デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
1款 株式会社第一銀行
■綱文

第50巻 p.137-156(DK500025k) ページ画像

大正5年10月6日(1916年)

是日栄一、帝国ホテルニ於テ当行頭取辞任披露会ヲ開キ、引退ノ挨拶ヲ述ブ。次イデ十月八日神戸ニ於テ同披露会ヲ開キ、更ニ翌大正六年三月、大阪・京都・名古屋ニ於テ同様披露会ヲ開キ、等シク挨拶ヲ述ブ。


■資料

竜門雑誌 第三四二号・第七二頁 大正五年一一月 ○青淵先生退任披露会(DK500025k-0001)
第50巻 p.137-139 ページ画像

竜門雑誌  第三四二号・第七二頁 大正五年一一月
    ○青淵先生退任披露会
青淵先生には既報の如く七月二十五日第一銀行定時総会を機として同行頭取を辞任せられたるに付、十月六日午後五時より帝国ホテルに於
 - 第50巻 p.138 -ページ画像 
て朝野の縉紳を招待して右披露会を催されたり。先づ来賓一同に向ひて、幕末に方り郷関を出でたる時の志より説起して、第一銀行頭取辞任の理由及今後に於ける処世方針を縷述して告別の辞となし、夫れより別室に於て晩餐の饗応を為し、食後先生は再び起ちて謝辞旁々一場の挨拶(追て本誌掲載)を為し、且つ来賓一同の健康を祝し、之に対し伯爵芳川顕正氏来賓一同を代表して一場の演説(演説欄参照)を為し、次いで一同盃を挙げて先生の健康を祝して宴を終り、更に別室に戻りて款談笑語、和気靄々の裡に散会せるは午後十時頃なりき。当夜の来賓諸氏は左の如し(イロハ順)
  井上準之助君    池田謙三君   男 岩崎小弥太君
  岩井重太郎君    生田定之君     石井祐斎君
  石井健吾君     井上公二君     伊沢良立君
  伊藤幹一君     池田竜一君     今泉嘉一郎君
  伊東祐忠君     犬丸鉄太郎君    磯部保次君
  今西兼二君     石川徳右衛門君   井上友一君
  石河幹明君     早川千吉郎君    服部金太郎君
  原六郎君      橋本圭三郎君    原富太郎君
  西野恵之助君    西村直君      堀達君
  星野錫君      堀内明三郎君    堀越善重郎君
  堀越角次郎君    堀越鉄蔵君   男 穂積陳重君
  穂積重遠君   公 徳川慶久君     豊川良平君
  利倉久吉君     土佐孝太郎君    土肥修策君
  小野英二郎君    長鋒郎君      尾高次郎君
  小柿田捨次郎君 男 大倉喜八郎君    大倉粂馬君
  小田川全之君    大橋新太郎君    尾崎敬義君
  大沢省三君     小川䤡吉君     沖馬吉君
  大谷嘉兵衛君    岡実君       奥田義人君
  大谷誠夫君     尾高孝五郎君    渡辺千冬君
  脇田勇君      藁品槍太郎君    和田豊治君
  渡辺嘉一君     渡部朔君      渡辺福三郎君
  若尾幾造君     若槻礼次郎君    片山貞次郎君
  加藤晴比古君    加納友之介君    加藤正義君
  門野重九郎君    柿沼谷雄君     神戸挙一君
  各務鎌吉君     葛野春雄君     加藤昇一郎君
  金子政吉君     樺山愛輔君   伯 芳川顕正君
  吉井友兄君     吉田源次郎君    吉田鉄太郎君
