デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
5節 祝賀会・表彰会
14款 佐々木勇之助還暦祝賀会
■綱文

第49巻 p.404-414(DK490140k) ページ画像

大正4年4月25日(1915年)

是日栄一、帝国ホテルニ於テ開催セラレタル佐々木勇之助還暦祝賀会ニ出席シ、懐旧演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正四年(DK490140k-0001)
第49巻 p.404 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正四年         (渋沢子爵家所蔵)
四月廿五日 半晴
○上略 午後五時ヨリ帝国ホテルニ抵リ、佐々木勇之助氏還暦ノ祝宴ニ出席ス、食卓ニテ懐旧演説ヲ為ス○下略


佐々木氏還暦祝賀会報告書 前付(大正四年七月)刊(DK490140k-0002)
第49巻 p.404-405 ページ画像

佐々木氏還暦祝賀会報告書 前付(大正四年七月)刊
拝啓 益御清祥奉賀候、陳者明治四十四年各位の御賛同に依り佐々木氏還暦祝賀会を組織致候処、諸般の準備相整候につき、本年四月二十五日を以て別紙記載の記念品を贈呈致、同日帝国ホテルに於て祝賀晩餐会相開き、佐々木氏御家族及御近親諸氏の来臨を乞ひ慶賀の意を表し、尋て五月九日玉川清和園に於て記念樹手栽式を挙行致候
右にて本会之目的無滞完了致候義御同慶の至に奉存候
本会贈呈の寿金は、同氏より本行々員奨励の事業資金として御寄附被下候間謹んで受領仕候、右に関し候ては追而審議の上諸事決定可致筈に有之候
玆に記念として佐々木氏照相一葉及収支計算並に祝賀晩餐会演説筆記相添へ候間御受取被下度候
此段御報告申上候也
  大正四年七月   佐々木氏還暦祝賀会
                  委員長 日下義雄
    会員各位

    贈呈品目録
 一、末広 一対
 一、画幅 一対
 一、描金硯函 一個
 一、会員記念写真帖 一冊
 一、寿金 一包

    収支計算書
      ○収入之部
一金五千五百参拾円拾銭也  重役及本支店会員会費並ニ利息
      ○支出之部
一金五千五百参拾円拾銭也  支出総額
此内訳左の如し
 - 第49巻 p.405 -ページ画像 
  金四千円也       贈呈寿金
  金四百六拾五円也    御所車蒔絵平硯
  金参百五拾八円五拾銭  川合玉堂筆蓬莱図双幅
  金九拾六円弐拾銭    贈呈記念帖
  金参百八拾九円参拾銭  祝賀晩餐会費
  金壱百参拾九円也    晩餐会記念撮影写真及佐々木氏写真三百枚代
  金弐拾弐円七拾銭    記念木費
  金五拾九円四拾銭    諸雑費

    会員人名
  渋沢栄一 三井八郎次郎 熊谷辰太郎
  日下義雄 土岐僙    尾高次郎
  大沢正道
   ○外三四五名氏名略ス。


佐々木氏還暦祝賀会報告書 第一―二七頁 (大正四年七月)刊 【佐々木氏還暦祝賀会演説筆記】(DK490140k-0003)
第49巻 p.405-414 ページ画像

佐々木氏還暦祝賀会報告書 第一―二七頁 (大正四年七月)刊
  佐々木氏還暦祝賀会演説筆記
              大正四年四月廿五日於帝国ホテル
    日下委員長の挨拶
 今夕は第一銀行頭取を始として行員一同の希望に依りまして、佐々木勇之助君の為に還暦に達したに付て相当の祝意を表したいと云ふことで、此会を催した次第でございます、此事は明治四十四年よりして大正三年、即ち三年間に跨つた希望でございましたが、昨年は不幸にして御大喪があり、諒闇の際でありましたから、遠慮した方が宜からうと云ふことでございまして、それで今年の今日まで延期になつたやうな次第でございます、今日行員諸君を代表致しまして佐々木総支配人の所へ出まして、諸君の誠意の籠つた品物を呈しましたる所、佐々木君も快くお請け下すつたと云ふ訳でございます、佐々木君に対する第一銀行の関係を事細かに述べますれば、中々千言万語を費すも容易に尽きぬのでございます、唯吾々の誠意のある所を簡単に表明する為に、玆に祝辞を朗読致して演説に代へることに致します、其後に至りまして頭取から又相当の御挨拶を下さることゝ存じます。

