警蹕)
次副斎主幣帛ヲ奠ス
次副斎主以下神饌ヲ供ス
        (此間奏楽)
次斎主祝詞ヲ奏ス              一同起立
 ――
 ――
 ――
 ――
 ――
 ――
次参列者玉串ヲ奉奠ス
        (此間奏楽)
次副斎主以下神饌ヲ撤ス
        (此間奏楽)
次副斎主幣帛ヲ撤ス
次斎主送神ヲ奉仕ス             一同起立
        (此間奏楽警蹕)
次子爵松平定晴氏挨拶
次祭員退下
次参列者退下
           以上


集会日時通知表 昭和四年(DK490036k-0003)
第49巻 p.128 ページ画像

集会日時通知表  昭和四年        (渋沢子爵家所蔵)
六月十四日 金 午前十時 楽翁公墓前祭(深川霊巌寺)
        午後一時 楽翁公記念祭・講演会・展覧会(商工奨励館)


中外商業新報 第一五五七〇号 昭和四年六月一五日 楽翁公百年祭(DK490036k-0004)
第49巻 p.128-129 ページ画像

中外商業新報  第一五五七〇号 昭和四年六月一五日
    楽翁公百年祭
既報の如く十四日午前十時から深川霊巌寺で楽翁公松平定信公の百年遠忌墓前祭を執行した、改修された公の墓前は御下賜の供物をはじめ徳川公等の捧げられた多くの花輪で埋められ、香煙は白々と初夏の空へたち上る、十時十分奏楽裡に道重大僧正導師となり、伴僧・楽人等
 - 第49巻 p.129 -ページ画像 
卅余名着席、読経に入り、徳川家達公・徳川達孝伯・松平定晴子夫妻令嬢・渋沢栄一子、平塚知事・堀切市長各代理焼香あり、十一時厳かに墓前祭を終了した、この日毛利公夫人・阪谷男・三上博士外名士約二百名、深川小学校からは児童三百名、在郷軍人約五十名、遠く白河藩士も多数参列し極めて盛儀であつた。


