デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
6節 追悼会
1款 伊藤博文追悼会
■綱文

第49巻 p.443-450(DK490151k) ページ画像

明治43年5月19日(1910年)

是日、国家学会、東京帝国大学集会所ニ於テ、故伊藤公爵追悼会ヲ催ス。栄一出席シテ追悼演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四三年(DK490151k-0001)
第49巻 p.443 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四三年       (渋沢子爵家所蔵)
五月十九日 晴 軽暖
○上略 五時帝国大学ニ抵リ、国家学会ニ出席シテ、故伊藤公爵追悼会ニ於テ一場ノ追悼演説ヲ為ス○下略


国家学会雑誌 第二四巻第七号明治四三年七月 【明治四十三年五月十九日…】(DK490151k-0002)
第49巻 p.443 ページ画像

国家学会雑誌 第二四巻第七号明治四三年七月
明治四十三年五月十九日東京帝国大学集会所ニ於テ開会
  故伊藤公爵追悼会演説
  ○開会ノ辞       評議員長法学博士 穂積陳重君
  ○伊藤公ト国家学会     法学博士男爵 阪谷芳郎君
  ○伊藤公ト財政経済         男爵 渋沢栄一君
  ○伊藤公ト立法事業       法学博士 梅謙次郎君
  ○伊藤公ト憲法制定事業       子爵 金子堅太郎君
  ○伊藤公ヲ追悼ス          伯爵 大隈重信君
  ○挨拶         評議員長法学博士 穂積陳重君
  ○謝辞           文学博士子爵 末松謙澄君


国家学会雑誌 第二四巻第七号明治四三年七月 伊藤公と財政経済 男爵 渋沢栄一君演説(DK490151k-0003)
第49巻 p.443-450 ページ画像

国家学会雑誌 第二四巻第七号明治四三年七月
    伊藤公と財政経済
                男爵 渋沢栄一君演説
評議員長閣下、臨場の諸君、故伊藤公爵の如き大政治家、大偉人の追悼会にして、其御集りの諸君は最も学者の粋を抜いたと云ふ方々と御見上げ申しますのでございます、而して場所は帝国の学問の本家本元たる此御殿である、斯う云ふ場所で一言を申述べますのは、学問に縁の無い私共には頗る光栄でございますが、同時に少しく恐縮致す次第でございます、併し先日評議員長から、故公爵閣下の実業方面に付て縁故の深いものは、先づ私であらうと云ふ評議員の御議決であつたから、是非一言を申上げるやうにと云ふことでございましたによつて、欣んで御請を申し、玆に参上致した次第でございます、只今評議員長の御述べの如く、あとにも段々諸大家の種々なる御話がございますやうでありますから、私の実業関係のことは成るべく簡略にして、短い時間に所感を陳べませうと思ひます。
私が公爵に御目に掛りました抑もの始めは明治の二年である、数へま
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すると四十二年目に相成ると云ふ古い経歴を有つて居りますのでございます、当時、御列席の大隈伯爵にも故伊藤公爵と共に大蔵に在らせられて、天下の財政経済の任に当られて居りましてございます、私は其頃静岡の藩士で居りました為めに、御呼出に預つた明治政府の御役人を少しも知らなかつたのでございます、明治二年の十一月頃伯爵又公爵にも御目に掛かつたと記憶して居ります、其時の大蔵省の事務は維新匆々の際であつて、今夕最後に御演説を下さる大隈伯爵が最も主として其衝に御当りであつたやうに存じまする、而して百般の事務孰れの方針に進んで行くがよいか所謂錯雑極まると云ふ時代であつたから、其際伯爵から私は御説得を蒙つたことは、今以て記憶して居りまするので、度々諧謔的の談話として人に話すのであります、私が静岡藩士として出て参りまして、新政府の事務に付て何も知り得ることもなく又尽すだけの能力も無いから、職務の御免を蒙りたいと云ふことを申出でました時に、大隈伯の御説得の