デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
1款 株式会社第一銀行
■綱文

第50巻 p.111-127(DK500023k) ページ画像

大正5年7月25日(1916年)

是日栄一、東京銀行集会所ニ於テ開カレタル、当行第四十期定時株主総会ニ出席シテ議事ヲ司宰シ、議事終了後、取締役頭取辞任ノ意ヲ表明シ、告別演説ヲナス。大倉喜八郎株主ヲ代表シテ謝辞ヲ述ブ。同日取締役会ニ於テ佐々木勇之助ヲ後任頭取ニ選挙シ、且ツ栄一ヲ相談役ニ推ス。栄一之ヲ承諾シ、在任歿年ニ及ブ。


■資料

取締役会録事 第廿冊 自大正五年一月六日第九百四十五回至十二月卅一日第九百八十八回(DK500023k-0001)
第50巻 p.111 ページ画像

取締役会録事 第廿冊  自大正五年一月六日第九百四十五回至十二月卅一日第九百八十八回
                    (株式会社第一銀行所蔵)
    第九百六十四回取締役会議
              七月廿五日
                   出席
                    渋沢栄一(印)
                    三井八郎次郎
                    佐々木勇之助(印)
                    熊谷辰太郎
                    日下義雄(印)
                    佐々木慎思郎(印)
                    土岐僙(印)
                    尾高次郎(印)
      決議
一 渋沢頭取ハ別紙之通頭取取締役辞任書を差出したるニ付、取締役監査役は其意を諒とし、謹て之を承諾して更に相談役たることを請ひ、且之を株主一同ニ通知すへきことを要求し、其承諾を得て一同満足したる事
一 渋沢頭取取締役辞任ニ付、日下取締役之発言を以て、兼て之内議ニ従ひ佐々木取締役を頭取ニ撰挙し、一同賛成して就任したる事
○下略
  ○別紙栄一辞任書合綴シアラズ。


株式会社第一銀行第四十期 自大正五年一月一日至大正五年六月三十日 営業報告書 第三―五頁刊(DK500023k-0002)
第50巻 p.111-112 ページ画像

株式会社第一銀行第四十期 自大正五年一月一日至大正五年六月三十日 営業報告書
                         第三―五頁刊
    営業景況
当半季金融ノ概況ト当銀行営業ノ大体ヲ叙述センニ、前年来引続キタル金融緩慢ノ大勢ハ、当季ニ入ルモ更ニ変化ヲ来サス、昨年以来経済界ハ次第ニ回復ノ機運ニ向ヒ、各種事業ノ新設又ハ拡張サルルモノ相踵キ、殊ニ株式市場ハ一般有価証券ノ昂騰ニヨリ著シク活況ヲ呈セリ而ノミナラス欧洲ノ戦乱未タ終熄セサルカタメニ、海運業及ヒ軍需品ニ関係アル一部商工業ハ非常ノ繁盛ヲ来シ、為メニ資金ノ需用ヲ喚起セシモ、昨期中ノ外国貿易ハ輸出超過一億八千五百万円ノ巨額ニ達シ本年ニ入リテモ依然出超ヲ継続シ、在外正貨益増加シツツアルヲ以テ
 - 第50巻 p.112 -ページ画像 
金融ハ不相変緩慢ノ状態ヲ持続セリ、之ヲ以テ二月露国大蔵省証券五千万円ノ発行アリシモ、払込金ノ大部分ハ引受銀行ノ手ニ預託セラレ市場ニ何等ノ影響ナク、四月十五日日本銀行ハ、一昨年七月以来据置キタル公定利子ノ引下ヲ発表シタルモ、市中金利トノ懸隔大ナルカ為メニ、別ニ景気ヲ引立テシムルニ至ラス、次テ同月鉄道債券四千万円ノ発行モ払込数度ニ分割セラレタルヲ以テ、金融ニ影響ヲ来タササリキ、但シ糸価騰貴ノ結果、六月ニ入リテ製糸資金ノ需用多ク、金融意外ニ繁忙ヲ来シ、期末ニ近ツクニ従ヒ、半期決済資金ノ需用ト相待ツテ一層其度ヲ増シ、六月三十日ニハ兌換券ノ発行高四億弐千九百万円ノ巨額ニ達スルニ至レリ
当銀行ハ此間ニ在リテ、鋭意資金ノ運用ニ勉メタルヲ以テ、前述ノ如キ金融緩慢利率低下ノ時機ニ於テ、尚ホ能ク別表○略ス 示スカ如キ好成績ヲ挙クルコトヲ得タルハ、株主各位ト共ニ欣幸トスル所ナリト信ス


第四十期定時株主総会決議録(DK500023k-0003)
第50巻 p.112-113 ページ画像

第四十期定時株主総会決議録        (株式会社第一銀行所蔵)
    第四十期定時株主総会決議録
大正五年七月弐拾五日午後一時弐拾分、当銀行定時株主総会ヲ東京市日本橋区阪本町東京銀行集会所ニ開ク、株主総数弐千八百五拾八名、此株数四拾参万株ノ内出席株主百六拾五名、此株数参万五千七百参拾五株、委任状ヲ以テ代理ヲ委托シタルモノ千四百拾五名、此株数弐拾五万五千七百八拾四株、合計株主千五百八拾名、此株数弐拾九万壱千五百拾九株ナリ
頭取渋沢栄一議長席ニ就キ、大正五年上半季金融ノ概況ト当銀行営業ノ大体ヲ叙述シ、次テ第四十期貸借対照表及損益計算ノ承認ヲ求メタルニ、一同異議ナク之ヲ承認ス、仍而更ニ左記利益分配案ノ決議ヲ求メタルニ、満場一致原案ヲ可決ス
      利益金分配案
一金百九万弐千四百弐拾五円拾銭      当半季純益金
一金七拾壱万千九百弐拾四円九拾銭     前半季繰越金
合計金百八拾万四千参百五拾円
  内
 一金五万四千六百弐拾円       役員賞与金
 一金弐万千八百四拾円        行員恩給及退職給与金
 一金参拾万円            積立金
 一金五拾参万七千五百円       旧株配当金壱株ニ付金弐円五拾銭即年一割
 一金拾参万四千参百七十五円     新株配当金壱株ニ付金六拾弐銭五厘即年壱割
 一金七拾五万六千拾五円       後半季繰越金
右終ルヤ渋沢頭取ハ此機ヲ以テ取締役ヲ辞任シタキ旨ヲ述ヘ別冊○略ス 記載ノ如キ告別ノ演述アリ、之レニ対シ男爵大倉喜八郎氏、株主ヲ代表シテ、渋沢頭取ガ当行設立以来ノ功績ヲ称ヘテ、謝辞ヲ述ベラル
右之通リ総会ノ決議ヲ録シ、左ニ署名調印スルモノ也
  大正五年七月廿五日
          株式会社第一銀行
            取締役頭取 男爵渋沢栄一
 - 第50巻 p.113 -ページ画像 
            取締役   男爵三井八郎次郎(印)
            取締役     佐々木勇之助
            取締役     熊谷辰太郎
            取締役     日下義雄
            取締役     佐々木慎思郎
            監査役     土岐僙
            監査役     尾高次郎(印)