竜門雑誌 第四八九号・第一―六頁 昭和四年六月 楽翁公百年祭にて 青淵先生(DK490036k-0005)
第49巻 p.129-132 ページ画像

竜門雑誌  第四八九号・第一―六頁 昭和四年六月
    楽翁公百年祭にて
                      青淵先生
 今日松平楽翁公の百年祭を施行するに当りまして、斯様な盛況を見ましたことは、皆様の公に対する尊敬の厚い証左でありますが、又一つに、公の御遺徳の一部が然らしめたものであると思ひまして、誠に楽翁公遺徳顕彰会を起しました私達の深く光栄に存ずる処でございます。楽翁公に就てはくだくだしく申すまでもなく、その履歴・性行・人格等はよく人々に知られて居るのでありまして、さきに平田斎主の祝詞にも詳しくありました通りで、私は皆様と御同様満足の至りと存ずるのであります。
 私は由来俗人でありまして、楽翁公の如き方の遺徳顕彰に事々しく代表者の一人として携はると云ふやうなことは、頗るふさはしからぬのでございますが、私が公を知つたのは明治七年東京府共有金の取締の事を、時の府知事大久保一翁氏から申しつけられてからでありまして、諸君よりも確かに古いと憚りなく云ひ得ると思ひます。従つて私としましては此の金を如何に処理したらよいかと考へねばならぬ地位に立つ事になりましたが、然らば此の金は何処から出たかと調べて見ると、之れは楽翁公の経営せられた、例の七分金と称する江戸市中の積立金でありました。公は特に申述べるまでもなく、政治上非常な緊縮方針を執られ、節倹を勧められ、自ら実行した方であります。其処で当時の江戸に於ける各町の費へをも節約せしめることとし、町奉行と相談の上、年々の経費を出来るだけ節して、その一分を給与金に振当て、二分を此の経費を納めた人に割戻し、而して残り七分を積立て利殖したのであります。即ち此の資金は或は貸金とし、又は土地を買入れ、更に穀類をも買持ちして、資金の維持と増殖とを図つた、これが七分金と名づけられたもので、明治維新後総額百五・六十万円が東京府に引継がれて共有金となつて居ました。私は斯様な楽翁公の余徳を知り、公がたゞの政治家でなく、経済的にも社会的にも充分手腕のある方であると覚つたのであります。そして共有金取締を申付けられるより前に、私は養育院の事業を引受けて微力を致すことになつて居りましたが、其の経営上の費用を共有金から支出しました、故に現在の東京市養育院は楽翁公あつたればこそ今日の壮大なる規模を有するに至つたのでありますから、公の命日たる五月の十三日には毎年必ず楽翁公祭を養育院内で開いて居ります、又共有金は此の外に只今の商科大学の前身たる、商法講習所とか、瓦斯会社となつた瓦斯局とか、東京府市庁舎、その他道路・橋梁・墓地等諸設の公共事業に用ひられたのであります。
 - 第49巻 p.130 -ページ画像 
 然し乍ら、当時は未だ公が変つたお方であると云ふ位の考しか持つて居ませんでしたが、後公が本所の吉祥院に納めて居られた心願書を養育院の関係者から示されまして、その荘重な而も真剣な意気に感じ入りました、その文章は
 「天明八年正月二日松平越中守義奉懸一命心願仕候、当年米穀融通宜く格別の高直無之、下々難義不仕安堵静謐仕、並に金穀御融通宜く御威信御仁恵下々へ行届き候様に、越中守一命は勿論の事妻子の一命にも奉懸候而必死に奉心願候事、右条々不相調下々困窮御威信御仁徳不行届人々解体仕候義に御座候はゞ、只今の内に私死去仕候様に奉願候(生ながらへ候ても中興の功出来不仕汚名相流し候よりは只今の英功を養家の幸並に一時の忠に仕候へば死去仕候方反て忠孝に相叶ひ候義と被存候)右の仕合に付、以御憐愍金穀融通下々不及困窮御威信御仁恵御届中興全く成就之義偏に奉心願候 敬白」
と云ふのであります。初めて之を拝見した私は先づ疑つたのであります。何故なればあれだけ優れた政治家であり学問も広く、文雅に長じ而も経済上のことにも深く意を用ひられる人にして、「若し自分の願ひが聞届けられないなら、一命を取つて下さい」とまで記されたのはどう云ふ訳か、少し業々し過ぎるではないかと云ふ風に感ぜられたからであります。然しよくよくその事情に就て考へて見ますと、公の老中になられた当時は、実に日本の国の政治を執るには容易ならぬ時でありまして、全く一身を捨てかゝる大覚悟を要する場合であつたのであります。中村秋香と云ふ人の著書に楽翁公の遺徳を小説的に書いたものがありますが、それに公のお妹か姉に当る方で、越前家へ嫁して居られる賢婦人がありまして、公が老中となられ、大いに諸政の改革を断行せられることを望まれまして「本当にお引受けになつたかどうか、又どう云ふお心掛でお引受になつたか」と尋ねられたところ、公は「心を籠めて事にあたります、充分の覚悟を持つてお受け致しました」と答へられたので「それならば再び伺ふ必要はありません」と云つて引取つたとあります。兎に角公が老中として立たれるに就ては真に悲壮な御考へであつたとお察しするのでありまして、右の心願書の如きは公の確固たる御覚悟の程を知る唯一のものであると思ひます。
