デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
6節 追悼会
8款 市原盛宏追悼会
■綱文

第49巻 p.466-470(DK490158k) ページ画像

大正4年10月22日(1915年)

是月四日、市原盛宏京城ニ於テ死去ス。是日、神田青年会館ニ於テ、追悼会挙行セラル。栄一出席シテ弔詞ヲ述ブ。


■資料

竜門雑誌 第三二九号・第八六頁大正四年一〇月 ○市原盛宏氏逝去(DK490158k-0001)
第49巻 p.466 ページ画像

竜門雑誌 第三二九号・第八六頁大正四年一〇月
○市原盛宏氏逝去 本社の前評議員にして朝鮮銀行総裁従五位勲三等市原盛宏氏は病気の処養生相叶はず、十月四日午後八時五十五分朝鮮に於て卒去せられ、葬儀は同月七日午後四時三十分京城鐘路中央基督教青年会館に於て執行せられたる由、本社は玆に謹で哀悼の意を表す


渋沢栄一 日記 大正四年(DK490158k-0002)
第49巻 p.466 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正四年        (渋沢子爵家所蔵)
十月二十二日
○上略 三時青年会館ニ抵リ、故市原氏ノ追悼会ニ出席シテ、弔詞ヲ述ブ○下略


故市原盛宏記念 第五三―六四頁(大正四年)刊 ○弔詞 男爵 渋沢栄一君 (於東京追悼会席上)(DK490158k-0003)
第49巻 p.466-469 ページ画像