竜門雑誌 第三四〇号・第五九―六八頁大正五年九月 ○青淵先生頭取辞任彙報 第一銀行定時総会に於ける告別演説 青淵先生(DK500023k-0004)
第50巻 p.113-119 ページ画像

竜門雑誌  第三四〇号・第五九―六八頁大正五年九月
 ○青淵先生頭取辞任彙報
    ○第一銀行定時総会に於ける告別演説
                        青淵先生
 本篇は前号記載○後掲 の如く七月二十五日第一銀行定時総会に於ける青淵先生の告別演説にして先生の校閲を経たるものなり。(編者識)
 今日の通常会議は是で相済みましたが、此機会に於て私は今般当銀行の取締役を辞したいと云ふことを、既に取締役会に申出してございまするで、敢て総会に提出すべき事柄ではございませぬけれども、長い間勤続致し来つた故に、或は近頃株主になられた諸君もございませうが、実に古い御親みの諸君が多々あるだらうと思ひますから、斯る時機に於て永年御厄介になりました御礼を一言申上げますのは、私の衷情としても是非致したいと思ひまするし、亦諸君も御諒納下さるであらうと思ひまするで、玆に辞表を提出しました理由を一言陳情致して、諸君の御承認を請ひたうございます。
 私が第一銀行の役員になりましたのは余程古うございますから、御年を取つた御方でなければ御覚えがないのです、明治六年の八月一日に第一国立銀行が創設されまして其時から関係して居ります、是より前銀行は六月十二日に願書を提出しまして、それから創立の事務に従事しましたから、年を算へますと丁度丸四十三年程勤め居ります、但し其初めは第一国立銀行が、三井と小野と云ふ大富豪の主たる発起でございましたゝめに、銀行制度は頭取・支配人等は一行一人に限るのでございましたけれども、特に第一国立銀行に限つて二人の頭取、四人の取締役、二人の支配人と云ふやうな特例が出来ました、而して私は其時には頭取の教授役と申しますか、監督役と申しますか、総監と云ふ名を以て職に就きましてございます、頭取となつたのは一年置いて翌々年、即ち明治八年に三井・小野が退職されて、私が頭取の職に就きました、爾来四十二年目に相成ります、斯る長い歳月を経て居りまするで、株主諸君には段々に替はられて、縦し継続した株主で在らしつても、御祖父さんの代が御孫様になると云ふ有様でありますが、私は幸に健康を保ちましたゝめに、今日迄頭取の職を勤続致しましたのは、一身に取つて此上も無い光栄で、洵に喜ばしく思うて居るのでございます、併ながら元と此法人たる株式会社の重役席を何時迄も塞げると云ふことは心にも許しませぬし、殊に当年は七十七、即ち喜の寿の齢を迎へまして、身体も精力も共に衰へましたことは、強て申上げるまでもないのでございます、旁々以て玆に現職を辞しまして、現
 - 第50巻 p.114 -ページ画像 
在の取締役中に学識経験共に頭取たり得る御方がございまするで、其御方に是非後任に立つて御貰ひしたいと云ふ希望から、当春実は其事を重役会に申出しましてございました、此際重役会議の評決は渋沢は年は取つたけれども左様に老衰したやうにも見へぬ、然るに突然と辞表を出し吾々限りで之を聴いたなら、永年継続した頭取であるから第一銀行と渋沢とは相関聯したものゝ如く世間が感じて居るのに、まだ一年の任期を持ちつゝ玆に辞職しては、頽齢になつたと云ふことを世間が知つて下さると宜いけれども、左もないと何か事故でもありはせぬかと云ふ疑を起すやうなことがあつてはならぬ、そんなことは必ずあるまいけれども、今日辞表を提出するよりは愈々決意して辞したいならば七月の総会に於て、株主諸君多数の尊来を得た所で、其事情を詳しく陳述し、頽齢とは云へながら世務に堪へぬと云ふ程ではない、併ながら法人組織の重役席を何時迄も塞ぐのはどうしても心苦しい、故に喜齢を迎へたを機会として辞退する、而して此銀行の事務は追々に拡張も致し、年一年と堅固に相成つて後任の人も能力名望共に進みつゝある、旁々以て頭取の位置は交迭して戴きたい、辞職の理由は斯様であると云ふことを鄭寧に申述べたら、株主諸君も充分に御了解下さるであらうと云ふ重役会の希望でございましたゝめに、実は当春提出しやうと思つた辞表を今日持出します次第でございます、一人の重役が辞職するに付て、特に総会を期して申上げる必要はございませぬけれども、当銀行創立以来引続いて此位置に居ります私故に、事々しい致方かは知れませぬけれども、幸に斯る総会に於て諸君に御目に懸り其御面前に於て、辞職の理由は今年七十七の高齢に成つた、後任には適当の人がある、何時迄も此席を塞ぐは真に心苦しい、又銀行には何等の事故もない、営業の景況も円満であるけれども、此職責は罷めたいと云ふことを一言、私の口から諸君の御耳に入れ置きたいと云ふに過ぎませぬのでございます。
 辞任の理由は前に陳情致しました通りでございますが、更に一言を加へますれば、元来私は銀行者となる前は政治方面で世の中に立たんと欲したのでございます、故郷を離れる時はまだ二十四、五の青年であつた、当時の幕府の外交が苦心に堪へませぬので、国を憂ふるの念は厚かつたが事を識るの明が乏しかつた、此二つの関係から遂に故郷を去りて諸方を彷徨ひました、併し政治家となりて当時の階級制度を打破致したいと云ふ意志であつたのです、其後種々なる事情からして一橋家に奉公をしまする、続いて一橋公が将軍になられたに付て、当初階級制度を改正するには討幕を必要と思うた己れが、遂に其階級制度の本家本元たる幕府の家来に相成ると云ふやうな奇観を呈しまして心中困却を致し居りまする際に海外行を致しまして、家を離れる時は攘夷鎖港を唱へて居つた身が、遂に仏国に参つて、其制度文物を視、殊に物質的の発達を察知しますると、実に想像の外であつた、若し此外国が我国を覬覦するなれば、攘夷の意念を棄てる訳にはいかぬけれども、青年の時唯一図にさう思うたのは所謂知識の足らぬ故である、他の国々が左様に唯侵略ばかりを努めて居るものではない、而して此物質的文明は日本の迚も及ぶものでないと云ふことに心付きました、
 - 第50巻 p.115 -ページ画像 
其翌年の春は徳川幕府が倒れて王政維新となりましたから、せめては何か外国に於て一部の学科を修めて帰国致したいと考へた事すら意に任せずして、到頭維の年の冬に帰国することに相成つた、玆に私が当初、政治界に力を尽したいと思つた事柄は著々失敗して、三世の義を結んだ慶喜公は、籠居謹慎と云ふ御身柄になられたのである、是に於て私は全く政治観念を止めまして、不肖ながら他の方面で国民の本分を竭したい、と云ふ覚悟を定めたのでございます、明治元年の冬駿河へ帰りますと、直に其方針に因て計画を致しましたが、是れも十分の効を奏するに至らぬ間に、其翌年明治政府に召されることになりまして、大蔵省の役人を足掛け五年勤めましたのでございます、さりながら私は決して政治家に適当な者でない、殊に政治に名誉を得やうと云ふ心は真実ございませぬで、暫時官職に居ります中も、どうぞ我国の実業の進歩に努めるのが自己の本分と心得ましたために、大蔵省に在ても頻りに殖産・興業・金融・運輸等の事には完全の知識はなかりしも、聊か力を尽したのでございます、而して機会あらば官途を辞して自身其業に就て経営を致して見たいと深く祈念致したのでございます唯悲いかな農家に生長した身で学んだ事も少し、又海外にて充分修学をと思つたことは予期に反して、一年余の歳月は経由したけれども、多くは各国礼問観光の間に日を暮して、学ぶべき時日は少しもなく、唯仏国に居る中に私の心に深く感じたのは、此物質的事業を進めて行くのには合本法に拠るべきものである、それから又商工業者の知識を進め其人格を高めて、従来の官尊民卑の弊を完全に矯正したいと云ふ――二点は、深く心に覚悟しまして、将来幾年世に立てるか知らぬが微躯の有らん限りは此二点に努力をして見やうと決心致したのであります、駿河に居る際にも商会の事業に手を着けましたが、事成らずして明治政府に召されて四、五年勤務する中に、段々熟慮しますと、此銀行制度が肝要だと云ふことを深く感じまして、前に申述べた明治六年の六月十二日に、三井・小野両家が主となつて出願した銀行の創立是は其前年の十一月に発布されたる国立銀行条例に拠りたる出願でありました、此条例は明治三年に故伊藤公爵が亜米利加で調べて来られた米国の制度に摸倣して、作成したものであります、而して其調査は私が主任者として研究したのでありました、是に於て私が種々に思案したのは、前の二点を理想として世に立つには何を自己の本務として宜からうか、畑を耕すとか田を植えるとか、或は蚕を養ふとか云ふことは、一通り存じて居りましたが、金融とか運輸とか、或は工業とか云ふ事は何等学んだことがございませぬ、唯前に言ふた合本法に依て日本の富を増すことゝ、商人の資格を高めて官尊民卑の弊を除くと云ふ二点だけは深く思ひました、而して唯空に論じたとてそれを事実に現はすことは出来ぬ、依て己れ自身が其事に就くより外はないと覚悟を定めたのでございます、自己を讚し人を謗るやうに相成つては宜しくございませぬが、明治元年に於て現総理大臣たる大隈侯、故伊藤公爵、或は由利公正などゝ云ふ御人が、維新の際の経済の大家と云つて宜しいので、是等の人々が欧羅巴の例に倣つて日本に会社を起す必要を唱へ、東京に大阪に所謂御用会社が四つ五つ設立致されました、私
