デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
1款 株式会社第一銀行
■綱文

第50巻 p.69-76(DK500013k) ページ画像

明治45年7月25日(1912年)

是日栄一、東京銀行集会所ニ於テ開カレタル、当行第三十二期定時株主総会ニ出席シ、議事ヲ司宰ス。次イデ九月十九日、同所ニ於テ臨時株主総会開カレ、栄一、株式会社二十銀行ノ合併手続ノ完了セルコトヲ報告ス。


■資料

竜門雑誌 第二九一号・第七八頁大正元年八月 ○第一銀行定時株主総会(DK500013k-0001)
第50巻 p.69 ページ画像

竜門雑誌  第二九一号・第七八頁大正元年八月
○第一銀行定時株主総会 第一銀行にては七月廿四日午後一時《(廿五)》より、坂本町銀行集会所に於て第三十二期定時総会を開かれたるが、当日附議せられたる利益分配案は左の如く○略スにて、全部満場一致を以て可決して直に散会せり。○下略


株式会社第一銀行第三十二期 自明治四十五年一月一日至明治四十五年六月三十日 営業報告書 第二―四頁刊(DK500013k-0002)
第50巻 p.69 ページ画像

株式会社第一銀行第三十二期 自明治四十五年一月一日至明治四十五年六月三十日 営業報告書
                        第二―四頁刊
    営業景況
例ニヨリ当半季金融ノ概況ト、当銀行営業ノ大体ヲ叙述センニ、昨年末一時異常ノ逼迫ヲ来シタル金融モ、越年後稍小康ノ観ヲ呈スルニ至リタリト雖、大勢ハ依然引締リノ気配ヲ示シ、経済界亦著シク活気ヲ帯ヒタリキ、此趨勢ニ鑑ミ東西ノ重ナル銀行ハ、卒先シテ預金利子ノ引上ヲ発表シテ其吸集ニ勉メ、其他ノ銀行モ相尋テ之ニ倣ヒ、日本銀行亦昨年九月以来据置タル貸付利子ノ引上ヲ断行スルニ至レリ、然ルニ三月ニ於テ東京市ノ外債成立シ、六千六百余万円ノ現金市場ニ散布セラレ、次テ臨時事件公債弐千万円ノ償還アルニ及テ、形勢頓ニ一変シ、金融俄ニ緩慢トナリ、資金ハ横溢シ、金利ハ低下シ、銀行ハ何レモ遊金ヲ抱テ投資ノ途ニ窮シ、大蔵省証券ハ勿論、従来売行捗々シカラサリシ鉄道証券サヘ、好個ノ放資物トシテ歓迎サルルニ至レリ
然レトモ斯ノ如キハ畢竟、一時的ノ現象ニ過キスシテ、清国ノ秩序回復ニ伴フ対清貿易ノ隆盛、前年来ノ金融緩慢ニヨリ誘致サレタル新事業ノ勃興、米価騰貴ニ伴フ地方購買力ノ増進、物価ノ上騰ニ基ク海外貿易ノ逆勢等、諸般ノ事情ハ次第ニ資金ノ需用ヲ喚起シ、季末ニ近クニ従ヒ、此等ノ原因ハ棉花資金並ニ生糸資金ノ需用、及季末決済資金ノ要求ト相待テ、金融ハ更ニ緊縮ヲ来シ、昨年末ニ劣ラサルノ繁忙ヲ以テ、当半季ヲ終レリ
此間ニ在リテ、当銀行亦一般市場ノ大勢ニ支配セラルルヲ免レサリシト雖、金融緩慢ニ際シテハ勉メテ資金ノ固定ヲ避ケ、其逼迫ニ当リテハ能ク貸出ノ種類ヲ選択シ、金利ノ高低ニ留意シテ資金ノ運用ヲ計リタルヲ以テ、前季ニ比シ更ニ幾分ノ利益ヲ増加シ、別表○略ス示スカ如ク九拾弐万参千余円ノ純益ヲ挙クルコトヲ得タルハ、株主各位ト共ニ欣賀スヘキ所ナリトス


