デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
6節 追悼会
10款 高峰譲吉追悼会
■綱文

第49巻 p.472-478(DK490161k) ページ画像

大正11年11月10日(1922年)

是日、帝国ホテルニ於テ、高峰譲吉追悼会開催セラル。栄一出席シテ、発起人総代トシテ追悼演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第四一五号・第七〇―七一頁大正一一年一二月 ○故高峰博士追悼会(DK490161k-0001)
第49巻 p.472 ページ画像

竜門雑誌 第四一五号・第七〇―七一頁大正一一年一二月
○故高峰博士追悼会 十一月十日午後五時より青淵先生発起人総代となりて、故工学博士高峰譲吉氏の追悼会を帝国ホテルに於て開催せられたるが、当日遺族側には故博士未亡人・次男孝氏・親族南弘氏等参列し、又故博士の友人たる古市・真野、鈴木諸博士を始め、平山成信・埴原正直・大橋新太郎・服部金太郎・大倉男爵・浅野総一郎等の諸氏其他政界並に実業界の有力者三百五十余名参会の上、青淵先生・大河内子・阪谷男・金子子・フレーザー氏の追悼演説あり、午後七時半食堂を開きて晩餐を共にし、九時半盛会裡に散会せりと云ふ。


(増田明六)日誌 大正一一年(DK490161k-0002)
第49巻 p.472 ページ画像

(増田明六)日誌 大正一一年      (増田正純氏所蔵)
十一月十日 金 雨夕晴
○上略
午後五時半故高峰譲吉博士追悼会帝国ホテルに開会せられしニ参会、出席者四百余名、官吏あり、学者あり、政治家・実業家、殆と各方面の代表的人々を網羅セり、渋沢子爵発起人発代《(総)》として先つ開会の辞と追悼之辞を陳ふ(子爵ガ故博士と始めて面会したる事より、博士が人造肥料を日本に創始したる事、米国在住以来日本の実業の為め将た学問の為め尽力セられたる功績より、昨年子爵渡米の節博士に永く米国ニ止まりて日米両国の親善の為に尽力セられたき希望を談話したる等の顛末を述べられたり)次ニ子爵大河内正敏氏理化学研究所を代表して、次ニ男爵阪谷芳郎氏大日本発明協会を代表して、次ニ子爵金子堅太郎氏日米協会を代表して、故博士が各会の目的とする事項に多年献身的尽力セられしを感謝したるが、就中大河内子が故博士の先見の明あるを激賞し、博士が現ニ発明したる事項にして世間ニ伝ハらさるもの種々あるが、蓋向後幾年かを経れハ必す世間に歓迎セらるゝニ至るべし、と陳へられたるハ記憶すべき事なりと思ハれたり
六時半食卓に就く、会費七円の料理は比較的美味なりし、テーブルスピーチとして外国人を代表して横浜ニあるゼネラル・ヱレクトリツクCo.代表者ゲーリー氏追悼辞ありて、親戚総代   《(欠字)》氏及遺族総代故高峰博士二男高峰孝氏の謝辞ありて宴を了り解散
○下略


高峰博士 塩原又策編 第一九一―二〇三頁大正一五年八月刊(DK490161k-0003)
第49巻 p.472-477 ページ画像

高峰博士 塩原又策編 第一九一―二〇三頁大正一五年八月刊
 - 第49巻 p.473 -ページ画像 
    故高峰博士追悼会
                 大正十一年十一月廿日
                       三共月報所載
 今回故高峰博士未亡人並次男孝氏の来朝を機とし、渋沢子爵の主唱に依り、去十一月十日午後五時帝国ホテルに於て催されたる高峰博士追悼会は、此世界的偉人の追慕に応はしく、極めて有意義な会合にして、来会者は官吏・学者・実業家の各階級の名士を網羅し、且つ外国人紳士・淑女の多数之に参列し、総数三百五拾余名に上れり、式場たる帝国ホテルの広間にて、高壇に設けられたる祭壇には、正面に故博士の肖像を安置し、傍に故博士未亡人・次男孝氏及令妹竹橋順子刀自親戚南弘氏着席し、他の一方に発起人総代渋沢子爵・金子子爵・大河内子爵・阪谷男爵列席し、渋沢子爵開会の挨拶を述べ、夫より渋沢子爵・大河内子爵・金子子爵・阪谷男爵の追悼演説あり、各故人の偉業盛徳を頌讚し、深甚の感動を与へたり。斯くて式を畢り直に孔雀の間に於ける晩餐会に移り、席上阪谷男爵起て米国ジー・イー会社代表者ジョン・リチャード・ゲリー氏を紹介すれば、同氏は起て故博士の功績に就き外人側より見たる感想を述べ、口を極めて博士を称讚せり。次に親戚総代南弘氏謝辞を述べ、最後に高峰孝氏起て真摯なる謝意を陳べ、食後各自寛談和気靄々裡に午後十時散会せり。因に同夜会場に備付られたる故高峰博士記念帳は故人の記事を掲げたる世界各国大小数種の新聞雑誌の切抜にして、多くは故人の肖像を掲げ、其偉業を詳記せるものにて、故人が如何に世界学界に尊重せられたるかを示すに足るべき好個の記念資料たるを覚えたり。

