デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
3節 碑石
33款 須永伝蔵碑
■綱文

第49巻 p.293(DK490104k) ページ画像

昭和6年7月(1931年)

是月栄一、箱根仙石原ニ建設セラルル、須永伝蔵碑ノ題額ヲ揮毫シ、栄一ノ長女穂積歌子、栄一ニ代ハリテ碑文ヲ撰ス。


■資料

須永伝蔵碑文写(DK490104k-0001)
第49巻 p.293 ページ画像

須永伝蔵碑文写             (渋沢子爵家所蔵)
  (篆額)
  須永君碑
  須永伝蔵君の碑   従二位勲一等子爵渋沢栄一題額
天下の険の箱根乃山も、今は都人遊歩の地なり、山上の高原の町とならんも怪しむに足らねど、繁れる草むら切り払ひて、そが基を開きし人こそ尊けれ、この仙石原ハ明治十三年渋沢子爵・益田男爵等相謀りて牧畜の業を開かんとせし時、須永伝蔵君専ら事に任じて選び定めたる牧場の地なり、其年君ハ耕牧舎を設けてこゝを永住の処と定め、牛馬の飼育と、牛乳・牛酪の販売とに力を尽すこと二十五年、その功漸くあらはれて良き馬をも出しけるが、殊に乳牛飼育の業ハいよいよ栄えて、箱根七湯ハ更なり、東京・小田原・沼津、さてハ甲州の各地にまで牛乳販売所を出すに至れり、その事業の規模こそ小なれ、その頃既に早く牛乳・牛酪乃衛生に必要なることを、世人に知らしめたる功は大なりといひつべし、たゞ惜むらくは此地年と与に牧草乏しくなれるが上に、明治三十七年の夏君が此地に永眠せられて、後其人無くして其事廃れ、君が心尽しの牧場もまた元の原野にかへり、萱草徒らに生ひ、空しく枯れつゝ二十六年の春秋を過ぎけるが、昭和四年乃秋に至り蘆の湖に近き土地の一部、宮内省御用地としてめされけるにより仙石原ハ再び眠より覚め、由縁の人々会社を結びて、此地を経営し、こたびハ別荘街として安息養生の境たらしめんとす、そも須永君ハ渋沢子爵の従弟にて、幕末の頃憂国の志を同じくして、共に郷関を出でたる人なり、其後の境遇其人に酬ゆるに足らざりしかど、天命に安んじ、人知らずして慍らず、誠に高士の風ありけり、渋沢子爵・益田男爵常にその長逝を悼まれけるが、此地の再び栄えんとするに当りて懐旧乃情に堪へざるものあり、仙石原村乃人々も、須永君がその昔同村村会議員となり、又村長をもつとめ、且此処の水利に関して其身をも顧みずいたく力を尽されたりし功労を偲び、感激浅からず、君の旧跡に記念の碑を建て、仙石原開発の君の初志が形こそ異なれ、こゝに成就することを現はにせんとす、あはれ君が在天の霊さぞなうれしミて此地の繁栄と此処に来り住まん人々の健康とを、長尾峠乃坂路行末長く、冠が岳のむら松幾千代かけてぞ守護なし給ふらむ
  昭和六年七月 渋沢子爵に代りて穂積歌子しるす
   ○本資料第十五巻所収農・牧・林業中「耕牧舎」明治三十九年十月十三日ノ条参照。