主旨は「現今の世の中は殆ど混沌である、維新の制度が立つたと言ふも何も出来上つたことが一つも無いじやないか、君は祝詞の高天原に神留まると云ふことを知つて居るか、八百万の神たちが集つて、神集ひに集ふと云ふことを知つて居るか」、「それは何処かの神主が言つたことでございませう」、「それを覚えて居るなら今日僕も君も神では無いか、共に国家に尽さうと云ふことを誓へば宜い、静岡藩がどうだ、他の強藩がどうだと云ふやうな考を有つてはいかぬ、殊に今日の国家の事は吾々がやらなければならぬと云ふ場合だ、そこで志のある人々を集めて神集につどひ神謀りに謀る所であつて、静岡藩だから御免を蒙る抔とそんな下らぬことを云ふてはいかぬ」と云ふ御説諭を受けたことを、昨日今日の如く覚えて居ります、御本人が御出になるから必ず御記憶でありませうが、大隈伯爵は必ず御忘はなからうと思ひます、故伊藤公爵にも其際同時に拝顔を致しまして、是も神様の御一人で頻りに神謀りに謀りつゝ入らせられたやうである、而して其事実に付て私の良く記憶致しまするのは明治三年の十月でございました、伊藤公爵が言はれるには、此姿では何分大蔵省の事務を十分に発展して行くことが出来ぬから、自分は玆に米国旅行をして十分なる取調をして来る、それに付ては政府に対して海外旅行の必要といふ建議を書くやうにせよと云ふことで、其文章は私が起草したのであるが、文章ではない、願書でございますが、それは明治三年の十月である、詰り財政経済を米国に則つて発達させやうと云ふ御意念から起つたのであつた、其御旅行に公爵に御随従した人々は死なれた福地源一郎、又今の芳川伯爵、此両氏と吉田次郎氏とであつたと記憶致して居ります、而して公爵が亜米利加に御越になつた後、彼の地の有様を取調べられて日本に申越された、即ち主としては大隈伯爵、続いて私共にまで通信して、是非其事を尽力せいと云うて寄越された、種々なる要件があつたやうでございましたが、今記憶致して居ります重要の事は四つであつたやうに覚えて居ります。当初維新の経費を支弁する為めに財源がなかつたからして、由利公正君の建議によつて、其時分に太政官札と云ふものを通用して居つた、而して大蔵省としては相当なる方法を立てゝ、是非此太政官札に兌換の
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制度を立てたいと云ふことから、大隈伯・伊藤公爵などの深い御希望であつた、又御期念であつた、之を兌換制度に引直すには、千八百六十年来亜米利加に行はれて居る国立銀行制度に依つて、其の方法を講ずる外ないと云ふのが一の御意見であつた、而して此亜米利加に行はれた国立銀行制度、及其行はれて行く実際の景況を丁寧に取調べて日本へ送られました、之が一の懸案であつた。今一つは公債問題でございました、元来日本では、貸借金の証文も甲乙相対で之れを秘密にして、貸すと云ふことも公言せぬが、借りると云ふことに至つては、殆んど公衆の前にでも言はれると大恥辱と云ふ如くになつて居た、個人の間がさう云ふのであるから、国としても其通りで、国家の借財を債券に依ると云ふことは、殆んど世の中に唱へられぬやうになつて居つた、けれども外国の財政経済はさう云ふ有様でないから、是非共に公債の制度を設け、相当なる習慣を付けて之を発達させねば、国家の富を増すと云ふことは決して出来ないやうに思ふ、それに付て亜米利加の公債の仕組は斯様である、欧羅巴の振合は斯うなつて居る、是非此公債の制度を日本に行ふやうにしたいと、之を第二の希望として丁寧なる見込を添へて御申越しでございました。
