デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
2節 銅像
4款 前島密寿像建設
■綱文

第49巻 p.206-215(DK490060k) ページ画像

大正5年7月1日(1916年)

是ヨリ先、大正四年十月八日、築地精養軒ニ於テ、前島密祝寿会開カレ、寿像建設ノ議決セラル。是日、逓信省構内ニ於テ、右寿像ノ除幕式挙行セラレ、栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

中外商業新報 第一〇五八八号大正四年一〇月九日 ○前島男爵祝寿会(DK490060k-0001)
第49巻 p.206 ページ画像

中外商業新報 第一〇五八八号大正四年一〇月九日
○前島男爵祝寿会 渋沢・石黒・池田・大倉・大橋・塚原・中野・浅野・箕浦・荘田氏等諸氏の発起に係る前島男爵祝寿会は、八日午後六時より築地精養軒に於て開催、来会者は発起人の外土方伯、尾崎・近藤・武井各男等百余名にして、主賓前島男爵・同夫人・令息弥氏・同夫人・高田文相令夫人の出席あり、発起人総代として石黒男は前島男が多年国事に尽瘁せられたる功績を賞し、之に対して男爵の謝辞あり九時過ぎ散会せしが、此席上男爵銅像建設の議起り、直に予定金額の大部を纏め得たりと


鴻爪痕 市野弥三郎編 二・第一一九―一二一頁大正九年四月刊(DK490060k-0002)
第49巻 p.206-207 ページ画像

鴻爪痕 市野弥三郎編 二・第一一九―一二一頁大正九年四月刊
 ○後半生録(明治九年より終焉に至る)
    一二 寿像建設
翁は元来高寿を祝せらるゝ様なことが大嫌ひの人であつた。其人が寿像の建設を大なる満足で迎へたといふに就ては固より動機がある事で大正三年の一月十一日に、翁は八十歳の高齢に達せられた故を以て天盃を拝受するの栄を得られた、之を機会として平生から翁に勧めて居た親近の人々か是非にと翁を動かした結果で、翁も其際の事であるから喜んで其意を容れられた訳であるが、それは大正四年十月八日夜を以て築地精養軒に開かれた寿筵の席上に於て始めて纏まつたのであつた。其夜は翁夫妻其家族及び親戚を招待したので来会者は六十三名、発起者は左の十七氏であつた。
 男爵 池田謙斎     穎川君平     塚原周造
 男爵 渋沢栄一     浅野総一郎    牟田口元学
    大橋新太郎    荘田平五郎    山中隣之助
    何礼之   男爵 石黒忠悳     天野為之
    中野武営     市島謙吉     箕浦勝人
    柳谷謙太郎 男爵 大倉喜八郎
当夜発起人から翁が八秩の寿像を鋳て献呈しようといふことを提議すると満場異議なく此挙に賛し、一夕にして所要の金額を募ることが出来た。そこで更に寿像の建設委員として、荘田平五郎・中野武営・市島謙吉・牟田口元学・塚原周造の五氏に委嘱し、建設一切の事に当つて貰つたのであるが、其時の建設趣意書は左の通りであつた。
 - 第49巻 p.207 -ページ画像 
 男爵前島密君は帝国郵便制度を創立し、海陸運輸の法度を啓発し、以て明治の聖運に貢献せられたるは世の普く知る所にして今更贅弁を要せず、然れども世態の変遷忽焉として停住する所を知らず、今にして其実績を表せずんば或は之を没却するの恐なしとせず、是に於て同志相謀り同君の為めに一座の寿像を作り之を逓信省構内に安置せんとす、庶幾くは各位に於て此挙に御賛成の上応当御助力あらんことを 敬白
