デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
6節 追悼会
5款 徳川慶喜追悼講演会
■綱文

第49巻 p.456-462(DK490155k) ページ画像

大正2年12月12日(1913年)

是日、東京高等商業学校ニ於テ、東京市講演会主催ノ、徳川慶喜公追悼講演会開催セラル。栄一出席シテ追悼演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第三〇八号・第七六―七八頁大正三年一月 ○東京市講演会(DK490155k-0001)
第49巻 p.456 ページ画像

竜門雑誌 第三〇八号・第七六―七八頁大正三年一月
○東京市講演会 東京市にては、旧臘十二日午後六時より神田一ツ橋東京高等商業学校に於て、東京市と最も深き縁故を有する故従一位徳川慶喜公の事蹟に関する講演会を開きたり、当日の講演者は青淵先生及文学博士萩野由之君にして、同博士は「江戸城開城始末」と題し前後三時間半に亘る大講演を為したる由○中略
次ぎて青淵先生には感慨無量に堪へざる如き面持にて、文久三年始めて同公に知られてより故民部大輔に随行渡欧し、帰朝後直に公に親しく謁見せられたる当時の公の心事、及び爾来引続き今日まで主従の関係を保てる間に於て感得したる公の偉大なる人格に就て講演せられたり○下略


竜門雑誌 第三二二号・第一一―二〇頁大正四年三月 ○故従一位徳川慶喜公 青淵先生(DK490155k-0002)
第49巻 p.456-462 ページ画像

竜門雑誌 第三二二号・第一一―二〇頁大正四年三月
    ○故従一位徳川慶喜公
                      青淵先生
 本篇は青淵先生が大正二年十二月十二日東京市講演会の主催に係る東京高等商業学校に於ける故従一位徳川慶喜公追悼講演会に於ける演説なり、今その速記を得たるを以て遅延ながら玆に之を掲載することゝせり(編者識)
 満場の諸君、今夕の講演は萩野博士から徳川前将軍のことに付いて系統的に順序を立てゝ御話がありまして、大分時間を費しましたから私は余り諸君に御退屈をお為せ申しませずに極く短い御話をいたします、既に前席の講演で前将軍の御履歴は大抵尽して居るやうでありますが、私は丁度五十年前に公に一橋藩に於て始て召抱られて、五十年の間殆ど一日の如く終始替りなく接近し、其間多少御世話も申上げたと云ふやうな深い関係を有つて居りますで、今萩野君の表面の御話に反して、内輪づくの自己一身が公に関係した事柄を、或は断片的に相成りませうけれども二・三申上げて、併せて公に対する感想を加へて此の講演を終らうと思ひます。
 回顧しますると私が二十四歳の時、即ち文久三亥歳でありました、此の東京から二十里ばかり隔つた埼玉県下の田舎から駆出して、書生のやうな浪人のやうな身体で京都へ参つたのであります、左様な若年な身でありましたけれども、私ばかりでなく、其の頃の青年に、此所に掲げてある討幕論は諸藩にのみではなくて、田舎の農工商にも尚ほ
 - 第49巻 p.457 -ページ画像 
あつたのであります、私も当時は討幕論であつて、所謂鳶が飛べば雀も羽づくろひをすると云ふやうな一人でありました(笑声起る)、所が誤つて其の事が失敗に了つて終に京都に参つて、一言に申せば方向に迷ふて、甚しきは縲紲の辱めを受くることになりはしないかと云ふ場合に公に救ひ上げられたのであります、そこで討幕論者が変じて、幕府の懿親たる一橋公の御家来となつたのであります、(拍手、笑声起る)今日では世の中で君と仰ぐは申上げるまでもなく上御一人である、併し明治以前、文久・元治、若くは慶応までは、天子に対しては平民などは臣とは云ひ得ぬで、当時に於て君と云ふものは