デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
7節 関係団体諸資料
12款 雑 5. みつえ会
■綱文

第49巻 p.648-653(DK490210k) ページ画像

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■資料

青淵先生演説速記集(三) 自大正十年四月至大正十三年二月 雨夜譚会本(DK490210k-0001)
第49巻 p.648-653 ページ画像

青淵先生演説速記集(三) 自大正十年四月至大正十三年二月 雨夜譚会本
                     (財団法人竜門社所蔵)
        ○
                   子爵渋沢栄一閣下講演
……(大拍手裡に登壇)……。折角の御求めに応して参上しましたけれども、特に諸君を益するやうな良い問題を掲げまして、講演など致すことは出来ませぬ。又先年実業界をも引退して居るのでありますから、今日も武州銀行の広告の材料に罷出たのではありませぬ。それ丈けは能く御容捨を願ひます。
川口町が短かい時間に大発展をしましたことは、御目出度く深く喜んで居る処であります。此川口町の発展は、日本全国に大なる影響を致します。其地方の大なる発展を来すには、それは多く工業にありますことは、日本の今日に於て最も注意を致し、将来の経営をしなければなりませぬ。私は既に実業界は退きましたけれども、国民の一員として、昔之に当りました関係から、新進の土地に対しましては「斯う云ふことは御注意を願ひたい」、「斯う云ふことは、権衡を失つてはならぬ」と云ふのは、単に年寄の繰言のみではありませぬ。それ故に本日は「みつ江会」の需めに応じまして、老人の婆心を披瀝致さうと申したのであります。
 - 第49巻 p.649 -ページ画像 
一体、日本は瑞穂の国と称へられまして「農を以て本とす」との国本が立ちましたが、それは昔のことでありまして、原料の乏しい日本では農業のみで、世界に交はることが出来ぬのは申すまでも無いことであります。私が銀行業者になつたのは五十年昔のことで、丁度明治六年でありました。当時を思ひ出だせば、日本は何うしても工業を盛んにしなければ、外国と富を競つて行くことが出来ませぬ。私は学問が浅く経験も狭く、決して良い経験とは云へませぬけれども、当時の経験は今思ひ出しても誤まつて居らぬと思ひます。其当時の商工業は何うであつたかと申せば、農業は勿論、商業も、工業も皆な一人一個の経営でありまして、各人の資本を合せて大きな事業を経営するものは無かつたのであります。殊に封建の政治によりて成り立つて居る国民の有様と云ふものは、汚ない言葉で申しますれば、地方の豪族の戦ひに強き者の  《(欠字)》するために農工商業をしたものでありまして、農工商業者自身のためにしたものでは無く、単に一・二人の  《(欠字)》を得るために農工商業を営むと云ふやうな、情けない有様でありました。徳川幕府が三百年間執つて来ましたことは偶然ではありませぬけれども、畢竟鎖国制度が富国と云ふことに力を用ひなかつたゝめ、一般の力が足らなかつた結果、皆な貧々相倚ると云ふ有様でありました。貧富相倚るものが、貧々相倚る有様でありました。悪るく申すと工業は手内職商売は小売商以上は無かつたのであります。それで日本は資本を合せてやつて行かねば、従来の小細工や小売商ひでは国家の富を完全に進めて行くことは出来ませぬ。日本の富力を進めるには、工業を経営するには資本を合せてやらなければなりませぬ。資本は一人では大きくやれませぬ。労力が小さくては割合に製造賃が高くなります。それ故に何れの国でも合同資本が行はれねば、商工業を盛んにすることは出来ませぬ。此故に私は、明治五・六年から合同資本を進めることに努めた所以であります。