    追悼演説
 大正十一年十一月十日帝国ホテルに於て帰朝滞京中の博士の遺族を請じて開催せる追悼会に於ける演説筆記を左に掲ぐ。
              発起人総代 子爵渋沢栄一
 故博士の御追悼を致しますことは、諸君と共に真に涙の限りでございます。古人の詠んだ歌に
   心なき石に物言ふ心地して
      向へば浮ぶ人のおもかげ
と云ふ名歌がございます。唯今此油絵の前に立ちますと、唯石に向ふて心に浮ぶ面影ばかりでなく、事実ありありと故人の顔を見ますると別して感慨が深いのでございます。斯かる言葉は御遺族・御親戚の前では却つて御心を御悩ませ申すやうではございますけれども、感慨に堪へませぬ為に私の心に想ふ情を訴へるのでございます。此追悼会は私も発起人の一人に加つて皆様に御披露申して、残念ながら此処に一会を開いて諸君と共に英霊を慰めたい、乃ち本日を卜したのでございます。
 私は方面が違ひますから、仕事を共にしたと云ふことは甚だ少ないのでございますけれども、其御交りを回想致しますと、殆ど三十六年の久しきに亘つて居るのでございます。此間に敢て浮きつ沈みつと云ふではございませぬけれども、種々世の中の波瀾に遭遇したことは、
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博士も常に相会ふて往時を談じて、或は悦び、或は歎じたこともあるのでございます。
 想ひ起しますと、明治十九年、神戸に於て私は初めて博士と親しくしたやうに記憶を致します。それは博士が酒に火を入れる為に清酒を悪くする、色を損する、之を防ぐ方法を講ずると云ふことで、灘方面の酒屋と色々話をなさる為に、御出張であつたのであります。私は又銀行の用向で神戸に出て居りまして、偶然一夕、色々方面違ひの談話を致しました。玆に初めて人造肥料の必要を唱へられました。元来私は百姓で、肥料の事に多少趣味を有つて居りました、が所謂野蛮的の肥料であつて、文明的の方法でなかつた為に、同君の人造肥料説を大に駁撃して、畳水練、雑誌の上の学問ではいけない、私は斯く斯くであると申して此提議に反対した。所が之に向つて丁寧なる説明を与へられた。私はよう覚えて居ります。極く近い例は葛根湯の効き方と、「らんびき」をして粋を採つた薬の効き方とは、どう変るかと云ふことを解釈すると、人造肥料の効果が直ぐ分る、素人でも分る方法だと云ふことでございました。抑植物は肥料に関係が最も多い、肥料に依つて発達すると云ふことは申す迄もない、即ち窒素・燐酸・ポツタースの三成分に依ると云ふことは、何人も理解するであらうと思ふ。其方法は従来も日本に多少あるやうであるけれども、今申す葛根湯式であるから、どうも是は嵩が多くて効き方が悪い、是非之を直さなければいかない、幸にお前は工業に多少の経験があるから、大に力を尽して見たら宜からうと云ふ勧告を受けまして、段々の説明に深く感じまして、東京に帰りまして益田孝君に御相談をして、即ち明治二十年に人造肥料会社設立のことを提議したのでございます。其年に益田君は欧羅巴旅行をされて、博士と共に欧羅巴・亜米利加を廻つて帰られて軈て会社を設立致しましたが、さて組立つて見ますと、側で考へるやうには事実運びませぬ。又実際の上に於てやり損つて博士に大に叱られたり、世間に笑はれたことが度々ある。例へば窒素肥料を送るべき所へ他の肥料をやつて失策したこともあります。又越中の高岡辺の水の多い田に窒素肥料をやつた所が、粉であるから皆流れて仕舞つた。不慣な所からさう云ふやうな種々な欠点もございました、併し博士の丹精と吾々共も力を尽して経営致しました為に、追々に其歩を進めるやうになりましたが、其中に博士は従来の薀蓄を亜米利加に於て発展する為に、是非行かなければならぬと云ふ必要を生じたのでございます。私は其時に大に博士に不平を言ひました、此新しい事業を企てゝ左様に大きな資本ではないけれども、併し日本に一つの新事業を起したのは、君の勧めに依つて私が会社を造つて此処に至つたのである、此成功を見る前に去ると云ふことは甚だ信誼を欠いた訳ではないかと申して、或は抑留せむと欲したことが屡であります。併ながら博士は此事業も数年の間には必ず相当な発達を遂げる、見込は立つて居る、故に其事はそれとして、自分の目的の亜米利加に於て事業の経営を試みたい、今や其機運に向つたから是非行かなければならぬと云ふことで此方を去るも気の毒、行かねばならぬ必要もある、所謂とつおいつの御考でありました。又益田君も私を説得されて、一方から言へば困