直接我が奉仕する処の主人であつた故に君臣の情誼と云ふものも其段楷が甚だ多うかつた……仮令当初幕府に対して討伐の考慮を有つたにせよ、これを捨てゝ我が主人に対して其身を致さねば臣たる本分が欠ける、況や公は唯今萩野君が段々御取調になつて着々賞讚するに余りある所の御方であつて見識もあり、人望もあり、総ての方面に円満なる御人でありましたから、之に感奮して忠君の力を尽さゞるを得ぬのでございました、数年の間勤務して居る間に、一橋藩の政治に幾分か裨補いたしたこともあるのでございます、間もなく世は変じて公は宗家の相続をせねばならぬと云ふ場合になりました、前に申上げた通り文久三年に京都へ参りまして、元治元年の二月に御奉公を始めましたから、即ち今年で五十年になります、元治元年が子歳で、子・丑・寅・卯・辰と即ち私が一橋藩に仕へてから五年目で世は王政維新になつたのであるから、僅々数年間でありますけれども、此頃は世が様々に変化しましたから、大層歳月が経つたやうに思ふた、其の数年間に、例へば一橋の兵制を改革するとか、或は財政を整理するとか、今で申せば軍備拡張・財政整理と云ふやうなことに付て私は余程力を尽したのであります、但し其の間は二・三年であつて唯今萩野君の講演中にございました通り、慶応二年寅歳の七月徳川十四代将軍の薨去、其の後継者となると云ふことは、我が慶喜公に取つては実に容易ならぬ困難なる場合であつたのです、今日から審思熟考しますると、此宗家の相続と云ふことは、所謂将来を予想して初代は家康公であつたから終りに自分が立つて、此の帝国に瑕瑾を付けずして朝幕間の政権の授受をしやうと云ふ大決心があつたやうに思はれます、私共の凡眼にはそれが分らなかつたから、将軍家の相続と云ふことに付て私は切に不同意を申したのであります、萩野君は其の当時の有様を叮嚀に講演になりましたが私も青年ながらに其の時代の形勢が能く分つた、分つたに依つて、此の相続を為されば御一身にて諸方の攻撃の衝に当り、甚しきは先年長州が朝敵の汚名を受けたことがあるが、悪くすると同様の境遇に陥らざるを得ぬ、今日の幕府と云ふものは到底此の姿で維持することは難いのであるから、此際に宗家を御継ぎ為さると云ふことは、所謂飛んで火に入るやうなものであるといふて、私は一橋の家来として頻りに将軍家相続に反対して、重臣によりて極力諫め上げたのでありましたけれども、親しく言上することも出来ずに終ひに御相続になりました私の身に取りては数年間一橋藩に勤めて、今日御相続になつた為め主君を失つたやうな観念がして、世を味気なく感ずるやうになつたので
 - 第49巻 p.458 -ページ画像 
ありました、然るに将軍家相続の後に、仏蘭西との親善を進めると云ふ趣旨と、及び千八百六十七年は巴里に大博覧会があつて、其博覧会には各国から大使若くは王室の親族、中には国君自身が出掛けると云ふやうな礼典があつた為に、日本からも誰ぞ御遣りなさいと云ふことを駐在の仏国公使から勧められた、萩野君から当時仏蘭西と幕府との関係を詳しく御話になりましたが、左様に極く密接した間柄であつたから、勧めるのも無理はなく又受けるのも当然である、そこで終に徳川民部公子(慶喜公の実弟にて水戸烈公の十八人目の公子である)が其博覧会の礼典に参列する大使として御越しになりました、其時に私は随行員として御供を命ぜられたのであります、それは慶応二年寅歳の冬で、即ち公が将軍家相続の歳でありました、大使の日本を出立いたしましたのは慶応三年の一月であつた、私が此の命を受けたのは御相続なさつてから少し後であるから、常に御側に居つて私よりも位地の高い、水戸から這入つた原市之進と云ふ人が其頃は幕府の目付と云ふ職を有つて居りましたが、此の人から私に仏蘭西行きのことを命ぜられました、此の市之進が私に