 公が家斉将軍の輔佐として首席老中として出仕せられるに就ては、水戸の文公が之れを主張せられ、尾州・紀州御三家揃つての力入れでありまして、田沼の秕政の後を改革して、幕府の輿望を取返す為めには、どうしても公の如き賢宰相が立たねばならぬとしたからであります。誠に当時の幕政は日に乱れて、一大危機に立つて居たのでありますから、その衝に当るに際しては、右のやうな一身をかけた必死のこの心願書を認められたのも道理でありませう、そしてどことなく強硬な願意が籠めてある処に真実悲壮な感じがあり、真剣さが現れて居るのだと思ひます。
 扨て公の人格を私がいよいよ御慕ひ申すやうになつたのは、公の定信と云ふ字を分けて名付けた『宇下人言《うげのひとごと》』と云ふ、自伝風に書かれた書物を拝見してからであります。公は宝暦八年十二月二十七日、御三卿の一つたる田安宗武卿を父としてお生れになりました、幼い時から
 - 第49巻 p.131 -ページ画像 
学問を好み、文雅の才に秀でられましたのみならず、武に於ても衆に抽んでられ、所謂文武両道に優れた方でありました。そして僅か十三歳の時に早くも人倫の大義を明らかにし君臣・父子・朋友の守るべき道を書いた『自教鑑』を著されたのでありますが、我々にも之れ以上の事は書けない程立派なものであります。またその時分から絵画を学び、猿楽等もよくお出来になつたと云ふことであります。既に十六歳の頃には和歌に大層巧みであるとて、京都の公卿の間にまで「たそがれの少将」として知られた程でした、それは「心あてに見し夕顔の花ちりてたづねぞわぶるたそがれの宿」と云ふ歌をよまれたからであります。猿楽は将軍家治公がお好みであつたから、当時お相手をして中中お上手であつたのでありますが、後に断然これを止められました。猿楽は役々によつて、夫々その者の心を察し、姿を写さねばならぬから、自然賤しい者の心にもなり、恥ずべき様子も真似る事になつて、到底王侯貴人の為すべき業でない、と悟られたからであります。即ち『宇下人言』にも次のやうに書かれてあります。
 「猿楽は観世太夫織部といへるにならひうけたり、かなしき心うれしき心つとつとその情にあふやうにと心がけたり、これにひま失ひしぞ今さらくやみてもかひなし、十あまり六つの頃よりしてつゐに廃し廿のころよりたへてせざりしなり、今はいむといふほどに思ふなり、ものゝふてふなかにも王侯貴人が盛久をまふてみづから盛久になり敵にとらはれてきらるべきに、信ずる仏によりて命全きとて敵のまへにて一さしうたひまひていさみたるやうなる事はかりにもなすべき物にや、また班女になりて人をかこち、熊坂になりて物うばふ情をなすなどいふも汗出る事なり、武士のなすべき事にはあらずかし、」と
誠に一寸したことにも公のお志が伺はれるではありませんか。斯様にして私は公の人となりを知るにつけて、段々にお偉い方であると尊敬するやうになりました。実に政治家としては申分ない方でありまして今日斯う云ふ人が廟堂に立つて居たらと思ひます。殊更現代の政治の善し悪しを私が申すのではありませんが、たゞ公の如き賢相があつたらと心から渇仰の念を禁じ得ないのであります。また和歌に長ぜられて居たことは前にも申述べた通りでありますが、或る時打ち寄つて歌を作つて居たが、適当な題がなくなつた、すると公は「切りて出すだいのなければ言の葉の花のつぎ穂は咲くよしもなし」と歌はれたさうで、如何にその才が深かつたと、想像することが出来ると思ひます。
「心あてに見し夕顔の花ちりてたづねぞわぶるたそがれの宿」と云ふお歌も有名でありますが、それより「荻の葉の音するよりも散る花の風に声なき春の夕暮れ」と云ふ歌の方が、更によいと云はれて居ります。これは『歌語り』の中に書いてあつたと思ふのでございますが、何れも公が和歌に巧みであられた説明になるものだと存じます。
 先般私は、公がその老後を悠々養はれた浴恩園内の楽亭にある壁書即ち公の座右銘の解説をしたらよからうと云ふので、これを中村(孝也)博士に嘱して、印刷に附し養育院関係の人々に頒ちましたが、この楽亭壁書も実に立派な守るべき言葉であり、さらに背面の「楽翁雅
 - 第49巻 p.132 -ページ画像 
言」は、名文で「夜更けて言問ふとも初時鳥、雁がねはかならず疎くすべからず。枕に通ふとも科なきものは花の香、遠寺の鐘、霜夜の虫の音は誠にあはれむべし……」と書き出されて居ります。また楽亭壁書の言葉は次の如くであります。
 寧静是養心第一法、謹謙是保身第一法、読書是広知第一法、勤倹是治生第一法、含容是待人第一法、慎交是遠害第一法、安詳是応事第一法、知足是享楽第一法、存厚是召福第一法、寡欲是延寿第一法
要するに松平楽翁公は各方面に行亘つて実に秀れたお方でありましたから、公の事績を永く世間の人々に伝へたく、とりわけ東京市民は公から直接の恵みを受けて居るのでありますから、公の人となりを知つて居て頂きたいと思ふ余り、私共が打ち寄つて此度この遺徳顕彰会を組織した次第であります。玆に一言会長として私の感じたまゝ記憶して居るまゝを申上げたのでございます。
         (六月十四日東京商工奨励館に於ける講演)