    祝辞
敬祝第一銀行取締役兼総支配人佐佐木勇之助君華甲、寅献寿觴、並呈画幅一対描金硯函一個及記念帖、又興記念事業、以伝芳名於永遠、玆虔申賀章、恭惟、明治中興、百度維新、盛施経綸、大奨通商、於是、第一国立銀行成、財海開津梁、乃以経営文明事業、新招俊秀、君則当之、就職同行、旁習銀行業務於英人暹度、得其要訣、自帳員、進主簿孜孜励精、深通計数、簿書成範、昇為支配人、内膺補佑、功績荐彰、外図宏達、施設得宜、二十九年丙申、国立銀行営業届期、因組織本行更選任其取締役、兼総支配人、蓋本行資本、増倍旧行、経理多端、亦幾倍前日、而君精励拮据、多多益弁、籌画無遺、挙措詳敏、積四十載之経験、兼耳順之修養、監督二十有三店、指導五百名行員、一貫忠実
 - 第49巻 p.406 -ページ画像 
交無畛域、行員悦服浴其薫陶矣、窃思、君常鑑財海之消長、審物資之通塞、若苟講貨殖之術、為牟利之計、何計不成、何術不行、然而君清廉自持、守分知足、貞風凌俗、其眼中、惟有我銀行耳、求諸衆人、不多見其比、当今之時、接此高風清節、如出鮑魚之市、入芝蘭之室矣、宜哉、天親善人、荐錫幸福、家致清富、子孫〓衍、上光先人、下恵後昆、可謂立志之良範、而銀行者之亀鑑矣、君雖自貴謙徳、深以韜晦、而其功績之豊茂、固不可掩焉、故慎避諛詞、敢称揚其実者、是会員葵向之情、所不可禁也、虔祈松柏貞堅寿、祝家門千秋昌。
  大正四年乙卯四月吉辰      佐佐木氏還暦祝賀会謹啓

    渋沢男爵の演説
 佐々木君御夫婦、及び御一門の各位、行員諸君、此最も愉快に又最も賀すべき盛筵に臨みまして、玆に一言を述べますことは、私の此上もない光栄とする所でございます、今夕の宴は行員打揃うて、我第一銀行の柱石たる佐々木君の還暦を祝する為の催しであつて、幸に御家門お打揃ひで臨場を得ましたことは一同の喜びに堪へぬ所でございます、此祝賀会を代表しましては、唯今日下君よりして賀頌の辞を朗読されましてございますから、是にて吾々の本会を催した趣意、又同君の爾来第一銀行にお尽しになつた事柄は、文章は短うございますが其意は長くある積りでございます、さりながら、私は最も佐々木君とはお親しみも厚し関係も深うございまするで、斯る記念すべき宴会に当りては、重複には相成りまするけれども、其由来を玆に一言述べますることは、或は冗長の嫌があるか知れませぬが、強ち無用の弁たらざるを信ずるのでございます、今其沿革を申上げますると、第一銀行が如何にして創立せられた、又其起りは如何なる理由であつた、而して佐々木君はどうして第一銀行にお勤務になつた、と云ふ昔語から申さなければならぬのでございます、但し今夕の主賓たる佐々木君は無論御承知のことでありますけれども、中には第一銀行の起りはどう云ふ次第であつたか、或は書類に依つて其顛末を御承知ぐらゐのことで、親しく御聴取のない人もありませうから、駄弁に渉るかも知れませぬが、先づそれからして少しく申述べて見たいと思ひます。
 全体日本の金融業と云ふものは、其初め江戸と言ふた頃には二十二軒の御為替組又は蔵前に札差といふ者があつた、又大阪には掛屋と称せし金貸業者があつたが、決して欧羅巴式銀行制度抔はなかつた、明治三・四年頃に大蔵省にて不換紙幣を整理したいと云ふので、時の政治家中にて経済心のある先輩、今も尚健在して居らるゝ大隈伯爵、故人になられた伊藤公爵=或は松方侯爵、井上侯爵、其中でも当初は大隈・伊藤の両君が此不換紙幣を如何に始末したら宜からうと云ふことに心を労されて、斯くしやう、否斯様にしやうと云ふ討議に日を送られたのでございます、而して今日の所謂実業の発達、即ち農商工の改善を図るには、是非とも民業を助成して行かなければならぬ、今もまだ官尊民卑の弊は全く脱却しませぬけれども、四十余年以前の有様は今日からは殆んど想像の出来ぬ位であつた、商売人と云ふものは位地も低く見識も乏しく、物も知らず、官吏の前へ出ると膝行頓首、惟