 - 第50巻 p.116 -ページ画像 
が大蔵省に奉職したのが明治二年の冬である、此一年余の期間に其四つ五つの会社が算を紊して皆倒れたのであります、是は蓋し其人を得なかつたのと其方法を誤つたと云ふことに坐するのでございます、前にも言ふた如く商工業の進歩を図るには、金融の本が立たねばならぬ金融の本を立てるには貨幣制度が定らなければならぬ、是に於て日本の金貨制度を定めるやうにと云ふことを、明治四、五年の間に頻に主張しまして、今日は貨幣条例と云ふものもなくなりましたけれども、明治五年の春発布になつた金貨制度も、私が調べて原案を作つたのでございます、而して実業に就くには先づ銀行に力を尽して見たいと云ふ希望を持つて居りました、恰も好し六月の初めに私の先輩、当時の大蔵省の主任者たる故井上侯爵が、当時の内閣とも申すべき太政官と意見の相違したゝめに、職を退くと云ふことに成りまして、私は其次官を勤めて居りましたから、長官が退く以上は、私も此機会に役人界をば御免を蒙つて実業に就きたいと云ふ考で、竟に官を辞して第一国立銀行員と相成つたのでございます。
 第一国立銀行を組織しましてから、私が各種の事業に余りに手を出すと云ふことに付て、世間からも段々誹謗を受けました、甚しきは部内の私を信して呉れつゝある人々も、危いとまで懸念した程でございました、或は鉄道に或は海運に或は工業に――其工業も種々にして来るもの拒ばずに手を出しましてございます、明治四十二年に各会社の重役を辞し、従来の関係を解くと云ふことを申出ましたものが、詳しく調べませぬが四十二、三もあつたらうかと思ひます、但し一時に斯る多数の会社に関係したのではなく、追々に殖えて参つたのであります、自己が不充分なる能力で左様に各種の事業に関係したのは、余りに無謀の嫌はありますが、実は余儀ないことゝ自身には思うて居ります、蓋し合本法を以て商工業をやつて往かうと云ふことに付ては、世間が未だ幼稚であつたと云ふことは過言ではないやうに思ふたのであります、凡て事業の成敗と云ふものは人に依ります、維新の初め御用会社に向つて大層な保護を与へたけれども直に倒れたのに徴して見ても、人に依ると云ふことが明かに分る、而して之を合本組織にして往かうと云ふには、従来の伊勢町・伝馬町流儀ではいけないのです、今日此御席には其御向きの方々も多数当銀行の株主になつて御居でになることを私は深く喜びます、けれども当時第一国立銀行が営業を始めました時分には、洋服を着け時計を携へると云ふやうなことでは、銀行が直ぐに分散するから気を付けろと云ふ、伊勢町・伝馬町の方々からの注意は、私に直接ではないが殆ど公然の秘密であつたのです、併し私は惟へらく左様言はれるけれども将来を御覧なさい、どうしても個人組織では此商工業を完全に進めて行き、国家の富を十分に増進することは出来るものではない、中に優れた人又は僥倖的に一個一個の成金も出来やうけれども、完全なる組織的の進歩はどうしても合本方法に依らねばならぬ、と云ふことを其当時から今日迄殆んど四十年の間、専心一意に申し募りましたのでございます、而して其処に進めて行くには勢ひ、各種の会社に関係せざるを得ぬ訳になつて、遂に一が二となり二が三となり、知らず識らず段々進んで参つたのであります
 - 第50巻 p.117 -ページ画像 
中には失敗したのもございましたけれども、幸にそれが己れを大に蹉跌せしめ、又は第一銀行に累を及したと云ふことが無くて過ぎます中に、段々自ら考へて見ますと、世の進歩と自己の老去と旁々相関聯して、斯の如く各種の事業を経営すべきものでないと深く覚りましたので、明治四十二年に各会社の関係を解きましたのでございます、向後も或る事柄に就ては一部の相談に与らぬとは申しませぬ、前に世話したものが今斯うなつたから是の先きは如何に処置したら宜からうと云ふ事抔は、責任者としては答へぬけれども、御懇親の談話としては意見を述べるのであります、明治四十二年に各会社を辞職する際、当銀行の方も御免を蒙つたら宜からうかと考へましたが、私が実業家になつたのは第一銀行に依て初めて生れ出たのであります、其頃の重役諸君打揃ふて、まだ早い、七十になつたとて頽齢職に堪へぬと云ふ程ではない、他会社の関係を解いたのは第一銀行としては宜しいが、第一銀行を辞するのは他日其時機があらうから同意し難い、と云ふ諸君の説でありました、私も再三再四考へて見ましたが如何にも其通りである、政治界は疾く断念して実業家になつた、其一着手の第一銀行である、此処に私が実業の種子を播いたのでありますれば、第一銀行の関係だけは今暫らく継続したいと思ふて今日に及んだのであります。
 然らば七十七歳になつたに付て、精力が全然衰耗したかと問はれたら私は然りとは答へぬのであるけれども、前に述べました如く、法人会社の役人《(員)》が死ぬまで職務を続けると云ふことは甚だ其宜しきを失ふ況や私の主義として最初政治界に志して家を離れ、再び実業界に入つて一生の間に斯る有様にまで進めて見たいと思うた理想が、未だ完全に届いたとは申されぬかも知れませぬけれども、先づ十の七八は其位地に到つたと考へますから、最早俗に申す給金取は罷めたが宜からうと思ひ定めたのであります、然らば私の一身に関して将来を如何にするかと、別に諸君が御問も下さいますまいけれども、自ら心に問ふて見ますると、全く老衰して世務を見ることは出来ぬと云ふ程でもないやうにございます、故に倒れるまで国民の務は已むべきでないと考へまするで、国民の本分として国交上に関する事とか、或は教育に関係する事とか、又は社会政策とかに努力する考であります、而して場合に依りては本来の持前が実業界に育つたのでございますれば、財政経済に対しては人の問に対して答へるか又は意見があつたら之を述べると云ふことは、精力の有らん限りは継続致すであらうと思ふのでございます、元来此職を辞退致しまするは、別に喋々を要することではございませぬけれども、私一身の変化して実業界の人となつたのは第一銀行であります、故に此第一銀行を辞退するに付きましては、自己の経歴を陳述致し置くのも全く無用の弁でなからうと思ひましたために冗長に渉りましたけれども諸君の清聴を煩はした次第でございます、どうぞ此職は退きましても、株主として第一銀行の一員に備はることは矢張り同様でございまして、而して私の勤務する場所は至つて第一銀行には接近して居ります、故に是から先きも第一銀行を大切に思うて、何か事有れば遠くの親類よりも近くの他人で一番先きに駈付けて力を尽しますれば、諸君どうぞ左様に思召されたうございます。
 - 第50巻 p.118 -ページ画像 
 扨て私が合本会社を経営するに付て、常に二つの要綱を以て四十三年間拮据黽勉致しましたから、今日之を最終の言葉として申上げます凡そ合本会社の首脳に立つ者でも、事務に従ふ者でも、其職に就くに於て人から命せられたのであるからと思ふて、其事を処するに自己と他とを差別して、是は己れの物でないと云ふ観念であつたならば、必ず本統の精神は這入らぬ、故に其事を処するは総ての財産が自己に専属したものゝ如く観念して、最善の注意と最善の努力とを致さねばならぬ、左様に其事物を我が所有と思ふと同時に、総ての貨財は全く委託されて居る他人の物である、此委託されて居る物を苟も法度外に処置したならば、自己の職責を誤るので、大罪悪と云はねばならぬ、故に自己は全く此会社の公僕であると云ふことを寸時も忘れてはならぬ公僕を忘れぬやうにすると我が物と思ふ勉強心を失ふ、我物と思ふ勉強心を発達すると公僕の精神を失ふ、是は合本会社を処理する上に於ける通弊であります、我が物と思ふと思ひ過して自由にしたくなる、人の物と思ふと精神が少くなりて、形式のみに流れる、斯の如きは総ての事物殊に生産殖利の事業に於て、成功するものではないと云ふことを断言して憚らぬのであります、故に事に当つては全然我物と思ふて精励し、又事を処するには総て人の物と思ふて整理する、斯の如く二つの要綱を維持すれば合本会社の事業は必ず成功して、其間に何等紛議の生ずる事抔はない、私は事業に格別の成功は致しませぬでも、此要綱を金科玉条として居りましたから、今日迄取扱つた事に就て自ら疚しいことはないと信じて居ります、(拍手)暑中長々と申述べまして諸君の清聴を煩はしました。

