デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
4節 史蹟保存
2款 大塚先儒墓所保存会
■綱文

第49巻 p.305-310(DK490112k) ページ画像

大正2年3月9日(1913年)

是日栄一、小石川区音羽町護国寺ニ於テ開カレタル、大塚先儒墓所保存会発会式ニ出席シ、所感ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 大正二年(DK490112k-0001)
第49巻 p.305 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正二年      (渋沢子爵家所蔵)
三月九日 晴 寒
○上略 十時半護国寺ニ抵リ先儒墳墓保存会ニ出席ス、来会者百数拾名、席上一場ノ意見ヲ述ブ、午飧後墳墓ヲ奠ス○下略


中外商業新報 第九六四七号大正二年三月七日 ○大塚墓地保存会(DK490112k-0002)
第49巻 p.305-306 ページ画像

中外商業新報 第九六四七号大正二年三月七日
○大塚墓地保存会 小石川音羽護国寺背の丘岡は彼の寛政の三博士を始め後年相次いで学者・文人の名ある士を葬りたる事、既に往昔儒者捨場の俗称ありし程にて人のよく知る所なりしが、近年漸く荒廃に属し、偶ま此所を過る士の惆悵世変を傷むの情に勝えざらしむるものあり、乃ち浜尾新・山川健次郎・菊池大麓・渋沢栄一等の諸氏之が修築
 - 第49巻 p.306 -ページ画像 
保存を画し、大塚先儒墓所保存会を起し、墓域の地所山林を購入し、更に修理営繕を加へ、之を東京市に寄附して、永遠に先哲崇敬の道を尽さんとすと云ふ


中外商業新報 第九六五〇号大正二年三月一〇日 ○大塚の儒者捨場 先儒墓所保存会 会員墓前に参拝(DK490112k-0003)
第49巻 p.306-307 ページ画像

中外商業新報 第九六五〇号大正二年三月一〇日
    ○大塚の儒者捨場
      先儒墓所保存会
      会員墓前に参拝
小石川音羽護国寺後の松杉などの樹々が矗々と生ひ茂つていと厳かな皇族御墓地のある豊島ケ岡続きの丘岡は、何時からか儒者捨場と呼れて、室鳩巣を初め寛永の三博士、古賀精里、其子孫洞庵・茶渓等先儒七人の墳墓があるが、殆ど世間から忘れられて香華を捧げる者もなく年と共に荒廃し、遂には学徳一世に高くして政務に参与し、教化を助け、或は著述や育英の事に尽されて後世に恵を垂れられた先儒の墳墓を、唯だ風雨の腐蝕するまゝに荒れ果てさせて置くに忍びず、先年有志相協つて先儒墓所保存会といふものを組織して義金を募つて
△其保存方法を講じたのであるが、未だ其の時到らずして目的を達する事が出来なかつた、処が、近頃に到つて漸く其の緒について先づ墓地が他人の手に渡つて居たのを同会に買ひ戻された、之れを機として九日午前十時発起人浜尾・渋沢・菊池の各男爵、山川博士を初め朝野の博士夫人等の賛助員百余名は護国寺本坊に集り、浜尾博士の挨拶に次いで、事天聴に達し宮内省より金千円の御下賜あつた報告があり、夫に続いて渋沢・阪谷両男爵の演説があつて後、一同は墓所に参拝する事になつた、吹上神社鳥居先の露路を通り抜け爪先上りの小径を登ると、取付の一段下つた処に
△無縁塚の様な墓が、草が根固く結び合つて生茂りた熊笹が折からの風に揺くが中に建つて居る、一同は今更のやうに「之れが寛政三博士の一人として有名な寒泉岡田清助先生の御墓か」と、見る影もなく荒廃した碑を仰ぎ脱帽して礼拝しつゝ、矢張り草や笹続きの小径を辿つて緩い坂を登ると、隣地の杜の樹々に遮られ日光が朧気に木の間を漏て来る辺の此所彼所に、点々と墓碑が笹の間から頭を出してる、崕を登り切た処の高三尺位な粗末な石碑には「江戸故教官二州尾藤先生之墓」と刻まれてある、夫れと五六間離れて前のと同じ位なのは栗山先生の墳墓で、之れには「征夷府故伴読栗山柴野先生之墓」と記してあつて、以上三墓が寛永の三博士と称せられた先儒の霊を祭る処かと
△感慨の情に打れた、更に尾藤先生のと相接した古賀精里先生の墓がある処に行くと、之も笹に閉ぢられて居たが其子孫古賀洞庵先生の碑は新らしい丈に高さ七尺余の自然石で造られ、碑文も美しく刻みつけられて碩学高徳の墳墓として恥かしからぬもので就中異彩を放つて居た、其向ひ合ひに朽ちた墓標があつて墨跟も未だ鮮であつたのは明治十七年身歿つた古賀茶渓先生の墓であつて、扨て其処から引返して柴野栗山の墓の右隣になつて居る七寸角二尺五寸の見すぼらしい碑は駿台雑話などの名著を残した室鳩巣先生の墓で、碑の直ぐ後には近頃植付けたかと思はれる小松が幾千本となく植つてあたら先儒の墓地は
 - 第49巻 p.307 -ページ画像 
△哀れや造林地に化せんとして居るのである、服部博士は碑の脇に立つて「此処を儒者捨て場と呼ぶに至つたのは当時儒教と仲の悪かつた護国寺の坊主が云ひ出したのであらうと思ふ」と云つて居た、斯くて午後二時各自帰途に就いた、尚ほ同会は一万五千円を公衆に募り、墓地を整理して後、東京市に寄附する計画であるさうだ