第三十二期定時株主総会決議録(DK500013k-0003)
第50巻 p.69-70 ページ画像

第三十二期定時株主総会決議録    (株式会社第一銀行所蔵)
    第三十二期定時株主総会決議録
 - 第50巻 p.70 -ページ画像 
明治四拾五年七月廿五日午後一時四十分、当銀行定時株主総会ヲ東京市日本橋区阪本町東京銀行集会所ニ開ク、株主総数弐千五拾四名、此株数弐拾万株之内出席株主百拾弐名、此株数弐万弐千参百五拾八株、委任状ヲ以テ代理ヲ委托シタルモノ九百九拾名、此株数拾壱万七千弐百六拾五株、合計株主千百弐名、此株数拾参万九千六百弐拾参株ナリ頭取渋沢栄一議長席ニ就キ、明治四拾五年上半季金融ノ概況ト当銀行営業ノ大体トヲ叙述シ、次テ第三十二期貸借対照表及損益計算書ノ承認ヲ求メタルニ、一同異議ナク之ヲ承認ス、仍而更ニ左記利益分配案ノ決議ヲ求メ、且ツ支店新築費積立金弐拾万円ノ内、金拾五万参千五百拾円五拾六銭ヲ以テ支店新築費ノ一部ヲ消却シ、更ニ金五万円ヲ後半季ニ属スル支店新築費積立金ト為スノ件ニ付キ計リタルニ、満場一致原案ヲ可決ス
      利益分配案
一金九拾弐万参千八百八拾七円四拾弐銭   当半季純益金
一金六拾弐万六千八百拾八円参拾六銭    前半季繰越金
小計金百五拾五万七百五円七拾八銭
外ニ
一金弐拾万円               支店新築費積立金
合計百七拾五万七百五円七拾八銭
  内
 一金四万六千百九拾円        役員賞与及行員恩給基金
 一金拾五万参千五百拾円五拾六銭   支店新築費消却金
 一金五万円             支店新築費積立金
 一金参拾七万円           積立金
 一金五拾万円            配当金壱株ニツキ弐円五拾銭即年壱割
 一金六拾参万千五円弐拾弐銭     後半季繰越金
右総会ノ決議ヲ録シ、左ニ署名調印スルモノ也
  明治四拾五年七月廿五日
          株式会社第一銀行
            取締役頭取 男爵渋沢栄一
            取締役   男爵三井八郎次郎(印)
            取締役     佐々木勇之助
            取締役     熊谷辰太郎(印)
            取締役     日下義雄
            監査役     土岐僙
            監査役     尾高次郎(印)


竜門雑誌 第二九三号・第七〇頁大正元年一〇月 第一銀行総会(DK500013k-0004)
第50巻 p.70-71 ページ画像

竜門雑誌  第二九三号・第七〇頁大正元年一〇月
○第一銀行総会 第一銀行にては九月十九日午後一時より、東京銀行集会所にて臨時株主総会を開き、青淵先生会長席に着き、今春株主総会にて決したる第二十銀行合併に関する其後の経過を報告せられ、土岐監査役よりも、其後第二十銀行の本店及び支店に就て親しく帳簿其他万般の精査を遂げたる結果、財産状態は同行の提出書と相違する所なしとの旨を報告し、玆に異議なく二十銀行合併案を可決し、翌二十
 - 第50巻 p.71 -ページ画像 
日より全部第一銀行支店名義の下に営業する事となり○下略