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るけれども、一方から言へば博士の目的を失はせるやうになつても困るから、後の経営は他の者でやつたら宜からうと云ふことで、亜米利加の方へ渡航されたのが多分明治二十二・三年の頃であつたかと思ひます。時日ははつきり致しませぬが、爾来亜米利加に於て其天才を発揮されて、追々発展をなされたのであります。丁度明治三十五年、一千九百二年に私は亜米利加・欧羅巴の旅行を企てまして、其時には、而も御一緒に亜米利加へ参りました。其時分には孝さんはまだ至つて幼なくて、私と同行したことを記憶して居ります。而して其旅行の間に段々御話を伺ひ、亜米利加に参りますと、亜米利加に於ては同君の御骨折、種々の丹精が、追々に花を咲かむとして居る、デトロイトの会社の御関係に付ては私共参りましても、日本人にして是だけの効果があると云ふて特に研究室などを見せて呉れて、其案内した人が大に日本人を賞讚されて、私共自分の面目を増したやうに感じまして、斯の如くあつては私共が御同意して亜米利加へ御寄越ししたのは寧ろ宜かつた、人造肥料会社に引留めなかつたのは大きに宜かつたと感じたやうなことでございます。
 爾来私は四十二年、又大正四年、昨年と引続いて亜米利加を旅行致しましたが、或場合には博士が日本に来られて御目に懸つて御話をし又私が行つて御話をする、屡の会見ではございませぬが、会ふ度に所謂心の底を打明けて共に語り、或は憂ひ或は悦ぶと云ふ有様であつたのでございます、而して其間に単に技術上、化学の関係ばかりでなしに、亜米利加と日本との国交上に就て、微力ながら私も心配すると同時に、同君には亜米利加に於ける両国の親善を増すに就て尽して貰ひたいと云ふ、所謂学術上の仕事でなしに、国際上の技倆を御頼みしなければならぬ必要が生じて参りました。此事に就ても力を尽されたことが少なくないのでございます。又大正二年と記憶致しますが、同君が東京に来られた時分に、同君の私に話されましたには、日本の事物の進歩することは御互に悦ぶべきであるけれども、特に物理化学に就て将来を思ひ遣ると、まだ中々悦んで居る訳には行くまいと思ふ、日本の事物が追々に進むとは云ふものゝ、併ながら日本の事物の進む以上に亜米利加なり、独逸なり、其他の国々は更に進んで行く、此進むのに相伴ひ、否な一層増さねば決して日本は此悦ぶべき有様を維持して行く訳にはいかない、然るに日本人は押なべての性質が、新しい事に遷り変つて活気を以て之に応ずる力はあるけれども、所謂独創の力に足らぬ嫌ひがある、之を大に進めるにはどうしても根本研究が必要である、即ち理化学の研究が必要である、是がなければ事物を進める訳にいかぬぢやないか、併ながら自分は学者である、お前はそう云ふことの権威者である、之に向つて大に力を入れると云ふことが今日甚だ必要と思ふが御前の考へ如何、と云ふ痛快の御話でありました。其結果は、確かに覚えませぬが大正二年の春頃でありませう、築地の精養軒に親愛の実業界の重立つた方々百四・五十人を会して、理化学研究所の必要を同君に依つて唱道して貰ふたのだが、所謂今日の理化学研究所、其所長として大河内子爵も今日御列席になつて居りますが、其成立はそれから起つたのでございます。而して唯其方法を論ずるば
 - 第49巻 p.476 -ページ画像 
かりでなしに、尚ほ是から先き斯うしたら宜からう、斯くしなければならぬと云ふことに就て、学者・技術家等の塩梅も同君に待つ所が頗る多かつたのでございます。けれども理化学研究所の経営に就ては社会若くは政府の大なる御援けを得ましたが、其経営の任に当つた私共の微力の為に目的通りに参らず、経済上甚だ其間に困難をしつゝあつたのであります。今尚ほ完全とせぬのでございます。此事に就ては昨年亜米利加に旅行致しました際、理化学研究所も斯の如く相成つたと大河内子爵が御任じ下すつてから出立したので、其通りの有様を叮嚀に話を致しました所が、新しい仕事は困難なものだ、縦令お前は学術のない人であつても所謂事務に長じて居ると思ふから、是非やり遂げるだらうと考へて居つたが、幸にそこ迄到ればもう倒れはすまい、悦ばしいと云ふて横手を打つて未来を祝福して呉れたのでございます。是等の談話はまだ昨今である為に、此油絵を見ますと、斯ふ云ふ格好をして悦んだと云ふやうなことが思ひ浮んで、別して感慨に堪へぬのでございます。