    ○大倉男爵の答辞
 株主諸君、唯今我が実業界の偉人渋沢君より是迄の長い歴史の間尽されたことを縷々御述べになりました、之に対しまして自分の日頃思ひ居りますることを簡単に御挨拶として申述べたい、暫時御清聴を煩します。
 当銀行の創業の折柄の状態は自分も能く存じて居りますが、其頃は此世の中に於て銀行の事も会社の事も知つて居る人が甚だ少うございました、先刻渋沢君の申された如く銀行の発端は、伊藤公が米国滞在中思付かれて福地源一郎氏に翻訳させて、それを尚ほ渋沢さんが校正して銀行論と云ふ書物が出来て世の中の人に教へ、実行したのが創始でありました、それから会社組織の事柄は一向に判らぬ、そこで会社弁と申す書物が出来まして合本組織即ち組合の如きものだと社会に知らせると云ふ有様でありました、此時に於て渋沢君は大蔵省を退き官を罷めて民間に下つて、さうして日頃抱負されたる所の経済上に努力されたと云ふことは洵に喜ばしいことで、其間の御苦労は吾々が能く存じて居ります、当初会社を拵へて銀行と取引をするにはどうすれば宜いかと云ふことを皆聞きに往つた、之に対して親しく教へ且つ斯様に為され斯うすれば宜いと指導された、又通用の貨幣の如きは銘々の家に仕舞つて置く必要は無い、銀行へ預けろ、而して小切手で仕払をせよと皆教へなくては分らぬ、丁度明治八年の春頃と覚へます、外国
 - 第50巻 p.119 -ページ画像 
商館と取引する豪商で堀越角次郎と云ふ人がありました、其人の子息に茂三郎と云ふ人と鉄道に乗合せました、ところが大きな鞄を持つて居る、何処へ御出でゝすかと聞きましたら横浜の越前屋宗兵衛さんの所へ金を持つて往くのだと言ふから、唯今そんな金を持つて往かなくとも小切手と云ふ斯んな便利の方法が出来て居りますと言ふて、私が丁度持合せて居りました小切手を懐から出して見せたら、是は至極便利と考へます、自分も以来此方法に傚ひましようと云ふ様な時代でありました、さう云ふ時代にあつて之を発展させるに付てはなかなか手数の懸つたことで、夫を一々不倦不撓教へ導びき丹精されて、如何にも低くかつた民度を向上させるに付て努められた、渋沢君の其功績と云ふものは実に非常なものでありました、是に於て私は斯様に述べる此日本の王政復古御維新の大業を成就し、新日本を建設した人は是だけの人がある、第一に三条・岩倉、是は雲上である、地下には木戸・大久保・伊藤・山県、此四人が新日本を創設した人であると云ふことは識者の能く認めて居る所であります、伊藤公爵が大磯の別邸に四賢堂と云ふ一室を拵はれ、玆に三条・岩倉・木戸・大久保、是が我輩の先輩者で新日本の創設者だと言はれて、此四賢の功績を称へられましたが、吾々の方では新日本の創設者は雲上の両卿の外は木戸・大久保・伊藤・山県の四賢であると斯う言ふ事に帰着して居ます。
 我が渋沢君は政治舞台には立たれませんけれども、民間の経済界の上に於て、此新日本の建設には非常な貢献をされて、なかなか政治家に匹敵する程功績を間接直接に挙げられて居る、是は何人も認めて居りませうと思ひますけれども、どうも此我国の経済上大なる発展を尽されたことを、今日迄識者が吾々の見聞した程に思つて居らぬのは、如何にも遺憾の次第と私は日頃此感慨を懐いて居ります。
 今日は第一銀行の頭取を辞され、新陳代謝の実を挙げて、尚ほ将来国家の為めに命の有らん限りは日本の国士として尽したいと云ふ、此美しい御言葉を承ります上は、吾々が平素明治維新後経済界の元勲と見擋て居る偉人たることを証拠立てられたと存じます、又同君が初め政治界より退かれ、民間の事業に関係された以来、其決心が終始一貫今日迄横へ外れずに正しく行はれたと云ふことは、国家経済上此上にない喜ばしいことで、諸君も定めて御同感であらうと思ひます、どうか将来共に棺を覆うまで此決心を持続せられて、邦家の為めに御尽瘁あらんことを切に望みます、渋沢君の抱負を賛成致しますと共に、長い年月第一銀行の発展に尽されたる御礼を兼ね、玆に一言株主に代り感謝いたします(拍手)