故市原盛宏記念 第五三―六四頁(大正四年)刊
○弔詞
                男爵 渋沢栄一君
                   (於東京追悼会席上)
人生の常無き、玆に最も親しく最も敬愛致した所の市原君の弔辞を述べねばならぬ不幸な事を見ますのでございます。友人の一人として斯く深い感情を起しますから、定めて御遺族の方々の情意を御察しますると、述べんと欲する言葉が満足に言ひ尽し得られぬ感じを起しまする。天の命如何にも慨かはしい事と唯々嘆息より外ございませぬ。私の故市原君との交りは事業上に於ける関係でございまして、其他には余り何等の申上げる点はございませぬ。唯々一筋なる交道を十五・六年経過致したと云ふに過ぎぬのでございます。去りながら今小野君の朗読された君の経歴、又清浦子爵の御述べになりました君の性行、私も最も同じ感じを以て君を偲ぶのでございます。或は日本銀行に居られる時分多分相識つたのでありませうけれども、唯々同業者間の識合ひに過ぎなかつたやうでございます。唯今清浦子爵の御述べになつた英国の海軍大将でありましたか、其資格は能く覚えませぬが、ベレスフォード卿と云ふ人が日本に参られた時に、東京実業界の人々の接待がありまして一つの団体を作つて歓迎致しました。其時私が其総代の位置に立ちまして歓迎の言葉を述べんならん。此場合は最も時勢甚だ険悪なる時であつたのです、と云ふのは朝鮮の関係から日露の国交が遂には破裂するであらうかと云ふ想像は内国に於てもありましたが外国に於てもございました。ベレスフォード卿は日・英・米三国聯合を頻に唱へて参られたのでございます。故に政治界の御方も此ベレスフ
 - 第49巻 p.467 -ページ画像 
ォード卿の説を聴く事を好みました。当時吾々実業界の者も此人と所謂胸襟を披いて談じて見たいと云ふことであつたのです。未だ日英同盟の成立つ二年前の事と記憶致します。私の不弁決して斯くの如き政治家を歓迎して、唯々慰めると云ふだけの言葉は尽し得られるか知らんが、国交上に関する意味にまで論じ及ぼす事は出来能はぬと思ひましたが、総代に立つた場合からして聊か其等の意味を以て歓迎の辞を述べました。我の述べたよりは寧ろ二倍三倍の言議を以てベレスフォード卿は日英に対する東洋の国交を余程詳細に述べたやうに記憶して居る。此時に誰が通訳して宜からうと云ふことは大に其時分の外交に御関係の人々の評議でありました。記憶に依りますと縁戚の穂積陳重氏などは、是非此演説は、日本の言葉を英語に訳して言ふのは兎に角ベレスフォード卿の演説は切れ切れにして貰ひ度くない、一口言ふては通訳し又一段言ふては通訳すると云ふことは、甚だ述べる人にも気勢を失ふし、又能く英語の解し得る人は切れ切れになる事はどうも甚だ好ましくない、首尾貫徹した玉の如き演説は矢張其儘に聴きたいと云ふ希望でございます。一番の総代は私ですから此事に就て頻に希望を述べられた。扨て通訳をする御方に其註文をせざるを得ぬ。まだ市原君とは私はさう交りの深からざりし時であつた。併し其等の希望を以て相談しますと、同君も有無の事は言はず宜しい、今恰度子爵の御述べになつた通り、我の述べた事彼の答へた事、二時間に亘るのをば殆ど別に記憶の為めの書き記しをしたやうに見えませぬが、流暢な弁達意の言葉を以て聴衆を実に感動させたと称しましても決して誇大の言葉ではないと思ひます。此時私は大に同君の英語に熟達するのみならず、平生の弁舌の誠に重味あり、又愛矯あり、所謂機に投じ変に応ずるの自由な弁才を有つて居らるゝと云ふことを知つたのでございます。それが縁故になつた訳でもございませなんだらうが、遂に第一銀行に職を執ることになられたのは自然右等の事から私も懇親を篤ふし又私の銀行の要路に居る人々との懇親が段々進んで参つて、遂に内に入つて貰ふと云ふことになつたのでございます。此等の経過に就ては事々しう御話することはございませぬ。明治三十五年に私は欧米を漫遊します時、恰度同君を同行致しましてございます。或場合には通訳者の如き位置にも立つて貰ひましたが、或場合には共に図るの友人として、丁度三十五年五月十五日に日本を発して、十月三十日に神戸へ帰つて来ました。此間所謂相提携し魚の如く水の如く、併し其用向は唯々観風察俗に過ぎませぬから、互ひに自由の旅で、或場合には討論も致します、或場合にはからかひ言葉も言ふ、愉快な半年を過しましてございます。今此写真に臨んで其当時の事などを思ひ起しますと、何やらまだ肉体は亡くても精神が其処らに彷徨して、時にどうだと談話でもしたいやうな感じを起します。爾来一度横浜市の市長になられまして、又縁あつて再び第一銀行に入つて頂いた、続いて朝鮮の任務を引受けられたのでございます。
此場合に朝鮮の事柄に就て聊か玆に故人の骨折を申しまする為には、軈て第一銀行即ち私共の経営した苦労を申添へざるを得ぬのでございます。蓋し吾々の労を誇る積りではございませぬが、之を整理し之を
 - 第49巻 p.468 -ページ画像 
担当せられた所の故人を追想しますると、勢ひ其事に論じ及ぼさゞるを得ぬのでございます。第一銀行が朝鮮に支店を開きましたのはズツト昔明治十一年である。二十七年日清戦争があるまでは誠に微々たる唯々邦人の聊かの商売の荷為替をするとか取引の利便を達すると云ふに過ぎませなんだ。併し日清戦後は追々に帝国から及ぼす関係も深くなり、又其頃は韓国と申した国の経営上・維持上から、自から銀行に対する関係も深くなりまして、第一銀行としても一歩々々と事業を進めざるを得ませぬ、否進めなければならぬやうに思はれたのでございます。追々吾々の期待する所はどうぞ朝鮮の中央銀行の位置に立つやうに致したいと云ふ心配から、右左に種々苦心経営致しまして、例へば慣れぬ国民に兌換紙幣の習慣を与へると云ふことは、斯く申すと昔の労苦を此処に序に述べるやうに当りますが、なかなかの苦心惨澹で其経営を致したのでございます。三十七年日露の戦役後、目賀田男爵が財政の顧問として韓国に立入られた時、大に第一銀行の経営も面目を更に進めて、前には徐々に進んだる規模を整然と整へんければならぬと云ふ事になりまして、玆に初めて中央銀行の実を現すやうになつたのでございます。追々其事業を進めて参るに就て是非適当なる担当者が欲しいと云ふので、乃ち故市原君をして市長より再び第一銀行に来て頂いて、玆に初めて朝鮮の総支配人に任じて大に務めるやうに相成つたのでございます。併し頓て統監伊藤公の意見が、朝鮮の銀行は支店制度を止めて朝鮮に銀行を設置したいと云ふことに相成りました為に、第一銀行は勢ひ此支店を新しく替へさせなければならぬと云ふ事に至りました。玆に於て朝鮮銀行と云ふものが設立されると同時に第一銀行は従来の関係に依て唯々普通商売の一・二の支店を残して、総ての任務を新しく創立せらるゝ所の朝鮮銀行に譲つて従来の関係を退きましたと云ふ次第であります。
扨て此時に後の任務は誰にしたら宜からうかと云ふことで、即ち私の故市原君を御推薦申したことである。又当時の統監伊藤公若くは引続いて是れも故人になられた曾禰子爵も均しく故市原君を認めて、是が初代の朝鮮銀行の総裁と為られ、玆に第一期を終つて昨年第二期に任ぜられたと云ふ次第でございます。故に私から見ますると、勿論新造の朝鮮銀行の総裁たる市原君であるけれども、又其位置の上では左様でございますが、精神に於ては己れが仕立て上げたる所の我が篤い親族の如き感じを持ちますのでございます。故に尚継続して整頓して行くのみならず、追々拡張進行すべき余地が沢山ございまして、此等に就て斯くあつたら宜からう、斯様致し度いものである、と云ふことも時々図りつゝ居つたのでございます。
清浦子爵の仰の如く、近年少し健康を損じて、東京に来る度びに工合が悪いと云ふことをきゝましたが、併し平生健全な体でありましたから、一時の事であると思ひまして、私が成るべく自愛してモウ少し丈夫になつて貰はにや困るなどゝ申しますと、寧ろ却て私がチツト、弱つちやいかぬぞと劬はられる位であつたのであります。朝鮮の銀行事業として更に大に進むべき機運も玆に有つて居ります。私共はこれを大に期待して居る、それ是れの相談を致し、又同地の銀行大会も当月
 - 第49巻 p.469 -ページ画像 
十三日開かれるが、其場合には是非私にも参るやうにと云ふことに招請を受けましたが、事に依ると亜米利加に行かうと云ふ考があるから時日が切迫するで或は参れぬかも知れぬ、若し参れなかつたならば来春は是非久々に朝鮮へ行つて御世話にでもなりたい、又実際を視て共に楽しもうと申して袂を分つたのは、まだ誠に昨日今日のやうな感じが致します。恰度先月の二十九日に私は関西旅行をしましたる其頃に急性肺炎であると云ふ電報を得まして、旅行乍らに度々電報の往復を致しましたが、恰度本月の二日の夜而も二時頃であります、広島に於て如何にも危篤になつたと云ふ電報を得て、最早再び会ふ事は出来ないことかと深夜床の中で暗涙を催したのでございます。斯く今述べ来つた通り唯々単に銀行関係を十数年交りを継続しましたが、其性行其才幹は既に清浦子爵が御申述べになりましたから、私は之と重複することを致しませぬ。如何にも子爵の御述べになつた通り、誠に温和な性質の中に得難い精神を有つて居られた人であります。而して誠に胸襟を披いてものに接する方でありますから、私のさう云ふ性質と、自分もさう思ひますが、所謂意気相合したと申して宜からうと思ふ。否単り私との間のみではありませぬ、第一銀行中重要の人々は大抵同じ待遇を以て親戚兄弟の如き交りを継続致したのでございます。
去りながら唯々私は玆に甚だ遺憾に思ひますのは、事業上の交りは二十年に近く継続をしましたが、市故原君は唯々事業界のみの人ではなかつたやうです、必ずや精神的若くは思想界其他の方面の相友としたならば、大に新意見も生じませう、新知識も披かれる人であつたらうと思ひます。私から見ますと殆ど二十歳も下の人でありますから、まださう云ふ時期は前途甚だ遠いと思つた為に、唯々事業界の交りに了つて、今日の弔辞を唯々事業界に述べて精神界に述べる事の出来ないのは、最も遺憾とする所でございます。併し今更之を追ふ訳に参りませぬで、唯々此精神界に相共に談話し相倶に啓発する事をしたならばどれ程裨益したであらうかと残念に思ふと云ふ事を諸君に述べ置くに止めます。