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命是れ従ふと云ふ有様であつた、故に実業界の発達と云ふことを、政治上から干渉して明治の初年より、為替会社・商社・開墾会社・廻送会社抔と云ふて所謂御用会社を四・五社造らせて見ましたが、之が一年乃至二年位の間に算を乱して倒れてしまつた、蓋し是は政府から指図して持つべからざる者に持たせ、能くすべからざる者に与へたから忽ちに倒産するも亦宜なりである、如何に其方法は善良でも、之を行ふ人がなかつたから、諺にいふ子供に盆花を預けたやうなもので、直に毟り壊してしまふのである、そこで此不換紙幣の始末に付ては前に述べた大隈・伊藤の両先輩も頻に心配されて、遂に明治三年に伊藤公が亜米利加へ視察に出掛けた、即ち大蔵省の事務を充分に視察して、良い所を学ばうと云ふのであつたが、是が丁度銀行の出来る原因を為したのである、前に述べた為替会社・廻送会社と云ふやうなものは明治の初年に創立せられたるも、一・二年の間に段々失敗を重ねて、事業未だ其緒に就かぬ中に早く既に損害を重ぬると云ふやうな始末であつて、到底是等によつて何等の方法も立ち難いのであつた、それから明治四年の五月頃伊藤公が米国から帰朝されて銀行制度のことを建議されたので、それが佐々木君の御従事なすつた第一銀行の創設される原因となつたのであります、是は千八百六十年に亜米利加が南北戦争の跡始末に付て紙幣を発行した、それが不換紙幣であつたのを遂に銀行制度によりて兌換制と改正した、伊藤公は其事を聞込まれて、亜米利加の故智に傚はうと云ふ思案であつた、それが日本の銀行の発端である、立案者は伊藤公であつたが、軈て公は大蔵省を辞され、又大隈伯も大蔵大輔より参議に転ぜられ政府に入りて、其後は現今興津に病を養うてござる井上侯が承継がれたのでございます、私は其以前から大蔵省に居りましたが、大隈・伊藤・井上と是等の諸先輩の指揮の下に一方の仕事を取扱ふ位地に居りました、殊に此銀行制度に付ては屡屡評議にも参加して=詰り先輩の説を聴いて或る場合には愚見も呈した、且私も聊かながら経済上のことに付て、特に学問のある身ではありませぬから、自ら任ずる程の力は無かつたけれども、併し私の学問の無いより以上無い人も沢山あつたから、実地上の見解から聊か意見を述べ得る位地であつた、遂に銀行制度は足下が主として調査せよと云ふことで、国立銀行法を制定するのは私が主任となつたのでございます、明治四年に井上侯が大蔵大輔で私が大蔵大丞であつた、越えて明治五年には井上侯は大蔵大輔であつたが、大久保大蔵卿が洋行せられて其職を摂行せられたから長官であつて、同時に私も三等出仕となつて次官の位地を勤めた、其間に此銀行条例が出来たのでありますさて条例は出来たが実際誰がやるかと云ふことは中々困難の問題である、前にも申した種々なる会社が皆二年ばかりの間に倒れた後でありますから、之をやらせやうと云ふ人がない、又一般に勧めても中々応ずる人がない、政府が大に助けると云うても其方法も立たなかつた、丁度三井組と小野組と島田組と云ふものがあつて、維新匆々からして政府の租税の収入と貨幣出納の取扱をして居つた、之を其頃は御用方と称へた、此三組が合同して一の約束によりて官金の出納を取扱れたが、どれ位の契約であつたか、其組織は完全に覚えて居りませぬ、詰
 - 第49巻 p.408 -ページ画像 
り一のシンヂケートやうなものであつたと思ふ、是等を誘導して今の銀行を造つたら宜からうと云ふのが、井上侯及び私の大蔵省に於ての思案であつて、是非三家を勧めて銀行を造らせたいと云ふ企望を持つたのであります、併し其頃三井組に三野村利左衛門と云ふ人があつた是が至つて古風の人であつたが、新進の気象に富んで居つた、嘗て私は無学の三偉人と云ふことを百話中に加へたことがありますが、三野村利左衛門、古河市兵衛、田中平八、此三人は私の別懇にした友人であつて、無学の豪傑である=三野村と云ふ人は新聞の社説が満足に読めない人であるに拘らず、不思議な知識のある人で、而も新思想に富んで居つた、余り自己の身上を云ふも可笑しうございますが、私が大蔵省に奉職して居る時に三野村は頻に私に三井組に入社