デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
3節 碑石
11款 福地桜痴紀功碑除幕式
■綱文

第49巻 p.251-253(DK490082k) ページ画像

大正8年11月28日(1919年)

是日、浅草公園ニ於テ、福地桜痴居士紀功碑ノ除幕式挙行セラル。栄一出席シテ追悼演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正二年(DK490082k-0001)
第49巻 p.251 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正二年        (渋沢子爵家所蔵)
二月二十八日 晴 寒
午前七時起床入浴シテ朝飧ヲ食ス○中略松下軍治氏来リ、福地桜痴居士ノ碑銘ヲ協議ス○下略


やまと新聞 第一一一一〇号 大正八年一一月二九日 明治の文豪桜痴居士紀功碑除幕式 今日浅草公園に挙行す(DK490082k-0002)
第49巻 p.251 ページ画像

やまと新聞 第一一一一〇号 大正八年一一月二九日
    明治の文豪桜痴居士
      紀功碑除幕式
        今日浅草公園に挙行す
明治の文豪桜痴居士故福地源一郎翁の偉功を後世に伝ふべき紀功碑除幕式は、廿八日午後一時、浅草公園は四区一号の広場に於て挙行された、観音堂西側なる五百余坪の式場には、入口に緑濃き大緑門造られ紅白の布に縁を巻かれた額に「福地桜痴居士建碑除幕式場」の文字も鮮かに、周囲は紅白段々羅幕張り廻され、場内中央に来賓を待つ千余の椅子が百余坪の天幕張りの下に配置され、正面左側は一段高く演壇が設けられ正面を眺むれば利根川産の高さ一丈五尺余の大紀功碑が、四本の竿頭に榊を飾つた柱に囲繞され、純白の幕静かに垂れて、当日居士が孫言一郎が握るべき紐は折柄降り初めた雨の飛沫が降りそゝいで居た、場所柄とて今日の盛況を見るべく、見物人は午前中から第二受付附近に雑沓し、胸に紅ひの胸章を附けた係員は、式場入口の第二受付所や、当日の来賓休憩所にあてられた伝法院の準備に忙殺され、細雨のしとしとゝ降りて定刻の次第々々に近づく程、式場附近は愈々傘の波に賑はひ出した
○中略
      ▽令孫の手で綱は引かれ
        紀功碑は衆の前に
        来賓諸名士の祝辞演説
軈て定刻の午後一時、嚠喨たる音楽隊の楽の音に伴れて来賓一同の設けの席に着、愈除幕の式は開始された、先づ松下本社々長の建設に関する概要報告があつてから、居士の令孫に当る言一郎君の手に依つて綱は引かれた、幕は除かれた○中略 大岡衆議院議長は建碑賛助人を代表して式辞を述べ、原首相代児玉秘書官・大隈侯・渋沢男・加藤高明子等交々起つて
      ▽祝辞や回顧演説を試み令息
信世氏代神保氏の挨拶あつて、盛況裡に式は閉ぢられた
○下略
 - 第49巻 p.252 -ページ画像 


竜門雑誌 第三七九号・第五一―五二頁 大正八年一二月 ○故福地桜痴居士の紀功碑除幕式(DK490082k-0003)
第49巻 p.252 ページ画像

竜門雑誌 第三七九号・第五一―五二頁 大正八年一二月
○故福地桜痴居士の紀功碑除幕式 浅草公園に建設せられたる明治の文豪桜痴居士福地源一郎氏の紀功碑除幕式は、十一月二十八日午後一時より開始し、やまと新聞社々長松下勇三郎氏より紀功碑建設の報告ありて除幕式を行ひ、大岡衆議院議長は賛助員を代表して居士生前の徳を称へ、続いて原首相代理・大隈侯爵・青淵先生・加藤子爵等の祝辞ありて式を終りたる由なるが、当日青淵先生追悼演説の一節として時事新報の伝ふる所は即ち左の如し。
 銀行といへば現今では立派な一の名詞となつて居るが、この名称は一体誰が考案命名したかといふ事は、その固有名詞を知つて居る者の多いに拘はらず、一向知つて居る者がない
 我国に於ける今日の銀行業者の前身は、両替店と呼ばれて居たので――尤も今日の銀行とはその業務の内容に於て大分に相違点はあつたが――銀行といふ名詞は維新後新作されたといふ事は明かだ、新聞記者とし劇作者としてその晩年を送つた桜痴居士福地源一郎氏の紀功碑といふものが、この二十八日東京浅草公園花屋敷の前に建設され盛大な除幕式が行はれたが、その式場に於て偶然にも此銀行といふ名詞作製に就いて趣味の深い話しが、列席者たる渋沢男によつて口を切られた
 男爵の話を玆に写すと「私は明治二年以来桜痴居士と交際を続けたその当時大蔵少卿《(輔)》であつた伊藤公が渡米される際その随員として私は居士を推薦した、居士は米国で銀行制度を初めいろいろの事を調べて帰朝した
 明治五年国立銀行条例が発布される場合、私と居士とはこの条例に就いて少からず苦心をした、而して此銀行といふ名称に就いては尤もその頭脳を痛めたのであつて、居士と私とが寄つて『何としやうか』と考へた末『洋行をして此制度を調査して来たのだから洋行としやうか』と付けて見たが怎うも面白くないので次ぎに『金行』と選んで見たけれど矢張り妙でないといふので困り抜いて了つたが、最後に居士の発案で銀行と命名する事に決めたのである」といふ話であつた


