公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2025.3.16
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明治45年6月2日(1912年)
是日、本郷ノ第一高等学校ニ於テ、当会主催ノ祭典挙行セラル。栄一発起人トシテ参列ス。
竜門雑誌 第二八九号・第九五―九六頁明治四五年六月 ○朱舜水記念会(DK490042k-0001)
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竜門雑誌 第二八九号・第九五―九六頁明治四五年六月
○朱舜水記念会 朱舜水記念会は同会副委員長侯爵徳川頼倫氏司会者と為りて、六月二日午前九時朱舜水が十四年間居住し且つ終焉の地として由縁深き第一高等学校の倫理講堂に於て祭典を執行せられたり、委員長侯爵徳川圀順氏祭詞を朗読し、長谷場文部大臣・前田侯爵・後藤男爵・徳川伯爵等の祭文朗読あり、順次拝礼を行ひて後、司会者徳川侯の挨拶に次で建碑の報告あり、是れにて式を終り、午前十一時半同校階上に於て遺品の展覧を開始し、食後一時同校大教場に於て講演会を開き、黒板・三上・三宅・井上各文学博士の講演ありて午後五時散会、発起者の一人たる青淵先生にも式場に参列せられたり。
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朱舜水 同記念会編 第九―一〇頁明治四五年六月刊 【朱舜水と第一高等学校 伯爵 徳川達孝】(DK490042k-0002)
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朱舜水 同記念会編 第九―一〇頁明治四五年六月刊
朱舜水と第一高等学校
伯爵 徳川達孝
一
水戸義公に聘せられまして、江戸へ参りました朱舜水先生が、終焉の時まで、丁度十五年居住して居られましたのは、本郷駒籠に在りました水戸の中屋敷でございます。水戸の中屋敷で、本郷に在りましたのは、申すまでもなく今日の第一高等学校になつて居ります箇所が、即ち其遺蹟でございます。
先生は此所に約十五年も居住して居られましたので、先生の教を受けた、当時の諸学者は、何れも此地に御座いました、舜水先生の屋敷へ出入りをしたのでございます。其屋敷が全体今日のどの辺に在りましたものかと申すことは、遺憾ながら判然しないのでございます。水戸の徳川侯爵家にも、生憎、当時に出来ました駒籠中屋敷の絵図が、今日見当らないさうでございます。ですから舜水先生の居られました建物の跡が、どこであつたかといふことも、又其歿せられました後に義公が御建てになりました詞堂の跡が、どこであつたかといふことも今は全く分からないのでございます。しかし今日の第一高等学校が、舜水先生の約十五年棲んで居られた箇所で、又其終焉の地であるといふことは、申すまでもない事でございます。ですから第一高等学校が舜水先生に取りましては、最も因縁の深かい箇所でございます。
誠に桑田変じて海となる世の中でございます。旧江戸時代に有名な名勝地や、遺蹟地でも、今は全く分らないやうに打つて変はつた有状でございます。然るに舜水先生の居られました、水戸中屋敷の遺蹟で当時文教の発源地となりました箇所が、今日も人材養成の場となつて居りますのは、真に不思議な事と申さなければなりません。何となく水戸義公や、舜水先生などが、今も此地を守もつて居られるやうに感ぜられるのでございます。
○下略