中外商業新報 第一〇五九一号大正四年一〇月一二日 ○故市原総裁追悼会(DK490158k-0004)
第49巻 p.469 ページ画像

中外商業新報 第一〇五九一号大正四年一〇月一二日
○故市原総裁追悼会 故朝鮮銀行総裁市原盛宏氏の追悼会は渋沢男外数十名の諸氏発起と為り、来る二十二日午後三時より神田青年会館に於て挙行し、引続き午後六時半より上野精養軒に於て晩餐会を催す由



〔参考〕中外商業新報 第一〇五九七号大正四年一〇月一八日 ○市原氏遺骨入京(DK490158k-0005)
第49巻 p.469 ページ画像

中外商業新報 第一〇五九七号大正四年一〇月一八日
    ○市原氏遺骨入京
故朝鮮銀行総裁市原盛宏氏の遺骨は未亡人及令嗣並に親戚の人々に擁護され十八日京城出発、来る二十日午後八時三十分東京駅着汽車にて帰京すべき旨通報ありたり、同停車場へ渋沢男を始め在京友人数百名出迎へ、遺骨は直ちに大番町の自邸に入る筈



〔参考〕中外商業新報 第一〇六〇二号大正四年一〇月二三日 ○市原総裁埋骨式(DK490158k-0006)
第49巻 p.469-470 ページ画像

中外商業新報 第一〇六〇二号大正四年一〇月二三日
    ○市原総裁埋骨式
 - 第49巻 p.470 -ページ画像 
故朝鮮銀行総裁市原盛宏氏の遺骨は二十二日午前九時大番町の自邸を出棺し、未亡人かね子・令嗣宏氏、親族久保田・森・市原諸氏、友人渋沢男・菅原大蔵次官・小野英二郎・井上準之助・町田参政官・佐々木勇之助・服部金太郎・浮田和民・木村清四郎・横井時雄・蔵原惟郭小崎弘道・吉田支店長等諸氏に護られ、諸家より贈りたる花環を以て前後を塡め、順路を経て、同五十分雑司ケ谷の墓地に着棺し、式場中央の壇上に遺骨を安置し、小崎牧師主宰の下に、点灯捻香・讃美歌・祈祷・聖書朗読等あり、喪主以下順次焼香礼拝し、直ちに新墓所に埋葬したり