今日は、各商工業が駸々として進んで来ました。私は現今、飛鳥山に続いて居る西ケ原の住民であります。私が彼処に家を持ちましたのは明治十一年であります。唯今は「渋沢別邸」と云ふ標札を掛けて居ります。彼処に自分が家を持つた当時は、僅かに王子製紙会社の煙突が一本ありました。それから印刷局が出来まして、紙幣若くば貨幣等は一般民衆が拵へてはならぬと云ふことになりまして、私が大蔵省に居ります中に「彼処が便利であらう」と云ふことで、王子続きに印刷局を作りました。而も明治七年《(マヽ)》には、煙突は僅かに数本に過ぎなかつたのであります。明治十一年に私が家を持ちました頃に、支那から何如璋と云ふ公使が参つたので、彼処に案内しましたが、公使は豊島川の流るゝ有様や、田園の  《(欠字)》なる状態を見て「玆処を何んと云ふか」と問はれましたけれども、私は風流でないので答へないで居りますと、一人の人が「曖曖たり遠人の村、依依たり墟里の煙」と申しました。今日は曖依村荘でなく、煙突の煙りが続き、汽車の煙りが続くやうになりましたけれども、――私の住んで居る処の風致は醜くなりましたけれども、――工場の煙突が盛んになりました。それが昔は寂寥たる有様でありました。或る点よりは煙りを悪しく見、或る点よりは煙り
 - 第49巻 p.650 -ページ画像 
を良く観て喜び、仁徳天皇ではありませぬけれども、「民の煙りは賑ひにけり」と考へたのであります。……(拍手、笑声、交々起る)……。
爾来学校教育は、順良く行はれて来ました。今日も従来の儘のを受入れて個々別々にやつて居りますけれども、将来は必らずや合同して進んで行くことゝ思ひます。之は川口の工業を誘導しては来ませぬけれども、事業は追々合同的になつて来ることを予想しなければならぬと思ひます。従つて御当地の有様は、其初め七十か、八十の戸数であつたものが、今日は三千の大をなしましたのは、此町に居住せらるゝ諸君の知識と勉強と耐忍力とによつて其処まで進んだのでありませうが之は決して自分ばかりで進むべきものではありませぬ。世の中の事業家は己れを発展することに努めて居りますが、経済は総べてでやつて行くものであります。玆処には新聞雑誌社があるか知りませぬが、新聞雑誌には「経済までも戦さの言葉を加へてせよ」、「負けるな」、「負けるな」と云ふて居るのであります。それは或る事業の進歩発展を図りまして、それに対して十分の力を加へますには戦さと云ふ言葉も宜しいけれども、戦さには必らずや「勝たう」と云ふ観念があります。之は「勝つ」と云ふことは良いことのみではありませぬ。甚だしきに至つては道徳を解せず、経済で勝ちを得やうとするものがあります。一体、経済は買ふ人も、売る人も、両者ともに利益を得るのでなければなりませぬ。然るに品物を売つたゝめに売つた人が損をなし、買つた人は買つたゝめに損をするならば、遂には売る人も、買ふ人も無いやうになります。売る人も富み、買ふ人も富むことになつて、経済は良くなるのであります。之は個人間も左様であります。況んや工業は銑鉄を買ふて鋼鉄に直ほし、鋼鉄を買ふて板にし、棒にし、種々なものを作ることによりて相互に益を得るのであります。然らば売るものと、買ふものと、両者相倚り相結んでやるのが宜しいのであります。それを銑鉄を売る人は「自分は銑鉄で儲けさへすれば良い」と云ふことになれば、鋼鉄を拵へる人は無くなります。又鋼鉄を作る人が「自分は鋼鉄で儲くれば良し」と云ふならば、それを買ふて板にし、棒にし種々細かくするものはありませぬ。
売るものと、買ふものとは、両者相利益するで無ければなりませぬ。銑鉄の方では、銑鉄が高く売れさへすれば鋼鉄は構はぬと云ふのではなりませぬ、又鋼鉄の方では、鋼鉄が高く売れさへすれば外は何うでも良いと云ふことではなりませぬ。売るものも買ふものも、両者相倚り、相待つて利益を得るのが商売でありますから、経済に戦争、商売に商略は要りませぬ。時としては新聞雑誌なども「外国に負けてはならぬ」と云ふことを書きますが「日本国内で、経済戦争をしてはならぬ」と云ひながら「外国に対しては負けてはならぬ」と筆達者に、筆力に任せて書くことは、操觚者は大に注意して、自身も世間も誤まつてはなりませぬ。又蠣殻町も兜町も、先約束の商売があります。思惑商売があります。之は買つた方が動くときは負けます。それは実商ひではなくて、虚業・空商ひでありますが、それは暫らく別にして、真の商売には戦ひを以てしてはならぬと云ふことに理解して頂き度いの