  横山徳次郎君    吉岡新五郎君    田中平八君
  団琢磨君      高橋義雄君     竹内綱君
  竹内直哉君     田中元三郎君    田中栄八郎君
  滝沢吉三郎君  男 高橋是清君     高松豊吉君
  高橋要治郎君    頼母木桂吉君    竹村良貞君
  竹田政智君     田中太郎君     相馬半治君
  左右田喜一郎君   添田寿一君     曾和嘉一郎君
  角田真平君     頭本元貞君     坪井善四郎君
 - 第50巻 p.139 -ページ画像 
  根津嘉一郎君    成瀬正恭君     長崎竹十郎君
  中井新右門君    中沢彦吉君     成瀬隆蔵君
男 中村勇次郎君    中野武営君     中谷弘吉君
  内藤久寛君     中井三之助君    中村鎌雄君
  村井吉兵衛君    村井貞之助君    牟田口元学君
  室田義文君     植村澄三郎君    瓜生震君
  上原豊吉君     内田徳郎君     内田嘉吉君
  上田彦次郎君    野口弘毅君     串田万蔵君
  久万俊泰君     日下義雄君     久米良作君
  倉田亀吉君     山成喬六君     安田善次郎君
  安田善三郎君    山口荘吉君     山中隣之助君
  山本彦吉君     山下亀三郎君    山本久三郎君
  山中譲三君     柳生一義君     山本栄男君
  山内政良君     矢野恒太君     山本達雄君
  簗田𨥆次郎君    山川瑞三君     八十島親徳君
  八十島樹次郎君   矢野由次郎君    松尾吉士君
  松方巌君      前川太兵衛君    益田孝君
  馬越恭平君     松野千勝君     町田豊千代君
  増田増蔵君     松山忠二郎君    増田義一君
  増田明六君     前原厳太郎君    深井英五君
  藤瀬政次郎君    福井菊三郎君  男 古河虎之助君
  福原有信君     藤村義苗君   男 近藤廉平君
  小池国三君     江口定条君     青木菊雄君
  安藤浩君      有賀長文君     朝吹英二君
  浅野総一郎君    阿部吾市君     粟津清亮君
  赤松範一君     安部幸兵衛君    桜井鉄太郎君
  佐藤正美君     佐々木勇之助君   佐々木慎思郎君
  阪井徳太郎君    指田義雄君     佐々木清麿君
  桜井錠二君     阪谷希一君     佐藤毅君
  木村清四郎君    菊本直次郎君    菊池長四郎君
  桐島像一君     木下英太郎君    木村長七君
子 三島弥太郎君    水町袈裟六君  男 三井高保君
男 三井八郎次郎君   三村君平君     宮岡恒次郎君
  光永星郎君     白石元治郎君    芝崎確次郎君
  白石直治君     白石喜太郎君    渋沢義一君
  清水釘吉君     渋沢武之助君    清水一雄君
  清水揚之助君    渋沢秀雄君     塩原又策君
  土方久徴君     日比谷平左衛門君  平田初熊君
  平沢道次君     諸葛小弥太君    森下岩楠君
  諸井恒平君     諸井四郎君     桃井可雄君
  茂木惣兵衛君    森俊六君      本野英吉郎君
  関宗喜君      菅原大次郎君    末延道成君
  須田利信君     杉原栄三郎君    鈴木勝君

