デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
3節 碑石
6款 水藩烈士弔魂碑
■綱文

第49巻 p.240-242(DK490077k) ページ画像

大正7年1月2日(1918年)

是日栄一、埼玉県大里郡八基村大字血洗島ニ建設スル水藩烈士弔魂碑ノ撰文並ニ揮毫ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正七年(DK490077k-0001)
第49巻 p.240 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正七年         (渋沢子爵家所蔵)
一月二日 朝来雨降リテ寒気少ク減シタリ、午後曇天風強シ
○上略夜食後○中略八基村ヨリ依頼ノ忠魂碑ヲ書ス○下略


竜門雑誌 第三六四号・第五〇頁 大正七年九月 ○弔魂碑(DK490077k-0002)
第49巻 p.240 ページ画像

竜門雑誌 第三六四号・第五〇頁 大正七年九月
    ○弔魂碑
 本篇は青淵先生が郷里血洗島村人の懇請により、即ち元治甲子の年旧水藩の志士筑波勢中の二名が将に西上せんとする途上岡部藩兵の為めに殺されて、今尚ほ無縁塚となり居るを遺憾とし、今回村人が之を石に録して其寃魂を弔はんとする美挙を賛せられ、親しく書与へられたるものなりとす
 此弔魂碑は旧水戸藩士二人合葬の所を標せしなり、元治甲子の年、水藩の志士田丸稲之衛門・藤田小四郎等尊王攘夷の説を唱へ同志を糾合して幕府に抗し、事敗るゝに及び一橋慶喜公に就きて天朝に愬ふる所あらむとし、武田耕雲斎等と共に西上せむとす、兵凡三百余人、其嘗て筑波山に拠れるを以て世人呼びて筑波勢といふ、幕府傍近の諸藩に令して之を討たしむ、十一月十二日其勢七隊に分かれ利根川を越えて中瀬村に至る、岡部藩の家老吉野六郎左衛門兵を率ゐて其通過を止めしかば、夜陰に乗じて本庄宿に去れるが、其隊中の二人は一行に後れて藩兵の殺す所となれり、血洗島村人其非命を憐み遺骸を収めて墓石を建て、其氏名を詳にせざるを以て唯無縁塔とのみ称したりき、今玆大正七年、村人其久しくして湮滅せむことを恐れ碑を刻して之を表せむとし、余に其事由を記せむことを請はる、嗚呼筑波勢の挙言ふに忍びざるものあり、其行為には議すべきものありといへども、其志は朝旨を遵奉して幕政を革め、外侮を禦がむとするにありき、然るに事志と違ひ却て慶喜公の旗下に降服して、遂に幕府の為に敦賀に刑せらる、心ある者誰か痛惜せざらむや、明治二十四年、朝廷武田・藤田等の諸士に位を贈りて其忠悃を追賞せられ、寃魂始て黄泉の下に伸び、精忠永く青史の上に顕る、然るに此二士は其名だに伝はらず、空しく寒烟荒草の下に朽ちむとす、村人の之を歎きて貞石に刻せむとするは固より美挙といふべきなり、回顧すれば当時余は、慶喜公の軍に従ひ海津に在りて筑波勢の入京を防止せむとせし者なり、今二士の為に此文を作る、実に奇縁といふべく、書に臨みて中心今昔の感に堪へざるなり
  大正七年九月
                  青淵 渋沢栄一 撰并書
 - 第49巻 p.241 -ページ画像 


(吉岡耒吉)書翰 松平孝宛 昭和一三年三月三〇日(DK490077k-0003)
第49巻 p.241-242 ページ画像

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