デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
3節 碑石
10款 金井金鶴寿碑
■綱文

第49巻 p.248-250(DK490081k) ページ画像

大正8年5月4日(1919年)

是ヨリ先栄一、埼玉県大里郡大寄村有志ノ懇請ニヨリ、金井金鶴寿碑ノ撰文並ニ揮毫ヲナス。是日、同碑除幕式挙行セラル。栄一祝辞ヲ寄ス。


■資料

竜門雑誌 第三六四号・第四八―四九頁 大正七年九月 ○金鶴堂金井翁碑(DK490081k-0001)
第49巻 p.248-249 ページ画像

竜門雑誌 第三六四号・第四八―四九頁 大正七年九月
    ○金鶴堂金井翁碑
 本篇は埼玉県大里郡大寄村々人有志が、同郷の先輩たる金井元治氏の功績を石に勒して永久に記念せんが為め、青淵先生に其碑文を懇請し来りたるより、先生も快く其請を容れられ親しく書与へられたるものなりとす
 金井翁名は元治、金鶴堂と号す、埼玉県大里郡大寄村大字高畑の人なり。翁少壮より思を郷党の利病に致し、其力を尽す所多かりしが、中にも備前渠の新渠開鑿の非を論じて之を遏めし事、同渠灌漑地田租軽減の事、八基村堤防増築の害を論ぜし事等は其最大なるものなり。蓋し備前渠は大里郡の北偏を通ずる灌漑用水にして、慶長中伊奈備前守忠次烏川を引きて開鑿せしより、人皆其恵を蒙りたるに、天明三年浅間山噴火して利根川を塞ぎ、其水南侵して烏川の河身を奪ひし後は渠口直ちに利根の巨流に接したれは、沿渠の地屡水害を受く、依りて已むを得ず渠口を塞ぎしかば、下流の村落為に涸竭を患ふ、文政中之を復したれども、年々修繕に鉅費を要し、且上流下流各利害を異にするにより、紛議已まざりき。明治二年岩鼻県庁議して旧渠を塞ぎ、新に中瀬村に渠口を開き、利根の水を東南に引きて、下流の村落を潤さんとす。然れども此の如くなれば、上流の稲田は灌漑の便を失ひ、新渠沿道の諸村は却て氾濫の虞あり。関係村民之を憂ひ、其停止を請へども県庁許さずして之を強行せんとす。諸村此が為に鼎沸し、簑笠を執りて立つ者数百千人に至り、将に上京訴願せんとす、翁之を憂ひ、新戒村の荒木翠軒、下手計村の尾高藍香と共に日夜奔走して之を制止し、且議して曰く、備前渠の水路たる、上流下流南北の村落各組合を立て、其経済利害を殊にすればこそ此の如く騒動すれ、爾後各村を併せて一組合となし、堰口の修繕、渠身の浚渫等すべて平等の負担となさば、工事も堅牢を加へ、灌漑も普及し、従つて新渠開鑿の要なかるべしと、乃此議を以て県庁に進めたるに、県官省せず、却て下民を煽動する者となせり、因て已むことを得ず関係十四箇村の連署状を以て之を民部省に訴へたり、民部省翁等三人を召問し、其訴願を諒として県に令せしかば、新渠の議已みて民情始めて安し。然れども翁は是が為に翠軒と与に獄に投ぜられしが、幾もなく寃解けて放さる。同九年より翁は村内地租改正事務に与り、備前渠用水組合の費用甚多きを憂ひ、五箇村総代として埼玉県令に建白し、遂に同組合の地価を六朱八
 - 第49巻 p.249 -ページ画像 
厘に減定せらるゝに至れり。二十二年町村制施行の時、大寄村長に挙げられ、二十六年期満ちて罷む。三十二年県会の議決により八基村堤防増築の挙あらんとす、中瀬・横瀬の村民之を聞きて驚きて曰く、吾輩遂に魚腹に葬られんとすと、群議嗷々たり、翁依りて県庁に上書して、其利害を痛論し、又内務省にも建白せしかば、官遂に此議を止む村民相慶びて曰く、吾輩蘇生するを得たりと、大に翁を徳とす。翁少き時読書剣術を好み、江戸に遊学の志ありしに、父母許さゞりしかば家居して農事を励み、傍ら父の職を襲ぎて幕府の鳥見役となり、鷹匠頭内山七兵衛の組に属したり。余が家もと翁の郷里と近く、且書剣の事によりて時に相会し、文久・慶応の際には等しく国事を憂ひ四方に奔走したるが、明治中興の翌年岩鼻県知事小室信大夫翁を召して其志を賞し、民間の疾苦を上言せしむ。翁感激して益地方の利を興し害を除くに勉めたり。翁常に神祇を崇敬し、社殿を営み、祭典を修め、又其基本財産の増殖にも力を用ゐたれば、朝奨を蒙りたる事もありき。翁資性謙虚常に抑損して矜らず、其齢古稀に躋るや自詠して曰く、七十路を稀とはいへど何一つ世になし得ぬぞはつかしきかなと、嗚呼此功績ありて尚此心あり、翁の美徳は以て世人の鑑となすに足る。翁今年八十二歳、老いて益健に、内児孫を撫育し、外一村の公事を与り聞き、其剛毅の気象今猶昔に異ならず。此頃其村人翁の事蹟を石に勒して後に伝へんとし、余に文を求む、余は翁と出処を異にしたれども、青年の頃より身を国事に致さんの念は、契合して今に渝らざるを以て敢て其請を辞せざるなり。
  大正七年九月
                  青淵 渋沢栄一 撰并書


