デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
4節 史蹟保存
7款 玉川史蹟猶興会
■綱文

第49巻 p.354-358(DK490123k) ページ画像

大正13年4月13日(1924年)

是日、東京府北多摩郡狛江村玉翠園前ニ於テ、再建玉川碑ノ除幕式挙行セラル。栄一出席シテ「玉川碑除幕式に参列して」ト題シテ講演ヲナス。


■資料

玉川史蹟猶興会書類(DK490123k-0001)
第49巻 p.354 ページ画像

玉川史蹟猶興会書類           (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
謹啓 春陽ノ候倍々御清祥賀上候、却説昨年中御特志ニ預リ居候玉川碑既ニ建設ヲ了シ昨秋除幕式執行可致ノ処、古今未曾有ノ大震災ノ為メ遂ニ延期ノ止ムナキニ立チ至リ候、附テハ来ル四月十三日午前十一時ヨリ、府下北多摩郡狛江村和泉玉翠園前現場ニ於テ除幕式挙行致シ候間、万障御繰合御臨場ノ栄ヲ得度、此段御案内申上候
  大正十三年四月七日
             玉川史蹟猶興会長 石井扇吉
    (宛名手書)
    渋沢子爵殿
  追テ御来場ノ節ハ此状受附ヘ御示シ願上候、東京方面ヨリ御越シノ方ハ京王電車国領停留場御下車ガ御便利ニ御座候

    除幕式次第
一、来賓其他一同着席
二、開会
三、除幕
四、式辞
五、事務報告
六、来賓祝辞
七、閉会
八、来賓講話
    以上終ツテ粗餐ヲ呈ス


集会日時通知表 大正一三年(DK490123k-0002)
第49巻 p.354 ページ画像

集会日時通知表 大正一三年       (渋沢子爵家所蔵)
四月十三日 日 午前十一時半玉川碑除幕式(狛江村同所)


(羽場順承)書翰 渋沢栄一宛 大正一三年四月一五日(DK490123k-0003)
第49巻 p.354-355 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