もう一つは貨幣の制度であつた、維新前の日本の貨幣と云ふものは確乎としたる方式はないので、金と銀との差別も本位定位といふ明瞭なる区別は無かつた、但し従来の習慣法でも金に対して銀を同じ目方で取ると云ふやうなことではございませぬ、ございませぬけれども、海外のそれの如く整然たる極まりはなかつた、而して其初め故伊藤公・大隈伯などの御考へは是非金貨制度にしたいと云ふ御意念であつた、然かるに丁度其頃英吉利から開店して居つたオリエンタルバンクと云ふものがあつて、其の支配人にロベルトソンと云ふ人があつた、是は東洋通であつて、頻りに支那・日本の近況にては金貨制度を以ては完全な通貨たらしむることは出来ないから、矢張り銀でやるが宜しいと云ふことを主張された、只今であつたら大隈伯の如き学問と言ひ識見と云ひ勝ぐれた御方は、馬鹿を言ふなと仰しやるであらうが、当年に於ては或は仰せなかつたかも知れぬ、或はロベルトソンの説に多少疑を起して居られても事実金貨がなかつたから、金貨制度は困難と思はれた様であつた、伊藤公爵も矢張り其間に䠖跙逡巡のやうである、所が亜米利加の金貨制度を見て酷どく欣羨されたと見えて、是非是は金貨制度にしなくてはならぬ、今は躊躇する時機でないから、速に相当なる制度を設けて、仮令金が十分でないにもせよ、制度だげでも切めて布くやうにしたいと云ふのが第三の希望のやうであつたのでございます。更に一つ申越されたのは其時分の諸官省の法制と云ふものは、昔の大宝令に依て定められて、令義解と云ふものは其時分の官衙を支配する一の金科玉条になつて居つた、即ち大蔵省と云ふ名も、大宝令から出た名であつて、今以て其名に依り居る所から見ると、中々大宝令の力も四十年も伝つて居るは、頗る強大であつたと申して宜しい、併し其名はあつても、今日は事実が全く欧羅巴式に変つたやうですが其時分の官制は総て令義解に依て居つたやうで、而して出納の方法、金銀の出入などと云ふものも、尚且令義解然たる取扱であつたから、
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是ではいかぬと深く感ぜられて、大蔵省の職制、事務章程の如きものを是非直さねば以て其実際を動かす事は出来ぬ、現在の職制事務取扱の規則が、千年昔の有様で居つては、迚も整然たる事務も取扱ひ得られねば又簡便なる取運びも出来ない、故に此官省の制度を直すが宜からうと云ふ、此四のことが、明治四年の春頃であつたと思ひまする、詳しう書き送られました。
大蔵省に於てはさなきだに日常用の多い役所が、さう云ふ新らしい問題を而かも有力なる故公爵から言ひ送られまして、何とか解決をせなければならぬと云ふことになつたから、私共手足となつて働く者は、いとゞ擂粉木を尚強く摺り合せなければならぬと云ふ次第が生じたやうに覚えて居ります、併し其事柄は大隈伯爵が大蔵省に御出であつて主としては故公爵が伯爵を目当に書き送られたやうでありましたが、其後聊か任務が変更致して、明治四年の秋頃からは大隈伯爵は政府に御這入りになつて、大蔵卿が故大久保利通公で大蔵大輔が井上、今の老侯爵となつた故に、最初伊藤公爵の書き送られた時の人々と相違は致ました、けれども事柄は是非共に之を行はなければならぬと云ふので、遂に明治四年から続いて五年の間に頻に其事を攻究しました。
そこで第一に御申越になつた銀行の問題は、明治五年に至て遂に国立銀行条例が日本に発布に相成りました、其発布になつた原因は、明治三年の故伊藤公爵の発意であつたと云ふことは、誠に明なる事実で、歴史に明証されて居るのでございます、其後此銀行の条例を大隈伯爵が大蔵省の事務総裁をなさる頃、即ち明治九年に於て大に修正され、其後又十六年に於て松方侯爵の時代に再び変つて、明治五年から九年頃に成立したる所の銀行が、其条例によつて許可せられてから二十年を経過した後は最早国立銀行として継続を許さぬ、私立の銀行として継続を許すやうに相成つて、今日に及んで参りました、其以後の変化又は拡張は玆に申上げ切れませぬが、其創立の原因は右様の次第であつたと云ふことが、第一に伊藤公の実業界に大なる御関係のあつた点と申されるのであります。
次に公債のことも前の如く、必要を御申越になつて居るので、大隈伯も是非何とか工風しやうと云ふ所に、只今述べました通り御職掌が変りましたが、希望としては同一であつた故に、跡を引承けられた所の井上侯が、此公債を如何なる手段で世の中に発表して宜からうかと、大蔵省に於て種々評議をした所が、恰も良し明治四年の七月十四日であつたと思ひますが、廃藩置県と云ふ霹靂一声の大変革が起つた、王政維新は種々なる大激動で、其中には戦争も加つたが、此廃藩置県と云ふのは、御書付一本で、寧ろ王政維新の時の総督宮が推して来たよりも未だ酷どい変化を国内に惹起した、後日書物の上にも形の上にも左様には見えなかつたかしれぬが、殆んど日本の国力を完全に増進し得たと云ふのは此廃藩置県の一挙である、若しも明治四年の七月十四日に廃藩置県の実施無かりせば、日本の国は何時までも神経衰弱、半身不随で居らなければならなかつたと思ひます、斯の如き決断の行はれたのは、是は公爵も伯爵も其他の種々たる元勲方の力でありまして是は今此処で申上げる迄もございませぬが、それが今の伊藤公爵の御