尤も此寿像建設のことに就ては就中翁に縁故の探かつた塚原周造君が専ら斡旋せられたので、実は右の招待会が開かれる前から略ぼ計画されたので、愈々此席で決定すると即座に建設費も集つた訳である。勿論其後寿像の経営を一層拡大する案が立てられ、随つて費用の増額を要したが、これとて忽ちに三・四の有力なる寄附者があつて苦もなく纏まつた次第である。そこで翁の寿像は翁が一世の事業の上に最も関係の深い逓信省構内の一角に建てられることになつて、大正五年七月一日に盛んなる除幕式が挙げられた。此日は連日の雨霽れて鮮緑滴るが如き快よい空であつた。式場に充てられた逓信省の前庭には入口に大緑門を設け、式場・車寄・休憩所などに至るまで悉く紅白幔幕で飾られた。斯て午前十一時二十分嚠喨たる奏楽と共に式は開かれ、翁夫妻は委員の先導で家族一同と共に臨席する。式場委員の池田竜一君が先づ除幕式執行の旨を告げ、市島・塚原両建設委員が相踵で登壇、開会の挨拶と工事及び会計の報告を済ますと、翁の令孫勘一郎君が繋紐を引いて除幕を行うた。此時中野建設委員が発起人を代表して式詞を読み、続いて箕浦逓相の祝詞、大隈侯・渋沢男の演説があつたが、逓相の祝詞は中野委員の式詞や翁の謝辞と共に左に掲げ、又一侯一男の演説は追懐談中に収めることにした。何れも翁が当年の労を述べて口を極めて賞讚されたものであるが、最後に翁の謙譲な謝辞があつて式を終り、一同記念撮影の後、逓信省階上で立食場を開き、翁の為めに祝盃を挙げたが、宴酣なる頃大隈侯の発声で翁の万歳を三唱し、午後二時を以て散会した、当日の来会者は二百余名の多きを数へた、中野氏の式辞、逓相の祝詞、翁の謝辞は左に掲げる。
○下略


中外商業新報 第一〇八五六号大正五年七月二日 ○前島男爵の寿像除幕式(DK490060k-0003)
第49巻 p.207-208 ページ画像

中外商業新報 第一〇八五六号大正五年七月二日
    ○前島男爵の寿像除幕式
我国逓信事業に功労少からざる男爵前島密氏の寿像は、予て発起人の尽力により逓信省構内に於て建立中なりしが、今回竣工したるを以て一日午前十一時三十分之が除幕式を挙行せり、来会者は前島男老夫婦及其家族、大隈総理・箕浦逓信・高田文部の各大臣、其他官吏・代議士・実業家等無慮三百余名、定刻市島謙吉氏先づ開会の挨拶をなし、塚原周造氏工事並に会計の報告をなす、是に於て前島男令孫の綱引にて除幕されしが、フロツクコート姿の寿像は高さ八尺五寸、石台十一尺五寸合計二丈、英風爽颯として拍手に迎へらる、次で中野武営氏の発起人総代式詞、箕浦逓相の祝詞、大隈首相の前島男に対する賛辞的演説、渋沢男の所感談及び前島男の謝辞等ありて式を了り、逓信省階
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上に食堂を開き、席上大隈首相の発声にて前島男に対する乾盃あり、午後一時三十分散会


鴻爪痕 市野弥三郎編 六・第三一―三三頁大正九年四月刊 【○追懐録 二 男爵渋沢栄一君談】(DK490060k-0004)
第49巻 p.208-209 ページ画像

鴻爪痕 市野弥三郎編 六・第三一―三三頁大正九年四月刊
 ○追懐録
    二           男爵渋沢栄一君談
○上略
 左の一篇は前の大隈侯のと同じく、寿像除幕式に渋沢男爵の述べられたる大要なり、追懐談○後掲と重複する所あれど、亦別種の趣あれはこゝに附載すといふ。
私にも一言述べさして戴きたい、斯の如き洵に御芽出度愉快な御席に列し、唯今大隈伯爵の御演説に依つて少し唆されて、一言申上げたい情を喚起したので厶います。前島君は私の先輩で、古い御親しみを重ねたのみならず、同じく静岡藩から出た所謂国を失つた所の亡国の臣で厶います。御同様其中から立つて、明治政府に聊の勤労を致した両人であります。明治二年に私が大蔵省へ奉職しました昔を回顧しますと、唯今伯爵の仰せの通り実に今昔の感に堪へませぬ。又今取調局と伯爵は仰しやいましたが実は改正局と名付けたもので厶います。如何に記憶の宜い伯爵も、此改正局も取調局も似たやうなものであるから左様仰しやつたのか知らぬが、併し名は少々違つて居ります。其処で私が其一人に選ばれて第一に困つたのは此郵便の事であります。