デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
1款 株式会社第一銀行
■綱文

第50巻 p.52-58(DK500007k) ページ画像

明治43年6月17日(1910年)

是日当行、桂首相外三十名ヲ帝国ホテルニ招待シ、韓国支店譲渡記念ノ晩餐会ヲ開ク。栄一出席シテ、韓国支店ノ沿革及ビ譲渡ノ経緯ヲ演説ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四三年(DK500007k-0001)
第50巻 p.52 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四三年         (渋沢子爵家所蔵)
六月十七日 曇 冷
○上略 午後五時半帝国ホテルニ抵リ、第一銀行ニ於テ開催スル宴会ニ出席ス、桂大蔵大臣以下来賓三十有余名、食卓ニテ一場ノ謝詞的演説ヲ為ス、桂大蔵大臣・阪谷男爵・荒井賢太郎氏等ノ答詞アリ、賓主十分ノ歓ヲ尽シ、夜十時過散会帰宿ス


竜門雑誌 第二六六号・第五七頁明治四三年七月 ○第一銀行晩餐会(DK500007k-0002)
第50巻 p.52 ページ画像

竜門雑誌  第二六六号・第五七頁明治四三年七月
    ○第一銀行晩餐会
第一銀行にては故伊藤統監と青淵先生との間に協議の熟せる趣旨に基き、同行京城支店の紙幣発行権並に国庫金取扱事務等、其重なる業務を新設の韓国銀行に滞りなく引継を了したる記念旁々、六月十七日午後六時帝国ホテルに於て盛大なる晩餐会を開きたり、会堂の大広間には橋を渡りつゝ菖蒲を眺めながら入るの趣向を凝らしたる、眼を驚かす許りなる絶大の装飾を施したるには、観る者驚嘆せざるはなかりしとぞ、当夜の来賓は左の如し
  桂総理兼大蔵大臣 阪谷男爵    目賀田男爵
  松尾男爵     石井外務次官  若槻大蔵次官
  荒井次官     木内次官    梅法学博士
  山本総裁     添田総裁    豊川良平
  鶴原定吉     松本局長    倉知局長
  勝田局長     志村副総裁   塚田局長
  佃副総裁     不破事務官   辰野工学博士
  佐田技師     佐々木書記官  児玉書記官
  二宮書記官    佐竹秘書官   山川勇木
  土方久徴     斎藤理事    生田国庫局長
  三村君平
諸氏にして、主人側としては青淵先生を始め、三井八郎次郎・佐々木勇之助・土岐僙・尾高次郎の各重役、渋沢篤二・西脇長太郎・杉田富諸氏なり、極めて鄭重なる晩餐の饗応あり、軈て青淵先生は起立して別項記載の如き挨拶を兼ねたる演説を為し、之に対し桂大蔵大臣・阪谷男爵・荒井度支部次官の演説あり、別室に於て主客共に歓を尽して散会したるは午後十時頃なりと云ふ

 - 第50巻 p.53 -ページ画像 

竜門雑誌 第二六六号・第四―一一頁明治四三年七月 ○第一銀行晩餐会に於て 青淵先生(DK500007k-0003)
第50巻 p.53-58 ページ画像

竜門雑誌  第二六六号・第四―一一頁明治四三年七月
    ○第一銀行晩餐会に於て
                      青淵先生
 本篇は第一銀行韓国支店の重なる業務を韓国銀行に引継ぎたる紀念旁々、帝国ホテルに開催せる同行の晩餐会席上にて青淵先生が来賓諸公に向ひて挨拶旁々述べられたる演説なり。
大蔵大臣閣下、臨場の閣下諸君、今夕は第一銀行で従来負うて居りました重荷を卸しましたに付きまして、其重荷を負うに至らしめて下された所の諸君、及び又負うた重荷を経営致して居る間に種々御幇助下され、引続いて其重荷を卸し得られるに就て、御高配を下された諸君に対しまして、玆に小宴を開いて尊臨を乞ひました次第でございます幸に大蔵大臣閣下、其他諸君の尊臨を得ましたのは第一銀行として光栄此上もございませぬ、唯憾むらくは此席に故伊藤公爵を迎へることの出来ませぬのを千載の遺憾と致す次第でございます、のみならず前統監、及び現正副統監の臨場を欠きましたのも、私共深く残念に存じます、幸に大蔵大臣閣下其他諸公の斯く打揃うて御臨場を得ましたことを、行員一同に代りまして深く御礼を申上げます。