内命して云ふには、民部公子はまだ幼年であるし(十四歳の時であつた)、博覧会の礼典を済ましてから数年の間仏蘭西で学問をさせて帰るやうにしたい、此世の中は将来如何なる変化があるか期し難い、誰ぞ頼み甲斐ある人を附けてやり度いが水戸藩から随行する人は皆攘夷家ばかりで時勢に適応しない、渋沢は以前は攘夷説であつたけれども、今日は少し変つて居るから、他日民部の為になるかと思ふ故に彼に此随行を命じたいと云ふことで、原市之進から内命を伝へられた、是に於て私は深く感奮して、而して民部公子の御供をして仏蘭西に参つた、仏蘭西に行つて居る中に、其の年の冬政権の返上、其翌年即ち慶応四年に伏見鳥羽の騒動、続いて軍艦にて急遽の御帰京、其後直に上野の大慈院へ恭順の為に籠居なされたこと、或は水戸に行き、更に駿河に行き、徳川家は玆に家達君に新封地を賜つて静岡藩が出来た、さう云ふやうなことは皆私は海外で書信によりて承知をしたが、其都度唯涙をもつて其有様を知悉したのであります、其時の私の考は、前にも申す通り討幕の念慮を有つて居つたのは昔のことであつて、曩に将軍家を相続なさつたのは公の御考へ違ひであると思つたけれども、既に将軍となつた以上は前に述べたる如き有様で、徳川家の敗滅は如何にも残念なことである、況や伏見・鳥羽に戦端を開いた以上は最早已むを得ない、力を以つて君側の奸邪を除くと云ふことを為さねばならぬと、仏蘭西に居る時には私は一図に考へた、故に巴里から発状の時には屡々友人にさう云ふことを書通した、甚しきは民部公子から直書にて公に諫争させて、以上三・四回も公子の手書を発する御手伝をしたこともあつた、故に若しも私が其位地に代つたならば、国家は勿論東京もあれ以上の大戦乱が起つたかも知れなかつたが、マア私でなくて誠に仕合であつたと思ふ、(拍手、笑声起る)決して戯言を申した訳ではありませぬ、誰も俺は先見の明があつたと言ひたいがさう云ふことは私は言へぬ、其時に事実思はぬことを思つたなどゝ言ふ位の嘘はございませんから、私は正直に申上げます、(笑声起る)そこで私は辰歳の十二月に日本へ帰つて参りま
 - 第49巻 p.459 -ページ画像 
した、それから直ちに東京の用事を済して、世は維新になつて居りましたから、昨年春出立の時は民部公子として又海外派遣の大使として頗る盛んであつたけれども、帰られた時は一人の迎へを受ける訳には行かない、先刻萩野君は前将軍の上野から水戸に御移りなさる時の有様を窃かに思遣られたやうであるが、私は民部公子が仏蘭西から帰られた有様に付て思ひ合せて、前年の正月は送りの人も盛んであつたが帰つて来た今夕は夜中僅か二・三の人で窃かに上陸すると云ふやうな有様で深い感情を有つて、世の中を寂しく思ふた位でありました、帰国の後東京の用事を仕舞ふてから特に公より内命を受けて居つた身体と存じましたから、受けて居る内命はそれぞれ処置して後駿河に行つて公に御目に懸つた、其場処は宝台院といふ静岡にある極く粗末な寺の一と間に謹慎して御座るのでありました、日は忘れましたが、十二月の末であつた、而かも夜陰に三年ばかり拝謁の中絶した身で御目に懸つた時には負ぬ気の強い私には、公の為され方を真に不満に感じて申さば寺院に蟄居して在られる所に去年以来の将軍に御成りなさつたことから、其以降の御行動が甚だ其当を得ぬと云ふ念慮をもつて、頻りに既往の愚痴を申上げた、其の時に、忘れもしませぬが公は誠に柔かな御言葉で、而かも低い声で、自分は謹慎中である、斯かる有様にして居るのであるから、今例へば京都に居る時、又は大阪に於けると云ふ既往の事を其方が如何に愚痴を言つたとて、それが何等の効能も為さぬではないか、二年間民部に随行して旅行して来た其方であるからなつかしく思ふて面会をした、海外の様子も、民部の身の上も聴きたいと思ふ場合に、去年の私《わし》の行動に付いて愚痴を聴かうとは思はぬから、さふ云ふことを言ふよりも寧ろ必要な話をして呉れた方が宜くはないか、と如何にも温和なる御言葉で今のやう承つて、私は実に悪かつた、成程自分は愚痴な人間だ、公は斯く思召せばこそ是程の勘忍は出来るのである、実に勘忍強い御方だと、心窃かに暗涙を催したことを今も能く記憶して居ります、爾来私はどうぞ公の近所で余所ながら御奉公がしたいと思つた、さうしてそれと同時に、一の紀念と致して静岡に何らかの事業を起さうと云ふ企望を有つて居つたのであります、然るに其の翌年の春、政府から御呼出しになつて、官に就くことは実に好みませなんだけれども、まだ宝台院に蟄居してござる公が、静岡藩の者が朝廷に召された時にこれを拒むと言ふことは却つて畏多いから、召されたら悦んで奉仕するが今日の臣子の分であらう、と頻りに説得されて、それから東京に出て五年の間大蔵省に勤務を致したのであります、爾来時を見ては、駿河にござる公に謁するのを一つの務め、若くは楽しみと致して居つたのです、官に在る中は自由にも参りませぬでしたが、明治六年に官を辞して以来四十年近くになつて居るが、公が明治三十年に東京に御移転になります前は、明治七年から二十九年迄大抵年に一度づゝは静岡に御訪問をして御様子を見上げ、色々の御話をすることを唯一の快事と致した、公も亦私の伺候を御待ちなすつて、種々なる談話に時を移したのであります、其間私の最も敬服したのは、幾回御目に懸つても世上の評判には少しも耳を傾けぬのであります、始め駿河にござる時に東京の様子は御分りがないから
 - 第49巻 p.460 -ページ画像 
政治上・社会上のことに付いて御尋ねもあるべき筈、又御話したいと思ふて、兎に角将軍職もなされた御方で、国家の政務に付いては相当なる思慮考案もあられるから、時の政治の可否得失には多少の御批評もあるであらう、又私も官途に居つた関係から、今の内閣は斯々で困却すると云ふやうなことを申上げても、さう云ふことに御挨拶なされぬ、他の風月の談、若くは知人の起居動作、或は社会一般の風俗、年の豊凶と云ふやうな事柄は興に入りて御話になりますが、談偶々政治に付いての是非得失になると一言も批判されたことはございませぬ、静岡に御籠居の時より薨去になるまで、さう云ふことに付いては一言も御話がなかつたと云つて宜い、私も各種各様の人に面会談話して世の中に随分交際も狭くはない積りである、殊に政治界の御人、所謂元老などゝ云先輩にも相当に知人があつて、懇意に御話もするが「俺は昔日から斯う思つた」とか「終には斯くなるであらうと思つた」とか「あんな馬鹿なことをするからいかぬ」とか、大概誰でも同じ口調で他を誹る(笑声起る)、中には其の実自己が馬鹿なことをして遣り損なつて居る事をも、自分は其の衝に当らぬで人の遣り損した如くに、全体あんなことをするから違却する筈である、あんなことをやるのが間違であるなどゝ言つて謗る、大方の君子と雖大抵皆然りである(笑声起る)、之に反して公は四十余年の間一度もさう云ことを言はれない如何に堪忍が御強く、如何に冷静であると云ふことは、迚も私抔の企て及んだことではございませぬ、唯今も萩野君が御経歴を話された中に、例へば井伊掃部頭が大老であつた時分に、公は蟄居を命ぜられて一年ばかり謹慎して居られたことがある、此掃部頭と云ふ人は水戸烈公とは大反対なる人で、殊に公を儲君に立たいと当時他の有志の争から終に公が譴責を受けたのである、而して時の将軍家と云つても殆ど事理を弁ぜぬ位の御方で、実は政治を執つて居る掃部頭の為した事と云ふのは公には明白に分つて居る、且つ其の掃部頭は、公から見れば謂はゞ臣下である、然るに思召の旨を以て謹慎を命ぜられると、凡庸の人ならば掃部奴俺《かもんめ》を