租税のこと貨幣のこと又金融のこと、是等は什麼しても大蔵省として十分の整理、否整理ではない革新法を立てねばならぬと云ふに就て、君等は如何に考へるか、今の仰せでは我々共が頻りに御迫り申したやうに仰せでありましたけれど、寧ろ上局からさう云ふ改進的なる命令が盛んに出て、我々は其送迎に遑なかつた位であります。乃で最も窮したのは今の郵便法であつた。此郵便法或は交通法、唯今伯爵の仰せ、逓信大臣の祝辞で此事はもう尽して居りますから、其点に就ては私は申上げませぬが、男爵がその最一つ前の御勤労を、皆様はまだ御話が厶いませぬから、夫れ丈けを玆に私は附加へたいと思ひます。夫れは何かと云ふと、此維新匆々に人馬継立法、即ち通信法には大変に困つた昔は御伝馬助郷と云ふものがあつて、夫れに依つて人馬の継立をして居つた。然るに之が其貨幣の軽重の差からして出来なくなつた。即ち昔は其村方の希望で出たものであるが、貨幣が下落した為に賃銀の割合が大変に下つたから、一種の課役のやうになつて来た。元は権利であつたのが義務になつて来た。中々村方から人足を得ることに就ては旧幕の末には始終苦しんで居つた。御伝馬助郷と云ふものに依つて人足の不足を補はうとするが、始終苦情があつて、時には蓆旗が起るやうな有様であつた。其処へ維新に遭遇して、而して交通は矢張ちやんとやらなければならぬと云ふのであるから、此人馬継立法は大蔵省が其局に当つて、宜しく処理しなければならぬと云ふ困難が起つた。如何に明智の大隈伯も、之を咄嗟に処理なさると云ふことには随分御苦しみになつた。如何なる人が良からうかと云ふ所から、段々協議の末前島君が其頃駅逓局と申しましたか逓信局と申しましたか、其局に聘
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されたのであります。之は斯う云ふ必要が起つて居つたからで、同君は其職に就れると忽に其法案を具して、斯く致したら宜からうと云ふので、其人馬継立法が果して永久的方法であつたか什麼か知れませぬが、先づ其法は前島君に依つて踏襲されたのであります。之は職に御就きになると直に行はれた一の勤労である。夫れから進んで郵便、或は今伯爵の仰せの海運の事、陸運の事、夫等に至つては実に其功績は顕著であるが、此顕著なことはもう諸君から御申述べになりましたから、私は申上げませぬが、今の人馬継立法のことで、駅逓局と申しましたか逓信局と申しましたか其職に就て、前島君が始に其功を御立てなすつた。私共如何に致したら宜からうかと甚だ思案に尽きました所へ、同君が一の案を立てられ、将来の方針と云ふものを定められたのでありますが、私は此五十年前の記憶を辿つて、其時に起つたことを今日此席に於て思出しましたので、まだ其事に就ては皆様の賞讚の御言葉が厶いませなんだ故に、私の特に感じ居ります此事を、一言添へた次第で厶います。



〔参考〕鴻爪痕 市野弥三郎編 六・第一五―二八頁大正九年四月刊 【○追懐録 二 男爵渋沢栄一君談】(DK490060k-0005)
第49巻 p.209-215 ページ画像

鴻爪痕 市野弥三郎編 六・第一五―二八頁大正九年四月刊
 ○追懐録
      二 男爵渋沢栄一君談
古く御親みを厚うした故前島密君の履歴を玆に拝見して、私の故人との関係に就て記憶を辿つて御話することは或点から快きこともありますが、又頗る感慨の情に堪へぬのであります。私の故人との御交りは前後ズツト通じては居りませぬ、或時期に於て別して親密に御交際申したのでありますから、継続的なる御話にはなりませぬけれども、自分の交誼上も御親しくし、又事業上に於ても種々御相談申した等のことに就ての記憶を玆に喚起して見ようと思ひます。