中外商業新報 第一五五七〇号 昭和四年六月一五日 更に霊前祭記念講演 きのふ楽翁公百年祭 遺品展は十六日まで公開(DK490036k-0006)
第49巻 p.132-133 ページ画像

中外商業新報  第一五五七〇号 昭和四年六月一五日
  更に霊前祭
    記念講演
      きのふ楽翁公百年祭
        遺品展は十六日まで公開
既報の如く十四日午前十一時、深川霊巌寺における松平楽翁公の百年祭墓前法要を終つて、午後一時からは丸の内商工奨励館で神式による
 霊前祭を平田神田神社社司斎主となつて執行した、斎主の祝詞の後徳川公・一木宮相・田中首相(代)望月内相(代)・勝田文相(代)・平塚知事(代)・堀切市長等祭辞をさゝげ、奏楽裡に参列者一同玉くしを奉奠し、裔孫松平定晴氏のあいさつあつて一時卅分儀をとぢた、そして午後二時から、渋沢栄一氏と三上参次博士の公に関する講演会に移り、約五百名の参列者何れも熱心に傾聴して頗る盛会であつた、なほ別室の
 陳列場では既報の如く、松平定晴子・渋沢栄一子・真田幸治伯・徳川達孝伯・三井文庫・大橋新太郎氏等の出品にかゝる貴什百六点を陳列して公開されたが、修養・藩政・教育・兵学・奉公・尊王・外交・鑑戒・文藻・衛生・考古・史蹟・遺物等
凡そ公に関する遺蹟はことごとく一堂に集められ、看る人の感を深からしめた(この展覧会は十六日まで公開)
 多数出品中で既報したもの以外に、東京市民の蒙つた大なる恩恵を知るものに「営善会議所記録」がある、これは寛政の大改革で七分金が制定されたが、この為めに明治五年迄の八十二年間に七分金百数十万円が積立てられた、これを時の井上大蔵大輔や府知事の英断によつて、東京市民の救済・補助費に用ひられる事に至つたのである、この思はぬ恩恵は実に楽翁公の大改革に職由してゐるが、これを物語る興味深い記録である
        ○
 又公が築地の恩浴園に隠居してから家伝の遠州流茶道に親しみ、或
 - 第49巻 p.133 -ページ画像 
は詩歌をこゝろみ、絵筆をとり、書道に遊び、悠々自適の余生を楽しんでゐたが、而もなほ文武治政の振興を忘れず、風流に託して時人を戒めてゐた一事が、有名な「色紙釜」に現はれてゐる、この釜には公自筆の箱書があつて「汲ほすほど我住居かな」と釜に
 鋳刻されてあつたのをこの道を好む者は身の程を知るのが本意である、故にこの歌を「汲みて世渡る人もこそあれ」と削り改めたとあるのがそれである


竜門雑誌 第四九八号・第一一三―一一七頁 昭和五年三月 ○青淵先生説話集 松平楽翁のことゞも(DK490036k-0007)
第49巻 p.133-136 ページ画像

