公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
第49巻 p.287-292(DK490103k) ページ画像
昭和5年6月8日(1930年)
是ヨリ先栄一、金井烏洲ノ正碑並ニ副碑ノ撰文及ビ揮毫ヲナス。是日、伊勢崎公園ニ於テ同正碑除幕式挙行セラル。栄一、渡辺得男ヲ派遣シテ祝辞ヲ寄ス。副碑ハ金井家墓地前ニ建設セラル。
上毛及上毛人 金井烏洲先生建碑記念号 庚午七月第一五九号・巻頭写真版昭和五年七月 (篆額)烏洲金井先生碑 (碑文)烏洲金井先生碑(DK490103k-0001)
第49巻 p.287-288 ページ画像
上毛及上毛人 金井烏洲先生建碑記念号 庚午七月第一五九号・巻頭写真版昭和五年七月
(篆額)
烏洲金井先生碑
(碑文)
烏洲金井先生碑
士之勤王事克尽其節以顕章祖先遺烈垂懿範于後昆者可謂忠孝双全也如烏洲先生其庶幾乎先生諱時敏字林学初名泰通称左仲太後改彦兵衛号烏洲姓源金井氏上州佐位郡島村人系出於新田義貞支族金井義長十数世孫長徳善俳諧号万戸配多賀谷氏先生其次子也幼而穎悟力学弱冠游江戸学朝川善庵菊池五山古賀侗庵諸家又好画暇則弄彩管為楽初師春木南湖後与谷文晁交善先生毎繙史至南朝慷慨不能自禁潸有回天之志適会千種有功卿奉命赴晃山請謁輸誠頗有心契天保三年春西游先謁伊勢大廟自月瀬赴南都観 皇陵之荒廃痛憤不已把筆作図涙随筆而下既入京頼千種卿献之朝廷尋訪頼山陽於水西荘眎所作月頼画巻山陽大喜自題筆籠万玉四大字賦三絶句為贈更書詠新田左中将詩託諸先生贈新田氏又与梁川星巌小石元瑞等詩酒徴逐而与山陽交情尤密云発京師遊天橋登成相山睥睨北海雲濤至浪華与篠崎小竹後藤松陰等締交進航四国過芸備防長将遊九州父病急遽東帰不及属纊哀慟欲絶居喪尽礼嘉永六年米艦来浦賀朝野騒然先生聞変陰有所劃策竟不果諸藩志士託交書画而来投頼其庇護免危難者甚衆於是家産漸傾身亦蒙幕府嫌疑乃携其子梧楼遁晃山閉門読書著無声詩話無声詩蛆及晃山紀勝諸篇安政四年正月十四日病革戒諸子曰汝等克継乃翁志則吾雖死猶生耳端然而瞑寿六十二辞世詩云小技無由報国君一生誤混画師群可以知其志所存也後年門人田崎草雲倡勤王子之恭擁宗系新田俊純勤王事皆重遺命也大正七年十一月十八日朝廷嘉奨其功贈従五位東久邇宮妃聡子内親王亦賜御詠可謂有余栄也配福島氏生五男四女長夭次温号杏雨承祀亦善書画三子良出襲川越町井上氏通絵事号芸林四子之恭号金洞別号梧楼又錦鶏能属文最妙筆札仕自内閣大書記官歴任元老院議官勅選議員錦鶏間祗候叙従三位勲二等名重於朝野皆既就世其子孫亦克奉家訓云今玆州人胥議建碑図先生不朽徴余文余与金洞相識且欽先生双全忠孝也乃据状撰次如此
昭和四年十一月
従二位勲一等子爵 渋沢栄一撰并書 時年九十
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伊勢崎公園に建設されし烏洲先生の碑(長一丈五尺六寸幅六尺七寸)
(昭和五年六月八日除幕式挙行)
上毛及上毛人 金井烏洲先生建碑記念号 庚午七月第一五九号・巻頭写真版昭和五年七月 島村の金井家墓地前に建設されし副牌(丈七尺五寸巾五尺余)(昭和五年六月七日除幕式挙行)(DK490103k-0002)
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上毛及上毛人 金井烏洲先生建碑記念号 庚午七月第一五九号・巻頭写真版昭和五年七月
