公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
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大正13年5月17日(1924年)
是日、日比谷電気倶楽部ニ於テ、第十二回埼玉県人会開カル。栄一出席シテ挨拶ヲ述ブ。
埼玉県人会会報 第五号・第七四頁 大正一三年九月刊 役員会(DK490185k-0001)
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埼玉県人会会報 第五号・第七四頁 大正一三年九月刊
○役員会
○上略
○大正十三年四月二日 山川・加藤両副会長、石川・相田・阪本三幹事出席、来ル五月中旬第十三回県人会開催《(二)》ノ件ヲ議ス
会場 日比谷電気倶楽部
会費 金参円五拾銭
講演 林司法次官 中村理学博士 渋沢会長
日時 五月十七日午後四時
以上
○大正十三年五月七日 山川副会長、石川・相田・阪本三幹事出席来ル十七日第十二三回県人会《(衍)》ニ関スル打合ヲナス○下略
集会日時通知表 大正一三年(DK490185k-0002)
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集会日時通知表 大正一三年 (渋沢子爵家所蔵)
五月十七日 土 午後四時 埼玉県人会総会(電気クラブ)
(増田明六) 日誌 大正一三年(DK490185k-0003)
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(増田明六) 日誌 大正一三年 (増田正純氏所蔵)
五月十七日 土 晴夜雷雨
出勤
午後四時電気倶楽部ニ於て開催せられたる埼玉県人会に出席、渋沢子爵ハ同会々長たる関係より午後五時半来会、中村清二理学博士の講演(東京市ニ於ける大震火災ニ就て)の終るを待ち一場の演説を為し、六時四十分帝国ホテルニ於ける第一銀行佐々木頭取主催の同行支店長慰労会ニ出席せられた、小生も招待を受け子爵の自動車ニ陪乗出席、事務処渡辺・白石両氏も招待を受けた
県人会出席二百名、講演者ハ前記中村博士と司法次官林頼三郎氏と渋沢子爵であつた、此講演後晩餐を催うし席上五分間演説がある筈であつたが、中途で退席したのは遺憾であつた
○下略
埼玉県人会会報 第五号・第六四―六五頁 大正一三年九月刊 第十二回県人会(大正十三年五月十七日日比谷電気倶楽部)(DK490185k-0004)
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埼玉県人会会報 第五号・第六四―六五頁 大正一三年九月刊
○第十二回県人会(大正十三年五月十七日日比谷電気倶楽部)
開会通知
拝啓 初夏新緑の候愈々御健勝奉賀候、陳者来十七日左項の通り第十
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二回総会開催仕候、本年は震災後第一回の総会にて各位御復興に御努力の御状況等も承り度候間、何卒万障御差繰り御出席被下度右御通知申上候 敬具
大正十三年五月 日
埼玉県人会々長
渋沢栄一
一、日時 五月十七日午后四時受付開始
一、会費 金参円五拾銭(当日御持参)
一、会場 麹町区日比谷交叉点東裏
電気倶楽部
一、講演 東京の大震火災に就て
理学博士 中村清二
演題未定 司法次官 林頼三郎
同 会長子爵 渋沢栄一
一、報告
一、晩餐 午后七時食堂開始
会員五分演説
一、万歳三唱閉会
以上
追白 五月十五日迄に御出席の有無御回答願上候
会況 加藤副会長開会の辞を述べ、先づ中村博士の講演あり、次で会長渋沢子爵の挨拶、林司法次官の講演、石川幹事の庶務並に震災後罹災者慰問に関する報告、相田幹事の会計報告あり、終て一時休憩午后七時食堂開始、加藤副会長の挨拶、次で元田県知事は県の概況を述べられ、殊に高等学校開校以来学校入学者の増加、一般学力の進歩等に就て報告あり、引続き河野幸吉・黒須竜太郎・松崎半三郎・大沢梅吉・三島小太郎・卜部喜太郎・村田藤七・酒巻貞助・山口六郎次・松本朝之助・福田又一諸氏の熱烈なる演説あり、午后九時万歳三唱して散会す
出席者○氏名略ス
埼玉県人会会報 第五号・第二五―二六頁 大正一三年九月刊 挨拶(大正十三年五月十七日第十二回県人会に於て) 会長子爵渋沢栄一氏述(DK490185k-0005)
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埼玉県人会会報 第五号・第二五―二六頁 大正一三年九月刊