せよと誘導されたことすらある、私は甚だ快くなかつたから其事は退けましたけれども、以て新進の気象に富んで居つた一端を知ることが出来ます、此三野村が三井組をして一大銀行を造らせたいと云ふので、明治三年に銀行設立願を大蔵省に差出した、是非銀行を創設させねばならぬと云ふて居つた頃でありましたからして、追て制度の定まるまで暫く待てと云ふことにして置いて、さて五年に至りて今の銀行制度が定まると同時に、此制度の実施に付ては前にいふ三家を組合せて之を会社組織にしたら宜からうと云ふことで、銀行条例の発布が明治五年十一月であつたと覚えて居りますが、尋で其組合から願書を出して銀行を組立てることゝなつた、之が第一銀行の原始であります、私は其頃は大蔵省の役人で居りましたが、翌明治六年の五月に、財政上の意見が井上侯と太政官との間に相違して、但し其前から屡々齟齬がありましたが、遂に五月の三日に井上大輔は辞表を提出された、私も其時に井上侯と共に辞表を出した、侯は是非足下は留任して後を継承して貰はぬと、大蔵省の仕事が差支へると、強いて留められましたが、併し私は其以前から辞職を思ひ立つて居り、先輩の勧告に依つて今日までは心ならずも勤続して来たのだから、此機会を失ふと辞職の時を逸するから、どうしても辞しますと云ふて、井上大輔と共に大蔵省を去りました、官途を去つたのは果して銀行者にならうと云ふ意思を定めた訳ではなかつた、辞職の後に於てさう云ふことが生じて来たけれども、其当時は唯官を辞して他に立脚地を求めると云ふ希望に過ぎなかつた、既に大蔵省を辞しましたに付て、三家の組合から折角銀行を組立たことであるから、這入つて助力をして呉れと言はれたのが、私の第一銀行に勤務するの始めでございます、此頃佐々木君も共に第一銀行にお這入りになつた、或は其前であつたかも知れぬ、佐々木君は御用方の一青年事務員であつて、計算方と云ふ位地に居られたやうに私は記憶して居ります、私は又役人上りの所謂士族の商法で事物を組織すべき位地に立つて居つたが、佐々木君は未だ青年の事務者であつて、其始めに於ては私と相識ることはない位でありました、然し愈々銀行業務をやることになると、欧羅巴式の稽古をしなければならぬ、第一に帳簿が従来の横帳式ではいかぬ、その頃井上侯の注意で大蔵省に「シヤンド」氏と云ふ英国人が居りまして、簿記法其他銀行業務に精通して居られた、依て此人に就て銀行業務の稽古をしなければならぬと云ふ
 - 第49巻 p.409 -ページ画像 
ので、其為に新銀行から三・四の人を選んで「シヤンド」氏に附けた今日大阪に居られる熊谷辰太郎君も其一人である、其他野間と云ふ人本山と云ふ人、続いて佐々木君、長谷川一彦氏など云ふ人々が教授を受けたのであります、第一国立銀行の組立られた顛末は右の通りの理由であります、それから佐々木君は第一銀行に這入られて、其始めは至つて青年の働き手ではあつたが未だ要地に立つと云ふ訳ではない、其頃はあの若い人は中々に用立つ人で殊に算盤が非常に達者だと賞された、私は又其時から親爺株でありましたから、佐々木君を評判上腕のある人だと云ふ位に聞知して居つたまでのことであります、それは明治六年から七・八年に掛けてのことであるから、今年から数へると四十有余年以前のことでございます、世間に永く交際する人は幾らもありますが、私と佐々木君に於けるが如き、久くして其苦楽を共にし所謂一つ鍋の飯を食べ合うて、一も其心に背かず相共に補助誘掖した者は殆んど無からうと思ふのでございます、其始め銀行の経営が、社会の風習、実業界の事務に当て嵌つて居らなかつた、殊に私は役人上りの者、三井組・小野組といふても、唯政府の貨幣の出納を取扱ふと云ふ位を目的とする人が多い、有為の人と云ふても佐々木君の如きは未だ位地が低いから、銀行を経営すべき資格を持つてゐない、故に銀行業を社会と聯結すると云ふ任務は、役人上り百姓出の私が第一番に苦まなければならぬと云ふ位地であつた、其頃の銀行家の社会から見られたのは、悪く云ふと山師視された=一つ間違つたら前に倒産した会社と同じく失敗に陥るであらうと云ふ眼を以て居られましたから充分の取引も出来ず、さればとて銀行者が其実業