島村の金井家墓地前に建設されし副牌 (丈七尺五寸巾五尺余)
(昭和五年六月七日除幕式挙行)
○右碑陰略ス。
上毛及上毛人 金井烏洲先生建碑記念号 庚午第一五九号・第二三頁昭和五年七月 烏洲先生追慕と顕彰事業の経過 豊国覚堂(DK490103k-0003)
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上毛及上毛人 金井烏洲先生建碑記念号 庚午第一五九号・第二三頁昭和五年七月
烏洲先生追慕と顕彰事業の経過 豊国覚堂
○上略
七、今回の建碑は七十四年目
今昭和五年六月、建碑の功を竣へたのであるが、安政四年正月翁の卒去より正に七十四年目に当る、棺を蓋うて論定ると云ふ論法よりすれば、甚だ遅れたるの憾みなきに非ざれど、知己を百歳の後に待つと云ふ翁の主義よりすれば、今正しく其の時であつて、今日此挙に参与した御同様は、則ち翁の知己と謂つて差支ないのである。
特に碑文の撰者・筆者に島村と一葦帯水を劃する対岸地の出身者たる渋沢老子爵を得たることは誠に本望の至りで、故人も今人も共に光栄とすべきである。又正碑・副碑と云ふが如き言葉は、未だ嘗て類例のない語であつて、人或は俗辞であると云ふかも知れぬが、これは明治以来の通語であつて、時代を表徴する所のものとして、却て面白いと思ふのである。
又渋沢閣下が本年九十一と云ふ高齢で、建碑委員長の石川伊勢崎町長が七十八歳、それで従五位勲四等で烏洲翁の贈従五位と同等、又碑陰に賛同者の芳名録を筆せし多賀翠鸞翁は、先生の母堂の出でられし家の当主で八十三歳と云ふ老齢、それに僭越乍ら幹事長と云ふ名を汚した吾等が六十六歳であるなども、亦妙因縁があるやうに思はれる。
○下略
上毛及上毛人 金井烏洲先生建碑記念号 庚午七月第一五九号・第四一―四六頁昭和五年七月 金井烏洲先生碑除幕式 島村墓地の副碑と伊勢崎公園の正碑(DK490103k-0004)
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上毛及上毛人 金井烏洲先生建碑記念号 庚午七月第一五九号・第四一―四六頁昭和五年七月
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金井烏洲先生碑除幕式
島村墓地の副碑と伊勢崎公園の正碑
○上略
下 正碑の除幕式
(一)除幕式前記
いよいよ六月八日を卜し、烏洲翁碑の除幕式を執行することゝなつた。即ち其の両日前より公園地の手入れ又は清掃に人夫を役し、瀟洒たる榜示標を鉄道踏切の入口に立て、又公園の入口に門柱を設け、少し進みて二張の天幕は一は受付と記念品交附所、一は酒饌の引替所、更に進みて建碑場所の西方には大テントを張り、椅子数十脚を列ねて来賓の控所に充て、又公園高台の見晴亭は数日前より手入れをなし、清き洗面所を設け、又床の間には明治大帝の天覧を得たる烏翁筆の中央富士、左右は武蔵野と吉野の三幅対の名幅、楣間にも烏翁筆の書などを掲げ、挿花・置物に至るまで注意を怠らず、此処を渋沢子爵一行並に県知事等の休憩所に充て、其の椅子までも新らしきものを用ゐ、こゝより碑側に至る道路には盛砂をなすなど、貴賓を待遇するにつき万遺憾なきを期した。