竜門雑誌  第四九八号・第一一三―一一七頁 昭和五年三月
 ○青淵先生説話集
    松平楽翁のことゞも
      緒言
 今日の此会は洵に都合好く成功致しましたことは、御尊来下さつた皆様方も嘸お喜び下さいませうが、催しました吾々一同実に感極つて涙を以て接するやうな次第でございます。蓋し楽翁公の遺徳の一部が吾々に迄お伝り下さつたものと一同深く欣ぶ次第であります。今日玆にお集りの皆様方は楽翁公の御遺徳は疾に御承知の方々であらうと思ひますけれども、併し今日に尚ほ其記憶を新にしたと申しても宜いのであります。先刻平田斎主の実に叮嚀な洵に行届いた祝詞の御朗読でございましたことは、御同様実に満足の至りと思ひます。
      七分金と救世済民の大業
 私が極く俗人で且つ別に楽翁公に深い関係ある訳でもございませぬのに、斯の如く遺徳顕彰会を起し、其代表的地位に立つて玆に御挨拶申上げるのは、甚だ相応はしからぬやうな次第でございますが、併し楽翁公の事蹟に感動したことは或は諸君よりも私が少し先であらうかと思ひます、私が東京市の養育院に従事するやうになりましたのは明治七年でございましたが、当時所謂七分金といふ共有金の取締を、時の東京府知事大久保一翁君から申付けられまして玆に初めて共有金の保管を為し、且つ之を如何に処理したら宜からうかといふ事の議に参じ得るやうに相成つたのであります。併し私が楽翁公に就て聞き知つたのは、東京市の養育院をお引受して、尚ほ微力ながら其院長を致して居りますが、其養育院を経営するに就ての金は何処から出るかと言ふに、即ち此七分金から出る補助でありまして、其七分金の由来を聞くに及んで楽翁公の御遺徳が、唯だ其一部ではありますけれども、能く分つたのであります。是に於て楽翁公といふ御方は、唯だ政治に於て功績のあられるばかりでなしに、斯かる経済的施設或は社会的救世済民の大業にも、深いお考を持つてあらせられた方であるといふ事を窃に聞き知つたのであります。
      定信公老中就任時の決意
 併し如何なる方であるかといふ深い詮索立てをするやうな考も持ちませぬで、先づ変つたお方であると思ふ位で居りました所が、偶々時をはつきり覚えませぬが、明治四十年頃か或はモウ少し前であつたかと思ひますが、本所の吉祥院の歓喜天に納めた公の心願書を、養育院の関係の人から聞き知つて拝見致したのであります。皆様も御承知で
 - 第49巻 p.134 -ページ画像 
ありませうが、松平越中守一命を懸けて心願奉るといふ其心願書なるものは、実に荘重なるお筆立で、其文書の中に、若し之を聞いて下さることが出来ないならば、自分の一命は固より、妻子の生命を断つて下さつても宜いといふ、実に悲壮強烈なる意気が認められてありました。仍て如何なる次第であらうかといふ事を段々考へて見ますと、其当時の秕政並に大饑饉の後を承けて、蹶然幕府の首班に列するといふことは、余程の大決心であつたやうに想像されるのであります。中村秋香先生の『白河楽翁公』といふ色々公の逸話を蒐めた一つの冊子が出来て居りますが、それに依つて見ますと、実に一心籠めて其職を奉ずることになつたのでありまして、当時越前家に嫁して居つた公の令妹、此方も非常に優れたお方でありまして、お兄様の老中になつたのに深く感じ且つ畏れるといふやうなお心を以て尋ねて来られて、「兄上様には今度重い御役を御受けなさつたが、如何なる御心掛を以て其職にお当りなさるか」と伺つた、之に対して公は「唯だ一命を以て職に殉ずる積りである」と斯う仰しやつた、「其御決心ならばモウ再び伺ふことはございませぬ」と言つて令妹は引下がられたといふ。蓋し中村君が幾らか修飾して書かれたのかも知れませぬが、公の心事の実に悲壮であつたことを察し上げるのであります。楽翁公の万難を斥けて老中の職に就かれたのは勿論御自分の推薦ではなく、彼の水戸の文公と称した治保公が最も強く主張し、それから尾州・一橋此三侯が協力して、十一代将軍家斉公の時に、幕政を盛返さなければいかぬといふので大変な決心で楽翁公をお立てなさつたのであつて、中々に徳川幕府の一大事と言つても宜い程の事柄でございました。左様に一身を懸けて其線にお立ちなさつたことであるから此心願書なるものは、或は強硬にも見え悲壮にも見え、其御決心の有様が文書の上に迸つて居る様に感ぜられます。
      自教鑑