 更に今一つ申上げたいことは、同君が段々身体も弱つたからどうしたら宜からうか、私は郷里に帰らうと思ふと、云ふことを言はれました。是は御遺族の前、又多数の御方の前で申上げて良いか悪いかでございますが、衷情黙する訳に参りませぬ、私は之に対して大に反対の意見を呈したのでございます。即ち紐育に於ける一席の談話です。既に君の能事は技術に於て大に発展し、余人の経営には関するけれども理化学研究所も容易ならぬ御骨折で、其考を承継いで吾々共多少努力をした、したに就ては大に発展したと云ふことを深く悦ぶ。又あなたの経営が唯単に学理ばかりでなしに、実効を奏されたと云ふことを深く悦ぶけれども、一方に於て大に骨を折られた日米関係は、まだ決してあなたの学問的事業の発展程には進んで居りませぬ、動もすると色色な紛議を生ずると云ふことは免れない有様である。年齢に於て私は十以上の長者であるけれども、此老躯を提げて、さうして罷出て心配するではないか、同じく日本の国民、国を愛するの情は御同様ではないか、君が紐育に居られて自ら日本の重きを成すことは幾許である、日本人にあゝ云ふ人があると云へば、自ら日本に重味を与へるのである。で老後を安くする為に閑散な月日を送ると云ふことは、君一身には頗る愉快であらう、又或は名誉であらう、けれども私は故郷に飾る錦は飽く迄も飾つて御貰ひしたいと考へるが、私が斯くして来るのも君が留まるのも同じ働きではないかと迄思ふのである。どうも日本の人で亜米利加に来て、真に亜米利加の有様を十分理解して力を尽すと云ふ人が幾許ある、大商店などには其任務として御座る方はあるけれども、それは一時的のもので、任務が変れば動くと云ふことは免れない。君の如く日米の間に立つて、且つ日本人の標本たることの出来るものでない。故に私の希望は、まだそれ程に御弱いとは見えぬ、御病気は御厭ひなさるが宜いけれども、望む所はもう十年亜米利加に留まられたいと希望する。私は死ぬ迄やる積りだ、其覚悟を以てすれば何でもないではないかと、少し過激な言葉でありましたけれども、さう申した所が、大きにそれもさうだ、考へ直しませうと云ふことであつ
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たが、それが御別れになつたのでございます。私は今さう云ふ話をした事を回想致しますと、真に私が力励して、却つて病を増されたではなかつたらうかと深く恐縮するのでございます。
 斯の如く既往を繰返して考へますと、何も斯も涙の種のやうでございますが、併し私は思ふ、丁度明治二十二年であつたか、三年であつたか、亜米利加に渡航された高峰君が、爾来数十年の歳月は実に久しいと申さなければなりませぬ、其勤労も御察し申すけれども、又其効果も感歎に堪へぬのでございます。亜米利加に於ても種々な発明が今も尚ほ其名と共に存し、実に唯今も陳情致す通り、我国の理化学研究のことなども、博士の御骨折りに依つて今日斯かる有様を呈し、さうして、熱心の人々が其後を維持すると云ふことでありますれば、此偉人を失つたことは、吾々は残念の至りでございますけれども、併し、故博士は、以て瞑すべしと申し得られやうかと思ひます。況や吾々は真に斯様に感じて、此追悼会を催しました所が、思ふたよりも多数の御来会を蒙りまして、親愛の情を叙して下さると云ふことは、如何に博士の効果が日本に、更に進んで亜米利加に及ぼしたか、所謂以て瞑すべしと申上げ得られるだらうと思ふのでございます。私は此追悼会の発起人の総代として、皆様に御参会を願ひまして、而して今此席に於て、自分の申述べますことは、皆私一身に属することで、学術的でもなし、左程取立てることではありませぬが、心を尽して御交りをした事柄から往時を追懐することは、仮令一個人に関することであつても、在天の霊も悦んで下さるだらう、諸君も亦渋沢との関係は斯様であつたかと御聴き下さるであらうと思ふて、玆に追懐の辞を述べたのでございます。(拍手)