因みに今回注意を払ひたるは、渋沢閣下には御老体の事とて階段の昇降には最も御迷惑の事と察し、伊勢崎駅にて下車せらるゝや、直ちにホームとホームの間の線路上には、臨時に橋を掛けて通過し得る準備までも、駅と交渉済であつたのである。
又一般来賓と賛同者の為め、華蔵寺の本堂より庫裡に至るまで全部開放して、随意に飲食や休憩を為し得ることゝし、斯くてそれそれ掛員の分担を定めて、当日の来るを待つことゝなつた。
(二)除幕式の当日は来た
正に是れ待ち設けた当日となつた、殷々たる煙火の爆音は中空に轟いて、崎陽及び界隈幾万士女の暁眠を駭かした、起き出づれば前夜の雷雨の為に洗ひ清められ、乾坤一新爽快の気、街衢に横溢するの愾がある、下条家を出でゝ佐藤氏を訪問すれば鈴木氏先づ在り、両人は色青ざめ黙々として語らず、何事か変事でも起りたるかと直覚し、徐ろに質せば、今朝六時に至り渋沢家より電話来り、電報飛びて老子爵の病容を報じ越し、随て来県不能に陥りしと語らる、品座相対して沈黙に落つ、良久して佐藤氏は曰く、九十一と云ふ御老体、伊勢崎へ来られてから病気に罹られたとあつては自分として申訳の言葉が無い、寧ろこれは大難が小難で済んだものと諦めるの外は無いと語られ、初めて生色を見せ元気を回復した。
なほ佐藤家では、式後、老子爵には伊勢崎織物組合に立寄られ、夫れより同家にて暫時休憩の後、自動車にて境町を経て、子の生家なる血沈島の渋沢家(当主治太郎氏)に到り一泊さるゝ予定であつた。兎に角子爵お立寄の光栄を得ると云ふので数日前より洋館の方を清掃し全家頗る緊張裏に接待の準備に忙はしかつたのであるが、右の報に接し一同非常に落胆されたことである。
(三)式場の受付を開始
午前十時過ぎより公園東北方の天幕下に於て受付を開始し、来賓に
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対しては数台の自動車を以て送迎に努め、市街と公園間は見物人を交へて可なりの雑踏を見た。除幕式は午後二時より挙行の筈であるので来賓並に賛同者等は多く華蔵寺に陣取り、先づ祝盃を挙げられ、時刻の至るを待受けられた。
(四)渋沢子爵代理をお迎へ
老子爵には御病気不参の止むなきに至つたが、其の代理の方が見へらるゝに就き、予定の如く町長兼委員長の石川氏、副委員長の下城・佐藤両氏、伊勢崎織物同業組合長下城雄索氏、同副組長平田吾郎・井下辰雄両氏等は十時過ぎの汽車で高崎まで出迎へられ、午後一時過ぎに其の休憩所に充てられた公園の見晴亭に来着された。
(五)当日来賓の重なる人
前記の渋沢子爵代理として渋沢同族会社専務理事渡辺得男氏、知事代理小山学務部長、中島飛行機王、横浜興銀の斎藤専務、伊勢崎に於ける各官衙銀行会社代表者、篠原上毛新聞社長並に県下新聞の代表者同町会議員、其他は孰れも建碑に付資金を寄せられた三市十一都に渉る有志者無慮三百余名、前記東京及び島村の烏洲先生一門の人々、又東京を始め地方に於ける委員幹事等数十名に達し頗る盛会を極めた。
(六)いよいよ除幕式挙行