 其後にも、公の為人を尚ほ其他に就て追々に拝見しました。殊に私が聊か其御様子を知つたのは、現在松平家に御保存になつて居る『宇下人言』即ち定信といふ二字を剖柝して宇下人言となさつたやうに思はれますが、楽翁公御自身の御自伝のやうなものでありまして、宝暦八年十二月二十七日に生れてから、虚弱であつたので、伊東江雪法眼などゝいふ医師の世話に依つて追々成長するやうになつたなどといふ書初めから、先刻の祝詞の中にもございましたが、十代将軍家治公は猿楽が好きであつた、公も其愛を受けて十六歳の頃から猿楽に興味を持たれたが、二十歳の頃にはお廃めなさつたといふ事も書いてあります。又公は十二歳の時『自教鑑』と申して、五倫五常――夫婦・親子・兄弟・君臣・朋友、此五つの道を余程叮嚀に書いて、親は斯くあるべきものだ、子は斯うしなければならぬ、君の職は斯様である、兄弟・朋友は斯うなければならぬといふ事を書き認められた。どうしても私共には十二歳は偖て措て、五十歳でも六十歳でもあゝいふ解釈は出来ないと思ふ位でございます。
      博学多才な楽翁公
 前にも申したやうに、養育院の関係から、公が七分金の制度を設け
 - 第49巻 p.135 -ページ画像 
て金を備へて置いて下さつたといふ事を聞き知つて、変つたお方であると思つて居りますと、後に先程の心願書を拝見して、ますます様子の変つた方だと思ひまして、モウ少し研究的に、どういふ御性質であるか、どういふ御事情であるか、知りたいと思つて居る折柄、只今の「宇下人言」を拝見して公の御一代の様子を承知して、仍て以て稍御為人を窺ひ知ることが出来たのであります。公の御為人を段々承知するに伴れて、今の世にも斯ういふ御方があつたならばと痛切に思ひ居るやうな訳で、今日も尚ほ実に公を親しく思ふ次第であります。幸に公の御遺徳を尚ほ一層顕彰したいといふことで、皆様も共にさういふ御観念が強く、玆に今日の如く楽翁公遺徳顕彰会を起し、而も斯く多数の御来会を得、殊に仏式にも神式にも、洵に都合好く公の神霊を祭ることの出来ましたのは、私は此上もなく嬉しく感ずる次第でございます。
 尚ほ公の学問に優れて居られたことは申すまでもございませぬが、和歌に於ても洵に名高い御方であります。前に申した中村君の書かれた『白河楽翁公』の中にございますが、公は如何なる題が出ても直ぐ様ものせられる、此処に花がある、或は鳥が飛んで居る、之に依つて歌に詠むやうに申上げると、即座に歌が出来るといふ御有様であつたさうであります。何でも其中に書いてありましたが、側近の者が頻に色々の題を出して、終ひにはモウ題が無くなつて困りますと申上げると、
    切りて出す題の無ければ
      言の葉の花のつぎ穂は咲くよしもなし
と、其題の無いのに就て歌を詠まれたといふ事がある位であります。
又彼の有名な
    心あてに見し夕顔の花ちりて
      たづねぞわぶるたそがれの宿
これは実に何となく雅やかで味ひのある歌でありますが、併し公には尚ほ此歌よりもモウ一つ名吟があるといふのです。それは春の夕に就ての歌でありまして
    荻の葉のおとするよりも散る花の
      風に声なき春の夕ぐれ
一寸私共には能く分らない位でありますけれども、如何にも春の夕暮の風に声もなく花が散るといふ事が、楽翁公の深遠な、申さば一寸禅味でも持つてござるやうに察せられるのであります。私は歌の事を能く存じませぬので、歌の講釈は甚だ面白く出来ませぬけれども、併し今覚えて居つて申上げた歌は、成程公にして初めて其処に言表はされると思ふ位であります。公は総ての方面に優れて居られたのみならず今申上げるやうに、歌に於ても、後世の人をして、その雅懐を偲ばしむる所は、洵にお偉いものだと思ひます。私は先年養育院の楽翁公記念会の節に「むら千鳥」といふ冊子を作りまして、其中に楽翁公座右銘といふものを掲げて置きました処が、手塚猛昌さんが夫を見られて――今日は手塚さんもお見えになつて居りますが――少し分らぬ所があるやうだから、あれに解釈を付けたら宜からうといふ御注意があり
 - 第49巻 p.136 -ページ画像 
ましたので、今度解説を加へて、「楽亭壁書解説」と題して出しました。其楽亭壁書の中にも御歌の事が数々ございますけれども、実に各方面に行渡つた博学多才の御方であると思ひます。
      結語
 どうぞ好い機会に、斯かる優れた功徳の多い御方の事は、成べく世間に知らしめるやうな方法を講じたい、と不断思うて居つた希望が、今日は僅かながらも達したやうに思ひまして、洵に心嬉しく感ずるので、唯だ楽翁公に関する行懸りを、あの方面此方面と、断片的に覚えたゞけを其儘に申上げたに過ぎませぬ。皆様に対する御礼の言葉としては、相応はしからぬものでありましたが、併し遺徳顕彰の為に開いた此会に、斯の如く多数の御方々がお集りになつて、公の御遺徳をお偲び下さることは、此上もなく嬉しい事で、私共の希望が満足したと申して宜からうと思ひます。尚ほこれから、楽翁公の御事蹟に就て最も詳しい三上博士の御講演をお願ひ致します。私は今日の此会が斯く都合好く進んで行つたことに就て、会を代表して一言来会の皆様方に厚く御礼を申述べる次第であります。
             (講演パンフレツト通信第九十六号)