 - 第49巻 p.651 -ページ画像 
であります。商売には共同と云ふことが無ければなりませぬ。此共同力と云ふのは、必らずしも資本を合するのみでは無く、共に侶に進むでなければなりませぬ。私は川口町が従来進歩して来たのを整頓し統一して行くには、此経済を統一して行くやうに行はれゝば良からうと思ふのであります。併し私は鉄の利用と云ふことには学問も経験もなく、実業界のことには数年前関係を断ちましたばかりで無く、以前之に関係して居りました時にも、製鉄所・造船所等のことを多少は聞き知りもしましたけれども、学術上も技術上も判りませぬから、今「斯う云ふ処を御注意なさることが必要である」とは申上げ兼ねます。併しながら、鉄の事業が斯様になりましたのは、大勢がさうなつたからであります。日本は鉄の原料が乏しく、又鉄を鉱山より掘り出だして之を銑鉄・鋼鉄にするに必要なる石炭なども乏しい。又之を扱ふ方法も、今日本が英吉利や亜米利加と同じ足並を揃へて行けるとは云へませぬ。原料が乏しく、  《(技術カ)》も乏しく、従つて値ひの高いことを免かれませぬ。欧羅巴の戦後俄かに発展しましたのは、或る地方が供給がなくなつたから、一方沸騰して  《(暴騰カ)》を惹起したやうに、従来の順当でなく俄かに鉄の事業が勃興しました。従来鉄の事業の素地がある処に、今のやうなものが出来ました。それは東京から断《(マヽ)》へて発展したのでは無いと思ひます。故に元たる響きが大に変化しましたから、御当地の鉄の事業を将来何うすれば良いかと云ふことは、或る場合は学問的に或る場合は実際上に講究するで無ければ、今のやうに発展したのを程良くして徐々と進めるには、其  《(欠字)》を失ふかも判りませぬ。故に川口町が殊に欧洲戦乱に際して富を得ましたのは、其素地があつたためでありますが、素地は久しい間で出来ましたから、諸君は喜ばるべきことでありまするも、原料も豊富であり技術も良くて進んだと思はるゝならば、私は「否な」と云はなければなりませぬ。故に皆様は「此点は俺が勝つ」、「此点は俺が負ける」と知られて、彼を知り己れを知つて、川口町の進んで行くことの御自覚が出来ると思ひまして、私は一向知らぬことに諸君に御注意がましいことを申上ぐるのも、折角進歩したのを穏健に進めて行くには無駄では無いと思ひますから、御集りの方々は皆な此業に従事して居らるゝか知りませぬけれども、折角川口町に罷出でましたので、此戦後俄かに発展しましたのを将来堅固に進めらるゝには御注意が要ります。それには、自治的・実際的に御研究を願ひます。
今一つ川口町に就て申度いことは、往時戸数七十戸であつたものが、今日三千戸に進んだことは喜ぶべき繁昌でありますが、其半面には不健康に進むことにもなりますから、穏健に進めて行くやうにしなければなりませぬ。之は地方的に考へますれば、自治と云ふことは幕府時代より考へられましたけれども、それは  《(欠字)》にて行はれたので、一様に発達しなかつたのであります。旧幕時代のことは論じませぬが、明治二十二年に自治制が布かれましてから、三十有余年来自治制の下にありますけれども、自治のことは御祖父さんも御父さんも知らず、町村の共栄、共同して進む考へは各地方とも乏しいやうに思はれます。殊に俄かに発達した処には之が乏しいのであります。……(拍手、起
 - 第49巻 p.652 -ページ画像 
る)……。私なども寄留の体でありますから、十分の権利は持つて居りませぬけれども、西ケ原の住民であります。そこで私は、折々他人行儀に扱はるゝこともあります。併し町長さん其他とも親しくしまして「西ケ原もモ一歩発展するが宜しい」と心配して居りますが、新らしく這入つて来た人は、俄かに権利を主張し、或はデモクラシーを説き、或は旧慣を説きまして、調和を欠くものが多いのであります。それ故に良い制度を持ち一郷一村共同の利益を進め、自治を完全にして行くには、御互ひに共同して集団の力で進むやうに御心配が無かつたならば、縦令七十戸であつたものが三千戸になりましても、蜂の巣を突き壊はすやうになり、御互ひに相争ふやうになれば感情をも害し、多数も喜ばぬことが無いとは申されませぬ。