界を嫌つて居つては営業が成り立つものでなし、又彼等に雷同ばかりすれば此方へ馴致すると云ふことは出来ない、向ふの意にも障らず自己の趣意も貫徹するやうに努めて行かなければならぬ、故に独り銀行の事業を経営するばかりでなく、謂はゞ見物人の目を直して我芝居を見せやうと云ふ新俳優の立場のやうな訳であつた、其困難と云ふものは、今日の銀行事務を執つて居らるゝ諸君と雖も、色々の方面から種々の苦情ありて何時も事業には困難が附纏うて居るものでありますけれども、併し今申述べたやうな困難は実に不愉快のものでありました、併しながら銀行者は何処までも四囲の状態と接続して行かなければならぬ、其間随分腹の立つやうなことがある、それを段々親和しつゝ我方に感化したと云ふのが、即ち今日ある所以と申して宜からうと思ひます、私が今日斯ることを申すのは、何か自分の功労を吹聴するやうでありますが、併し此骨折は私が其始めを為して其終を完ふしたのは即ち今日の主賓たる佐々木君が努めて下すつたのでありますから、それを御披露する為であります、兎に角明治七・八年乃至十四・五年頃までの銀行営業と云ふものは、実に今日諸君の想像以上であると申して宜からうと思ひます。
 佐々木君の第一銀行に於る勤務と云ふのは計算方から簿記方に進んだ、それから支配人の見習と云ふ位地に立つたのは多分明治十四・五年頃でありませう、故に当時から評しましたら、斯る有為の人物を見る明がなかつたとも云はれるか知れませぬが、一方から云へば数年間
 - 第49巻 p.410 -ページ画像 
に順序的に栄達したとも云ひ得るのであります、所謂穎敏実直と評すべき方で、其記憶と云ひ其敏捷と云ひ、洵に各方面に優れた方でありました、今夕斯く御面前で批評するは何だか若いお方にでも対する如くして言語が失礼になりますけれども、当時御互に=お互ではない私は既に相応の年齢でありましたが、同君は未だ二十歳前後の青年故大分差はありますが、其頃の交情は左様であつたのであります、そこで私は斯る有為の人物を重用しなければいかぬと思ふた、其時分の社会の様子を見ると、欧羅巴仕込の新思想を持つた人もありましたけれども、兎角に実業界に親和力を持たない、さらばと云ふて昔日の前掛流儀では進歩した欧羅巴式に調和することは望まれない、調和と云ふて唯彼れに雷同附和してしまつては、其の改善を図ることは出来ぬ、要するに他と接続を保つて居る間に、自分の守る所、頼む所があつて順次に彼方を導いて行かなくてはならぬ、此頃第一銀行にては永田甚七と云ふ人が三井組から来た人で、今の永田甚之助の祖父であるが、之が当初の支配人であつて、佐々木君が其見習に立たれたのであります、蓋し第一銀行の経営として、私の理想とせしは、銀行は飽迄も他の商工業と伴はなければならぬ、銀行独りで発達の出来るものではない、それであるから銀行の事業を盛にせんとならば、他の事業を進めて行くが肝要である、殊に事業は改進主義が宜い、今も尚其主義を守つて居ります、故に私は独り第一銀行の経営に止めず、有りと有ゆる各種の会社の新設に勉めた、但し其根本を忘れてはならぬと思ひますが、先を急ぐために、或る時には忘れんとしたことが、必ず無いとも云はれぬのであります、此点に於ては佐々木君と私とは或は夜と昼の如く、積極と消極の如き差を生じたことが多々ありました、蓋し此差違あるは、即ち大に合する所以と私は言ひたいのであります、前にも述べる如く此銀行業が当初より唯無事に進んで行く訳にはいかぬから仮令十中に一・二の欠損を生ずることがあつても、新しき事業の創設に力を尽すことを努めねばならぬ、又奥羽地方の如き洵に未開の地である、斯る地方を開発して行かなければ国家の進運は望まれない、斯る私の考案からして第一銀行創立以来私は此等の経営に苦心したのであります、去りながら是等は多く失敗に終つた、主義としては適当なれども銀行の利益の為には宜しくないと云ふので、屡々忠告を受けたこともあります、幸に明治十四年から佐々木君が私の女房役に立たれて、勿論銀行実際の事務は私以上に通暁して居られ、殊に精勤忠実にして洵に満足すべきお方でありましたから、私は殆んど内を顧るの憂なく、恰も意気相投じ交情相親