株式会社第一銀行第四十一期 自大正五年七月一日至大正五年十二月三十一日 営業報告書 第二頁刊(DK500023k-0005)
第50巻 p.119-120 ページ画像

株式会社第一銀行第四十一期 自大正五年七月一日至大正五年十二月三十一日 営業報告書
                          第二頁刊
    処務要件
○上略
一、七月二十五日取締役頭取男爵渋沢栄一辞職セリ
一、同日取締役互選ノ結果、佐々木勇之助頭取ニ当選就任セリ
一、七月二十七日ヨリ本支店所轄登記所ニ於テ、男爵渋沢栄一取締役
 - 第50巻 p.120 -ページ画像 
辞任ノ登記ヲ受ケタリ
○下略


渋沢栄一書翰 佐々木勇之助宛(大正五年)三月三日(DK500023k-0006)
第50巻 p.120 ページ画像

渋沢栄一書翰  佐々木勇之助宛(大正五年)三月三日   (佐々木勇之助氏所蔵)
拝読 然者昨日之重役会にハ曾而御内示有之候各支店員更迭之議案、御提出相成候由ニて書類相添御申越之趣拝承いたし候、規則中字句ニ少々修正之方可然と存候処へ鉛筆書入致置候、御一覧之上可然との御考ニ候ハヽ御採用可被下候
過日御内話いたし候一条ニ付而ハ、是非七月之総会ニ於て御取極相願度候ニ付、近日兎も角も辞表差出候積ニ候、御含置可被下候
老生近日来、何分病気勝ニて困却仕候、格別之事ハ無之候得共、蓐中ニて執筆いたし候位ニ御坐候、御省念可被下候
右別紙○欠ク 返上此段得貴意候 頓首
  三月三日               渋沢栄一
    佐々木勇之助様
          梧下


渋沢栄一書翰 明石照男宛(大正五年)四月八日(DK500023k-0007)
第50巻 p.120 ページ画像

渋沢栄一書翰  明石照男宛(大正五年)四月八日   (明石照男氏所蔵)
○上略
米国出立前、第一銀行海外取引開始之義ニ付御意見書一本、佐々木氏より落手、老生旅行中携帯、船中野口氏と討議もいたし、米国各地ハ夫々相談を進め野口帰京候ハヽ、評議之上着手之筈ニ御坐候、御承引可被下候
老生身上之義ニ付、過日来佐々木氏へ内話およひ、爾来本店重役中ニ色々と内評議之上、老生決心之堅固なるより終ニ同意之旨内々申出候
但其発表之時期ハ七月以後と申事ニ相成候、右ニ付而ハ一月来之同族会議ニ提出し、穂積・阪谷ニハ篤と相談せし事ニ候、延引ながら右之段御内報いたし置候
欧洲戦乱之影響ニ付而ハ、我商工業ニ及ほす事共も甚大之様子ニて、意外ニ発展いたし候ものも可有之と存候、銀行業者ハ直接ニ其余慶享受ハ無之候も、間接の仕合ハ多々有之事と存候、実ニ油断ならぬ時節ニ付別而御注意有之度候
老生ハ本年より生産的事務ハ任務を解き可申と存候得共、国家之富実ニ付而ハ人民之義務として、我不関焉と申所存ニハ無之候、右等之分界ニ御見誤りなき様被成下度候
○中略
  四月八日夜         湯河原客舎ニ於て
                     渋沢栄一
    明石照男様
        坐下
○下略