渋沢栄一演説筆記(DK490123k-0004)
第49巻 p.355-357 ページ画像

渋沢栄一演説筆記             (杉本寛一氏所蔵)
  大正十三年四月十三日
    玉川碑除幕式に参列して
                       渋沢栄一
 長い間皆様の御丹精の甲斐があつてけふ芽出度もこの玉川碑の除幕式が挙げられるに至りましたことは、誠に結構なことで心からお祝ひを申上げる次第で御座います。
今日は別に之れと申した祝文なども持参して居りませんが、たゞけふの私の喜びに就て少しばかりの感想を皆様に申上げて見やうと存じます。
私は一昨、大正十一年の秋此の地に御邪魔いたしました折にも一寸申述べましたが、この古蹟の保存といふ事は国民精神の感化の上から申しましても、文化の発達の上から申しましても、非常に大切なことで初めこの保存された古蹟の建てられた時代と、現在大正の時代とは星移り物変りては居りますが、現在から当時の時代を委しく且つ親切に知るといふ事は誠に歴史的に興味のある問題であると同時に、また当時の文化を受け継いで来た私共の当然なさねばならない仕事の一つであります。
然して此の地の古蹟である玉川碑の埋没は、どの意味から申しましても残念至極のことで、御地の方々がその再興に努められたのも尤の事であります、私は以前からこの白河楽翁公に私淑し、公の御人格には尠からず敬服して居る関係から、此の土地の方々の御相談を受けました様な次第で御座ります。
顧みますれば第一回に私が此の地に参りましたのは最早一昨年になつて居ります。
月日の経つのは速いもので、それに私は老衰の身、或はおそるこの除幕式までに自分の体が間に合はぬやうなことはないかと……
然るにこゝに再び諸氏と相見えるに至りましたことは芽出度い事と喜んで居ります。
けふお邪魔いたしまして此の地の石井正義氏の「玉川碑史の歌」を拝見いたしましたが、まことに結構な美しい文章で綾々に織られたその文才には敬服に堪えませぬ、又石井扇吉氏の読まれた文章の如き、また宇佐美東京府知事の此の挙を賛せられた祝辞、然もその祝辞の中には、此の碑に就ての因縁など過去から現在に至つて、また将来にまでも述べられたのは、当局の方々のこの玉川碑に対する深き御了解の事なども思はれて、非常に喜んだわけであります、最早すべてが語りつ
 - 第49巻 p.356 -ページ画像 
くされ讚へつくされた上に、此の私がとやかく申上げる事は蛇足に過ぎませんが、
……一昨年も申上げました如く、古い事物の記録を重んずるといふことは文化発達の道程には違ひありませんが、私はたゞ大きな石がこゝの村に在る、立派な鎮守がこゝの村に在るといふその事だけが、私共のもつ誇りのすべてではないと存じます。金の茶釜をもつてゐるといふ事だけでは甚だ心細いのであります。その在る石、その在る建物、その在る物がどんな由来をもつものか、またその事実から私共がどんな感化影響を受けるかといふ事をはつきりと見極めて、それを心の糧として行く場合に初めてそれが尊いものになるので御座ります、ただ在る、ただ存在するといふだけでは、それは人間の考へ方でなくて動物と一列の考へ方であります。
こふいふ考への下に此の玉川碑を見て来ますと、私共は飽くまでも委しく此の碑の歴史的由来をはつきりと心得ねばならぬと同時に、この碑が、此の文句が、現在の私共に何を知つてもらふことを希つてゐるか、それを考へねばならぬと存じます。
こゝで私の考へを述べてみますと、この碑の文句は万葉に出てゐるもので「多麻河伯爾左良須手豆久利」云々とありますが、この「左良須手豆久利」が一面私共に経済的な或る意味を教へてゐるものではなからうかと思ふ次第なのです、「左良須手豆久利」とはいづれも糸、織物に相関した言葉で、即ち土地の物産の標識をいふたもので、歌全体の意味からいへば、また作者の心からいつて、或は私の此の経済的な見方が牽強附会の様にもとれませうが、さう見ることが私共にとつて即ち或るものを教へてくれるのではないでせうか、なにも糸、織物に就てでばかりでなく物産の盛大を計る事が大事である、そして一村を富まし一郡を富まし一国を富すことが肝心であるといふ意味を教へてゐるものではないでせうか、こう見て来ると一つの単なる大きな石から私共は精神的に、物質的にいろいろなことを教へられて来ます。
「温故知新」のほんとの意味が徹底されて来る、これ即ち進歩の初め向上の緒です。
白河楽翁公が物産奨励、一国富強、治国安民の経済的見地から、此の万葉の歌をことさらに引用したものと見るのは或は無理かと考へさせられるが、公の事蹟から、思想から、言行から云つて、こういふ解釈がただ見当ちがひのものであると一概に斥けることも出来ないと思ふのです。
公の廿八歳の折の著として「関の秋風」がありますが、また晩年の著として「心の草紙」などといふものもありますが、人の情愛を云ひ、自然を云ひ、時に皮肉に過ぎた程の人情観もありますが、すべて「治国」といふお考への外に何もないのです、すべて完全にこの国を治め立派に発達させやうとのお考へばかりだつたのであります。
で、その公の目的の中には、経済立国といふことが一つの大きな事柄としてあつたことは到底否むことの出来ない事実です、それやこれやを思ひ合せますと、公が「佐良須手豆久利」の一首を選ばれたといふことも、思考《(首肯カ)》が出来て来るわけです。
 - 第49巻 p.357 -ページ画像 
さう致しますとこの玉川碑が私共に教へることは、まことに重大な事で、単に大きな石とのみ見る、単に古い事蹟であるとのみ見てゐることは出来なくなつてくるわけです。大分「佐良須手豆久利」の講義めいたものになりましたが、公の治は偲ぶからに尊く、みな敬服すべきものばかりがあるのです、しかも其のお考への中には遠大のこともあり、仔細のこともありますが、すべて至誠一貫、皆今の政治家たちの大いに学ぶべき点があるのです、治国に際し、赤誠を以て神に誓ひ、幕府のため、人民のため、常に非常な覚悟と決心とを持つて臨まれてゐたものです、その例証として、公の起誓文即ち祈願所たる本所吉祥院の聖天に捧げられた一文の如きは、現代政治家にとつてまさに一服の清涼剤であります。
公は終始言ふこと、行ふこと必ず一致されてゐたのです、私が特に公を挙げて敬服する所以のものは、公が仁慈をもつて民に臨まれ、至誠と熱心とを持つて治国に当られたといふことからなのです、ただ古い人である、徳川の人であるといふ事からばかりではないのです。
大分話がまとまりませんでしたが、幸ひ此の私の私淑する公が遺跡のこの地にあるを知り、私も微力乍ら力をお添へした次第ですが、仕事も順調に運び、けふ此の立派な玉川碑を見ることが出来ましたのは、まことに嬉しさの限りです、ただ本日私に対して皆様から過分のお賞めやら、感謝をいただきましたが、これを素直にお受け致すことは誠に心苦しき次第であることを申上げて置きます、何卒か今後ともこの碑の保存のため、皆様の絶えざる御尽力を心から希望し、単にまとまらぬ感想を申上げて、玉川碑除幕の祝辞といたしました次第です。