竜門雑誌 第二九八号・第五四―五七頁大正二年三月 ○大塚先儒墓所保存に関する協議会(DK490112k-0004)
第49巻 p.307-309 ページ画像

竜門雑誌 第二九八号・第五四―五七頁大正二年三月
○大塚先儒墓所保存に関する協議会 大塚の先儒墓地(俗に儒者捨場と云ふ)修理保存の事に就ては、前号本誌に其概略を記す所ありしが尚三月九日午前十時、発起人青淵先生・浜尾男爵・菊池男爵・阪谷男爵・山川博士を初め其他朝野の賛助会員たる人々無慮百余名、護国寺本坊に参集し先づ浜尾男爵の挨拶あり、次に事、天聴に達し宮内省より金千円の御下賜金ありしとの報告あり、続いて青淵先生・阪谷男爵の演説ありたる後、種々協議する処あり、終つて一同各墓所に参拝したる由なるが、所謂儒者捨場の如何に荒廃せるやは、左に掲ぐる中外商業新報の記事○前掲に徴し、推知するに余りあるべきなり。
○中略
斯くて午後二時各自帰途に就たりと云ふ。
大塚先儒墓所の由緒及び保存会の由来は如左
 小石川区大塚坂下町に室鳩巣先生を始として寛政三博士等の墳墓あり、世或は之を儒者捨て場といふ、其由来に関しては記録の徴証すべき者少なきも、諸家の家乗等に就きて略之を攷ふるに、室鳩巣先生始めて幕府の辟に応じて加賀より江戸に来りしとき一時大塚に居住せり、其駿河台の賜邸に移りし後類焼の厄に遇ひし時にも亦大塚に僑居せしことあり、先生の歿するや門人相謀り幕府に請ひて大塚に葬り以て其志を成せり、此の地に儒者の墳墓あるは実に鳩巣先生を以て始となす、寛政六年九月柴野栗山・岡田寒泉・尾藤二州の諸先生連署して幕府に請ひ、適当の墓地を卜し儒葬の礼を用ふることを許され、乃ち翌寛政七年十月を以て地を鳩巣先生の塋域の隣に相したり、当時切支丹の禁最も厳にして埋葬の礼は一に仏式に遵ひ之に違ふを許さず、然るに諸先生に儒葬を許されたるは実に特例に属せり、文化元年に至り古賀精里先生も亦幕府に請ひて諸先生の例に倣ひしかば、室・柴野・岡田・尾藤・古賀五家の墓地相並ぶに至れり、顧ふに先儒の墓所都下に散在する者其数頗る多く枚挙するに遑あらず、されども鳩巣先生を始とし寛政三博士等の如き学徳一世に高き諸先生の墳墓が、纍々として同一兆域の中に駢立するは他に其比類を見ず、是れ都下西郊の一名蹟として儒者捨て場の名の人口に籍々たる所以なり
 上記の如き由緒ある先儒の墓地も、諸先生の子孫が世変に遭ひ家道の豊ならざるに随ひ掃祭の事も意に任せず、且つ鳩巣先生墓地の如きは他人の有に帰して榛蕪を極め、西郊の一名蹟たる諸先生の墳墓も荒林野草の間に委棄せられ、漸く湮没廃滅に帰せんとせり、外山正一・島田重礼の二博士深く之を慨し之が保存の法を講ずる所ありしが、島田博士歿し次いで外山博士亦逝き計画為めに中止せられぬ
 - 第49巻 p.308 -ページ画像 
其後墓地の荒蕪益々甚しく等閑に附すべからざるを以て、明治三十四年十月三十日東京帝国大学集会所に於て有志相会して保存の法を謀り、井上哲次郎・服部宇之吉・穂積陳重・芳野世経・中島力造・内藤恥叟・山川健次郎・安井小太郎・佐藤正興・男爵菊池大麓・三上参次・島田鈞一・世良太一・杉浦重剛の諸氏委員となり、男爵浜尾新氏を委員長に推し、墓地附属山林は諸先生の遺族若くは所有者より寄附せしめ、義捐金を有志に募りて修理を加へ、維持費を附し之を東京市に寄附して永遠に保存せしめ、又将来都市整理其他の事情に因り先哲の墳墓の改葬すべき者あるに当り、其の遺族なきか又は改葬の場所なき時には、之を此塋域内に移葬し以て先哲崇敬の典を挙げ、国民教育の一助に資せんことを議決し、爾来著々此方針に従ひ進行せり、然るに墓地の他人の有に帰せる者は勿論、遺族の有に属する者と雖も種