……(拍手、起る)……川口町の力ある方々は之を御考へありまして、「自治の国民たるには斯うすれば宜しい」と云ふことは研究すれば判ります。さうして御互ひに譲り合ふて、真の自治国民となることが必要であります。さうなるで無ければ、折角の繁昌は却つて紛議の因となります。此事は独り川口町に望むばかりで無く、日本全国に望む処であります。日本全体にて「自分さへ良ければ他人は何うでも良い」と云ふやうになつてはなりませぬ。併し玆では日本全体と云ふよりも、川口町の人々に先づ第一に御注意あることを希望します。……(拍手、起る)……。
私は明治四年より四十余年間、銀行をやり、運輸をやり、鉄道をやり種々の会社をやりましたが、自分は微々たる力ではありまするも、私の力によりて日本の商工業に富を与へましたことは、窃かに思ふて居る処であります。丁度四十余年の歳月を経ましたので「何時までも給金取りで送るのも心苦しい」と考へて、大正六年に実業界を辞めましたが、私の老後の勤めに三つあります。
第一には、経済は富を望むために道理を失ふことがあります。富を進むるに就て道徳を失へば、前に云ふたやうな経済戦となつて国家を誤まるやうになります。其争ひが強くなれば、外国とは戦争になり、国内では騒動となります。経済と道徳との一致を知らねば経済も進みませぬから、之を終世の骨折として尽くして居ります。今日は第一にそれを心掛けて下さいと申しますのは、道徳と経済との合一を打ち立てやうとする微意であるからであります。又経済と道徳との一致と云ふことは、其文字のみが一致するに止まず、道徳と経済の実行が合一せられねばなりませぬ。
次ぎは資本家と労働者とが調和しなければなりませぬ。近頃は学者や操觚者、――筆を執る人は煽動的に「資本家は横暴にして、労働者を商品のやうに見る者が多い、資本家何者ぞ」と喧嘩腰に云ふやうになりました。日本では前に申したやうに手内職でやつて来たもので、欧米のやうに自然に制度が立つて居らぬのに、労資両者間の調和を欠ぐのは、日本の将来に憂ふべきことであります。そこで「労資の協調に努め度い」と考へまして、大正五年より之が調和を図つて居りますけれども、今も十分の働らきをすることは出来ませぬが、御聞き及びもありませうが、協調会が大正八年に出来まして、政府も助け資本家も加入して、其協調に努めて居ります。即ち資本家と労働者の協調を図
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つて居ります。更らに
第三には、貧富の懸隔を防いで居ります。之は富めるものを貧しくし貧しいものを富まするのでは無く、貧者の懸隔を補ふにあります。之が私の老後国家に対する義務と考へて居ります。それから大塚に養育院がありまして、私は明治七年より之に尽くして居ります。相手は変らずに明治七年より養育院をやり、済生会・慈恵会・和泉橋病院などに尽力して居ります。それ故に今日は、(一)経済と道徳の合一、(二)資本家と労働者の調訂、(三)貧富懸隔の緩和を老後の努めとしてやつて居ります。之は皆様に直接御協力を願ふと云ふのではありませぬが、放擲されずに御尽力を願ひます。私は何時も或る程度の御助力を願ふことを、宣伝的に申して居ります。今日も「川口町で講演してくれ」とのことでありましたから、みつ江会の講演会の機会を捉へて、自分の広告を致すことは憚かりがありますけれども、自分が老後主として努めて居る三つのことを宣伝するのが私の眼目であります。其中にも必要なのは「第一には此事を考へたら良からう」、「第二には自治を進めるには斯うすれば良からう」と研究して御やりになれば、川口町は此地方の進んだ土地になると思ひます。……(拍手、起る)……何うか私の希望を、十分御玩味あらんことを切望して止まぬ次第であります。……(大拍手、暫く止まず)……。
 大正十一年六月十五日、埼玉県川口町金山倶楽部に開かれたる「みつ江会」主催精神講演会に於て鍋島秀太郎生速記
  ○何如璋ノ飛鳥山邸招宴並ニ曖依村荘命名ニツイテハ本資料第二十五巻所収「其他ノ外国人接待」明治十三年八月二十九日ノ条参照。