今申上げました第一銀行の重荷は、若しも徳川家康の遺訓の如く急くべからずと云ふ主義を以て負うて参りましたならば、或は遠き途が歩し得られたのかも知れませぬ、故に堪え能はぬから卸したとは申上げませぬけれども、時勢の必要、時代の要求から、負うべきものでなからう、卸すが宜からうといふことに覚悟致しまして、遂に韓国に対する行務は、極く僅かの部分を残して、総ての任務を他の肩に替えますやうに致しました次第は、既に臨場の諸君の皆御熟知のことでございますから、蝶々此処で繰返すのは、誠に無用の事と存じまするけれども、併し明治十一年以来彼の国に対して努力を致しました、其最終でございますから、玆に聊か冗長の弁を費して清聴を煩はしたうございます。
元来第一銀行が韓国に事業を開きましたのは今日から考へますと、何か先見でもあつたやうに或は無理に強弁し得られるかも知れませぬけれども、私の不敏、又行員の不束、決して明治十一年頃に左様に遠大の考を持つた訳ではございませぬ、唯其時分の銀行の経営は、一向筋道が分りませぬので、「バンク」と云ふ文字が腰を掛けるものであつたか、金を取扱ふものであつたか能く分らぬ位の時代でございましたからして、明治十年に私は大蔵省から命ぜられて、第一銀行の名を以て支那に金貸に参つたことがございます、其頃支那の北部に於て左宗棠と云ふ人が大分勢力を振ふて居る時分に其部下に金順と云ふ将軍がありまして、其人が支那の陝西・甘粛二省の征伐に就て金が要ると云ふことから、日本に借りに参つた、其時分は私も今でも或場合にはさうでありますが、若い時分ですから一層突飛であつた、当時の大蔵卿たりし大隈伯も突飛、突飛が寄合つて、遂に支那に向つて金貸に行くと云ふことになつた、それは誠に一場の滑稽談に終つたことでございましたが、参りましたのは益田孝、其時の銀行局長岩崎小二郎、福原
 - 第50巻 p.54 -ページ画像 
和勝などゝいふ人が相連立つて行きました、始めて支那・朝鮮に銀行の手を延したいと云ふ観念が起りました、それが抑次々朝鮮に支店を開くの原因であつたのでございます、是までそんなことを喋々しく申述べることは差控へて居りましたが、源を質せばさう云ふ訳で、続いて支那にも支店を開くと云ふ考を持つて居りましたが、なぜ支那には手が延びなかつたかと申しますとそれは斯う云ふ理由であります、其頃日本に御雇となつて居りました、後に倫敦のパースバンクの支配人になりました、シヤンドと云ふ人が、内地一般の人を得意にする銀行と海外の為替事業を主とする銀行とは英吉利では全く兼務することは出来ぬ、第一銀行はどれを主義とする積りであるか、其目的を明かにせぬと大なる間違を惹起すといふことを八釜しく言はれました、私は固より内地の金融を専ら開かうと思ふのだ、併せて海外の金融も十分誘導しやうと考へる、と答へるとシヤンド氏はイヤそれはいかぬ、さう思ふのが素人の考であるけれども、英吉利のエキスチンジ銀行と、それから内地を主とする銀行とは劃然と区別がある、法律では禁じてないけれども一緒には出来ぬといふて、其時に紙数三、四十枚もありましたらうか、翻訳したら一冊の書物になる位の理由を認めたる書面を寄せられた、それは十一年の春でございましたか、秋でございましたか、何でも十年の戦争が過ぎた後でございます、そこで朝鮮には支店を出しましたけれども、支那に向つては手を伸すといふことを遣らなかつた、さらば朝鮮も止めるかといふて見ましたけれども、朝鮮へ支店を出しますときに内務省と大蔵省とにお願申して、何でも三万円であつたか五万円であつたか、確か五万円と思ひます、五箇年賦六分位の利息で、拝借するといふ特典を得た、其特典によつて切角出した支店だから、先づ五年の間は継続して見やうと云ふので維持したのであります、それであるから、朝鮮へ支店を出したと