デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
3節 碑石
20款 高島秋帆紀功碑建設
■綱文

第49巻 p.265-268(DK490091k) ページ画像

大正11年(1922年)

是年、一戸兵衛等、高島秋帆ノ紀功碑建設ヲ企画ス。栄一是ヲ賛シテ金二百円ヲ寄付ス。


■資料

高島秋帆先生 紀功碑建設報告 第一―三頁大正一二年五月刊(DK490091k-0001)
第49巻 p.265-266 ページ画像

高島秋帆先生 紀功碑建設報告 第一―三頁大正一二年五月刊
    一、建設趣意
     高島秋帆先生洋式調練始演地に紀功碑建設趣意書
      一 緒言
明治二十二年伯爵勝安房陸軍歴史を編纂せらるゝや、開巻第一に高島四郎太夫が、天保十一年九月当路に奉りし兵制改革の建議書を載す、其歴史の例言に曰く、後に我陸軍の制度の改るは此建議に基く、故に之を初めに掲ぐと書す、善い哉言や。
贈正四位高島四郎太夫茂敦秋帆と号す、我国兵制改革の唱首なり、当時徳川幕府の末造に際し、爛熟せる太平に忸れ、上下安佚紀綱弛解し加ふるに国を鎖すこと百九十余年、海外の事情を知る者稀にして、世を挙て現状に甘んじ独り自ら安んず、就中武門徒に旧技を墨守し移るを知らず、兵制・兵備・兵器、皆実用に遠ざかり、各畛域を守るを主とし全日本の防備を言ふもの寡し、況や世界の大勢に著眼し国を憂ふる者に於てをや。于時先生長崎の小吏なりと雖も、高邁の才、達観の識あり、加ふるに慨世憂国の志と百折不撓の精神を以て、此危険にして困難なる事業に渾身の勢力を傾注す、忽ち嫌疑を受け累紲を蒙り、身を危くし産を喪ひ、殆ど絶望に垂んとして、僅に時世の転進に由り其説の行はるゝに至れり、而も生前改革の端緒を見しのみ、轗軻不遇家庭不幸を重ね、世は国乱既に醞醸して将に迸発せんとする際に卒す嗚呼哀哉。然れども新旧の門下滋蔓蕃衍し高才達識の士簇出す、是等の人士は概ね維新の大業に参与し、又新政府軍務の枢機に当る者並に其手足たる者に先生の学統に属する者多く、逐次養成せられたる済々多士に依り、国家の興隆を幇助し、護国の兵備を完成し、数回の出帥当時の強隣を圧倒し、皇国をして世界の強大国に列し、東洋に覇たらしむ、是れ 聖主上に在し、国体の精華燦として耀き、英賢の臣忠良の民を指導して国に尽さしめたる結果なりと言ふと雖も、亦先生唱首の効果と称すべし、蓋し国の興隆は人物の輩出に由る、而して夫には胚胎する処なくんばあらざるなり。
先生の事業中、絶大の効果を後来に遺したるは、召命に応じ其洋式に組織訓練したる小部隊の調練を、当時の執権たる、徳川政府要路の人人に供覧し、上下公衆に実物の教育を与へたるに在り、則ち今より八十一年前、天保十二年五月九日にして、其地は武蔵国徳丸原今の北豊島郡赤塚村に属す、此原野現時開墾せられて田圃となり、一般の人々は素より、職に軍事に随ふ者も、此地が我陸軍の胚子と知る者稀なり
 - 第49巻 p.266 -ページ画像 
是れ土地交通の要道外にして、加ふるに一片の標識も存するなく、里老も記憶するなく、僅かに先生の事を記する書にのみ、数言を費すに過ぎざるを以てなり、先生の高弟江川英竜の経営に成れる、伊豆国韮山の反射炉は、先年寺内陸軍大臣の命を以て、官民の費と労とを以て完全に保存の法を尽し、現今も将来も人をして先人苦心の跡を、偲ばしむる者あるに反し、徳丸原に於ける此重大なる事業の遺跡を知る人も訪ふ人もなきは、報本の志薄き憾なき能はず、況や先生より伝統する、我等陸軍軍人の最も遺憾とする処なり、玆に我等有志相謀り、徳丸原附近に、先生事業の紀功碑を建設し、永遠に先哲の遺功を追憶せしめんと欲す、大方諸君賛助あらんことを希ふ。