楽翁公遺徳顕彰会書類(DK490036k-0008)
第49巻 p.136 ページ画像

楽翁公遺徳顕彰会書類         (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
    楽翁公百年祭記念展覧会列品目録
               (昭和四年六月十四日より十六日迄東京府商工奨励館に於て)
      ○修養
○上略
五 関羽ノ像○楽翁公画将軍に献上せしものと云ふ  一幅  子爵渋沢栄一殿
○中略
      ○追加
○中略
九四 楽翁公画関羽像 寛政七年作、将軍家斉公賛
                         一幅  子爵渋沢栄一殿
九五 楽翁公和歌 吹度に云々           一幅  同
九六 同     夏の月といふをよめる云々
                         一幅  同
九七 楽翁公茶器狂歌賛幅 谷文晁画
                         一幅  同
九八 楽翁公古語条幅               一幅  同
九九 楽翁公和歌小幅 枕とふ夜半の云々
                         一幅  同
一〇〇 楽翁公忠孝二大字幅            双幅  同
一〇一 楽翁公書水鏡集              一巻  同
一〇二 楽翁公手簡                三巻  同
一〇三 草露集                  二冊  同
○下略

 - 第49巻 p.137 -ページ画像 

中外商業新報 第一五五六四号 昭和四年六月九日 白河楽翁公の祭典や遺物展 百年忌の十四日から公の遺徳顕彰会成る(DK490036k-0009)
第49巻 p.137 ページ画像

中外商業新報  第一五五六四号 昭和四年六月九日
    白河楽翁公の祭典や遺物展
      百年忌の十四日から
        公の遺徳顕彰会成る
旧白河藩主にして寛政時代の幕府の大宰相松平楽翁公の墓が、深川霊巌寺にあつて、昨年内務省から史蹟に指定されたが、過る大震災のため甚だしく損傷して居る上に
 墓域も狭いので、あたかも来る十四日が公の百年忌に相当するところから、右の墓地を改修して祭典を営み、なほ公の遺徳を顕彰すべく徳川家達公を総裁に、渋沢子爵を会長に、平塚知事・堀切市長を副会長として
 楽翁公遺徳顕彰会を組織した、同会では十四日午前十時から霊巌寺の墓前に、午後一時から丸の内の商工奨励館に祭典を行ひ、引続いて同館で渋沢子爵・三上博士らによつて記念講演会を催すさうである、また十四・五・六の三日間商工奨励館で楽翁公の遺物展覧会を開き、午後五時まで一般の参観に供することとなつてゐる、そこに公開される遺物は公から六代目の
 当主である松平定晴子爵から、多数出品されるが、その内「上京紀行」は天明八年に皇城が炎上したのを幕命により御造営総督として京都に入り、総て旧例に則り荘麗なる皇居を御造営申上げ、光格天皇の御感を蒙り、聖慮を慰め奉つた時の紀行文である。又頼山陽が「奉楽翁公書」と共に贈つた日本外史に自ら序文を書いたもの、即ち幕府否定の外史に幕府の連枝たる公が「……評論するも我才に求めず自らの正理に至れば穏当にしてその中道を得るが故に、朕兆の眼に見えざる事までのがすことなし、これを全く備へしものは、この外史とや云はん……」と書いて推賞したものや、公が家斉将軍に大義名分を説いた柴栗山の「神武陵詩」南朝の忠臣結城氏を録した「感忠銘碑」の拓本、北畠氏を顕彰した「霊山碑」等勤王愛国の
 至誠が溢れたものあり、政治的識見に於ては早くから外国の事情を研究したことを物語る「蝦夷墨引絵図」「魯西亜図」「世界図」その他四十八巻の外国書あり、又老中となつてから八ケ月目の天明八年正月二日歓喜天に捧げた有名な「願文」の現物あり、教育方面では「立教館令条」にその方針が、遺憾なくうかがはれ、或は又「集古十種」「古画類聚」は考古学上の有益な史料として珍重されるものであらう、なほ渋沢子爵も公の
 自筆に成る「関羽」の極彩色密画と墨絵の二幅(墨絵の方には十一代将軍家斉公が賛を加へてゐる)の珍什をはじめ、日本各地の名水を取寄せそれを用ひてその地の歌を詠んだ「水鏡集」一巻、或は招月庵正徹の草根集から抜萃した「草露集」等公の和歌に対する深き造詣を示すもの、又白河藩の砲術師須藤金八に与へて公の砲術に対する深き知識と識見を示す書簡など出品される
その他徳川達孝伯・真田幸治伯家からもそれぞれ出品があるはずで、各地方面から非常に期待されてゐる

 - 第49巻 p.138 -ページ画像 

旧長岡藩再中興の英主牧野忠精公の百年祭を迎へて 福島甲子三著 第三二―三五丁 昭和五年一月刊(DK490036k-0010)
第49巻 p.138-139 ページ画像