云ふ源を質すと、左様に意気地のないことである、それを以て今喋々と先見の明のあつた如く法螺を吹くのは怪しからぬと仰しやられるかも知れませぬが、併し是は明治維新の初めを回想すると、正面に御着席の総理大臣閣下と雖ども、或はさう云ふことが無いとは言はれませぬ(笑)、独り私ばかりさう卑下する限りでないかも知れませぬ、甚だ冗弁に亘りますが、朝鮮へ支店を出したのは右やうな訳で、幸に海外に手を着けたのであるから、俄かに止めるでもなからうと言ふからして、僅かに持続して参りましたのでございます、併し既に支店を出しました以上は、朝鮮位はシヤンドの持論に背く訳でもなからうから持続しやう、持続するには朝鮮に対して何か工風もがなと、種々心配を致しました末に、十七年に至つて幸に朝鮮の海関税を取扱ふことを一手に任せられるといふことになりました、それが朝鮮に対して第一銀行の手を伸し得る端緒でございました、其の初めは釜山・京城だけでございましたけれども、引き続いて仁川・元山、それから鎮南浦・平壌に手を伸すやうに相成りましたが、さて二十五、六年までは唯僅かに関税を取扱ふだけで、些細の貿易の媒介者になつて、金融機関といふのもお恥かしい位の仕事を致して来たのであります、明治二十四、五年頃に於ては如何にしたものであらうか、寧ろ面倒だから止めたら宜からうなどゝいふ
 - 第50巻 p.55 -ページ画像 
説もあつた位で、然るに二十七年の日清の戦争が大に朝鮮に影響を与へました、朝鮮の諸事業がソロソロ伸びて参り、引続いて銀行事務にも影響を致して参りました、其後二十八年・九年・三十年と追々に銀行事務ばかりでなしに、社会上の事柄も種々なる関係を生じて来まするし、又銀行業務も従つて伸びて参る、普通の事務の伸びるのみならず、政治関係の仕事に多少手を出さねばならぬやうに相成りましたのであります、朝鮮の政府に対して相当の機会があつたら、貸金でも致して幾らか手足の伸びるやうにと云ふことは、戦争の前後から少し思ふて居りましたのですが、漸く二十七年に井上老侯爵が公使でお出の時、始めて此朝鮮政府に金を貸して遣つたら宜からうといふことで、公使が中へ這入つて要求された、二十五万円でありましたか、三十万円でありましたか、金融を致さねばならぬやうなことが生じて参りました、右様少し手の伸び掛つて参りました所に、二十八年の変からして、却て政治上の関係が後戻をすると云うやうなことになり、切角伸びやうとしたのが果して順好く進んで参るや否や期し難いといふやうなことでございました、併し其頃に、京仁鉄道を日本人の手に経営したい、亜米利加人の手に渡つたのは残念であると申して、私は銀行外の方面から頻りに相談に与からねばならぬ場合も生じて参り、追々に其事が進んで来るに従つて、銀行の望みも見えて来ましたに依つて、私は始めて朝鮮に参りましたのは三十一年の四月でございました、参つて見ますると銀行事業も僅かに維持して居りましたけれども、切角二十七年の大戦争の後が、露韓銀行が出来る、京仁鉄道もまた米国人の手にあるといふやうな有様で、私は行つて見ましても或る場合には実に残念だと感ずるやうな事もあつたのであります、幸に其露韓銀行も稍中止の姿であつて、日本も唯手を縮めて仕舞はんならぬといふことではございませなんだけれども、三十一年に参りました頃には行末どうなるかといふ疑を持ちつゝあつたのであります、併し前に申上げました京仁鉄道は、幸に米人モールスから日本人の手に引継ぐことになつて、其鉄道が未だ亜米利加人の手で工事中に私は参りましたのであります、元来国際上の関係から考へましても、又民間の経済上から見ましても、所謂一葦帯水の対岸にある韓国を、斯る有様に置くのは如何にも残念である、到底いつまでも此儘置き兼るものであらうといふやうな念慮が、益々強くなりましたに就て、遂に京仁鉄通に止めず京釜鉄道も是非共日本人の手によつて創設したい、どうか今日の場合は行けるだけ拡めて行きたいと、微力ながらも実に脳力を費し力のあるだけは尽した積りでございます、其