〔参考〕竜門雑誌 第三三九号・第三二―六七頁大正五年八月 ○青淵先生頭取辞任彙纂(DK500023k-0008)
第50巻 p.120-125 ページ画像

竜門雑誌  第三三九号・第三二―六七頁大正五年八月
 ○青淵先生頭取辞任彙纂
 - 第50巻 p.121 -ページ画像 
    ○青淵先生、喜寿を機として第一銀行頭取を辞す
第一銀行は明治六年、青淵先生の創立に係り、其当時は総監役として行務管理の任に当られ、更に同八年よりは頭取の職に就かれ、以て今日に至る、当初よりの在職実に四十有三年、第一銀行と云へば青淵先生、青淵先生と云へば第一銀行を聯想せざる者はなく、真に形影相伴うて須臾も離る可らざる関係を保たれしなり。抑も第一銀行は実業界に於ける青淵先生の発祥地にして、又日本の実業発展の一大源泉と云ふも、決して過言に非ざるなり。然るに青淵先生には恰も本年喜寿に躋られたるを機として、年来の宿志を果すべく、七月廿五日、第一銀行総会に於て頭取の任を辞すると共に、自今一切実業界に於ける責任の地を去り後進の為めに路を拓くべしとて、痛切なる告別辞を述べて満天下の耳目を聳動せり○中略 本社は此機会に於て謹で敬意を表し、併せて健康旧に弥増さりて、愈々天意に遵うて第三期済世救民の大業を成就せられむことを祈りて止まざるものなり。
 玆に青淵先生第一銀行頭取辞任彙報を纂めて、後日の参考に資す、本誌に洩れたる分は次号に掲載すべし。
○中略
  ○彙報トシテ此号ニ集録セラレタルハ、新聞・雑誌等ニ掲載セラレタル栄一辞任ニ関スル記事ニシテ、総数二十七篇、五十頁ニ亘ル。ココニハソノ中ノ数篇ヲ掲グ。
  ○尚彙報トシテ次号(第三四〇号)ニ収メラレタルハ、前掲栄一告別演説・大倉男爵答辞ノ他、栄一ノ談話等ナリ。
    ○胸裡清風湧く
      唯一の第一銀行頭取をも辞し、身軽になつた
      男爵渋沢栄一氏
                      (中外商業新報)
△今後も公共的事業 曩に一切の関係会社を辞し唯一つの第一銀行頭取として経済界に活動して居られた男爵渋沢栄一氏は、今回又もその唯一つの会社頭取の椅子をも去り、専ら一般経済・教育・慈善等の為めに老後を送られる事になつた、桜と楓の翠緑参差たる飛鳥山の麓
△純日本風の幽雅 なる本邸の応接間に、此日第一銀行に辞表を差し出された男爵は、黒五つ紋の羽織に団扇をつかひ乍ら、如何にもホツと肩が軽くなつたと云ふ面持で、ニコニコして語られる「私が第一銀行を創設したのは明治六年で、其時は総監と云ふ変な名称でした、それから二年経つて明治八年に初めて今の頭取と申す名称になつたのです、私が実業界へ入つたのは抑も其時からで、丁度今年で四十一年になります、銀行創設の前迄は
△大蔵少輔心得と 申して、左様現今で云ふなら二番目の次官とでも云つたら適当ですかね、一番目の次官は吉田清成と云ふ人でした、そんなやうなわけで、今日迄第一銀行と終始して来ましたが、元来此法人と云ふものは、兎角永く責任に立つて居るとどうも私に流れ易いもので、私は夙にその弊害を認めて居りますので、今より七年前、丁度私が七十才の時一切の会社関係を断つと同時に、第一銀行をも辞さうとしましたのですが
 - 第50巻 p.122 -ページ画像 
△此銀行丈けは別 である、今突然辞されると世間からも変に思はれ渋沢はそれ程に老衰したのかと誤解されても不可んからと、佐々木君首め重役諸君から懇々引き止められ、終ひ自分も此銀行丈けは辞さずに仕舞つたのです、爾来七年、銀行もどうやら他の援けを受けずに世間からは所謂大銀行の一ツに認められ、基礎弥鞏固に、最早私の居る必要も無くなつたやうであるから、断然責任の位置を去つて
△後進に途を拓く に至つたのです、然し乍らこれを以て私が全然経済界から隠退した、関係を断つたと云ふので無い事は無論です、単に私は権力を以て職を獲、其職によつて報酬を獲ると云ふ責任ある地位を去つた迄です、第一銀行は無論の事、人造肥料でも東洋瓦斯でも、自分が曾て力を尽して拵へた会社は、その重役は大抵自分のお世話した人であるから、種々相談にも来られやう、その時は私は是は是、非は非で御相談に応ずるし、その他
△国家の経済財政 に関しても及ばす乍ら一骨折る事は辞さぬ決心であります、要するに私は財界に於ける責任の地は去るけれども、従来尽瘁し来つた教育でも、慈善でも、或ひは日米関係でも、日支親善に就てでも、各般の公共的事業に微力を効す事は、依然たるのであります」云々
    ○諸縉紳の渋沢男観
                      (中外商業新報)
      △松方侯爵談
渋沢男爵が第一銀行の頭取を始め実業界に於ける一切の責任の地を去ると云ふことなるも、元来精力絶倫にして非常なる勤勉家なると共に健康亦人に秀れたる人なれば、実業界責任の地を去ると云ふても全く実業と縁を切ると云ふことは無かるべく、唯直接実業に手を出さぬと云ふに過ぎざるべし、渋沢男は我国実業界の殊勲者、殊に
△銀行界の恩人 にして第一銀行以外各種事業会社を誘導振興せしめたるもの却々多く、現在は勿論将来に亘り此等の事業に就て、猶ほ男爵の指導を仰ぐものもあるべきに依り、絶対に実業界より手を引くことは世間と事情とが之を許さゞるべし、されば男爵は猶ほ依然此等の事業に関して、指導相談の任に与るものと見るべく、又我輩はかくあるべきことを望むなり。更に公共事業に至つては男爵の指導尽力を待つべきもの少からざるが故に、之に関しては猶ほ男爵の活動を要せざる能はず。渋沢男が実業界に身を投じ、云はゞ今日の位地を築き上げたる基礎は、三井・小野等の共力に依り株式組織の銀行を創設したるに在り、即ち
△今の第一銀行 の創設即ち是れ也。渋沢男は先年従来取締役・相談役其他の名目を以て多くの銀行会社に直接に関係したるに、総て全く此関係を絶ち、唯一に第一銀行の頭取のみを為し居たるは、畢竟同銀行とは最も多くの関係を有するにも因るべからんも、窃に思ふに同銀行こそ男爵が官界を退き、始めて実業界に入れる所なればならん。第一銀行は我国銀行史上に特筆すべき銀行たると共に、渋沢男の生涯に於て最も因縁深く、又最も多くの心血を注ぎたる銀行なるが故に、男爵は恐らく之と終始せんことを欲したるなるべし。然も今回は此銀行
 - 第50巻 p.123 -ページ画像 
の頭取をも辞すと云ふは、男爵余程の決心なりと謂はざる能はず、蓋し男爵は深く
△儒教を信奉す るが故に、儒教の慎終と云ふことを実行するならんか。男爵が役人生活をしたのは故大久保公の大蔵卿時代にして、故井上侯が大蔵大輔(今の次官)なりし頃なり。始めは大蔵省三等出仕で後には大蔵少輔迄進みたるが、何か上役と意見の合はざることありて断然官界より退き、実業界に投じたるなり。されば男爵にして猶ほ官界に在りたらんには、大蔵大臣位のことは既に已に之を為したるなるべけんも、併し男爵としては実業界の泰斗たりしことが其天職なりと考へたるならん。元来男爵は
△考へ深い性質 にして軽卒には決断せざるが、一旦決したる上は最早動かぬ人なり。明治六年断然官界を去つて、遂に官界には一瞥をも与へざるが如きは其一例にして、更に先年多くの関係事業より手を引き、今や数十年間関係せる第一銀行頭取をも辞し、専ら公共事業に携はると云ふことを見ても之を知るに足らん、此の如き性行は何事にも現はれ、一旦関係したることは必ず成功せしむべき決心を以て当り、為めに男爵の関係せる事業は大抵成功せり。されば男爵は実業界の
