デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
3節 碑石
22款 松方正義徳政化俗碑
■綱文

第49巻 p.270-271(DK490093k) ページ画像

大正13年8月(1924年)

是月栄一、大分県日田郡日田町ニ建設セラルル、松方正義徳政化俗碑ノ撰文並ニ揮毫ヲナス。


■資料

公爵松方正義伝 同伝記編纂会編 乾巻・第二六四―二六六頁昭和一〇年七月刊(DK490093k-0001)
第49巻 p.270-271 ページ画像

公爵松方正義伝 同伝記編纂会編 乾巻・第二六四―二六六頁昭和一〇年七月刊
 ○第二編 第一章 公と社会政策
    五 公と社会政策実行の率先者
 公が地方長官として、日田に赴任するや、首として社会改善の政策を実行するに著眼し、一朝にして、多年同地方に浸潤し、牢乎として抜くべからざる堕胎の悪習を打破し、其の面目を一新したことは、是れ実に明治時代に於ける社会政策実行の率先者と謂はねばならぬ。
 大正十三年、時の日田郡長加藤初夫は公の遺徳を欽し、郡内の各町村長及び有志と胥謀り、其の政績を不朽に伝へんと欲し、県社大波羅社の境内に於て一大記念碑を建設したが、其の碑文は子爵渋沢栄一の撰する所、篆額は今の伯爵清浦奎吾の揮毫に成つたもの。題して『徳政化俗』と云ふ。其碑文は左の如しだ。
      日田養育館記念碑
 明治大正の聖代に於て、大政を補翼し、皇猷を賛襄したる文武元勲其人多からずとせず。然も資性忠愨、識量寛弘、利用厚生の業を勧め、経済財政の務を成したる者、実に海東松方公を推さずむばあらず。公再び洪鈞を秉り、財務の重責に膺る、前後十余年、地租改正日本銀行の創立、国立銀行制度の統一の如き、概ね公の力に頼らざる無し。而して不換紙幣の消却、金貨本位制の確定の如きは、特に天下以て昭著の功績と為す。明治元年閏四月、公壮齢にして擢られて日田県に長官となり、其任に在ること同三年閏十月に及ぶ。日田は、豊後の一隅に偏在するも、山水清淑、学芸の淵叢たり。然も幕府直轄の地にして、最も難治と称せらる。加ふるに世局倥偬、物情騒然たり。公能く大体を持し、民意を察し、寛猛兼済ひ、久しからずして人心悦服す。其間、農を勧め、蚕桑を起し、水利を開き、植林を計り、治績大に挙る。当時牧民を以て天下に範たり。日田の地由来堕胎殺孩の悪習多し。公自から先づ私財を投じ、更に資を有志に募りて育児基金を得、明治二年、地を日田の中央に相して、養育館を設け、治下の能く育することなき産児を此に収容し、命名するに松某、若くは某松と云ひ、皆公姓の一字を以てし、明治六年に至る。其数挙ぐるに遑あらず。後年公の此地に臨むや、公姓の一字を名とする男女相会し、公及び公夫人の寿を献げ、其恩を謝す。而して郡民相慶して皆万歳を唱へたり。公の恵政の民に及ぶ、深且遠と云ふ可し。頃ろ同地方の官民胥謀り、公の恩徳を貞石に勒し、之を不朽に伝へむと欲し、文を予に徴す。予公と相知る五十余年、誼辞
 - 第49巻 p.271 -ページ画像 
すべからず。乃ち其一斑を誌して、以て後人に諗く。若夫れ公の偉勲豊功に至りては、録して国史に存す。復た奚ぞ予の特書を竢たむ哉。
  大正十三年甲子八月
                  子爵 渋沢栄一撰并書
○下略