頃から段々と我政府に於ても、朝鮮に対する経済上に深く心を注がれて、三十三年の秋でございましたか、金融上第一銀行をして韓国政府と一種の契約を結ぶことを内々命ぜられるやうな運びに至りました、将に其計画が成らんとすると、大に其事が蹉跌して俄に又そんなことをしては相成らぬといふことに変化した、此変化に就ては、今日では誰でもお笑ひなさる位の談話であるが、其時は大変賢い人が、笑ひどころではない、真に顔を顰めたのである、事物の推移といふことは驚くべきものである、偖右様色々に心配を致して韓国の当局者と約束まで済したのであるから、実は第
 - 第50巻 p.56 -ページ画像 
一銀行としては穴へでも這入りたいやうな感が致した、切角手を著けかけたことも是非なく止めることになつたのである、既に二十七、八年頃からして苦心経営して大に手を伸さうと云ふ場合に至つたときにそんな事をしたら大変だといふので、止めねばならぬやうになつたのですから、拠処なく其事は止めることにしましたが、朝鮮人ばかりなら未だ宜しうございますけれども、其当局者といふのは英吉利人のブラオン氏である、此間に立つた第一銀行の困難は実に名状し難いのであつた、故に其年の冬再び私は朝鮮に参りまして、今度は官に関係せぬ一の方法を案出して、朝鮮政府と第一銀行との間に於て、一の金融を図ることを考へまして、彼のブラオン氏と色々相談を致しまして、切角それが稍々緒に就きますると、朝鮮政府の官吏の間に、猜疑心が生じて、種々なる故障を入れたゝめに、切角仮契約をしたことも又破れてしまつた、官にお頼りしたことも思ふやうに行かず、又お勧めに預つて力を入れやうと思うたことも、政治上の関係から行はれませずさらば唯単に自己の力を以て経営する積にて一の方法を編みましたのも、これも其事が遂げませぬから、余儀なく三十四年に至りて、今度は銀行だけの力で一覧払の手形を発行して、それを以て融通を裨補して、大に朝鮮の発達に資するといふことに致しました、其年に大蔵省の許可を得て銀行券を発行したのであります、併し是は内に於ては大蔵省の許可を得ましたけれども、朝鮮政府の方から承認を得ませぬ為に、発行の後二度ばかり急激なる取付に合ひました、其取付の時も実はどうなるかと思ひました、併し其金額は沢山出して居りませぬから手配さへ届けば何たる心配もございませぬが、何さま常に正金を朝鮮に備へて居る訳ではございませぬから、スワと云ふ間に合はせる為には大に途胸を突くといふこともあつたのでございます、運送の間に合ふや否やと云ふ心配から、此席の一隅に居ります尾高次郎などは、当時仁川の支店長であつて、其時に白髪になつたやうであります(笑)、右様な事もございましたが段々と時を経て、其中に三十七年の大戦役があり、引続いて三十八年に目賀田君が財政顧問となつて行かれて、玆に始めて朝鮮の真正なる中央の金融機関となり得たかと思ふたのでございます、併し私が斯う申しますと、折角大蔵大臣の尊臨を乞うて愚痴でも申上げるやうに御聴取下さると、甚だ本旨に背きますけれども、実は私は我儘の性質で、政府の命令に依つて仕事の経営をするといふは好まぬ方で、微力ながらも自分丈で遣りたいといふのが企望でございますから、第一銀行が其組織を更めて中央銀行の位置に立つといふことは、或は恐る、後日又法制上の必要から直に変ることがあるかも知れぬ、若しさういふ時に否の応のといふことは甚だ見苦しい、私は智恵もなし、さう云ふことも予知することは出来もせず、頗る困るからして、此事は御免を蒙つたが宜くはないかと、丁度三十七年には私は大病後僅かに出勤して其事を聴いて余程躊躇したのであります併し窃かに伺ひますと、目賀田財政顧問の御考として、成るべく速かに朝鮮の財政を釐革しなければならぬ、第一に貨幣の整理、第二に国庫金の取扱と、斯う云ふ御方針から手を著けて行くには、是れから拵へるものでは間に合はない、どうか有るものを利用して遣らせる方が
 - 第50巻 p.57 -ページ画像 