臨時株主総会決議録(DK500013k-0005)
第50巻 p.71 ページ画像

臨時株主総会決議録           (株式会社第一銀行所蔵)
    臨時株主総会決議録
大正元年九月拾九日午後一時三十分、当銀行臨時株主総会ヲ東京市日本橋区阪本町東京銀行集会所ニ開ク、株主総数弐千六拾六名、此株数弐拾万株ノ内出席株主拾五名、此株数壱万五千七百六拾弐株、委任状ヲ以テ代理ヲ委托シタルモノ九百参拾壱名、此株数拾弐万参百四拾参株、合計株主九百四拾六名、此株数拾参万六千百五株也
頭取渋沢栄一議長席ニ就キ、株式会社二十銀行合併ニ関スル事務ノ経過ヲ報告シ、本日ヲ以テ同行ノ権利義務一切ヲ継承シ、明二十日ヨリ同行本支店ヲ当行支店名義ニ変更シ営業スベキ旨ヲ述フ、次ニ監査役土岐僙ハ、同行本支店検査ノ結果、別ニ帳簿上ニ現レサル瑕疵ヲ発見セサリシコト、並ニ合併ニ伴フ増加資本金七拾五万円ニ対シテハ完全ニ引受及払込アリタルコトヲ認ムル旨ヲ報告ス
右終ルヤ、更ニ取締役壱名増員選挙ノ件ニ付協議シ、議長ハ去ル六月二十日ノ臨時株主総会ノ決議ニ基キ株式会社二十銀行取締役頭取佐々木慎思郎ヲ候補者トシテ推薦シタルニ、満場一致之ニ同意ス
右総会ノ決議ヲ録シ、左ニ署名調印スルモノ也
  大正元年九月拾九日
          株式会社第一銀行
            取締役頭取 男爵渋沢栄一
            取締役   男爵三井八郎次郎(印)
            取締役     佐々木勇之助
            取締役     熊谷辰太郎(印)
            取締役     日下義雄
            監査役     土岐僙
            監査役     尾高次郎(印)


渋沢栄一 日記 大正二年(DK500013k-0006)
第50巻 p.71 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正二年          (渋沢子爵家所蔵)
二月十六日 晴 寒
○上略 午後五時浜町常盤屋ニ抵リ、旧二十銀行重役諸氏ヨリ合併ニ関スル慰労ノ宴会アリ、第一銀行員数名来会ス、種々余興アリ、夜十時過散会○下略