竜門雑誌 第三七三号・第五二―五三頁 大正八年六月 ○金鶴翁寿碑除幕式(DK490081k-0002)
第49巻 p.249-250 ページ画像

竜門雑誌 第三七三号・第五二―五三頁 大正八年六月
○金鶴翁寿碑除幕式 埼玉県大里郡大寄村々人有志が、同郷の先輩たる金井金鶴翁の功績を石に勒して永久に記念せんが為め、青淵先生に懇請して其碑文の揮毫を得たることは、昨年九月号に於て之を報ぜるが、去五月四日其除幕式挙行当日、先生の祝辞は左の如くなりき。
 金井金鶴翁今年八十三歳、老いて益壮なり、有志諸君、翁が多年の功績を不朽ならしめんとて、寿碑を建て、今方に其除幕式を挙行せらる。余は遺憾ながら障ることありて、席に列すること能はず、一言を寄せて祝詞となす。論語に孔子の言を記して、知者楽水、仁者楽山、知者動、仁者静、知者楽、仁者寿といへり。之を解釈する者水を楽むとは其進んで息まざるを形容し、山を楽むとは其安んじて崩れざるを形容すといへり。金鶴翁の事業の大なる者は、余既に碑文に詳記したれども、之を約言するときは、水利の事に関して、最力を尽されたるにあり。翁が当年寝食をも忘れ、刻苦尽瘁、志を達せずんは已まざるの精神と活動とは彼の水の進んで息まざるが如きものありき。而して水利滞ることなく、灌漑の便普きを見るに及びては、翁は最喜悦の色を禁ぜざりき。是実に知者の水を楽む者ならずや。而して翁が活動の結果は、郷党の人々皆其沢を蒙るのみならず、大にしては国家の福利ともなりたれば、是亦仁者の行ともいふ
 - 第49巻 p.250 -ページ画像 
ことを得ん。今や功成り名遂げて、静に老を養ひつゝ、永く子弟の重望を負ひて郷党に蘶然たるは、又猶山の安んじて崩れざるに似たらずや。然れば仁者の寿は亦当然の結果なるべし、余は翁が益健康にして、永く仁者の寿を保たれんことを祈る所なり。
  大正八年五月四日            男爵 渋沢栄一