デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
3節 碑石
13款 福島都三郎頌徳碑
■綱文

第49巻 p.255-256(DK490084k) ページ画像

大正9年9月26日(1920年)

是ヨリ先大正八年八月十二日、栄一、福島都三郎頌徳碑ノ撰文並ニ揮毫ヲナス。

是日栄一、郷里訪問ノ途次同村ニ赴キ同碑ヲ見ル。


■資料

渋沢栄一 日記 大正八年(DK490084k-0001)
第49巻 p.255 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正八年         (渋沢子爵家所蔵)
八月十二日 晴 軽暑
○上略 此日ハ曾テ予期シタル各種ノ揮毫ヲ為サントテ午前ヨリ執筆ス、先福島都三郎翁頌徳碑文ヲ書シ、尋テ各種ノ書幅額面又ハ扇面等数十葉ヲ揮灑ス、午飧前後引続テ勉強シ夕方ニ至リテ止ム○下略


竜門雑誌 第三八九号・第四二号大正九年一〇月 ○故福島翁頌徳碑文 青淵先生(DK490084k-0002)
第49巻 p.255 ページ画像

竜門雑誌 第三八九号・第四二号大正九年一〇月
    ○故福島翁頌徳碑文         青淵先生
 翁名は安清、埼玉県児玉郡丹荘村大字元阿保の人なり、資性温厚篤実、少きより学を好み、又農桑の業を励む、家もと富裕なれども、勤倹をもて衆を率ゐ、殊に尊王の心厚く王政復古の際は同志と共に京師に上りて国事に奔走せり。居常心を教育に用ゐ、明治の初学制施行せられ、組合五箇村にて阿保小学校を創立するや、率先して金を醵し、又畑三段四畝十九歩を捐てゝ校舎の附属地となせり。同十九年組合村の拡張によりて、学校の丹荘尋常小学校と改まりし時は、其基本財産として金一千円を寄附したりき。翁は明治の初年より推されて戸長となり、副区長となり、又各種の委員にも挙げられて村治に尽されしが後又県会議員となりて、県治をも協賛せり。天保十一年五月二十三日に生まれ、明治四十四年三月十日七十二歳にて歿したるが、其間公職以外に於ても、農話会を開設して農桑の発達を図り、丹心会会長として青年を誘掖し、風俗の改善、教化の発展を謀れるなど、公共の為に尽瘁すること四十余年、一日の如くなりき。今や翁の世を去りてより十年ならんとす、村民追慕して已まず、元阿保組合五箇村の人々、翁の寄附せし学校の地域に碑を建てゝ、其功績を後世に伝へんとし、文を余に求む、余も亦我が県内に翁の如き有徳の君子あるを喜び、其梗概を叙し、以て後世をして矜式する所あらしめむとす。
  大正八年八月            男爵 渋沢栄一撰


竜門雑誌 第三八九号・第七一頁大正九年一〇月 ○青淵先生の郷里御訪問(DK490084k-0003)
第49巻 p.255-256 ページ画像

竜門雑誌 第三八九号・第七一頁大正九年一〇月
○青淵先生の郷里御訪問 青淵先生は九月廿六日午前八時自動車にて王子邸出発埼玉県児玉郡丹荘村字元阿保に赴かれ、午前十一時同地着の上、去三月十日除幕式を挙行せし故福島都三郎翁の頌徳碑を訪はれたる由。故翁は先生の碑文(別項記載)にも明記せるが如く、村治に尽瘁する傍ら農話会を開きて農桑の発達を図り、又丹心会を組織して自ら其会長となり、以て青年を指導誘掖し、風俗の改善、文化の普及
 - 第49巻 p.256 -ページ画像 
其他公共の為めに努力すること四十有余年の久しきに及び、明治四十四年春七十二歳にて逝去せるより、村民は故翁の遺徳を追慕して永く其功績を後世に伝へんとし、大正七年二月阿保学校組合五箇村(元阿保・原新田・四日市・四軒在家・肥土)の有志者発起となり、選書並に題額の労を先生に懇請する所あり、先生快く其請を容れられ、以て過般建碑除幕式を挙行せし次第なりと云ふ。
 是より先、先生に於ても除幕式当日臨席の筈なりし処、当時春尚浅く余寒烈しかりし為め之を中止し、今秋赴訪のことに約せられたるに付、御郷里八基村御訪問の序を以て其の約を果されたるなり、同日王子邸より渋沢元治氏同乗の上深谷駅に至り、同所よりは同氏の令弟治太郎氏随従し、本庄町に於ては児玉郡々長・児玉町警察署長・郡視学の出迎を受けられ、元阿保に着せらるゝや、該建碑委員諸氏と共に故翁の墓前に玉串を捧げられて後、遺族の懇請に依りて記念樹(檜)を手植せられ、夫より福島家に於て中食の上、午後一時より丹荘尋常小学校講堂に於て、聯合村在郷軍人分会・青年会諸氏の為めに、勤勉努力の要と一国文教の関係に就いて訓辞的講演あり、終つて午後二時郷里血洗島に向はるゝ途中、町田村鎮守社に詣でゝサヽラ踊の歓迎を受けられ、同日八基村教育会の講演会に臨場の上、同じく前記の主旨にて講演せらるゝ処あり、同日及び其翌日共郷里に滞在の上、廿八日午前帰京せられたりと云ふ。