△大なる世話役 にして、事業が其世話によりて発達したるのみならず、人物も亦其世話によりて成功したる者多し。殊に男爵が国家に対し、特別の任務を尽したる事は銀行の改革あり、紙幣の整理あり、政府の財政方針と能く其歩調を合せ、云はゞ官民一致の連鎖たりしことなり。此功労に至つては実に重大なるものあるべし。其他公共事業に尽したる点に至つては枚挙に遑あらず。我輩は此際に於て男爵の健康を祝すると共に、猶ほ実業界を誘導し、殊に公共事業に向つてお世話あらんことを望む。
      △大倉男爵談
 渋沢男も素一農家の子に過ぎざりしが、後志を立てゝ志士の仲間となれる也。而して始めは徳川幕府を顛覆せんことを企図せりと雖も、後徳川家の家臣となりしが、王政復古となりて官に仕へ前後五年間官職に在りたるも、官吏は自己の止まるべき適処にあらざるを感じて身を民間に投じ、経済を以て立国の基を作らんとするに至れり。当時
△故伊藤公米国 に渡航して彼地に於ける経済界の事情を目撃し、故福地源一郎氏も「銀行論」なる書籍を著したるが、渋沢男は自ら第一銀行を起して其総裁《(監)》となれり、而して其後に至り総裁の名称を廃して頭取となれるものなるが、男は自ら「会社弁」なる書を公にして、我が民間に実業的智識を普及せしむることに努めたり。実に此際に於ける民間知識の程度は極めて低く、在野の人自ら事業を企図するが如き殆んど不可能の状にありしが、男は恰も幼児の手を取つて導くが如くに実業界を導けるなりき。それが為め男は終に
△四十余の銀行 会社に関係するに至れるが、之れ蓋し已むを得ざるに出でし也。此の如くなるを以て平素男の労苦は決して少からざりしも、更に之を意とせず、志を全ふして民間の向上発達に努力せる功勲は、実に大なりと云はざるべからず。故伊藤公の大磯に別荘を営むや木戸・岩倉・三条・大久保の四人を祠れる四賢堂を建てたりしが、事
 - 第50巻 p.124 -ページ画像 
実に於て新日本建設の功勲者は、木戸・大久保・山県・伊藤の四人者也、而かも此は在朝の政治家なるが、我が民間に在りて経済上右四人者の功に比す可きものを求むれば、先づ渋沢男を挙げざるを得ずして之に対しては何人も異議なかるべし。而して此
△経済上の功労 者が今や第一銀行頭取を辞せることは、男が後進に路を開けるものにて洵に結構なれど、男は身体尚健、加之頭脳優越すとせば、銀行頭取の地位を去れりとて、今後も益々我が経済界に努力すべきを疑はず。思ふに今後の日本は益々多事にて、依然男の尽力に待つもの頗る多かるべく、又是非共男の努力を乞はざるを得ず。
      △中野武営氏談
 渋沢男の第一銀行頭取辞任は、其後進に途を開けるものなるべし。男は「第一銀行に給料を得て頭取たることを罷め、佐々木を後任にせんと思ひ居れり。佐々木は多年専務の地位に在りて、今や年も五十以上となれり、加之人格信用の点より言ても更に懸念する所なきを以て給料取りの地位を退き、佐々木を頭取にする考へなり」と余に語れるを以て、余も御尤ものことなりと云ひたり。予等も将来男の取れるが如き方針に随つて歩むべきものと思ひ居れり。人生八十歳となりては後進に其地位を譲りて、自ら老人即ち所謂後見となるは当然の事と信ずる也。此の如く今回渋沢男が第一銀行頭取を退けるは、尤もの考へなりと思へど、男の引退は単に給料を得て働く地位は之を他に譲ると雖も、それ以外即ち社会公共に対する努力に至りては、更に今日と異なる所なきは勿論、社会の為めには寧ろ層一層の尽力を吝まざるべきを信ぜんと欲す、又爾くあらむことを希望せざるを得ざる也。
      △安田善三郎氏談
 渋沢男は是迄第一銀行頭取の任に当られたるも、男の期する所は帝国の財政経済にありたれば、煩瑣なる銀行の事務は総支配人に委ねられたるべし。而して今回頭取を辞任せらるゝも、銀行の重要事件に付き其協議に参与することは敢て之を辞せられざるべし。況んや一般経済界の重要問題に付ては、男が多年の経験と其天賦の識見を以て、之が指導を辞せざらん。今や世界大戦乱の勃発後、帝国の世界経済界に於ける地位大に高まるに当り、我財界の男爵の力に負ふ所も益々多大なるべければ、財界に於ける男の重望は今回の辞任に依り何等変動を見ざる可し。
      △池田謙三氏談
 渋沢男の如く帝国財界の重鎮たる人が、功成り名遂げて身退くは誠に慶賀す可し、念ふに今回男爵が第一銀行頭取を辞任されたるは、後進に道を開くの旨と、老後営利事業に携はるを屑とせざるに出でたる者なるべし。男爵は心身雄健、老て益々盛に其意気は壮者を凌ぐものあり。若し男爵にして財界を引退するに至れば、我実業界は寂莫を嘆ずるに至らん。即ち男爵は此際第一銀行を去らるゝも帝国財界の指導者たるを辞せざると共に、今後事業会社の設立さるゝに当りても、其我が財界に必要なりと認むるときは、事実上の顧問若くは相談役たるを辞せざらんことを望む。
○中略
 - 第50巻 p.125 -ページ画像 
      ○渋沢男の功労
                        (時事新報)
 渋沢男は、先年その関係せる諸会社の重役を辞し、自ら創設したる第一銀行の事務のみを視ることゝ為し、時機を見て実業界より退隠せんとするの志を懐きしが、同銀行は創立以来四十三年を経過して、其基礎ますます堅きを加へ、男も本年恰も喜字の齢に達したるを以て、いよいよ宿志を遂ぐるの時期に達したりとて、此程事を後継者に譲りて引退したり、男の我実業界に致したる功労、其社会上に於ける徳望とは、世人の一般に認めて且つ信頼する所なれば、今更ら之を記すの要を見ずと雖も、其我国に於て始めて西洋式の銀行を組織し、一般に其模範を示し、金融界に多大の貢献したるの功績に至りては、我経済史上に特筆大書す可きものにして、天下後世永く忘る可からざる所なり。其他我国に於ける大事業には直接間接に男の関係せざるもの殆ど稀れなる程にして、我実業の発達は男の力に負ふ所甚だ多きを認めざる可からず、而して男は啻に実業界の恩人たるに止まらず、旧誼に厚うして人の為めに尽し、又後進生を誘導愛育するに怠らず、殊に社会公共の事に対する熱心尽力は非常のものにして、是等の事業には殆ど関係せざるものなしと云ふも可なり、即ち男の徳望の一世に高きは自から偶然ならず、今回実業界を引退するも教育及び社会事業には相変らず努力するの決心なりと云ふ、世の功成り名遂げて退隠するものを見るに、多くは花鳥風月に余生を楽むの常なるに、男が生命あらん限り社会公共の為めに尽さんとするは、真に人生の天職を解するものにして、老余の楽事も自から其中に在らん、以て若隠居輩をして慚死せしむ可し、否な世間には年既に老いて適当の後継者あるに拘はらず、飽くまでも其地位を独占して容易に退隠せざるもの、政界にも又財界にも其例乏しからず、是等の輩は男の為す所を見て自ら省みる所なかる可からず、男の進退は世間に教訓を与ふるの効果少からざるを信ずるなり、左るにても多年官海に出没して相当の地位を為したるものゝ如き、格別の経歴もなきに年功に依て栄誉を授けらるゝもの少からず男の如き政治上の経歴は甚だ短かりしと雖も、其実業界の功労に至りては明治の元勲と肩を並ぶるに足るものあり、況んや其徳望は他の企て及ばざるものあるに於てをや、今の民間に於ては何人も争ふこと能はざる功労者にこそあれば、荀くも政府にして其功を録するの心あらんには、今日引退の場合こそ其時機にして、陞爵もしくは陞勲の奏請に及ばんことは社会一般の希望する所なる可し。