高島秋帆先生 紀功碑建設報告 第七―一二頁大正一二年五月刊(DK490091k-0002)
第49巻 p.266-268 ページ画像

高島秋帆先生 紀功碑建設報告 第七―一二頁大正一二年五月刊
    一、建設趣意
○上略
      三 建設計画
建設計画次の如し
 一、徳丸原附近適当の地に略図○略ス の如き紀功碑の建設
 二、附帯事業として、東京上野公園桜木町の路傍に、明治十八年建立せし火技中興洋兵開祖と題せる先生の碑、今円珠院に移されて知る人稀なり。当時建碑の意味を失ふ、此際適当の地に移建すること
右二種の施設は大正十年より著手し十一年中に完了せんことを期す
      四 経費概算並に其募集
経費の概算次の如し
 一金壱千円      土地整理費
 一金五千五百円    紀功碑建設諸費
 一金参百円      火技中興碑移建費
 一金五百円      事務費
 一金参百円      印刷費
 一金二百円      通信費
 一金四百円      竣工式費
 一金参百円      報告諸費
   計金八千五百円
費用の募集は陸軍将校・同相当官に賛助寄付を請ふ。其範囲現役将校同相当官と在郷将官・同相当官を主として勧誘し、其他は志を受くる事とし、先生に縁故ある人々へは成るべく之を吹聴し、其他一般の人人よりも志を受くることとす。
      五 発起者、事務所、事務員
○中略
事務所は
  東京九段坂上偕行社内
建設中及竣工式の際は出張所を
  東京府北豊島郡赤塚村松月院に置く
事務員は当分左の三名とし、発起者中 押上森蔵 榊原昇造 亀岡泰
 - 第49巻 p.267 -ページ画像 
辰指揮監督す。
  陸軍砲兵中佐 常谷惣太郎 陸軍二等主計正 檜山金彦 陸軍砲兵少佐 山根寿信
右の趣意書に左の勧誘書並に徳丸原に於て先生が幕閣に供覧せし当時の写真図を附し、大正十年十月主として在郷将官・同相当官・陸軍各部団隊及秋帆先生縁故者に配付せり(図面略す)
 拝啓 益々御多祥ニ被為渉慶賀此事ニ御座候、扨故贈正四位高島四郎太夫秋帆先生ハ実ニ我国洋式兵制戦術ノ開祖ニシテ、且火技中興ノ功労者ニ有之、陸軍今日ノ興隆ハ其源ヲ先生ヨリ発スルモノト称スルモ敢テ過言ニハ無之候、然ルニ従来其偉功ヲ顕彰スベキ標識無之頗ル聖代ノ欠典ト被存候、彼ノ洋式調練始演地タル武蔵国徳丸原モ亦田園ト化シ、里人ノ口碑ニスラ伝ハラズ、今日ニ於テ之ヲ表セザレバ先哲ノ遺蹟ハ遂ニ湮滅ニ帰シ可申ト憂慮仕候間、今回下名等相計リ、先生ノ偉勲ヲ後世ニ紀念スルガ為メ建碑及ビ附帯事業計画仕リ、別冊趣意書御送附申上候間、御熟覧被下応分ノ御寄付相願度此段得貴意候 敬具
  追テ寄付金ハ金五拾銭以上トシ、大正十一年一月尽日迄ニ東京市九段坂上偕行社義助会内檜山金彦宛ニテ御送金被下度申添候
  大正十年十月 日
   高島秋帆先生紀功碑建設発起人
    一戸兵衛  井口省吾  細川潤次郎
    本郷房太郎 大迫尚道  尾野実信
    押上森蔵  渡辺岩之助 亀岡泰辰
    曾我祐準  上原勇作  山梨半造
    松木直亮  江川英武  秋山好古
    榊原昇造
   二、御下賜金
天皇 皇后両陛下より左の如き御沙汰書を十二月二十二日拝受す、聖恩枯骨に及ぶ、恐懼感激の外なし
     御沙汰等
  贈正四位高島四郎太夫紀功碑建設発起人
 今般贈正四位高島四郎太夫紀功碑建設ノ趣被聞食思召ヲ以テ金弐百円下賜候事
  大正十二年十二月五日
                       宮内省
右 御沙汰書に依り発起人榊原昇造、同月廿三日宮内省に出頭し御下賜金を拝領せり
有栖川宮外十二宮家より左の如き恩命を拝受せり
 故贈正四位秋帆高島四郎太夫茂敦ノ為建碑ノ計画有之候ニ付
 有栖川宮
 伏見宮
 閑院宮
 東伏見宮
 華頂宮
 - 第49巻 p.268 -ページ画像 
 山階宮
 賀陽宮
 久邇宮
 梨本宮
 朝香宮
 東久邇宮
 北白川宮
 竹田宮
以上十三宮御合同ニテ金参百円御下賜相成候条此段申進候也
  大正十一年五月十九日
            閑院宮附宮内事務官 松井修徳
    高島秋帆先生紀功碑建設発起人御中
 追テ明二十日右御下賜金受領者ヲ閑院宮邸ヘ御差出相成度候
右の御沙汰に依り発起人押上森蔵、閑院宮邸に出頭拝領したり
  三、寄付金(到着順)○二百円以下略ス 其他
金弐千円                陸軍省下付
金六百参拾円              同追下付
金弐百八拾壱円弐拾六銭         第六師団司令部
金弐百円             子爵 渋沢栄一
金壱千円             男爵 大倉喜八郎
金参百円                押上森蔵
    計金七千七百七拾七円七拾七銭
  金百参拾壱円七拾弐銭 銀行利子
    総計金八千四百九円四拾九銭(御下賜金を含む)
○下略