御履歴に依つて見ますと、丁度私より五つの長者で、段々学問に若くは経歴に種々なる方面を経られて、丁度御維新頃に社会に打つて出られたやうに拝見されます。巻退蔵と仰しやつた頃に其名を聞いたやうでありますが、それは私が明治元年に欧羅巴から帰つて来た時のことだらうと思ひます。もう既に其時には前島と云はれて居つたかも知れませぬ。私は静岡藩の御用人で其人ありと云ふ評判を聞いて、前島と云ふ御人の常識に富んで居つて、明敏な才能のある人だと云ふことを承りました。併しまだ御目に懸る機会は得なかつた。私自身は欧羅巴から帰つて来て少し感ずる所があつて静岡に於て何か事業を為したいと考へた。其事業も商売とか工業とかと云ふやうな事に就て、即ち今概して言ふ実業に就て何か自分の智慧を施して見たいと考へた。今も大した事を成し得ないが、其時分には尚更極く未熟でありました。丁度私が二十九の年でありました、私に静岡藩の御勧めで藩政に関係せいと云ふことであつたけれども、少し思ふ所があつたからそれをば辞した。藩の勘定組頭を命ぜられたけれども、強いて辞退しまして、さうして静岡に商法会所と云ふものを作つた。○中略 其時分に前島君は中泉の奉行になつて御出で為すつたやうであります。私は相良奉行であつたと思ひますが、此履歴書には中泉奉行と書いてあります。それが
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私の御親しうする初めである、是れが明治二年二月である。私の商法会所を組立てたのも明治二年二月頃だと思ひます。其頃に何の御用であつたか、中泉の方から静岡へ出て来られた時分に御目に懸つたやうであります。時に先生は先づ地方の奉行として自分の管轄の方面の民治に専ら力を入れる位置に居つた。私は又今申すやうなる一つの商会を起したので、御互に名を知つて居つたから、多分私の企てた商法会所の方へ御出下すつて其計画を問ひ、私も御話し、又駿河の静岡藩を如何に進めて行つたら宜からうか、是から先の世の中はどうなるであらうかと、遂に進んでそんな御話までしたやうに覚えて居ります。此談話中に失礼な申分だが前島君も渋沢を大に是れは相談相手になる者だと思はれたやうに、私も亦前島君を中々勝れた人だと思つて評判に聞いただけの明敏であり又物に当ると種々なる考の出る御人、新らしい仕事に十分応用の才のある御方、斯う云ふことを私も深く感得しました。併し用向を以て接触したのでない、唯懇意を以て交つただけであるから、其時一度会つたか二度会つたか、さう御親しくもしない内に御別れして仕舞つた。是れが前島君と私の知り初めで、明治二年の春であつたと思ひます、其時日は覚えませぬ。
其年の十一月即ち明治二年十一月に私は明治政府の方へ呼出された。私は駿河で前に申したやうな商会を組立つて、それを以て終生の事業としようと思つたのであるから、決して政府の役人になることを好まなかつた。政治上の栄達は少し妙なことを言ふやうであるが、其時に発心して全く政治界には顔を出さないと極めたのである。それで御断りしようと思つたけれども、静岡藩では中々藩から断る訳に行かぬ。朝廷に対して何だか命令に抵抗するやうに聞えて宜くないから、若しお前がどうしても勤めたくないならば一遍行つて受けて、さうして辞表を出して来い。此方から渋沢を出すことは出来ませぬ、渋沢は病気で厭やで御座ると云ふことは何だか野心でももつて居る如く誤解をされてはいかぬから、といふ訳。丁度その時の静岡藩庁の首脳者は大久保一翁と云ふ人で、此人から懇々とさう言はれました。余儀なく其年の十一月東京へ出て来て租税正と云ふものを拝命した。租税の事を聊も知らない、年貢を納めることは少々許り百姓して居つたから覚えて居るけれども、取立てることなどは勿論何等経験がない。私が突然とさう云ふことを言付かつたものでありますから、大に面喰つて困て居りました。殊に駿河に帰りたいと思つたから十一月の幾日であつたか日は判然と覚えませぬけれども、拝命してから十日許り経つたと思ふから、十一月であつたと思ひますが、今の大隈侯爵、彼の人が其時分に大蔵省の全権であつた。大蔵大輔と云ふ職は一番の大将でない、大蔵省に於ては卿と云ふものがあつて是れが首脳であつたけれども、其時分の例として首脳に立つ人は極く門閥から出て、事実は却つて少輔大輔などが実権を有つて居たのであります。其時の大蔵卿は伊達宗城さんで、其次に大隈さんが大輔、伊藤博文さんが少輔と云ふ役割であつた。其処へ私が租税正と云ふものに任命した。○中略 少し意見を言ひたいことがあるから何日出たら宜しうございますかと聞いてやると、幾日に来いと云ふことで○中略 大隈さんに御目に懸つた。さうして私は