午後正二時、振鈴を合図に一同式場に集る。鈴木幹事の式開始の宣言、町の神官福地氏斎主の下に、型の如く修祓の式次が郁文氏末男尚文(八蔵)少年の手で除幕され、次に斎主の祭文、次が石川委員長、渋沢子爵、知事代理、来賓惣代、遺族惣代等の玉串奉奠、送魂の儀等あり、夫れより石川委員長の式辞、下城会計長の会計報告、佐藤副委員長の事業経過報告、次に渋沢子代理の祝賀演説、知事代理の祝辞、来賓惣代篠原上毛新聞社長の祝辞朗読、最後に遺族惣代金井郁文氏の感激に満ちた謝辞があつた。左に其の式辞以下のものを全部掲ぐることとした。
□式辞
贈従五位烏洲金井先生ノ碑竣成シ、本日ヲ以テ除幕ノ式典ヲ挙グルニ際シ、閣下並ニ貴賓各位及ビ賛同諸彦ノ臨場ヲ得タルハ本会ノ光栄トシ将タ欣幸トスル所也。
顧フニ烏洲先生ノ精神・人格・技芸乃至其ノ交遊等ニ関シテハ碑文已ニ之ヲ尽セリ、今復タ之ヲ贅スルノ要ヲ見ズ。而モ先生ノ遺志ハ其ノ後昆ニ伝ハリテ失墜スルコト無ク、郷党亦タ其ノ遺業ヲ追慕スルコト厚ク、倶ニ忠孝ノ道ニ精進セントスルガ如キハ、蓋シ輓近稀ニ見ルノ美風ト称スベク、則チ斯ル根底アリシ為メ、今回ノ建碑モ容易ニ其ノ成功ヲ見タルモノニシテ、之ニ干与セシ者ノ、自カラ一ノ誇トスベキ所タリ。
此碑今後ニ於テ益々斯ノ精神ヲ発揚スルノ目標タルヲ得バ、此挙ヲシテ愈々意義アラシムル者ト信ズルナリ。聊カ所懐ヲ陳ベテ式辞ニ代フ。
昭和五年六月八日 金井烏洲翁碑建設会委員長
従五位勲四等 石川泰三
□会計報告
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維時昭和五年六月八日、烏洲金井先生碑除幕式を挙行せらるゝに当り不肖会計主任として玆に収支決算の概要を報告するの光栄を欣ぶ。
顧るに前年二月、同志相諮り建碑企劃の事あるや、不肖乏しきを会計の任に稟け、爾来孳々として力むると雖も尚及ばざるを畏る。而して大方有志諸彦の進んで此挙を賛し、資を寄せらるゝもの啻に毛武の地に止まらず、遠く京浜其他に及び無慮三百九十人、財界不況の際にも拘はらず、異数の成績を収め得たる所以のもの、元より委員幹事諸君努力の功に負ふ処多しと雖も、抑も亦烏洲先生遺徳の万世に赫灼たるに因らずんば非ず。即ち収支決算の概要左の如し。
収入の部
一金五千八百五拾壱円也 寄附金受入総額
内訳
金五千参百八拾壱円也 実収金三百六十三人
金四百七拾円也 未収金二十七人
支出の部
一金五千八百五拾壱円也 総支出額
内訳
金弐千六百六拾六円也 正碑建設費
金六百弐拾八円八拾銭 副碑建設費
金壱千円也 諸経費概算
金千弐百円也 除幕式諸費予算
金参百五拾六円弐拾銭 予備費
○中略 之を以て決算報告となす。
金井烏洲翁碑建設会
副委員長兼会計長 下城好雄
□事業経過報告
烏洲金井先生碑建設の計画は前年来同志間に唱道されし所なるが、始めて具体化して発起人会を開きしは昨昭和四年二月十六日とす、当日会同せしは伊勢崎町を始め前橋・高崎・桐生・島村・其他郡部の有志二十余名に及ぶ、協議の結果、出席者全部を委員とし、更に県の内外に渉り三十余名の委員並に幹事十余名を嘱託する事となり、爾来委員幹事の総集会を開くこと三回、小委員会を開くこと数回に及び、更に又委員等の上京せしこと十余回に達したり。
此間建碑の工事に関する受渡しを了し、更に又碑文の撰述及び揮毫に就ては渋沢子爵閣下の深甚なる御好意に因り、正碑副碑とも悉く閣下の御手を煩はす事を得たるは本会の最も光栄とし、且大に満足する所也。