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申越になつた公債をして世の中に形作らしめる一の導をなした、何となれば其時分には前に申す通り、中々貸借と云ふものは親類の間にも知らせぬと云ふ風習でありましたから、例へば外国に如何に結構なことがあると云ふても、公けに金を借ると云ふ事を政府が言ひ出したからと云ふて、おいそれと資本家が貸すなぞは致しませぬ、故に公債が国家の経済上に良いからと云つて、其公債を形作らして、さうして世間に習慣を与へ便利を知らしめると云ふ方法がない、何か思案は無からうかと云ふに恰も良し、諸藩の其治下の人民から借金して居つたものを政府が引受けなければならぬと云ふことになつた、政府は之を引受けても、直ぐ様金を返へすことが出来ない、そこで之を公債証書と云ふものにしてやつたならば、言はゞ公債証書の方法を教諭するのと借金を年賦で返すのと二つの良い仕方になる、所謂一挙両得であると云ふことになつた、大蔵省にも其時分は中々智恵者があつて、遂にさう云ふ案が至極宜からうと云ふので決定した、右の諸藩の借財に付ては相当の区別を要する筈で、往時天保の頃に水野越前守の老中たりし時棄捐と云ふ事を布告した、其年月は覚えませぬが、棄捐の方法は総て其時迄の金銀の貸借は幕府に於ては処理せぬといふのであつた、故に此度の処分も其棄捐以後、維新になるまでの借財は新政府の直接の貸借でないからして、旧公債と云ふ証書を渡さう、新らしく出す公債証書を旧と云ふ字を付けるのは可笑かつたが、併し新と云ふものがあつたから、新に対する旧としたのであつた、又其新公債と云ふのは、如何なるものかと云ふと、是は丁度維新になつてから、明治四年まで即ち廃藩置県の実施されるまでの間の借金、之をば新公債として年四分の利を付けてやる、其前のものは五十ケ年の年賦で元金だけやる、即ち新公債、旧公債と云ふ制度はそれから起つたのである、之を以て公債の御手本を世の中に布いて見やうと云ふことが、井上侯爵の大蔵省担任の時に行はれた、即ち明治三年の伊藤公の御意念が実施されるやうに成つたのである。
次の貨幣制度も是も明治五年でございます、是非速に真正なる金貨制度に致さうと云ふので、それから貨幣条例と云ふものを作つて、此条例に貨幣に関する細い理由を書いた、条例に彼れ位丁寧に講釈の付たものは、殆んど千古ないと申しても宜い位であつた、各種の貨幣は皆雛形を付けてさうして其条例を出しました、実に金貨制度と云ふものは、其時には兎に角完全に定まつた、但し事実金が無いものですから制度は整然としたが、実際は矢張り一円銀を以て通用した、所謂銀貨国たらざることを得なかつた、是はまだ実体が其処まで進んで来なかつたのである、決して原案者若くは之を施行した人の罪とは申さぬで宜からうと思ふのでございます。
更に一つ申上げました官制の制度である、蓋し官制と云ふものに付ては、他の官省までも速に其時実施されたか若くはあとになつたか其辺は記憶致しませぬ、併し大蔵省に於ては伊藤公爵の建議が如何にも然りと云ふので、諸寮司の章程を而かも明治四年の八九月頃スツカリ直しました、其之を直すに付ては中々面倒であつた、各寮司の人々と引合して、それでは此方が差支るとか是では彼方の権利が縮むとか云ふ
 - 第49巻 p.448 -ページ画像 