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辞退を言うた。斯う云ふ所存だから役を罷めて駿河へ帰つて駿河で企てた仕事をして見たいと思ふ、余り露骨な申分であるけれども、何も知らない大蔵省で唯仰付かつた役を是れから稽古するよりは自分の希望した事に努めた方が自分の為にも利益、又世の中にも利益だらうと思ひます。少し考へる所もありますから、殊に私は元百姓から一橋に仕へて、其内に一橋が将軍になつたから遂に又幕府の家来になつた、幕府の家来になつたのは実は名計りで幕府の仕事は殆どしたことがない。其内に仏蘭西へ行つて其留守に世が引繰返つて御維新になつた。帰つて来て駿河で何か仕事をしようと思つて居る内に玆に呼出を喰つたやうな訳で私は官途を望みませぬからどうぞ辞職を許して帰して下さい、斯う云ふ御話を大隈さんにした。其時大隈さんが頻りに私を説得して○中略 君が将来の商工業を発達させたいと云ふのは尤もだと思ふけれども、併し商工業を発達させると云ふならば、どうしても日本政府の財政が堅固に立つて行かなければ矢張商工業も進まぬと思ふ。さうすれば丁度今大蔵省に君が仕へるのは商工業を発達させる一つの階梯を作ると云つて宜いやうなものであるから、是非そんなことを言はず受けた任命を奉じて吾々と共に一つやつて呉れろ、丁度高天原に八百万の神が集つて神謀りに謀る所だから、吾々不肖ながら神の一柱、君も神の一柱となつて、八百万の神の一人にならうでないかと云ふやうな奇抜な説得を受けた、そこで私も料簡を変へまして、其様に仰しやれば私共唯辞したいと思つた一念は少し足らない所があつたやうである。それでは仰せに従つて数年の間やつて見ませう、其代り或機会に御免を蒙りたい、私はそれだけは志を翻しませぬ。併し今の大蔵省の事務を知らぬ同士でやると云ふことは至極面白いでございませうと云ふことで引受けた。それから必死にやらうと云ふ覚悟を定めた。併し是れではいかぬと云ふことで頻りに御話をして、其処に改正係と云ふものが出来た。其の改正係の係長を私が言付かつた。其時に前島さんは改正係に出られた。此履歴で見ると十二月二十八日とある、私が初め大蔵省に任命したのが十一月でありました。前島さんは民部省に最初出たのである。それから三年四月十二日に租税権正になられた。其時の事を私は判然と記憶しませぬが、私は駿河の方から呼上げて前島君を此改正係に入れたと云ふことで前島君を推薦したやうに思つて居ますが、此御履歴を見ると前島君は其前に、私と丁度同じ年に民部省に拝命して居つたのであります。大蔵省の方で是非彼の人を取りたいと云ふので前島君は租税権正になつた、私は租税正で居たから私の次に附く訳であります。それで租税権正として改正係に任じた。是れは私が大隈さんに御話をして大蔵省に於て唯普通の有様ではいけない日常の仕事がゴタゴタして居つてはいかぬ、是非一つの目的を立つて凡その方針を定めて、此事は斯くして行かう、此事は斯様に進めて行かうと云ふやうな取調をして、其調べに依つて大蔵省の事務を進めて行くやうにしなければ真の改造的経営は出来ない、改造経営をやるには特に局を立てなければいけない。大隈さんもさう云ふ意志であつたが、私共も其説で、そこで春早々に改正係と云ふものを置いて、私は其改正係を言付かつた。普通の仕事はもう一人権正がありまして、其