〔参考〕第一銀行史 同行八十年史編纂室編 上巻・第七八三―七九一頁昭和三二年一二月(DK500013k-0007)
第50巻 p.71-76 ページ画像

第一銀行史 同行八十年史編纂室編  上巻・第七八三―七九一頁昭和三二年一二月
 ○第三篇 第一章 大正初頭における商業銀行としての体制強化
    第三節 二十銀行の合併と北海銀行の営業譲受及びその他の諸銀行との関係
      一 二十銀行の合併
 合併の実施 当行開業以来最初の他行吸収である株式会社二十銀行の合併は、明治四十五年六月一日仮契約を締結、次いで同二十日両行とも臨時株主総会を開いてこれを承認し、当行では同時に資本金を千万円から千七十五万円に増加し、且つ二十銀行の本支店を引継ぐ結
 - 第50巻 p.72 -ページ画像 
果、支店六ケ所を増設する決議を行つたのであつた。これにもとづき正規の手続を経て、大正元年九月十九日の臨時株主総会で取締役一名を増員し、旧二十銀行頭取佐々木慎思郎を選任した。そして翌二十日から旧二十銀行本支店は、当行支店として営業を開始した。
 合併の経緯 この合併についての最初の記録は、明治四十五年三月七日の当行取締役会の決議である。それには
 「将来営業発展の方法を審案し、小銀行を合併するの得策なるを信じ、同行(二十銀行を指す―編者)の如きは由来本行との関係親密なるを以て、前に合併の内議を為し、別紙計算書の如き情態なるに付、本行引受の金額及其順序等、別紙の立案を以て秘密に、双方重役間の協議を開く可き事」
といつているから、これより以前にある程度の瀬踏みが行われていたのであろう。
 二十銀行は、東京に本店をおき、当時公称資本金二百万円、払込資本金百四十五万円を有し、第二回公債四分利借換に国債引受シンジケイトの一員として参加するなど、比較的上位に属する銀行であつた。しかし四十年代の反動と経済界における集中傾向は、次第にこれら中規模の銀行の経営を困難ならしめ、特に北海道に主力をおいた同行は不況の影響を強くうけ、四十四年下季末の営業用以外の所有不動産が二十八万円に上り、配当率も四十一年以後従来の一割を七分に引下げた。もともと同行は創立当初から人的にも物的にも当行と極めて親密な関係にあり、当行への合併が考えられるのは自然であつたろうし、当行としても親銀行としてその始末をつけるとともに、国内業務拡張の要請に応えることもできるわけであつた。
 かくて合併談は順調に進み、左のような仮契約が締結された。
      契約書
株式会社第一銀行ハ株式会社二十銀行ヲ合併スルニ付キ、両銀行ノ頭取及取締役ハ各其重役会ノ決議ニ拠リ、契約ヲ締結スルコト左ノ如シ
第壱条 株式会社第一銀行(以下単ニ甲ト称ス)ハ合併ニ伴フ資本ノ増加ヲ為シ、株式会社二十銀行(以下単ニ乙ト称ス)ハ新株壱株ニ付キ金弐円五拾銭ノ払込ヲ為サシメタル上、合併ニ依リテ解散スルコト
第弐条 甲ハ壱株ノ額面五拾円払込済ノ株式壱万五千株ヲ発行シテ乙ニ交付シ、乙ハ其旧株弐株ヲ以テ甲ノ壱株ト交換シ、乙ノ新株(弐拾五円払込ノモノ)四株ヲ以テ、甲ノ壱株ト交換スルコト
第参条 甲乙共ニ合併ニ付、総会ノ決議ヲ経タル上ハ、日ヲ定メテ乙ハ其権利義務及一切ノ財産ヲ甲ニ引継キ、甲ハ乙ニ代リテ営業ヲ為スベキ事
     前項ニ定ムル引継ハ明治四拾五年四月末日現在ノ財産目録貸借対照表ヲ基礎ト為シ、同日以後ノ増減ハ別ニ計算書ヲ以テ、之ヲ明確ニスベキ事
第四条 前条ニ依リ引継ヲ為ス場合ニ於テ、帳簿上ニ現ハレザル瑕疵ヲ発見シタルトキハ、其金額ハ次条ニ拠リ、乙ニ交付スベキ
 - 第50巻 p.73 -ページ画像 
金額ヨリ控除スベキ事
第五条 乙ノ営業ヨリ生ズル、明治四拾五年上半季ノ純益金及前季繰越益金弐万参千九百参拾七円四拾七銭ハ、乙ニ交付スベキ事
第六条 甲ハ合併後取締役壱名ヲ増員シ、乙ノ重役中ヨリ之ヲ推薦スベキ事
第七条 甲ハ乙ノ現在使用人ヲ詮考ノ上成ルベク使用シ、其身元引受ニ関スル一切ノ権利義務ヲ継承スベキ事
第八条 此契約ニ依リ甲ニ於テ発行シ、乙ノ株主ニ交付シタル株式ニ対シテハ、甲ノ従来ノ株主ト同ジク、明治四拾五年下半季分ヨリ利益金ノ配当ヲ為スベキ事
第九条 甲及乙ハ六月弐拾日同時ニ臨時株主総会ヲ開キ、本契約ニ基キ合併ノ決議ヲ為シ、弐週間内ニ財産目録・貸借対照表ヲ作成シテ、大蔵大臣ノ認可ヲ得、本契約ノ条項ヲ履行スベキ事