斯くて本年三月中に島村に於ける先生墓地の修理と正碑の建設を了り、五月末を以て正碑の建設全く竣工を告げたり。即ち最初発起人会を開きしより本日の除幕式に至るまで約一年有半を閲し、此間委員幹事諸氏の尽力と工事請負者の努力に負ふ所のもの甚だ尠なからざるもの有りしなり。
右大要を述べて虔而御賛同の各位に告ぐ。
副委員長 佐藤藤三郎
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渋沢子爵代理祝詞
渋沢同族会社専務理事 渡辺得男氏
本日の烏洲先生碑除幕式に就きましては、石川委員長・佐藤副委員長の両君がワザワザ再度上京下さいまして、時間其他諸事お打合せも出来て居りまして、渋沢も御当地に罷り出でまして碑文も拝見し、皆様方にお目に掛ることを非常に楽しみにして居り、昨夜の如きいつもより早く寝につき、今朝早く起きて出発する考で居られたのであります。然るに昨夜十二時過ぎより発熱、一度余も熱が高いので直ちに医者も駈け付けて手当を加へましたが、今朝はどうしても寝処を離れることが出来ませんので、私の方へ電話が参りましたので早速王子の屋敷へ参りました処が、以上の次第であるから代理として参上する様に申付つたのであります、且つ皆様に申上ぐることにつき其の大要を聞て参りましたので、それをお伝へ致そうと思ひます。
顧みますれば明治維新前、所謂黒船の来朝後と云ふものは鎖港攘夷と云ひ、勤王討幕と云ひ、開国進取と云ひ国論は甚だ八ケ間敷なつて参りました、随て薩摩には薩摩の風が吹き、長州には長州の風が吹き土肥には土肥の風が吹きましたが、江戸に近い武州や上州には又各々其の地方の風が吹いたので、渋沢も其の風に動かされて郷里を出でましたが……爾来大義名分と云ふことに重きを置き、国論の大勢に順応して匪躬の節を致したのであります、此点が即ち烏洲先生の所志と一致する点でありまして、其子の金井之恭氏とも其後交際するやうになりましたのも、結局其の主義主張を同うするからでありました、今回碑文の撰述や揮毫をお引受けしたのも斯る縁故に因るのであります。
殊に烏洲先生の居られた島村と、渋沢の出ました血洗島とは一葦帯水の土地であつて、其の先人等も親しく交際したやうに伺つて居ります。
(補)覚堂曰、昨年六月十九日、私と佐藤藤三郎氏とで老子爵を訪問申上げ、烏洲翁碑の撰文をお願ひした時のお談話に、私の親爺は俳諧を嗜み、烏雄と号して烏川に因み、又詩経の「誰か烏の雌雄を知らん」と云ふ句から取つた俳名でありまして、烏洲翁とは俳諧を以て交際して居り、烏洲翁の方が点者、即ち先生株の方でありました、又翁の弟の研香さん、此人とは私の若い時分に再三お目に掛つたこともありました、後に内閣大書記官になられた之恭さんとは、しばしばお目にも掛り交際を致して居りましたが……私も烏翁の画はすきで、幾幅か所蔵して居ります、烏翁は山陽先生其他の名流とも交際あり、地方の志士でありましたなどゝ語られましたが、閣下が親しく来臨になれば、必ず此辺の処まで言及せられたことであらう、別項の如く日本橋倶楽部で催うした遺墨展覧会の時には、山陽の大額面を出陳され、且つ来観せられたことであつた。
以上のやうな次第で、渋沢も御当地に参ることを非常に楽みにして居りましたのであるが、急に発熱の為め欠礼の止むなき次第であれば此点を皆様にお伝へして、呉れ呉れも宜敷との申伝へでありました。
之を以て除幕式のお祝の詞に代へます。
○下略