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人が専らやつて、私は改正係の事務をやつた。所が改正係には各種の人才を入れなければならぬと云ふので、それから彼れが宜からう、是れが宜からうと云ふ中に、私は前島君を駿河から呼んだと思つて居りますが、それは考へ違ひで、此履歴で見ると前島君は既に民部省へ出て居つた。民部省から大蔵省へ抜擢して五等と云ふのですから、二等許り上げてさうして租税権正に任じた。そこで改正係に私共と共に仕事するやうになつたのです。是が抑々初めてゞあつて同時に仕事をするやうになつた訳であります。
それから鉄道の事、租税改正の事と云ふやうな評議を頻りに始めた。鉄道の事に就ても同君は種々欧羅巴のことも知つて御座つたから、改正係に於て調べられたやうに覚えて居ります。それから駅逓を改正しよう、鉄道を作らなければいかぬ、貨幣を改正しようと、斯う云ふやうな各種の改正を考へた、即ち改造係りである。其内に駅逓の事が大変に一つの緊急問題となつた。それは幕府の諸藩が旅行する時分の制度が大変悪かつた。大勢の供を連れ、参覲交代などと称へて加州などでは何百人と云ふ人が鎧を持ち、弓を持ち、色々な道具を持ち一人の人が数十人の人夫を使ふから、其時には人夫の要ることが中々多い。其人夫に出る事が百姓の一つの稼ぎになつて居つた。農間に出て長持を担いだり色々な物を担ぐ、其時の賃銀は相当な価があるから農間にやつた。宿駅の近所の村方では御伝馬助郷人足と云つて何処の村では何人、何処の村では何人と云ふ割付けで出来て居つた。所が貨幣が近頃の有様の様に多くなつて仕舞つてもとは享保頃の貨幣で定めて居つたもので相当の購買力があつた。然るに貨幣の変更から購買力が減じても、もとゝ同じ金額であるから大変に計算が安くなつて仕舞つた。例へば給金が米の十円の時は十円で宜いが、米が五十円になれば給金も五十円にして呉れなければならぬ。所が其割合が給金は同じく十円で米が五十円になつたと同じやうなものであるから、給金は却て五分の一にされた訳である。そこで宿駅の人足が段々少なくなつた、酷く困つた。殊に幕府の時分には兎に角幕府の威光で無理に圧迫したけれども、御維新になつてはそんなことは利かなくなつて仕舞つたから、殆んど駅逓が出来なくなつた。同盟罷工と同じやうになつた、敢て同盟罷工と云ふ程でないけれどもさう云ふやうな風になつて仕舞つた。そこで是れは何とか方法を立てなければならぬと云ふのが大蔵省の最も緊急問題となつた。之れを改正係で何とかして呉れと云ふことになつた。大隈さんなども是はどうも改正係が考へて呉れなければいかぬ皆で十分思案して見て呉れと云ふことであつた。私共が幾ら考へて見たけれども、宜い思案もない。所が前島さんが専ら任じて、宜しい己が一つやつて見ようと云ふので、前島さんが其時に矢張り大蔵省駅逓局と云ふものがあつたから租税権正が駅逓権正を兼任してやるやうになつた。是れが五月十日と思ひます。夫等の取調を凡そ斯う云ふ方法にしたら宜からうと云ふことを駅逓権正になつてから調べたのでなかつたやうに思ふ。恐らく数ケ月調査をされて是れなら行けるだらうと云ふので取極めたやうに覚えますが、是れで見ると四月十二日に租税権正に任じて、それから五月十日に駅逓権正になられた、丁度一月許
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りしかなかつた。それから直ぐ六月上野(大蔵大丞)と一緒に英吉利に御出になつたやうであるが、私共は其処は判然と覚えませぬが、もう少し長く御座つたやうに思ふけれども、駅逓権正に任ずると云ふのはさう云ふ事情でありました。此間が短かい時であつたけれども種々御懇意申して接触をしたので、玆に始めて前島君と云ふ御方は実に種種なる方法の立つ御方だと敬服しました。此頃が毎日一緒になりました時であつて、一月であつたか、二月であつたか仕事をしたやうに覚えて居る。それから前島君は六月に上野さんと一緒に英吉利に行かれましたが、其用向は多分鉄道の問題であつたと思ふ。