々紛糾せる事情ありて容易に寄附の運びに至らず、之が勧誘交渉に時日を費し、中間また三十七八年の戦役ありて事業に一頓挫を加へたるのみならず、栗山先生の裔孫と其墓地山林管理人との間に墓地山林所有権確認の訴訟の起ることなどありて、其訴訟は三年の久しきに亘れり、是に至り従来の方針を改め、墓地山林は相当の金員を遺族及び所有者に与へて買収し、其寄附に係る者にも報償金を与ふることに決し、順次交渉を重ね、遂に全く岡田尾藤・柴野・室・古賀五家の墓地及び附属山林を本会の所有としたり、此の如く前後十余年、幾多の障礙曲折を経て漸く本会の成立を見るに至りしなり
又先儒の小伝を得たれば之を左に掲ぐ
 室鳩巣 室鳩巣名は直清、字は師礼、通称新助、江戸の人、又た滄浪駿台の号なり、年甫めて十五加賀侯に仕へ、後ち幕府の学識となる、擢でられて殿中侍講を授けられ献替する所多し、鳩巣程朱の学を竪守し、名教を維持するを以て己の任となす、義人録を著はし、赤穂の遺臣を目するに義士を以てするは鳩巣に始まる、享保十九年八月十二日卒す、年七十有一
 柴野栗山 柴野粟山名は邦彦、通称彦助、讚岐高松の人、阿波侯に仕へて儒員となり、後ち昌平黌教官となる、松平定信の命を受け林祭酒岡田寒泉と共に学政を料理し、異を闢き道を衛るを以て己の任となす、布衣班に進み、公子の侍読となり、幕府大事ある毎に入りて其議に与れり、文化五年十二月朔日歿す、年七十有四、栗山平生志を王室に存し、神武帝陵を拝する詩の如きは最も人口に膾灸せり栗山子なし、姪允常允升を養ひて子となす、允常は幕府に仕へ、允升は碧海と号して阿波侯の儒員たり
 岡田寒泉 岡田寒泉名は恕、字は強卿、通称清助、江戸の人、寛政中昌平黌教官となり、柴野栗山と共に昌平黌の学政を修む、古賀精里儒官となるに及び寒泉は出でゝ代官職となり、頗る政声あり、文化十四年歿す、年七十一
 尾藤二洲 尾藤二洲名は孝肇、字は志尹、通称良佐、伊予川の江の人、寛政中昌平黌教官となる、時に柴野栗山・岡田寒泉同時相並びて教官たり、世之を寛政三博士と称し、又た三助と称す、蓋し栗山
 - 第49巻 p.309 -ページ画像 
の通称は彦助、寒泉は清助、二洲は良佐、三人の且字邦訓相通ずるを以てなり、寒泉出でて代官となるに及び精里之に代はる、故に後世精里を三博士に数ふるものなり、文化十年十二月十四日歿す、年六十九
 古賀精里 古賀精里名は朴、字は渟風、通称弥助、肥前佐賀の人、藩政に参与し、頗る藩侯の信任する所となる、寛政三年幕府命じて経を昌平黌に説かしむ、藩臣を以て昌平黌に入りて経を説くは故事にあらず、人以て栄となす、七年昌平黌教官となり、栗山・寒泉等の定めし所の学政を修飭潤色す、晩年耆宿凋落の後に帰存し、海内の景仰する所となれり、文化十四年五月三日歿す、年六十八、長子燾穀堂と号す、旧藩に仕ふ、三子煜嗣ぐ
 古賀侗庵 古賀侗庵名は煜、字は季嘩、通称小太郎、精里の第三子なり、文化六年擢でられて儒者見習となり、父子相並びて同じく学政を董す、十一年御儒者となり、両番の上に班す、侗庵夙に家業を受け、又た心を海防に留め、慨然有為の才を抱けり、弘化四年正月卒す、年六十三、長子増嗣ぐ
 古賀茶渓 古賀茶渓名は増、字は知川、通称謹一郎、侗庵の長子なり、弘化四年儒官となる、嘉永安政の際屡々書を幕府に上り、外交の事を論じ、又川路聖謨等に従ひて長崎に赴き、俄羅斯国使布恬延と折衝す、累遷して洋学所頭取に任ぜらる、洋学所後ち蕃書取調所と改む、是れ我国に於る洋学学校の創始にして、帝国大学の前身なり、元治元年大坂町奉行となり監察に転じ、筑後守に任ぜらる、明治維新の後朝廷数々徴せども皆辞して就かず、明治十七年十月三十一日歿す、年六十九