〔参考〕日米外交史 川島伊佐美著 第六四一頁昭和七年二月刊(DK490161k-0004)
第49巻 p.477 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕(阪谷芳郎) 日米関係委員会日記 大正一一年(DK490161k-0005)
第49巻 p.477 ページ画像

(阪谷芳郎) 日米関係委員会日記 大正一一年
                    (阪谷子爵家所蔵)
十一、七、二四 七月二十二日高峰譲吉紐育ニテ死去ニ付、弔電ヲ発ス
        紐育日本人会長・無冠大使ノ称アリ 在米三十五年



〔参考〕集会日時通知表 大正一一年(DK490161k-0006)
第49巻 p.477-478 ページ画像

集会日時通知表 大正一一年       (渋沢子爵家所蔵)
 - 第49巻 p.478 -ページ画像 
七月廿七日 木 午後三時―午後六時 故高峰博士ノ御弔問ノ為御出向(麻・飯倉片町塩原又策氏邸)



〔参考〕思ひ出の四十年 塩原又策述 第一二〇―一二二頁昭和一三年四月刊(DK490161k-0007)
第49巻 p.478 ページ画像

思ひ出の四十年 塩原又策述 第一二〇―一二二頁昭和一三年四月刊
    その四十七 噫巨人高峰博士逝く
 大正十一年突如として僕は生涯の盟友高峰譲吉博士病臥の報らせに接し、取敢えず急遽田口君の渡米を煩はし、病床の博士を見舞ひ、僕等は切に其恢復の一日も速かならんことを念じて居つたが、七月二十二日遂に起たず、僕は二十五星霜の長き親交を重ね、又事業を共にした博士を、余りにも早く此世から失つてしまつた。噫、偉大な足跡を万世に遺した博士は、大和桜に囲まれた紐育郊外ウツドローンの美しくも裕かな土に、永き静かな眠りをとられたのであつた。
 玆に七月二十七日、麻布永坂の僕の宅で、左の友人総代と共々喪主となり、遥に学勲薫るウツドローンのかなたに襟を正し厳粛なる告別の式を行ふの止むなきに至つた。博士の令妹竹橋順子刀自がはるばる持帰つた博士の遺髪を青山墓地に埋葬し、僕はひとり静かに涙の墓標を建て、巨人の限りなき冥福を祈ることゝした。
 井上準之助・穂積陳重・大河内正敏・大倉喜八郎・大橋新太郎・大谷嘉兵衛・高橋是清・高松豊吉・団琢磨・益田孝・副島道正・古市公威・浅野総一郎・北里柴三郎・岸清一・渋沢栄一・鈴木梅太郎の諸氏は、何れも心の喪主として故人の霊に祈りを捧げたのである。
 次で同年十一月博士未亡人キヤロラインさんが次男孝君同伴帰朝を機に、渋沢翁を主唱者に推し、帝国ホテルで盛大な追悼会を催し、其席上渋沢栄一子・大河内正敏子・金子堅太郎子・阪谷芳郎男の、博士が国家並に学界に致した功績をたゝへた熱烈な追悼演説があつた。
 高峰博士伝はいふまでもなく青年大衆を奮発させ、且又人生行路の上に教訓の資料多しと考へた僕は、之を刊行して全国の学校図書館へ寄贈すべく草案したので印刷所へ廻付したが、かの大震災で惜しくも印刷所はそれを紛失してしまつた。当時僕は震災後復興の多忙多難で其再稿を執筆する暇もなく過ごしてゐたが、幸にも偶々印刷所から旧稿を辛く発見したとの報せに接したので、大正十五年八月会社の嘱託橋爪檳榔子君に依嘱し、改めて「巨人高峰博士」を刊行することが出来、僕はやつと満足することが出来た。
   ○写真及ビ写真説明略ス。