む処の夫婦が一家を為して、夫が外部を働きて婦は家庭を守る如く、私は常に、内は君が守つて呉れるから私は外を駈廻るのだと云ふやうな有様であつた、但し私はさう思つたが、佐々木君の方では或は困つたものだとお思ひなさつたかも知れぬ只其歎声を相互の間に漏らさずして、相共に経営して今日に至つたのでございます、殊に明治二十九年に国立銀行が満期となりて私立銀行と変ずる前に別して同君は心神を労され、私も其時は大に苦心をしたと云ふのは、前に述べる通り第一銀行の起原は三井組・小野組・島田組の勢力に依つたが、其後に至り小野と島田は破産して其持株を売却
 - 第49巻 p.411 -ページ画像 
した、其頃は未だ佐々木君は枢機に参して居られなかつたから、御承知はないが、小野組の破産の時には私は真に苦心をしました、折角に第一銀行を組立つて一・二年経営し来たが、小野組の破綻によりて銀行も維持出来ぬと思ふた、是は私の運命だ、已むを得ない、更に又何か事業を案出しなければならぬとまで思ひ詰めた、斯く断念するといふも元来三井・小野両組は当時其名を均ふし互角の勢力に依つて組立つた銀行である、然るに其一が破産すれば、さなきだに世間から山師視され居る際でありますから、僅に存する信用も尽き果てしまふに相違ない、実に残念のことだと思ひました、ところが幸に井上侯などの助力に依つて其難関を切抜けることが出来、三井組は二十九年までは大部分の株を持続したのであります、それで第一銀行は都合よく発達した、併し私立となつたる後の第一銀行を他の勢力に依らずして公共の株式銀行たらしむると云ふことは、此推移の場合に於て最も六ケ敷い企望であつた=其間に尚ほお話すると、此銀行の経営を海外にまで進むる事の可否得失であつた、それらの事は余り冗長になりますから、今日はお話を止めますけれども、私立銀行に引直すときに、他の強大なる勢力に依ることなくして、普遍的に維持して行かれるには如何したら宜からうかと云ふ問題に付ては、佐々木君も種々に心を労されたのであります、幸に其心配の効空しからずして、偶然にも都合よく運んだのであります、想ふに此際第一銀行の株式が高価であつた為め、株を売つて退かうと思ふ人は皆これを売却してしまつた、是に於て私は佐々木君の意見に従ひ、将来商業銀行として持続して行くには今日までの経営方法ではいかぬ、あれでは商業銀行的経営と云ふよりは寧ろ興業銀行となる傾がある、これは断然改良しやう、就ては大阪・神戸・横浜等の支店は益々拡張するが、東北の各支店は閉鎖すると云ふのが佐々木君の意見であつた、私は此説に対して直に承諾した、それで二十九年に奥羽の支店は残らず止めて、西部の方に移したのであります、銀行の資本を増加したのは何時であつたか其時期は明かに覚えて居りませぬが、是は佐々木君が能く御記憶せらるゝに相違ない、国立銀行より私立銀行となる時に四百五十万円であつたのが五百万円に増加し、其後又一千万円となり、更に今日の総額になつたのである而して是等の事は多く佐々木君の考案に出でゝ私はこれに賛同したのであります、併し明治二十九年までの経営は上来述べたる如く私は其間或は余計の苦心をして、却て同君が私を諫めた、或時は強て忠告して呉れたこともありました、此前後四十年の間には斯ることもあつた斯う云ふ意見を言はれて始めて気が着いたと一々算へたならば殆ど指を屈するに遑あらぬでありませう、或る点から見ると私と佐々木君とは其境遇は勿論、出処も全然相違して、又其性質も違ふ処ありと自ら信じて居りますが、斯の如く相異つた者が斯の如く膠漆も啻ならざる如く相合すると云ふのは、所謂不思議な御縁と云ふか、決して偶然でなからうと思ふのであります、さりながら私は佐々木君の為に何等のお世話をしたことはない=寧ろ私こそ内外種々の御心配を蒙ることが多いが、唯洵に親切なお方だと思ふて居るに過ぎない、併し第一銀行をして飽迄も完全に進めて行きたいと思ふ心は常に符節を合する如