東京から横浜へ鉄道を敷くに就て英吉利のレーと云ふ人と大隈・伊藤さんが明治二年に金を借る約束をした。それは横浜にあつたオリエンタルバンクとか云ふ銀行の手を経て借ることになつた様に覚えて居りますが、其遣方が向ふは此方と契約したのと違約して居ると云ふので纏らぬので、遂に上野と云ふ人は英語の能く出来る人で英吉利の事情も知つて居る、大蔵省の主たる役人であつたが、之れに大隈・伊藤さんから命じて其のレーと云ふ人及びオリエンタルバンクの引合をする為に行つたのでなかつたかと思ふが、是は自分は取扱はぬから判然とは分らぬ。其時前島君も海外旅行を望んでゐて、一遍旅行したいと云ふやうなことから、前島君は附添役で行かれることになつて、本役は上野であつた。此旅行で海外の印刷の事だとか、郵便の関係とか云ふやうなものを暫時の間の旅行であつたけれども、調査されたものと私は思ひますが、是れで見ると丁度三年六月に立つて四年の八月に帰つたとあります。此時に前に駅逓の事に携はつて居つたから併せて駅逓の事抔に就ても力を尽されたのではないかと思ひます。而して此時に多分大蔵省の紙幣造幣の事をも引受けて、独逸のフランクフルトと云ふ所へ廻つて紙幣造幣の事に力を尽されましたが、それが此旅行の時でないかと思ひます。其辺の関係は詳かに知りませぬが、是れは一つ御調べになつたら分らうと思ふが、さう云ふ用向で行かれたやうに思ふ。丁度前島君は郵便の事抔も元駅逓に任じたから考へられて十分な調べをした、其調べの結果が遂に印刷物に話が進んで、印刷物から到頭紙幣造幣の事を言つて寄越して、此方も其註文を言つてやり、フランクフルトへ廻つて唯郵便切手の印刷許りでなしに、郵便方法も共に考へて一つの案を持つて帰つて来たのでなかつたかと思ひます。まだ此頃は私は大蔵省に居つたけれども此時には一緒に仕事をすると云ふでなかつたやうに思ひます。それから六年の五月に私は辞しました。此履歴書で見ると丁度六年六月に前島君は大蔵省三等出仕になられたのであります。私は五月に辞したが、私は三等出仕であつたから丁度其位置に進まれたやうに見えます。丁度此場合には私の後を御引受け下さると云ふやうな有様に進んで行かれたやうに見えます。私は其時井上(馨)さんと共に少し政府と考も違ふし、殊に私は銀行者にならうと云ふ予ての希望であつて、前に御話したやうに何時迄も官吏を継続する希望がなかつたものですから、そこで明治六年に私は退きました。丁度それが五月三日でありますから、六月十五日、即ち一月許り経つと前島さんが其位置に進まれた、さうして大蔵少輔の心得を以て事務を取扱ふと
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云ふことになつた、私も大蔵少輔の心得を以て事務を取扱つた、三等出仕と云ふのは大蔵少輔と同じである。それから前島君は段々郵便の事を進めて行つた、さうして遂に明治七年には駅逓頭になられて、段段郵便の事を心配されたと思ひます。併し此時にはもう私は銀行者になつたので、政府の事は何等関係しませぬから、もう御話を直接にすると云ふことはなかつた。丁度三年、四年、五年、此三年の間が大蔵省に居つて、或は共に或は離れて相共に力を致した、斯う云ふ御間柄でございます。駅逓郵便の事に力を尽された事、新機軸を出されたと云ふことは私は一緒でなかつたので、其事は唯後から見て敬服するのであつて、さう細かな事を存じませぬが、前に申す通り駅逓の事に就て二年から三年に掛けて先生が新たな便利の方法を出し、独創的の考もあるし、応用の才能も有つて居たので、郵便駅逓の事は先生に依つて始めてそれぞれの形を成したと申して宜い位である。それで逓信省の傍に銅像が建つたと云ふことは誠に謂れある事と思ふのでございます。其点に就ては私が御褒め申す許りでない、世の中が公認して居る事と申して宜からうと思ふのである。其れ以後は或は時々御目に懸つたことがありませうけれども、殆ど唯御懇意の会見で余り特に玆に申述べます程の事はありませぬ。