酷い目に遇せたと云ふて、玄関前では謹慎を装ふても奥の間では趺座《あぐら》でもかいて居るのが普通《ふだん》である、(笑声起る)二十歳前後の時に於て殆ど一年の間毎日必ず裃を着けて、而かも昼は戸を明かに開けず謹慎をされたと云ふやうな、非常に堅忍の御方であつた、それから明治元年に上野の大慈院に在つた時もさうである、短かい間のことであるけれども、二た月ばかり必ず裃を御着けになつて始終御座り為されて、座を崩されなかつたと云ふことである、前に申述べた他人の褒貶を為されなかつたに引替へて、大事に対してはどう云ふ決断を有つて御出でなさつたかと云ふに、先刻萩野君の講演された通り、例へば仏蘭西のレオン・ロツスから頻りに御加勢の事を御勧め申上げた時には、多く人の迷ひ易い場合であるに拘はらず、国家が大切であると云ふ御観念から断乎として御拒絶なさつたのは、実に事の軽重を明にして毅然たる意志を有つて御出でになつたのであります私は前に述べたやうなる縁故から実は明治の初、公がまだ静岡に日蔭の御身で御出でなさることを、如何にも遺憾に思ひまして、換言すれば此世の中が余りと云へば眼の見えぬ訳である、当時若しも公が負惜
 - 第49巻 p.461 -ページ画像 
みの強くして痩我慢を以つてなりとも、兵を挙げたならばそれこそ国家は大騒動になる、当時幕臣は皆それを勧めたけれども、公は一意断乎として動かぬ、甚しきは自己の身体も風前の塵の如く犠牲に供して惜まぬといふ決心であつた、故に明治功臣の中に忠君愛国の人はと云へば、公を以つて第一と言つても宜い位である、然るに何時までも日蔭の御身で此の世を終ると云ふのは余りに情けないことである、と深く思ふたのであります、そこで公の伝記を取調べて置きたいと云ふことを二十年前から思ひ起しまして、殆ど自家の一事業と致しましたから、左まで大きな設備も為し得られませぬけれども、一つの編輯局を立つて居ります、今尚ほ其伝記の脱稿し得られませぬのは実に残念に思つて居ります、萩野君の講演された幕府衰亡論の径路なる、討幕論の起る由来とか、大政奉還とか、蟄居恭順と云ふやうな、或は遡つて公の御幼少の生立からして、類を分けて調査編纂して居りまする、萩野博士が其編纂の主脳となつてからも軈て五年を経過して居る、其以前は福地桜痴居士に任じましたが、事成らずして遂に故人となり、続いて萩野君を中心として七・八名の文士が之に附随して、今尚ほ尽瘁いたして居ります、蓋し私の衷情も、今日は公の御志が段々世の中に徹底して当初の憾は余程薄くなりましたけれど、四十年前に於てはどうも世の中は情けないものだ、俗に言ふ「勝ば官軍負ければ賊、無理が通れば道理引込む」だ、是は百年の後に、斯様であつたと云ふことを歴史の上に明かにして身後の慰安を為すの外はないと、斯う私は思ふたのであります、先刻も萩野君が御述べになりましたが、武臣が天下の政権を執つて以来、数へて見ますると七百年の間に七度ばかり、中心人物と云ふべき者の替りがある、先づ平氏が盛んであつたのが衰えて源氏となつた、夫から北条となり、足利となり、織田である、豊臣である、而して後徳川である、斯く武臣が移り変つて、各時代の末路を見ますると、大抵、殺戮攻伐で終つて居る、殆どそれなきはないのであります、而して其の場合に国民がどれ程困難をしたか、国家がどれ位損耗をしたか、第一に平家が、一谷・屋島等の戦争の後西海に一門身を沈めた、源氏は北条が代つた為に大なる攻伐はなかつたけれども、頼家は義時に殺されて、公暁は実朝を殺して居る、北条の末路はどうかと云ふと、高時は法華堂で一門命を併せて居る、足利の末路は洵に見るに堪えぬやうな有様であつて、終ひに二十八天下とまでになつた、偶々一統を為さんとした織田は明智光秀の為に亡びて居る、而して之を統一した豊臣は又大阪の乱で亡びた、然るに徳川氏の末路は、多少の衝突はありましたけれども、あの困難な場合に東京をして兵火を免れしめたのみならず、人を殺し、城を屠ると云ふ様なる戦争なしに、政権を更迭し得たと云ふことは、是は其人なくして出来る訳のものではない、私は公の此大偉勲を深く感謝して、其の徳を慕ふて居るのでございます。
