デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
3節 碑石
8款 塩見政次墓碑
■綱文

第49巻 p.245-246(DK490079k) ページ画像

大正7年10月(1918年)

是月栄一、塩見政次墓碑ノ撰文並ニ揮毫ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正七年(DK490079k-0001)
第49巻 p.245 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正七年         (渋沢子爵家所蔵)
一月十八日 晴 寒
午前八時起床スルモ喘息ニテ入浴ヲ得ス、洗面シテ病褥ニ起臥シ来客ヲ謝絶ス、朝飧ヲ病褥中ニ食シテ塩見政治氏《(塩見政次)》ノ遺稿タル吾半生ト題スル冊子ヲ閲覧ス、同氏ノ出身以来其意志ト経歴トヲ詳記シタル一書ナリ、就中理化学研究所設立ノ挙ハ真ニ時機ニ適スル快挙ト言フヘシ、蓋シ同氏ノ生前ニ於テ余ノ揮毫ヲ企望シ、且余ノ処世ニ付テ私淑スル処アリタルニ付、墓碑ノ撰文及揮毫ヲ余ニ請フトノ事ヲ其親戚ヨリ野口弥三氏ヲ介シテ申出タルニヨリ、近日撰文セント欲シテ自叙伝タル一書吾カ半生ヲ閲覧セルナリ
○下略
   ○中略。
二月七日 雨 朝来雨降ル夕方ヨリ晴又曇
○上略
萩野博士ニ塩見政治氏碑文ノ事ヲ依頼ス○下略


竜門雑誌 第三六四号・第五一頁 大正七年九月 ○塩見政次君碑(DK490079k-0002)
第49巻 p.245-246 ページ画像

竜門雑誌 第三六四号・第五一頁 大正七年九月
    ○塩見政次君碑
 本篇は青淵先生が塩見高年氏の請を容れられ、先年病篤き時金百万円を捐て、大阪に理化学研究所を建設せる父君政次氏の功績を親しく誌されたる碑文なりとす
 塩見政次君は余と境遇年令を異にし居所も亦隔りたれば未知るに及ばざりしも、余は君の病篤き時金一百万円を捐て大阪に理化学研究所を建設せんとするを聞きて其壮挙を驚喜せり、幾もなく余も亦東京に建設すべき理化学研究所の要務にて大阪に滞在せしが、第一銀行支店長野口弥三氏より君の経歴と事業とを聞きたる時は、既に君が易簀の後にして終に相見るを得ざるを歎惜したり、越えて一年君の嗣子高年君、野口氏を介して余に碑文を求めらる、亦奇縁と言ふべし、惟ふに君は医家より出でゝ工業界に入り、初に製薬業を営み、後亜鉛製錬の不振を欺き大阪亜鉛鉱業株式会社を起し、数年にして海外よりの輸入を遮り却て巨額の製品を輸出し、是が為に君は会社と共に鉅万の利益を得るに至れり、君の此業を創むるや刻苦研鑽寝食を忘れて事に従ひ、遂に病に斃れたるは実に斯業に殉ずる者にして、其意志の堅実にして施設の豪壮なるは以て世人の亀鑑となすべし、君は岡山県久米郡西川村の医塩見隆造氏の次男なり、初大阪医学校を卒業して開業医となり、又陸軍軍医ともなりしが、後身を工業界に投じ非凡の蘊蓄と勉励とを以て事業を発展し、抜群の成功を贏ち得たるのみならず、又其
 - 第49巻 p.246 -ページ画像 
得たる巨資を抛ちて天下後世の為に謀れるは真に偉丈夫の行為と言ふべきなり、君は明治十一年一月五日に生まれ大正五年十月二十四日に卒す、朝廷其功を賞して特に正六位に叙せらる、配後藤氏一男一女を生む、男は即ち高年君にして女泰子は竹原氏に養はる、嗚呼、君の一生は僅に三十九年のみ、然れども君の事業は根柢あり、工業界の人々をして長く瞻望せしむるに足り、君の精神は理化学研究所によりて広く天下に旁礴すべければ、君の生命は実に不朽なりと言ふべく、所謂霊魂不滅の語は君にして始めて之を証することを得べきなり、今其知友の語る所に依りて梗概を叙すること此の如し、其の詳なるは君が自叙伝吾半生の一書あり、之を読まば懦夫も志を立つる所あらむ
  大正七年十月
                     青淵 渋沢栄一 撰并書