宜いから、是非第一銀行に之を任ずるといふのが一番宜からうといふ御思案であると伺つて見ると、朝鮮の財政改革には誠に御尤千万なる方法と、深く其政策に敬服をしたので、それで自分が病気後に其事を承つて、第一銀行としては御免を蒙りたいとか、或は斯うなつてはいかぬから斯様にして欲しいのといふやうな我儘のことは一切申さぬが宜い唯国家の御為に服従するといふ心がなくてはならぬぞ、と云ふことを申したのであります、右様の精神で引受けた中央銀行事務であるから、其後の引継にも第一銀行は彼是と我儘は申しませぬ、但し第一銀行は自己の利益を度外に致した訳ではありませぬ。
相当なる希望は申しましたけれども、本旨としては朝鮮の金融機関たること、朝鮮の財政に対して多少の貢献を為し得れば足れりといふことを主としたのであります、それが丁度三十八年御用を仰付られるときの大主眼でございました、併かし其の時には直ぐ二年三年にとは思ひませぬでした、越えて四十年の確か八月と覚えて居ります、故伊藤公爵からして時代の必要上折角骨を折つてしたことだが、銀行制度を別に設立しなければなるまいと思ふといふ御話を承りました、私は一言で御請けを致しました、いかにも御尤、そういふ御沙汰であれば決して異存は申しませぬ、必ず都合好く終局するやうに致す積りでございます、併し第一銀行としては自己の利益を思はぬ訳には参りませぬから、それに就ては宜しく御諒恕の程を願ひたい、決して其事柄に対して情けないとか、一年しか経ちませぬとか云ふやうな愚痴は申しませぬとお答を致しました、それから其引継方法に就て種々協議を致したので、遂に四十二年十一月に至つて、今申上げました重荷が全く第一銀行の肩から下りて、幸に其移した人は、其の性質こそ他人でございますけれども、申さば私共従来仕立てた親戚と申しても宜い、決して切つても切れぬ間柄の者が、後任に直るやうに至りました、而して其銀行の将来を考へますると頗る有望である、次第に進みつゝ行くやうに思ひます、翻つて第一銀行を見ますると、外国に一種の支店を持たぬでも、必ずしも其目的は遂げ得られぬこともなからうやうに思ひますれば、即ち前に申します通り、仮令負ひ遂げる重荷かも知れませぬけれども、移して他人の肩に乗せ、これが満足に負ひ得るやうになつたならば、最初の期念は十分に遂げ得らるゝことゝ思ふのでございます、斯う考へて、静に其初めを追想致しますると、実に偶然なる些細な水が遂に大河を成したやうな心持が致しまして、玆に小宴を開いて御礼を申上げまするのも、殆ど三十年以上の歳月を回顧するやうで大に心懐かしう考へるのでございます、畢竟斯やうに都合好く少しも面倒なく、殊に其事業が自分等と至つて懇親を厚うする人の手に引継いで、弥増しに繁昌して行くとしますれば、其初め偶然の企業が斯様にまで拡大致したのは、其間に扶掖誘導を蒙りました諸君の御力に因ることゝ深く感謝せざるを得ませぬのでございます、此食卓の上にあります一小巻物は、我政府から賜りました賞状と韓国政府から受けました感謝状も皆収めてございます、聊か謝意を表すると同時に紀念として御覧に供へますのは、頗る満足致す所でございます、成程これで万事結了したかと御承知を乞ひたい為に、玆に小宴を開いて一言の謝
 - 第50巻 p.58 -ページ画像 
辞を呈しました次第でございます、蘇東坡の文章に知者事を始め能者述、一人而成に非るなりといふことがあります、第一銀行は敢て知者ではありませぬが、此の後を承継します者は能者となつて、十分に述べ得るであらうと思ひます、承継者たる銀行に対しても、列席の諸君は以前の我々の銀行と同様に御幇助下さるであらうと思ひます、斯く申し上げますと未だ自己の銀行のやうに思つて居るかといふ御疑があるかも知れませんが、上来陳述しました心を以て重荷を負はした韓国銀行でございますから、完全に発達せらるゝことを深く希望致します故に、己れのことを感謝すると同時に、韓国銀行の人は今夕は居りませぬけれども、同様に御幇助あらんことを希望致します(拍手喝采)、玆に来賓諸公の御健康を祝します(起立乾盃)