大塚先儒墓所保存会報告書 第二七―三〇頁(大正六年)刊(DK490112k-0005)
第49巻 p.309-310 ページ画像

大塚先儒墓所保存会報告書 第二七―三〇頁(大正六年)刊
収支決算
   収入の部
一金壱万参千五拾四円参拾壱銭也
  内訳
 一金壱千円也       宮内省御下賜金
 一金壱万壱千五百参拾弐円四銭也  寄附義金
 一金四百四拾円弐拾七銭也     預金利子
 一金八拾弐円也          祭典供物料
      金五円  侯爵 徳川頼倫君
      金五円  伯爵 徳川達孝君
      金拾五円 伯爵 寺内正毅君
      金五拾円 男爵 浜尾新君
      金五円     河野登三果君
      金弐円     称好塾
   支出の部
一金壱万参千五拾四円参拾壱銭也
  内訳
 一金参千七百四円四拾参銭五厘也  墓地及山林購入費並報償費
 - 第49巻 p.310 -ページ画像 
 一金弐千六百五拾五円拾七銭也   護岸・石垣・石門等新設費
 一金五百拾四円拾銭也       墓地々均し等工事費
 一金四百七拾参円六拾四銭也    墓碣修理並新設費
 一金五拾四円参拾六銭也      木下先生改葬費
 一金弐百八拾円参拾銭也      墓地修築碑建設費
 一金弐百参拾四円七拾参銭五厘也  樹木植付費
 一金弐千円也           維持資金として東京市へ寄附金
 一金五百壱円参拾六銭       日本興業銀行より借入金利子
 一金九拾四円七拾弐銭也      華族会館相談会費
 一金百弐拾八円拾銭也       護国寺発会式費
 一金百九拾参円七拾弐銭也     祭典費
 一金弐拾八円也          祭典参列遺族支度料並旅費
 一金六百拾弐円六銭也       印刷費
 一金百弐拾参円七拾壱銭也     消耗品
 一金弐百六拾壱円拾壱銭五厘也   通信費
 一金九拾円七拾八銭五厘也     写字料
 一金六百四拾円也         書記手当
 一金四百六拾四円也        諸向への謝金

金壱千円 宮内省御下賜金
    義金寄附者(申込順)
○中略
金五百円 男爵渋沢栄一君
○下略