玉川史蹟猶興会書類(DK490123k-0005)
第49巻 p.357 ページ画像

玉川史蹟猶興会書類           (渋沢子爵家所蔵)
                (別筆朱書)
                大正十三年四月十六日
                     石井扇吉氏来状
謹啓
春陽の候
錦台倍々御清祥奉慶賀候、却説多大の御指導を賜り候玉川碑も玆ニ漸く除幕式を挙げ得たるは、偏ニ閣下の御後援浅からざる儀と会一同感佩仕候、当日は生憎雨天且御繁劇の御身を以て御枉駕の栄を得、賜ふニ御懇篤なる御講話を拝聴、参列一同感謝不斜候、御蔭様ニて雨中ニても首尾克猶興会の素志も貫徹為し得られ、役員一同安堵仕候、附而は此の史蹟を永久ニ保護をなし、閣下の御期待ニ添ふ様可致候得ば乍慮外御安心被下度候、玆ニ乍略儀会員一同を代表し御答辞申上度、如斯御座候 早々再拝
  四月十六日
                       石井扇吉
                        外一同
    渋沢子爵閣下


玉川史蹟猶興会書類(DK490123k-0006)
第49巻 p.357-358 ページ画像

玉川史蹟猶興会書類          (渋沢子爵家所蔵)
謹啓 炎暑の折柄倍々御清祥賀上候、扨而御送附ニ係ル閣下御講話原
 - 第49巻 p.358 -ページ画像 
稿並ニ写真、正ニ受領致し羽場氏ニ交附致候得ば左様御承知被下度候先ハ貴答迄、乍末毫閣下外各位様へ宜敷御伝声被下度知斯ニ御座候
                         敬具
   ○右ハ石井扇吉ヨリ渋沢事務所中野秘書ニ宛テタル大正十三年八月八日(消印同十一日)付葉書ナリ。


石井正義回答(DK490123k-0007)
第49巻 p.358 ページ画像

石井正義回答           (財団法人竜門社所蔵)
○上略
一、大正十三年四月十三日玉川碑除幕式に子爵の祝辞御講演あり、其他東京府知事宇佐美勝夫氏、子爵松平定晴氏数氏
  予算は五千円と見て半金弐千五百円を御寄附であつた外、金は渋沢子爵の御照会にて東京の財閥の御寄附、会員其他で、総計六千四十一円五十銭かゝつた、其後の関係は疎遠になつた
一、大正十四年三月二日猶興会解散し、同地碑を伊豆美神社へ納付し永遠に保存してある
  因みに猶興会は文尹猶興るの故事を以てしたるもの、子爵の碑陰記の十二月二十七日とあるは楽翁公の誕生日を以てせられしもの、又四月十三日除幕式は蓋公の御逝去の日を以てしたるものであります
   ○右ハ当資料編纂所ノ問合セニ対シテ昭和十三年十月一日付回答セラレタルモノナリ。