公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
第49巻 p.235(DK490072k) ページ画像
大正2年2月21日(1913年)
是ヨリ先栄一、竹内隆卿碑ノ篆額ヲ揮毫ス。是日、千葉県小金町ニ於ケル同碑除幕式ニ列ス。
竜門雑誌 第二九八号・第五七頁 大正二年三月 ○故竹内隆卿氏の碑除幕式(DK490072k-0001)
第49巻 p.235 ページ画像
竜門雑誌 第二九八号・第五七頁 大正二年三月
○故竹内隆卿氏の碑除幕式 下総小金の志士、故竹内隆卿氏の紀念碑除幕式は二月廿一日午後一時を以て執行せられたるが、是れより先き芳野世経氏より青淵先生に其篆額揮毫の依頼ありて、尚当日は万障を差繰り是非参列せられたしとの懇談あり、青淵先生には往事を追想して転た懐旧の情に堪へずとて直に快諾せられて其需めに応じ、且つ当日は午前九時飛鳥山邸出発自働車にて同地に赴かれ、式場に参列して夕刻帰京せられたり、之れに付き青淵先生に就て先生と同氏と如何なる縁故を有せらるゝやと尋ねたるに
氏は元、竹内錬太郎といひて下総小金の人、豪農といふ程ではないが幾分か身柄の家であつた。其昔し千葉周作の道場に撃剣生が沢山入塾して居つた其中の一人で、悲歌慷慨なかなか気節ある人で、自分は撃剣の友として新しく交つた。折柄鎖港攘夷論の沸騰せる世の中、意気相投じ肝胆相照して、遂に真田半之助・佐藤継助・横川勇太郎・竹内錬太郎と予と窃に相語らふて、死生を与にするの盟ひを締せしかど、程なく予は京都に赴かざるを得ざる嵌目となり、遂に其盟約を実行するに至らなんだが、さう云ふ関係ある人ゆへ、懐旧の情に堪へず除幕式に参列した次第である云々
友情の濃かなる聞くだに床しき限りにこそ。
○栄一日記ニヨレバ、当日ハ右除幕式ニ関スル記事ナク、且ツ二月二十八日ノ記事ニ
「小金人竹内・梅沢二氏来リ本月二十一日故竹内錬太郎建碑除幕式ニ出席ノ事ヲ乞ハル」トアリ。本月トアルハ誤記ナレバ、此ヲ来月トスレバ三月二十一日ノ事ナレドモ、栄一日記ハ当年ハ三月十一日以後全ク記事ヲ欠キタレバ確認スル能ハズ、他ニ資料モ見当ラザレバ詳細未詳ナレドモ、姑ク二月二十一日トシテココニ収ム。
○文久三年栄一等高崎城襲撃ヲ計画ス。竹内ハ其徒党ノ一人ナリ。(本資料第一巻文久三年ノ条参照)