第十条 甲乙ノ双方又ハ一方ノ総会ニ於テ、本契約ニ拠ル合併ヲ承認セザルトキハ、本契約ハ当然無効タルベキ事
     右ノ条項ヲ契約シタル証トシテ、本証書弐通ヲ作リ各壱通ヲ保有スルモノ也
  明治四拾五年六月壱日
                  株式会社第一銀行
                    頭取及取締役連署
                  株式会社二十銀行
                    頭取及取締役連署
 すなわち、二十銀行は払込資本金百四十五万円を払込徴収によつて百五十万円とし、一対二の条件で当行に合併する。契約書にあらわれていないが、払込資本金の半額七十五万円は、その滞貸の銷却資金として当行の別段預金に振替えることとしたのであつた。
○中略
  附 二十銀行小史
 株式会社二十銀行の歴史は、明治十年八月に開発した第二十国立銀行から始まる。
 第二十国立銀行は、伊予旧宇和島藩主伊達宗城一族が金禄公債を資本化し、東京の旧蔵屋敷を基礎として、金融業務を営むことを目的として設立したものといわれている。
 明治十年八月十日、東京府管下第一大区十五小区南茅場町(旧日本橋区)において開業、資本金二十五万円、発行銀行紙幣は二十万円、頭取は小島邦重、取締役は穂積重穎・川杉義方・井関成良で、いずれも旧宇和島藩士(愛媛県士族)であつた。
 同行は設立当初から当行とは極めて密接な関係にあつた。伊達宗城は明治二年、渋沢栄一が大蔵省に出仕したときの大蔵卿であり、渋沢の任命も「何人の推薦といふことが詳ならぬ訳であつたが、後に聞けば、全く大蔵卿の伊達正二位が、曾て自分の名を承知して居られたのと○中略郷純造といふ人も、何処かで自分の事を聞及んで居た処から、詰り此の任命の事に及んだのであつたといふことが分りました」(青
 - 第50巻 p.74 -ページ画像 
淵先生六十年史第一巻第八章雨夜譚)というように、伊達宗城が以前から渋沢に注目していたことによつたのであつた。こうして両人の関係は大蔵省時代を通じて緊密になり、伊達の渋沢に対する信頼はいよいよ深まつたらしい。第二十国立銀行の設立も渋沢のすすめによつたのである。後に同行が国立銀行から普通銀行に転換した際、渋沢に送つた感謝状がある。
  伊予宇和島藩主伊達宗城、維新ノ初メ大蔵卿タリ、先生ノ名ヲ聞キ之ヲ朝廷ニ召出ス、爾来深ク先生ヲ信用ス、伊達家資財ノ運用殆ト挙テ先生ニ托ス、増殖スル所甚タ多シ、明治三十年宗城嗣子宗徳伝家ノ重宝及金員ヲ贈リ之ニ書ヲ添ヘ、先生ニ謝ス
  渋沢栄一君、貴下維新ノ後仏国ヨリ帰朝セラレ、自来先考宗城ト知己ノ交ヲ為ス、此ノ時ニ当リ西園寺公成、旧領土宇和島ヨリ金弐拾万両余ヲ携帯シ来ル、此ノ金ヤ家禄ニ亜クノ重資タルヲ以テ、其保存増殖ノ計ヲ確立スルヲ要ス、是ニ於テ宗城、公成ヲ君ニ紹介執謁セシメ、君ノ卓説ヲ聴キ、君ノ計算ヲ信シ、其資ヲ挙ケテ君ニ委托セリ、爾後年々増殖シテ其数原資ノ三倍以上ヲ成シ、親族皆応分ノ豊資ヲ得タリ、又第二十国立銀行ヲ創立スルヤ、当時公成ヨリ君ニ商リ、其計画ヲ聴キ、祖父春山及宗城ノ賛襄スル所トナリ、之ヲ設立シ、自来玆ニ二十年、重件大事ハ皆君ノ指教ヲ聴キテ経営シ、其間失敗スル所ナキニアラサルモ、幸ニ君ノ鼎刀ニ依テ弥縫挽回シ遂ニ満期ニ至リ、資本ヲ一倍シテ継続スルノ光栄ヲ得ルモノ、是皆君ノ賜ト謂ハサルヘカラス(後略)
  明治三十年九月          侯爵 伊達宗徳
 右文中の西園寺公成は、第二十国立銀行創立当時、すでに当行の取締役であつた。渋沢頭取は同行の創立・経営を指導援助し、四十二年各種事業との関係を絶つまで、同行の相談役を委嘱され、その後も同行の懇請によつて指導に当つた。
 第二十国立銀行は中規模の国立銀行として、ほぼ順調な発展を示した。創業第一期には一万七千余円の純益をあげて、年一割一分の配当を行い、以後明治十五年から十八年に至る紙幣整理の不況期、二十三年の恐慌期、二十七、八年の日清戦役期を除いて毎年資本金の二割、五万円前後の純益を得、配当率も二十八年上期を除いて一割から一割四分の配当を維持した。この間十六年には東京市深川に出張所を設け十八年五月には北海道に進出して函館に支店を開いた。この北海道進出も渋沢頭取の意見にもとづくと伝えられる。「北海道金融史」(北海道拓殖銀行大正七年刊)によれば「其本道ニ支店ヲ設置シタルモ亦其意見(渋沢頭取の意見―編者)ニ基キ一ハ行務ノ発展ヲ未開ノ地ニ求メタルト、一ハ本道金融ニ貢献スル所アリ以テ開拓ノ聖旨ニ副ハントシタルニ在リタルモノノ如ク○中略本道ノ金融ニ貢献スル処尠カラス」とある。当時北海道の金融機関は甚だ貧弱で、本店銀行としては函館に第百十三国立銀行、および私立山田銀行の二行があるのみであり、支店銀行としては三井銀行が、函館・札幌・根室・小樽に四支店を、第三十三国立銀行が函館に一支店を有するのみであつた。