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くである、相共に扼腕奮起して此の銀行の為に論じ合うた程のこともありませぬが、共に之を憂ひ之を愛し之を保護して居る為に、其扼腕奮起なくして扼腕奮起に勝る精神が一致して居ると言ふて差支なからうと思ひます、而して同君は今日下君の朗読した賀頌中にある如く、自ら富を増すとか、或は頼まれたからこれを為すとか云ふやうな人ではない、一旦遣らうと決心されたことは緊く執つて諄々とお尽しなさるのが同君の特性である、本質である、是は実に誰に頼まれたのでもなくして我本能を発輝するのである、決して人に頼まれたなどゝ云ふやうな薄弱なる事ではなからうと思ひます、斯の如くして明治六年から足懸け四十三年の交情は、未だ青年と思ふた同君の玆に還暦の祝詞を述べると云ふことに成つたのを見ると、自己の老耄に気が着く位の訳でございます、併し此席には青年壮年のお方が沢山お出であるけれども、兎角老人の懐旧談は昔の相撲は大きかつた、昔の役者は上手であつたと、古を是とし今を非とする弊があると言はれます、頃日も或る元老に会つたら、元老の言はるゝに、今の内閣の若い連中は=若いと云うてももう五十以上の人々であらうけれども=どうも老人の忠告は天保風を吹かせるとか、古臭い言を云ふて困るとか、冷評せらるゝが、天保の人だからと云ふて固陋の言ばかり云ふのではないと申されましたから、私は老閣などが左様な言を言はれてはいかぬ、私も天保人なれども、天保は僅々六・七十年経つたのである、もしも貴い言葉なら二千五百年経つても、やはり貴いではありませぬか、古い言語が悪いと云ふなら、孔子の言葉も取る所はない様になる、然るに千古不易とか或は聖人又出るとも吾言を易へずとは今の人にも言ひ得るでありまぬか、金言に新古はない、良いのが良いのだ、若し全く固陋に泥んで改進の事情を知らなかつたら、それこそ古いのが悪いと云ふことを言ひ得るであらうが、古いから感心せぬと云ふことはない、私は決してさうは思ひませぬと其元老にお答した、元老は微笑されて、君のやうにさう言つて呉れると老人も気強くなると喜んで居りました今夜は還暦の賀筵であるから、佐々木君を老人の方に組入れて私が老人として威張るのではない、今夜の主賓佐々木君を老人として、諸君の前に威張らせ申したいと云ふ趣意である、決して自己の得手勝手所謂我田引水の説とお聴き下さらぬやうに願ひます、斯の如く交も深く又其経歴も久しい訳である、決して第一銀行の今日あるのは偶然でないと云ふことは、前来叙し来つたる言語に依つても大抵諸君が御了解下さるであらうと思ふ、四十有余年の歳月は吾々は決して空に費消はしませぬぞ、佐々木君の今日あるのは一日に一つづゝの勤労を重ねて所謂寸を積み尺を成して、今日の還暦に至つたのであると云ふことを諸君宜しく御了知あるやうに致したいと思ふのでございます、経歴を述べるに止つて、主賓を賞讚する言葉は甚だ少ないやうでございますが、唯従来の事実を申述べて、私と佐々木君との関係は斯の如きものであるといふ事を諸君に吹聴し、且此機会に於て私は殆んど四十年来の御礼を一夕に申尽したいと思ひますが、迚も尽し得られませぬから聊か所感の一端を陳述した次第でございます、玆に併せて諸君の清聴を煩はしましたことを感謝します。(拍手)
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    佐々木氏の答辞
 渋沢男爵、日下取締役両閣下及び御臨席の行員諸君、今夕は私が昨年還暦に達したと言ふに付きまして男爵始め第一銀行本支店の行員皆様が資金をお集めになりまして、此盛大なる宴会をお開き下すつて、私夫妻を始め一家一族の者まで多人数御招待を蒙り、且つ結構なる御饗応を頂戴致しまして洵に有難く存じます、殊に日下君は此祝賀会の委員長として、皆様を代表せられまして御鄭重なる御祝辞を賜はり、又渋沢男爵閣下は非常に御多忙の際で居らつしやるにも拘らず、令夫人と共に御臨席下さいまして、私の長い間の経歴其他に付て御懇篤なる御言葉を賜はりまして洵に有難く存じます、実に斯の如き宴を設けられ、斯の如き御招待を蒙りましたことは、私一身の光栄のみでございませぬ、一家の面目、一族の名誉、実に此上もない次第で、何と御礼を申上げて宜しいか、殆んど其言葉を見出し能はぬ位でございます元来私は唯今男爵閣下からのお話のございました通、丁度少年の時分に維新の変に遭ひまして、兄は静岡の方に参りましたが、私と父とは共に帰商致しまして、所謂士族の商法を少しばかり致しましたが、それも工合好く行きませず、竟に私は今男爵より御話しになりました三井・小野・島田の組立てました大蔵省為替方の書記=其頃は手代と申しました、それになりましたのでございます、其為替方が丁度唯今男爵のお述になりました通、第一銀行の事業に引継がれました為に、其事務と共に私も第一銀行に移りまして、其以来帳面附けのやうなこを致して居りましたのでございますから、勿論其間に、学問を致しまする間合もなく、又何等の才能もございませぬ、唯一の帳面附けに過ぎなかつたのでございます、図らずも男爵閣下の御見出しに預りまして、其以来非常なる御引立を蒙り、追々進みまして、遂に今日の重任を辱むるやうに立至りましたのでございます、故に私の今日ありまするのは、全く男爵閣下の御指導御誘掖に依りましたのと、又行員の皆様が私の足らない所をお助け下さいました為に、先づ今日まで格別の過もなく、其職を勤め来りましたやうな次第でございます、さう云ふ訳でございますから、若し此還暦と云ふことが祝すべきことでございますれば、私が祝宴でも開きまして、男爵閣下始め皆様に、此四十年以来御引立を蒙り御世話を戴きました御礼を申上げなければならぬ訳であらうと思ひます、然るに却て皆様から斯の如き御招待を蒙り、御鄭重なる御饗応に預りましたことは、実に何とも恐入りました次第でございます、殊に今朝日下君は祝賀会委員長として、態々御越し下さいまして、結構なる物品と記念状若くは記念すべき金まで添へて御恵与下さいましてございます、又渋沢男爵閣下には前申上げました通、実に非常なお引立を蒙り居るにも拘らず、男爵よりは昨日名人の呉春の画かれました曲水蘭亭の結構なるお屏風を私に賜はりました、実に何と申上げて宜しいか、私から御礼を申上げなければならぬのに、却て男爵より斯の如き貴重なる御品を頂戴致したことは、殆んど恐縮に堪へないやうな次第でございます、併し折角皆様の思召を以て斯の如き御品を下さいましたことでございますから、右等の品々は之を家宝
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と致しまして、永く子孫に伝へまするやうに致します、又此銀行の皆様から賜はりました金に付きましては、銀行の重なるお方々と御相談を致しまして、後来此銀行の青年のお方の、何か有要なる途に用ゐらるゝやうに致したいと考へて居ります。
 それで私も今日皆様からお祝を戴きまする如く、既に還暦に達しましたので、もう殆んど老境に入りました訳でございますから、吾々の同業で先輩でありました豊川君でございますとか、三村君でございますとか云ふ人の例を踏みまして、退身を致しまして後進者の為に途を開くと云ふことが当然であらうかとも考へました、併し翻つて考へて見ますると、渋沢男爵は七十以上の御高齢で居らつしやるにも拘らず尚壮者も及ばない御元気で事務に鞅掌なされ、傍ら国家社会の為に日も亦足らずと云ふやうな有様を以て御尽力なされて居らつしやるのでございますから、吾々が六十を越えたからと申して、職を退いて悠々閑日月を送ると云ふことは実に男爵閣下に対しても相済まない次第でありますから、男爵の御許のございませぬ限は、仮令お役に立ちませぬでも、尚私は充分に尽力致したい考へで御座ります、さりながら私の如きは、男爵とは体質も違つて居りまするし、又学問もございませず、才能もなく、唯年だけが男爵より少ないからと申して、右やうなことを申すと云ふのは、果して如何のものでありませうか、男爵の如きは経済界の偉人で居らつしやる、常人とは非常に違つてゐらつしやるお方を例に取つて、自分が真似をすると云ふことは如何かと思ひますから、他日相当の時機を見まして、後進者の為に其途を開くと云ふことが必要であらうと思ひます、先づそれまでの所は相変らず男爵閣下及び皆様からどうぞ私の足らざる所はお助け下さるやうに願ひたいと思ひます、甚だ口不調法で意を尽しませぬが、それだけの事をお願ひ申上げて、今日の御礼を申上ます。(拍手)