 前に申した通り、公の履歴を調べて後世に於て知る人に知つてもらひたいと云ふ考で居りまする中に、事は予期以上にして世の中に能く知れ渡つて、百年の後を期したことが、今日目前に明瞭になつたと言ふても宜い様に思ふのは、私に取りては衷心悦びに堪へぬのでござい
 - 第49巻 p.462 -ページ画像 
ます、御伝記編纂に付て常に私が申して居つたことは、昔し頼山陽が外史を作つて出来上つた時に、白河楽翁公がこれを聞てひどく賞讚した、頼山陽も亦楽翁公の一顧を喜で文章を作りて楽翁公に上げた、其文章中に曰く、凡そ歴史家が歴史を編するは、其の当代を明かにすることを求むるけれども、必しも目前に知られることのみを望む訳に行かない、要するに百年の後を期するものである、縦令現在に知られぬでも百年の後に知られると云ふことを約するのであると言つて彼の宋の蘇轍が韓魏公に書を呈したと云ふことを引合にして、反復論してあるが、私は此外史を読んで、殊に此文章に感じて居つたのであります故に此の伝記を編纂するに付いて、敢て私が山陽の如き文筆を有つて居る訳でないから、左様な事は自分から言ふ訳には行かぬけれども、窃かに百年の後を期したのは山陽と同じ考でありました、併し山陽の志は左様に百年の後でなくて、五十年の後に徳川幕府は倒れたから、外史は五十年にして完全に人に知られたといふても宜しい、然るに今私の編纂する公の御伝記は百年を期したものが、五十年は愚か今日に於て世間から既に認められるやうになつた、是は即ち聖代の徳沢と深く感佩するのであります、私は丁度四十三年以前に父を喪ひました、其の時は大いに力の落ちたやうな気がしましたが、四十三年過ぎて今年又公を喪ふて、何やら父を喪つたやうな感じがして、復び若い身体になつた様に思はれます、斯様に申しますと妙な事を言ふやうでありますが、明治四年に父を喪つた時には一方からは喪つたのを深く悲んだが、其の悲しみと同時に又大いに安心した、と言ふと一向分らぬ言葉になりますが、私が幼年の時から色々父に苦労を掛けて二十四・五から外に出て、明日死ぬか明後日死ぬかと云ふやうなことで、故郷に手紙をやる毎に、父は何れ程心を悩したかと心配したのであります、世は移り変つて維新となつて、仏蘭西から帰つて、終ひに官途に就いたと云ふので聊か父は安心しましたけれども、未だ明治四年頃私が三十一・二歳の時は世の中がどうなるか分らぬと云ふ虞もあつた、此の間に父は始終私の為に心を労して居られたからして、一方には死なれたのを深く悲んだけれども、一方に自分の将来のことを考へて見ると余り案ぜられる父は寧ろ死なれた方が安心だと思つた、(笑声起る)之に引替へて今度公を喪ふたのは、左様な英邁の大偉人であつたけれども、所謂棺を蓋ふて論定まるで、棺を蓋はぬ間はどうなるかと云ふやうな懸念を有たざるを得ぬのです、飽までも美玉に瑕なからしめたいと思ふ身には、一方から考へると百歳までの御寿命と願ふけれども無瑕に終焉をと云ふ心からは、御喪なりなさつたのを是で安心だと悲しみながらも、さう云ふ情合を起すのは、是は尤も感情の深いのであらうと思ひます、斯く申すのも洵に歎かはしい話である、けれども聊も瑕なくして此の世を終られたのはまだしもの事と思はねばなりませぬ、今日も上野の墓所に御墓参りをして涙を濺いで参りました、此御話をするのも涙と共でありますから話が前後いたしました、唯衷情に過ぎませぬから、どうぞ諸君の御宥恕を願ひます。(拍手)