やうな、今日でも随分御役所にある例でありませうが、私は久しくさう云ふことに関しませぬから知りませぬが、当時の議論は今日よりも未だ一層強かつた、而して之に加ふるに腕力を以てすると云ふやうなことまであつた、殊に伝票の仕組などに付ては、一体伝票とはどう云ふものであるか、之を説明する人にも半分は分らぬ、聴く方では尚分らぬと云ふやうな有様でしたから、良いとは知つても之を拵へ且之を実施すると云ふには余程骨が折れましてございます、是は明治四年の九月頃で、公爵が彼の副使として欧羅巴に御発途になつたのが十一月頃であつたと思ひますから、其発途前に是非此事を取極めて仕舞いたいと云うたことを記憶して居ります、其年の春若くは五月頃に建議されたものを半年以内に之を実施せしむると云ふことは、其局に当つて居る井上さんが極性急な事をするのを御好きな人であつて、又是に随従した者も疎忽であつたか知らぬが、世間では此改正は尚ほ早からうと云ふやうなことを言つて居つた――之が私の伊藤公に随従して居つた時代に於て、伊藤公が実業界に対する改新の端緒を御開きなすつたと云つて宜からうと、深く其功徳を肝銘し居る次第でございます。
続いて私は明治六年に官途を去りまして、今の位置に移りましたから全く身分の変りましたものと相成りました、けれども引続いて御懇意は御願して居りましたから、又経済上の事柄は官と民との差別なく始終関係することでございますので、例へば明治九年に華族の方々が鉄道を奥州に架けたいと云ふことを頻りに相談して居られましたが、其時の大名華族の人々でも青森までの鉄道建設と云ふことは迚も出来得ぬと云ふことからして、遂に京浜間の鉄道を華族が買はれたら宜からうと云ふ議があつた、是等は伊藤公爵が是非それをやらせて見やうと云ふので、遂に其議が成立つて、私が其周旋人で二十三人ばかりの華族の組合が京浜の鉄道を伊藤工部卿と契約して、七ケ年賦で売買の約束をしたなどと云ふこともございます、又前に申した銀行のことに付ても、斯く修正したいとか之を斯う云ふやうにとか、種々御話し致したことも少なからぬやうに思ひます、或場合には会社の事業に付きまして、殊に公爵に御力を添へて戴き、又或時には種々なる調停の労を御執り下だすつたなどと云ふこともあつて、決して浅からぬ御心配を掛けたやうに記憶して居ります、私の従事する事柄と、公爵の御執りなさることゝは全く違ひまする所からして、前に申上げました時の如く、屡々説を相交へ教を受けると云ふことは少なかつたかも知れませぬ、けれども実業界に深く御心を寄せられて、引続いて始終経済財政に御力を添へて下だすつたと云ふことは、申上げ尽し得られぬと思つて居るのでございます、殊更最終に韓国のことを御配意なされ、統監として御任じなすつたので、丁度私が第一銀行の主任者として韓国に対しての関係を深く持て居りましたから、是等のことに付ては別して篤い御指導も受け又御心配も蒙つた、御幇助にも預かつたと申さなければならぬのでございます、統監を御辞任なすつた後までも、其事に付ては常に御話を申上げて、御心添も願うた次第でございます。
想ひ起しますと、昨年私は亜米利加旅行を致しましたに付て、出立の前故公爵は韓国の太子を御同行なされて、北海道へ御旅行の場合であ
 - 第49巻 p.449 -ページ画像 
つた、私の旅行も迫りましたから、御帰りの上で立つ訳にゆかぬので一日官邸に罷り出でゝ御暇乞を致したのを記憶致して居ります、軈て帰りて御目に懸らうと云ふのが思ひきや永訣に相成つたと云ふことは実に残り惜いのでございます、私は亜米利加に於て十月廿六日にボストン地方の旅行を終りてウヰスターと云ふ所に参りまして、其凶変を承りまして、実に驚愕致した、初めは決して事実でなからう、さう云ふことのある筈はないと申して、頻りに他人に向つて虚伝なることを申し張て居りました、再度三度の来電がどうも虚伝でないやうである遂に紐育に電報を掛け、華盛頓に電報を掛けて確報を聞きますと、それが事実であると云ふので、如何にも残念千万なことだと存じ、丁度其日はスプリングヒルドで宴会に出まする約束であつたけれども、一同斯かる場合には宴会を避けて遠慮致したが宜からうと云ふので、其スプリングヒルドの宴会を俄に申訳をして断りました、夫等は海外の人人も、成程日本人は情に深い人民であると、折角の用意が無用になつたにも拘らず、寧ろ吾々の其日の宴会を謝絶したのを賞讚すると云ふ訳でございました、又費府に参る頃までも至る処に国の凶変を慰問され追悼されるので、歓迎の言葉は追悼の言葉と併せて述べられて、それに対して