挨拶(大正十三年五月十七日第十二回県人会に於て)
会長 子爵渋沢栄一氏述
我埼玉県人会総会の開催に当りまして斯く多数会員諸君の御出席下すつた事を有り難く存じます、亦元田埼玉県知事も遠路の処御臨席下され厚く御礼を申上げる次第であります。
私、会長の地位にあり乍ら他に止むを得ぬ約束がある事故それに出ねばならず甚だ遺憾であります、只今中村氏の有益なるお講話を伺ひ大変嬉しく感じました。
私は丁度九月一日は自分の事務所にゐて、年寄乍ら地震に遇ひ、皆に扶けられて王子に夕刻帰つて参りました、幸ひ王子の方は焼失を免れましたが事務所は全焼し、沢山の書類も焼き、余りに平常の注意が足りなかつたと自ら愧ぢ且惜しむものであります。
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廻りに川があつた事故大丈夫と安心してゐたのが却つて仇となり、普通の往復書類位なら止むを得ないが、私が徳川慶喜公の伝記を廿年前からその編纂に着手しましたが、その参考書類を焼失して了つた事は涙の出る程悲しく思ふのである、私が慶喜公の伝記を編纂するに至つた理由は、何も故公に今更力を尽す必要はないが、此の東京市を開く為に特殊の心配をした人があつた、西郷さんや三条公も然うであつたが慶喜公もその中の一人だつたのであります。
若しも彼の時幕府側に其人がなかつたなら、地震以上に危機一発と私は云ひたい、幸ひ慶喜公が、奥羽の連合があつたものゝ凡てを犠牲に供する考へで一切の事に動されず、直に大政を返上して了つたから今日の様に文化が早く普及したので、聊か此の趣旨を明にした為に編纂に着手した次第であります。
其の尊い参考書類をムザムザと焼いて了つた事は、先程中村君の云はれた最も愚昧な人間の一人であると深く愧ぢてゐる(笑声起る)。
只今のお話は誠に時勢を穿つたものだと伺ひました、学問が驚く可き程進歩したのに拘らず、斯く火事を大きくした事は、自己丈けを難から免れ様とした結果ではあるまいか?――自己を扶けたいと思ふ事が斯く災害を大きくしたのだと申されたが実際その通りで、私の関係してゐる大塚の養育院に入院してゐる多数の人の通有性を見るに、大人も小人も自己の観念が一番強くて、他愛心は些も持つておりません自己観念が強いものは寧ろ自己を滅ぼすものであります、亦公徳が治まらん事が災害を強めるのだと思ふ、中村君の講演中にも二・三の実例があつたがシミシミと身に浸みました。
震災以後私は粕谷君と謀つて善後会なるものを作り、東京・神奈川及び埼玉県にも少し物資を寄贈しました、送り先は社会事業に関係してゐる団体約五十ケ所でありました、引続き帝都の復興に汲々と奔走してゐるが思ふ様に参りません。
本県の事に就きましては山口六郎次君が種々奔走されましたが、私も加藤君(政之助氏)と相談して多少のお力添を致しました、殊に埼玉県庁からは我が県人会の催した事業に多大の御援助を賜つたことを元田県知事の御臨席を幸ひお礼を申上げて置きます。
震災後各方面に多少の微力を尽した積りであるが、満足な御力添へは出来ずお恥しく思つております。
只中村君の有益なる震火災の御講話に対しお礼を述べ、併せて所感の一端を申上げて御挨拶に代へた次第であります。(拍手――)
〔参考〕埼玉県人会会報 第五号・第七四頁 大正一三年九月刊 役員会(DK490185k-0006)
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埼玉県人会会報 第五号・第七四頁 大正一三年九月刊
○役員会
○上略
○大正十三年六月四日 山川・加藤両副会長、石川・相田・阪本三幹事出席、第十二回県人会決算報告アリ、次ニ県選出代議士招待会挙行ニ就テ協議シ、七月上旬開催スルコトヽス
昨年以来懸案タル幹事三名増員ノ件ニ就キ実行スルコトヽス
○下略
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〔参考〕埼玉県人会会報 第六号・第八七頁 大正一四年一〇月刊 役員会記事(DK490185k-0007)
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埼玉県人会会報 第六号・第八七頁 大正一四年一〇月刊
○役員会記事
○上略
大正十三年十月八日 山川・加藤両副会長、石川・相田・高山・阪本・増田各幹事出席
一、秩父講演会に関する協議
一、川越講演会に関する決算報告
一、渋沢会長訪問の件
○下略