デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
6節 追悼会
6款 沼間守一三十七回忌追悼会
■綱文

第49巻 p.463-464(DK490156k) ページ画像

大正4年5月17日(1915年)

是年、沼間守一ノ三十七回忌ニ当ルヲ以テ、是日、栄一等発起人トナリ、上野寛永寺ニ於テ法要ヲ執行シ、上野精養軒ニ於テ追悼晩餐会ヲ開ク。栄一出席シテ懐旧談ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正四年(DK490156k-0001)
第49巻 p.463 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正四年        (渋沢子爵家所蔵)
五月十七日 昨夜来降雨頻リナシモ朝来曇天風多シ
○上略 午後五時帰京、直ニ上野精養軒ニ抵リ、沼間氏追悼会ニ出席シテ一場ノ懐旧談ヲ為ス○下略
   ○栄一、是日横浜ヘ赴キシナリ。


竜門雑誌 第三二四号・第六九頁大正四年五月 ○故沼間守一氏追悼会(DK490156k-0002)
第49巻 p.463 ページ画像

竜門雑誌 第三二四号・第六九頁大正四年五月
○故沼間守一氏追悼会 東京毎日新聞社創立時代の社長沼間守一氏逝去後、本年は其の三十七回忌に相当するを以て、角田真平・湯沢精司両氏の主唱にて大山公・大隈伯・板垣伯・青淵先生・蜂須賀侯爵・大木伯爵・芳川伯其他朝野名士の発起にて、五月十七日上野寛永寺に於て追悼会を執行し、式後上野精養軒に於て晩餐会を開き、席上大隈伯・板垣伯・青淵先生其他生前知友の追懐談ありて散会したるは午後九時過なりしと云ふ


竜門雑誌 第三二五号・第七〇頁大正四年六月 ○故沼間守一氏追悼会に於て(DK490156k-0003)
第49巻 p.463 ページ画像

竜門雑誌 第三二五号・第七〇頁大正四年六月
○故沼間守一氏追悼会に於て 五月十七日午後三時より上野寛永寺に於て故沼間守一氏の追悼会を行はれたる次第は前号に記載せしが、当日青淵先生追悼演説の一節は左の如くなりと伝へらる。
 明治十二年に米国からグラント将軍の来訪した時、私は商法会議所の会頭、桜痴居士は副会頭として市民代表の意味で夜会式の大歓迎を行つた、元来商法会議所は今日の商業会議所とは趣を異にし、一種外交上の便宜に備ふる為め俄仕立てのものであつたので、当時沼間君は、商法会議所の成立動機と併せて、私が市民代表の名の下に仰々しい歓迎会をやつたのを酷く攻撃された、私が沼間君と知つたのは此喧嘩からで、其後開拓使官有物払下問題や、瓦斯局問題・養育院問題などで終始議論は反対だつたが、情に於ては互ひに相許して居た。


東京毎日新聞 第一四三七六号大正四年五月一八日 沼間守一氏追悼会=(上野寛永寺にて)(DK490156k-0004)
第49巻 p.463-464 ページ画像

東京毎日新聞 第一四三七六号大正四年五月一八日
    ○沼間守一氏追悼会=(上野寛永寺にて)
自由民権の唱導者として夙に名高かりし元本社創立時代の社長沼間守一氏第卅七回忌追悼会は、十七日午後三時より上野寛永寺に於て執行
 - 第49巻 p.464 -ページ画像 
されぬ、本堂正面に白木の位牌を安置し、香煙縷々として満堂追憶の涙繁き中に、いとも厳かに法要は行はれ
▽故人を偲ぶ 切髪の未亡人いと子(六五)に続いて遺児一郎(三六)同夫人八千代(三二)次男英三(三一)令甥敏朗(三五)の諸氏を始め令弟高梨哲四郎・三浦大五郎・須藤壮一郎諸氏の親族並びに蜂須賀候・芳川伯・渋沢男・末松子・金子子・中野武営・尾崎行雄・島田三郎・馬越恭平・箕浦勝人・江原素六氏等朝野の貴紳百五十余名列席、法要終るや、大隈首相は改進党組織に尽瘁せる沼間氏の功績を推称し、今回の総選挙に四十三名の改進党員を出すに至りしは故人の霊を慰むるに足るとの追悼文を寄せられ、板垣伯は
▽明治維新の 征幕戦役の際故沼間氏の部下たりし加藤林三郎(現今高橋義正)氏を捕虜とし、遂に伯と沼間氏と相知るに至りしを説き、氏の半生を追慕するの追悼文を朗読し、並居る人々をして追憶の涙を誘いたり、各地よりの弔文電文は山の如く霊前に供へられ、いと子未亡人以下の焼香ありて式を終る、板垣伯の追悼文にある高橋義正氏は目下静岡韮山中学校に教鞭を取り居れるが、任地より上京列席して、涙ながらに焼香せしは最も異彩を放ちたり
      ▽思出深き懐旧談
追悼会執行後午後五時より精養軒に於いて晩餐会を開き、角田真平氏遺族及び親戚一同を代表して謝辞を述べ、懐旧談の緒口を開き、芳川伯・渋沢男・金子子・島田三郎氏・山之内男の諸氏言々腸を断つが如き懐旧談を試み時の移るを知ず、目の当り故人を髣髴せしめ、午後九時二十分散会したるが、露滴る青葉の下三々伍々懐旧の談尽きず、足の運びも遅れ勝ちなりき