やまと新聞 第一一一一〇号 大正八年一一月二九日 急霰の拍手裡に紀功碑浮出づ 明治の大文豪桜痴居士を永久に偲ぶ除幕式も昨日浅草公園で目出度く終る(DK490082k-0004)
第49巻 p.252-253 ページ画像

やまと新聞 第一一一一〇号 大正八年一一月二九日
  ○急霰の拍手裡に紀功碑浮出づ
    明治の大文豪桜痴居士を永久に偲ぶ除幕式も
      昨日浅草公園で目出度く終る
○中略
    ▽嚠喨たる奏楽の音に令孫碑綱を引けば
      幕は静かに辷り落ちぬ
      此瞬間の森厳さよ!
百余坪の大天幕下に配置された来賓席に一同着席すれば、右側には大隈侯・渋沢男・大岡議長外名士居並び、左側福地家席には蔦子夫人始め言一郎氏等着席すれば
 - 第49巻 p.253 -ページ画像 
△純白の幕に覆はれた碑前には東京日日新聞社及浅草公園五友会から贈られた水菓子が供へられ、嚠喨たる奏楽の音起り、定刻の午後一時この栄ある桜痴居士が紀功碑除幕式は挙げられた、先づ松下本社長の建碑に関した概要報告終ると、場の一隅から拍手起りて
△蔦子夫人に手を取られた令孫言一郎氏は元気好く碑前に立ち、夫人に援けられて綱を握れば、場内恰も水を打つたる如く静まり、妙なる奏楽裡に綱は一絞りまた一絞り絞られて、幕は居士が令孫の手に依つて除かれた、見上ぐる前には一丈五尺余の根府川産の大石碑前に
△山県老公の篆額、芳川伯の撰文、高島張輔氏の揮毫に成る紀功碑は一同の面前に現はれ、拍手喝采の音は急霰の如く起つた
    ▽多数名士の祝辞後に大隈侯の回顧
      桜痴居士の人物を称へて
       本社の建碑事業を歓ぶ
除幕式も恙なく終れば建碑賛助人代表大岡衆議院議長の式辞あり、次いで当日閣議の為列席せざりし原首相代理児玉秘書官祝辞を述べ終ると、当年居士と相知の仲である
△大隈侯はやをら壇上に立ち『吾輩は肥前国の産である、福地君も肥前国の産れで私の処と居士の場所とは只佐賀と長崎の違ひである』と前提し『初めて福地君に逢うたのは忘れもせぬ明治元年四月で……』と、侯は故桜痴居士が
△明治文豪として我人共に許すべき人物であつた事より、侯一流の快弁何時尽きるとも知らぬ程回想談は続き『……前やまと新聞社々長松下君の事業として吾輩は双手を挙げて賛成したが、今回松下君の息
△勇三郎氏に依つて建設さるゝに至つた事は実に喜ばしいことで、思出多き故人の遺族と共に此式場に臨んで故人を偲ぶことの出来たのは吾輩の最も光栄とする所である』と述べ、次いで渋沢男登壇し『心なき石も物言ふ心地して向へば人の面影ぞ見る』の
△一首を口吟み、私が此式場に臨んで此碑を見上げました時には、此句の通り彼の桜痴居士の顔が明瞭々々《あり》と見えるやうで、私が居士と交つたのは大隈侯に一年遅れた明治二年、今侯爵始め諸君にお目にかけました居士の筆になつた軸は同年の十月十三日でありますと、心から男は
△故人を偲び『銀行と云ふ文字も居士が名付けたので、最初は洋行としやうか金行にしやうかと云うて居るのを、居士が日本の貨幣単位は銀であるからと銀行と名付けました』渋沢男の談が終ると加藤高明子代理
△松本忠雄氏の祝辞あり、次いで信世氏の挨拶あるべきであつたが、氏は今公用で北京に在る為め、近親の神保理学博士から一場の挨拶あつて、午後四時過ぎ盛会裡に式は終了した
   ○本巻前節記念事業中「福地桜痴居士建碑追善演劇会」ノ条参照。