旧長岡藩再中興の英主牧野忠精公の百年祭を迎へて 福島甲子三著
                          第三二―三五丁 昭和五年一月刊
    五
 最後に私は参考として楽翁公遺徳顕彰のことに就て稍々精細に申上げ、併せて忠精公の御遺徳顕彰に就ても一・二具体的の私案を申添へて本稿を結びたいと存じます。
 楽翁公遺徳顕彰会の創立いたされました直接の動機は、楽翁公の御墓所が東京深川の浄土宗霊岸寺《(巌)》に在るのでありますが、彼の大正十二年の大震火災の為めにいたく破壊せられ、加之、震災後に於きましては区劃整理と市内共有墓地移転の為めに、或は公の御墓地も他に移転せねばならぬかに立到つたので、多年公を崇敬して居られる渋沢老子爵や、公の研究家として知らるゝ三上文学博士、実業家の星野錫君等を始めとして、内務省(後文部省)・東京府・東京市の史蹟保存関係者・裔孫松平子爵家・霊岸寺・深川区役所其他の有志諸君と共に屡次会合して、之れが保存運動に関して協議を進めまして、遂に本会の創立を見るに至つたのであります。最もそれ以前に於きまして公の墓地は史蹟として内務大臣の指定を受けましたので、絶対に之を保存せねばならぬことになつたのでありますが、何分之を此儘保存するには相当多額の経費を要するのでありまして、之には一同大に頭を悩ましたのでありますが、幸に昨昭和四年は公の満百年忌に相当いたしましたので、満百年記念として祭典も執行し墓地も保存修理し、其他御遺徳を顕彰するに足る諸般の事業をいたす為めに、遂に本会を設立して広く心ある市民各位の賛助を求めたのでありますが、幸に有識者諸君の非常に熱心なる御賛成を得まして、一ケ月も立たない中に予定の寄附金は集つて参りました。加之、特に此処に銘記せねばならぬことは、この企てが 畏くも 天聴に達しまするや、祭粢料として金三百円を
 御下賜あらせられたことであります、地下の公も定て 天恩の優渥なるに感泣せられたことゝ拝察いたす次第であります。
 此の会は前述の通り総裁には徳川公爵、会長に渋沢子爵、副会長に東京府知事・東京市長の両氏を、顧問に岩崎男・阪谷男・三井男・三上文学博士を推選し、理事長に星野錫君を推し、私共は立見子爵其他と共に理事として聊か尽力する処があつたのであります。かくて墓地は修理して永久保存の途を樹て、公の御命日を卜して盛大なる墓前祭並に満百年祭典を挙行したのであります。以下祭典当日の概況に関して一言いたしませう。
 墓前祭は午前中新に修築せられた公の墓前に於て行はれ、現代の名僧として知られた大本山増上寺貫主道重大僧正を導師として、霊岸寺一山の僧侶数十名に伶人を加へ非常に荘厳なる法要が営まれまして、会の側からは総裁以下全役員が出席し、来賓としては公の御生家に当る田安家即ち徳川達孝伯爵を始めとして、毛利公爵御令嗣夫妻・裔孫松平子爵夫妻・旧桑名藩士・旧白河藩士・両藩有志・関係地方選出代議士・府市区会議員・各学校生徒総代其他多数の参拝者で実に盛会でありました。
 満百年祭は午後東京商工奨励館の大講堂で行はれました。平田神田
 - 第49巻 p.139 -ページ画像 
神社の祠官が、数十人の祭官並に伶人を従へて入場し、最も神厳なる祭典を執行せられました、来賓としては前記の各位と、更に宮内省側からは一木宮内大臣・珍田侍従長が来会せられ、其他朝野の名士が約一千名参列せられまして、文字通り綺羅星の如く、また満堂立錐の地なきまでの盛会でありまして、宮内大臣・内務大臣・文部大臣・東京府知事・東京市長其他は祭文を捧げられました。
 式後に於て渋沢会長は挨拶に兼ねて楽翁公に就ての感想を述べられ次で三上文学博士は其の薀蓄を傾倒して約二時間に亘つて楽翁公に関する講演を試みられました。当日の案内者に対してはこの会が新たに編纂した「楽翁公余影」を贈呈し、特別の来賓に対しては、公愛用の茶椀の複製品と公の命名になる風月堂製造の菓子を贈つたのであります。又別室の陳列場に於ては三日間に亘つて御遺物の展覧会を開催いたし、松平子爵家、御一族其他から多数の御出品がありまして、これまた非常な盛会でありました。
 其後本会は教化総動員に加つて楽翁公の御事蹟に関する講演会を数度開催し、今後は生活改善同盟会其他と手を携へて、公の緊張政策の趣旨を宣伝する手筈にして居ります。又公の伝記の著述や将来に於ては楽翁公全集編纂の計画をも樹てて、徹底的に公の御遺徳顕彰事業を行ふことになつて居ります。
○下略