総て此履歴が詳しく示して居ります。唯玆に前島君が明治二十七年に北越鉄道株式会社の社長となられた、それから明治二十九年に東洋汽船会社の監査役となつた、明治三十四年に韓国京釜鉄道株式会社の取締役となつたと云ふことがありますが他の実業界、馬車鉄道抔と云ふやうなものに御入りになつたことは、是れは私が関係は致しませぬけれども、此北越鉄道と東洋汽船と京釜鉄道とは総て私が関係したことだから其当時の模様を稍々知つて居ります。前島男爵がどう云ふ訳で此処に這入つて来られたか其縁故は詳かに知らぬが、北越鉄道と云ふのは越後人が頻に望んで居つて、私が世話して建つた鉄道であつて、どうも重役が一人なくては困ると云ふので、前島君が首脳になつて呉れたら宜からうと云ふことで、多分私が御勧めして、官を辞した後で、玆に立つて下すつたのであらうと思ふ。其後に渡辺嘉一氏がなつた、是れは前島君と関係なくしてなつたやうに覚えます。それから東洋汽船は是は浅野氏が組立つたので、今も浅野氏が東洋汽船の社長をして居りますが、私も至極亜米利加航路は必要だと見て同意したので、遂に前島さんが此監査役になられたことを記憶して居ります。
それから朝鮮の京釜鉄道、是れは矢張二十九年頃に朝鮮関係の有志、私等も其一人で京釜鉄道を起しまして、それから段々骨を折つて三十六年には愈々成功しました。丁度三十七年の日露戦争の前に漸く是れは出来た。是れは中々一つの国際問題とも言ふべき程で、其前に京仁鉄道と云ふのを心配して、それから遂に京釜鉄道を成功せしめたのであります。此事に就ては大分私共が力を入れた。どう云ふ時機であつたか前島男爵に重役の一人になつて戴いた、是れは私が御勧めしたことであつたらうと思ひます。其時の詳細な事は知りませぬけれども、併し是れは余り長くやつては下さらなかつた。此三つとも先づ御懇意づくで丁度其場合に御手が隙いて居つたから、御親みも厚い為めに、
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それでは己も力を添へようと云ふので、這入つて下すつた事と思ひます。京釜鉄道のことは寧ろ私の御勧めよりは前島さんが大分力を入れまして、日本だけ出来ても朝鮮の鉄道に連絡させなければいけぬと云ふので、最初私が躊躇して居つた所へ前島さんが来て、どうしても君がやつて呉れなければ出来ないと云ふので本当に乗込んだ。私も相談相手になるからお前心棒になつてやつて呉れと云ふことを御相談に来たことがあります。それは兜町の事務所に御座つて、本当にやる積りか、生政治家になつて鉄道の権利抔を売ると云ふことは面白くないと言ひましたら、イヤそうでないと云ふことを頻りに御話したのを覚えて居ります。
それからもう一つ、モツと前に郵便蒸汽船会社と云ふものを造りました。是は何でも私は大蔵省に居る時分でなかつたか知らぬと思ふ。此事に就ては前島さんは矢張大分主張して力を入れた、それは斯う云うことであつた。是れは御話が戻りますが、改正係でどうしても地租を改正しなければならぬ、米を以て租税を取つて居つてはいかぬ、金で取るやうにしなけばならぬ、さうすればどうしても米の運搬を宜くしてやらなければ農民が困る、廻米の方法を付けなければいけない、今のやうな千石船が一番大きいのでは迚もいけない、海運を善くしようと云ふならば蒸汽船の外ない、蒸汽船をやらう、それには幸に廃藩置県で諸藩から取つた船があるから、此船に依つて一つ蒸汽船会社を起さうでないかと云ふので作つた。それは船に関係の近い人で高崎長右衛門とか、山路勘助とか、岩橋万蔵とか云ふ様な人がありまして会社を組立つたやうに思ひます。其事に就ては前島さんが寧ろ首唱者で、私は其相談に応ずると云ふ位で、甚だ必要だと思つて其事が成立したやうに考へて居ります。故に海運に就ては寧ろ前島さんは私よりは先輩で、早く海運の完全な働きをせねばいかぬと云ふことは明治早々から余程着目されて、私共は寧ろ教へられた。○下略