〔参考〕斯文 第一編第二号・第一―九頁 大正八年四月 道徳と経済 男爵 渋沢栄一(DK500023k-0009)
第50巻 p.125-127 ページ画像

斯文  第一編第二号・第一―九頁 大正八年四月
    道徳と経済
                   男爵 渋沢栄一
○上略
 明治六年に至つて官を辞することが出来まして、玆に始めて当初欧羅巴から帰つた時の宿志を遂げて実業界の人となりました。此時に於て自分は自問自答しました、仮令自分が才学共に浅薄なるものにせよ農民より出て志士として世に立ち、治国平天下の実を行うて見ようと
 - 第50巻 p.126 -ページ画像 
思つた、然るに事志と違うて今は商人となつて生産殖利の業に就くには、何か自己の心に守る所がなければならぬ、一体私は少年の頃聊か漢学は修めましたが、水戸流であつて、仏教は甚だ嫌らひでありました、今日でも仏法は信じませぬ、さうかと言つて排仏論者ではありませぬ、また耶蘇教も奉じませぬ、神仏耶すべて宗教的の信念を有つことはないけれども、青年時代に修めた漢学から論語を以て一身を守らうと覚悟致しました。是れは決して形容でも無く虚飾でも無く、実業者として何か一つ堅く守る所が無くてはならぬ、然かも銀行業者とならうと決心しました時に、一つの信念を定めねばならぬ、それには論語が好い、論語に依つて銀行業の経営が出来ようと考へました。道徳と経済との関係と申しますと、大層高尚になりますが、極く通俗的に考へて、論語の主旨を踏み違へぬやうにして、自己の経営する銀行を発達させようと云ふ意志から、道理と殖益とは両立し得られようと思つたのであります。
 当時の実業界の有様は、今を距ること四十五六年前のことでありますから、決して今日の如き状況ではありませぬ。旧幕時代は商人を士農工商というて四民の階級の最後に置いた、また其商業というても幕府の頃は範囲も狭く資力も少く、日本国内だけの取引でありました。
 斯かる有様では到底海外諸国と交通して後れを取らぬやうにすることは出来ない、同時にまた商業に依つて日本の富を増進することも出来ないと考へましたから、私は微力ながら是非とも精励努力して日本の商業を発展させたい。これを発展さするには如何なる方法に拠るか其適当の方法を講究せなければならぬと考へました。而して其大体は欧米式に則る外は無い、目前自己の経営せむとする銀行の如きも、会社組織合本法に拠つて設立するより外あるまいと思うて、其方法に拠つて力を竭くしました、素より商業のことでありますから、性質としても利益を主とせなければなりませぬ、利益を目的とすれば其目的に伴ふ手段として、利のある所は道理とか情義とか云ふものを後にするやうに成り行くのが勢の然らしむる処であります、然し斯様にして得た利益は縦令其目的を達し得られましても、決して永久に続くものでは無い。是に於て前に述べました一つの覚悟と云ふものが必要になつたのであります、蓋し商業と云ふものは一つの道理に拠つて経営しなければ発展するものではない、又道理に外れたるものは決して永続は出来ぬものであると私は信じて疑ひませぬ。
 私は一昨年喜齢に躋りましたから、全然実業界を去りましたが、それ迄満四十三年間第一銀行頭取を勤めました、其間独り銀行業のみならず、すべての物質的業務に就て百般の事物に渉つて進歩発展させなければならぬと思うて、種々精力を尽しましたが、或は其間に競争も生じ、甚しきは衝突も起り、又は意外に進み過ぎたと思ふものもあり常に悲境に居るものもございましたが、私は其間に処して只管孔子の教に依つて処理し往けば、必らず何事も成就するものと信じて居りました。私の経営した中にも或は苦辛惨憺たるものもございましたが、常に孔子の教に背かず、論語の教旨に拠つて経営が出来たと思ふのであります。故に私は道徳と経済とは必ず一致するものであり、道徳に
 - 第50巻 p.127 -ページ画像 
拠つて殖益は得らるゝものであり、また経済の働きに拠つて真正の道徳も拡大して往くものであると信ずるのであります。私の此の道徳経済合一論は自己の経験から申すのでありまして、決して学問上の理論ではありませぬ。私は此個人の道徳経済が一致すると云ふ所から更に之れを拡めて、国際間に於ても道徳と経済とは一致させ得るものと思ひます。但し世の中は如何にしても総て平等にはなり得られぬ、詰り優勝劣敗は免かれぬものと思ひます、けれども個人間に道徳と経済と一致するものであるならば、国際間にも之を普及して弱肉強食の弊に陥ることの無いやうにすることも出来得るものと思ひます。而して此の注意が個人間にも欠けましたならば、人間の事は常に甚しき争ひを生ずることゝなりますから、どうしても道徳と経済とは併行するやうにしたいのであります。
○下略
  ○右ハ大正七年十二月一日、東京帝国大学法科大学第三十二番教室ニ開カレタル斯文会主催ノ講演会席上ニ於ケル栄一演説ノ一節ナリ。