各所に答辞を申述べたと云ふやうな次第でございました其時のことを今思ひ出しても、ウヰスターの汽車の中で午前七時頃に新聞記者が参つて、頻りに問答を致して偖愈事実であつたかと云ふことを確めたのを思ひ出しても、真に涙に咽ぶやうな心持が致すのでございます、私は公爵に久しく御親みを致しました為めに屡々御接遇して、或場合には訓戒を受け、又或場合には議論もしたこともございますが、常に此微力者を愛すると云ふ御誠意で良く吾々に親切なる誘導をして下されたやうに思ひます、殊に記憶して居りますのは、或事業に付て他に向つて自ら不満といふやうな意味を以て、私が公爵に御話をした場合に、懇々と言はるゝに、兎角日本の商売人が事業に関して或は誹謗或は嫉妬と云ふやうな心を以て、己を立てゝ人を捨てると云ふ風習が多い、君などは欧羅巴風の学問は為されぬけれども、相当なる漢学も修めた人だから、成丈品格を良くしたいではないか、努めてさうありたいと思ふ、君にして自分を立つるには、先づ人を誹ると云ふやうになるは甚だ面白くないから、是非さう云ふ風習は御互に止めるやうにしなければならぬと云ふて、懇切に教訓的御談話を受けたことを覚えて居ります、今日に於て勘考して見ても成程左様である、己を褒めるには先づ人を誹るが世の中の常である、兎角に人はさう走り易いが、伊藤公爵が斯う云うて下さつたは、自身がさうなさるからであらう、他を誹つて己れを是とすると云ふことは殆んど人の悪徳である、此悪徳を戒めた言葉は実に金玉と聴かねばならぬと思つて、私は深く其事を敬服して今も忘るゝことの出来ぬのでございます。
私は明治政府の元勲の方々の為さり方を見ますると、深く敬服して居ります、例へば大隈伯の如き、御自分が斯うといふ意見を御立てなすつたことが、其通り自分の手に屹度成るものではない、今申上ぐる如く、例へば公債証書のことは伊藤公爵の建議が井上さんに依て成り、銀行のことが後日松方侯爵に依て就ると云ふことがございましても、
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御自身の宜いと思つたことは、他人の手によつて成就しても、元勲の方々は皆共に喜んで我手に成つたと同様に思つて居ると云ふことは、即ち明治の政治が今日ある所以である、此先輩者が斯く公徳に富んで居るから今日の隆盛あることであらうと深く敬慕するのでございます而して其敬慕すべき事柄が最も伊藤公爵には多かつた、故公爵の御徳は今も尚実に心に銘して慕はしく思ふのでございます、又事に当て実に勉強なされた御方と私は深く感じます、曾て私が何か書いて下されませと云うて書いて下すつた掛物が尚存して居ります、其文字が多分斯うであつたと思ひます、胆以主之識以補之強力以済之、斯う云ふ文字であつた、私を戒める積りで書かれたのでもなかつたやうであつたが、何かの場合其処に筆があつて一枚書いて下さらぬか、良し書かうと云ふので書かれましたので、為渋沢道兄書と書いてあります、私は之に由りて行へと云ふ意味と思つて頂戴して、自分は常に修養して居りますが、公爵其人が即ち胆以て之を主り識以て之を補ひ強力以て之を済した御方と申して宜からうと考へるのでございます。
前に申す通り私は生憎と斯かる兇変の場合に日本に居りませぬから、御列席の諸君よりは何やらん尚残り多いやうな感じが致して居りますのです、十二月十七日日本に帰りまして其当時のことを聴き、其有様を伺うて深く歎いて居りました、翌月即ち一月二十六日御墓前に参拝しまして、前年の八月の初めに御別れ申したことを思ひ出して暗涙を催したのでございます、其時拙劣な詩作でございますけれども故公爵を哭する一絶を得てありまするで、玆に御披露しまするが、亜米利加で兇変を聞きましたので斯う云ふ詩を作りましたのでございます。
  異域先驚凶報伝 霊壇今日涙潸然
  温容在目恍如夢 花落水流四十年
丁度四十年の永い歳月厚い御懇親を受けまして始終指揮誘導の下に奔走したものが、今は此追悼会に於て実業界に関する愚見を陳述するの場合に至つたのは実に追懐に堪へぬのでございます、玆に私は故公爵に関係して居りました事柄の一端を申述べて、諸君の清聴を煩はした次第でございます。(拍手)