 二十年五月には小樽に、二十六年六月には根室に支店を開設し、ま
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たその間札幌に出張所を設けて(開設時期不明、二十七年四月閉鎖)北海道においては三井銀行につぐ金融的勢力を有するに至つた。
 またこの間東京支店は十五年十二月京橋区本材木町三丁目十三番地に移り、更に二十年十二月日本橋区伊勢町二番地に移転し、以後合併に至るまでここを本拠とした。
 二十六年には当行支配人佐々木勇之助の兄佐々木慎思郎が同行取締役兼支配人となり、両行の関係は一層緊密となつた。
 第二十国立銀行の取引状況は、東京においては薬品・染料・肥料・下駄・鼻緒等の問屋に対する商業金融が主であり、北海道においては海産物・魚肥関係の問屋に対する金融および為替・荷為替が中心をなし、次第に北海道に重点が置かれるようになつた。
 かくて第二十国立銀行は明治三十年七月営業満期となり、資本金を五十万円に倍加して株式会社二十銀行として営業を継続した。
 爾来経営は積極的となり、三十三年には倍額増資を行つて資本金を百万円とし、三十六年七月釧路支店を開設して北海道支店を四ケ所とした。当時北海道の金融機関も増加して本店銀行としては北海道拓殖銀行をはじめとして十一行、支店銀行としては日本銀行をはじめ八行があつたが、本店銀行は北海道拓殖銀行の資本金三百万円を除けば百万円が僅かに二行、支店も最も多いもので五ケ所、それも小規模な地方支店が多く、最大の北海道拓殖銀行は小樽に一支店をもつのみであつた。また支店銀行の中、かつて四支店を有した三井銀行は、当時函館・小樽の二ケ所を残すのみに支店を整理していた。二十銀行の北海道に対する関心がいかに強かつたかを知ることができよう。三十九年には再び倍額増資を行つて、公称資本金二百万円(内払込百二十五万円)とし、翌四十年には払込百四十五万円として営業の規模計数も次第に膨脹した。普通銀行へ転換後の第一期(明治三十年下季末)にはなお預金九十四万七千円、貸出百五十万二千円で、その規模も小さくかつ預金と貸出の不均衡が著しかつたが、三十三年下季末には預金百九十八万千円、貸出は百四十一万五千円となつて均衡を得、更に合併直前の四十五年上季末には預金七百六十万六千円、貸出は七百十七万六千円に増大したのである。
 その反面北海道方面の貸出には次第に不良なものが多くなつた。北海道の事業家山県勇三郎関係の根室牧場、奔別炭礦や、その他歌志内炭礦に対する貸付は回収不能となつて、これらの不動産をかかえこんだこと、あるいは小樽における燕麦買占資金貸出のこげつきなどが著しい例である。とくに山県に対する滞貸は同行の危機を招来したが、四十一年五月当行の斡旋、裏書保証で日本銀行からの借入百五十万円によつて破綻を免れた。従つて計数の膨脹にもかかわらず収益はそれほどに伸びず、利益配当も四十年の一割を最高に九分乃至七分にとどまり、国立銀行時代のそれに及ばなかつた。四十四年下季には借入金は八十万円、所有の非営業用不動産は二十八万円に達した。加えて銀行資本集中の形勢はいよいよ明らかになり、当行の発展方針と同行の整理の要とは一致し、ここに合併が行われることとなつたのである。
 合併時の同行重役および大株主は左のようであつた。
 - 第50巻 p.76 -ページ画像 
    重役 頭取  佐々木慎思郎
       取締役 山口荘吉
       同   小西安兵衛
       同   船山曄智
       監査役 本多康虎

       大株主 侯爵 伊達宗陳
              江原平作
              岩出惣兵衛
              和田直兵衛
              本多康虎
  ○右ハ刊行ニ際シ追補ス。