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竜門雑誌 第三四四号・第二一―二九頁 大正六年一月 ○実業界引退披露会に於て 青淵先生(DK500025k-0002)
第50巻 p.140-146 ページ画像

竜門雑誌  第三四四号・第二一―二九頁 大正六年一月
    ○実業界引退披露会に於て
                      青淵先生
 本篇は青淵先生が昨年十月六日午後五時より、朝野の知人を帝国ホテルに招待して実業界引退披露会を催されたる際、食後来賓一同に対して挨拶せられたるものなり(編者識)
 満堂の閣下並に諸君、此処で申上げますと演説がましく相成りまして、甚だ敬礼を欠きますけれども、御覧の通りの老人の声の低い為めに広い場所では思ふことも、諸君の尊聴に達することが如何かと思ひます、故に食堂の終に於て申上げます予期であつたのを、此席にて一言を述べまして、清聴を煩はしたうございます。
 本年の七月二十五日に私は第一銀行の取締役及び頭取を辞退致しまして、随て関係事業の貯蓄銀行若くは銀行集会所等の会長も同時に辞職したのでございます、玆に始めて繋がれざる船、放たれたる鳥の如き身となりました、さりながら単に経済界に於る直接の経営より離脱したと云ふだけで、老躯ながらも生存して居る限りは、職責とせざる範囲に於て、従来慣れたことには口も出し、御相談にも応ずるとして残余の生命を送らうと考へます、左様に自己の身が一転しましたに就ては、自分の予期する所は、仮令向後数年間たりとも、どうぞ物質界ばかりでなく、精神界にも聊か微力を尽したいと希望して居ります、お集りの諸君には、或は同僚として、又は関係のお間柄として、御厚情を蒙り御懇命を受けて、玆に四十有三年を経過しましたのでございます、故に今日此身の一転化を致しますに就ては、従来のお礼を申上げますと同時に、或は煩はしい虞はありますが、私の今日に経来りました逕路を、お知りの方も居られますけれども、詳細に申上げ、尚ほ残生の期念をも披瀝して未来に於る御幇助を願ひたいと思ひます。
 私は東京人でもなく、従来の商売人でもございませぬ、色々に変化して今日になりましたので、彼も望み是も欲して詰り再三の失敗から遂に実業界に力を尽したと申上げざるを得ぬのでございます、七十七年前東京に近い田舎の農民に生れまして、十四・五歳より聊か漢籍を読み、親戚から仕込まれ、時勢に唆かされて、おほけなくも国を憂ふるの人となつたのでございます、二十四・五歳の頃には、憂国の為めに申すも恐入つた計画まで企図したのでございましたが、それは幸に成功せなんだ為めに、私の命が今日まで生存したと申して宜しいのでございます、遂に一転化して農民が浪人に変りました、是れが即ち私の初歩の経過でございます、蓋し斯様な転化をさせると云ふのは、私自身の粗暴なる考も因となつたのでありますけれども、併し私から弁解すれば、時勢が私をして左様な念慮を起させたと云ふても、単に回避の辞とのみ言はぬでも宜からうと思ひます、既に転化しました身は浪人となつて、京都に遊び、進退維谷つて遂に節を屈して一橋の家来になつたと云ふのが私の第一の失敗でございます、既に故公爵慶喜公に身を捧げましては、今日の如き世の中ではなかつた為めに、所謂君臣三世の契は飽までも守らねばならぬ、夫れまでの討幕観念は忘れて此君を良主たらしむるのが私の本分であると云ふ覚悟で、数年を経過
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しましたが、其頃の世の中は朝夕を保たず、勿論其頃ばかりでございませぬ、今日とても事に依ると似寄つたこともありますけれども、今日の朝夕を保たぬのと、其頃の有様とは、殆ど日を同じうして語る訳には参りませぬ、爾来又種々なる変遷から三世を誓つた慶喜公が、遂に徳川家を継ぎて将軍になられる、為めに私の予期は又大に変じた、変ずる所ではない、全く違却して玆に第二の失敗を演じたのであります、彼是する中に海外旅行を命ぜられ、徳川民部公子に随従して仏蘭西に参つたのが御一新の前年である、旅行の目的は凡そ五年を期して博覧会の礼式が済みたる後は仏国に留学、相応の学を修めて帰るやうにと云ふことであつたけれども、浅薄ではありますが、其頃の京都の形勢を見聞して居る私には、五年は扨置き来年にも如何なる変化を生ずるかと云ふことは、予想に難からなかつたのである、果して其年の十月十四日に慶喜公は大勢を看破して幕府の掌握せらるゝ政権を朝廷に返上された、尋て其翌年即ち慶応四年、言葉を換へれば明治元年の一月には伏見鳥羽の衝突となり、将軍は速かに大阪から関東に退きて謹慎恭順を申立て、徳川幕府は玆に倒れたのでございます、当時仏蘭西に居ります私は、今日の如く速かに其事情を知悉し得られませぬから、唯憂慮に堪へませなんだが、果して斯様になるであらうと窃かに憂慮して居りましたから、覚悟の外ではなかつたのである、唯さりとては早かつたと云ふ感じはありましたが、最早政治界には非運の私ゆへに此方面は断念して、他に国家に尽すべき道を求める外はないと覚悟し、軈て仏蘭西を引上げて明治元年の十一月帰国しました、其時のお国の有様は所謂桑田変じて海となるの譬の通りで、僅に一年半の歳月が、それこそ浦島の島戻りのやうな想をなしたのであります、東京の用事も相済みて駿河に参つて見ますると、大切に思う慶喜公は静岡なる宝台院と云ふ極く狭隘なる寺院に謹慎して居られる、一夕密に拝謁は許されましたが、お目に懸つたときは真に暗涙に咽びました、昨年までは天下の大権を握れる将軍、今日は刑余の一匹夫、而して其御住居は如何なる有様であるか、八畳ばかりの小座敷に薄暗き行灯の火で、私が控えて居る席に出座せられて、久濶の会見であると云ふお言葉を頂戴したので、如何なる強情我慢の人でも斯かる場合には必ず涕泣せざるを得ぬと思ひました、此一事に付ても私の政事界を断念するの覚悟を益々強からしめたのであります、就ては向後自己の一身を如何に処して宜いかと云ふ問題に至つては、殆ど解決するに迷うたのであります、兎に角三十歳未満の青年、仮令学問技芸はないにもせよ国を憂へて故郷を去り、数年の苦心艱難も悉く水泡となつたる今日只空寂と此儘に其日を送る訳に行きませず、さりとて故郷に帰つて農業に従事するも余りと云へば腑甲斐ない、進まんか道はない、退かんか家はないと云ふ有様で、何分断案が着き兼ましたが、既に政事界に望を絶ちたる身であるから、玆に始めて商工業の事務に処して、更に国家に報ずるといふ念を興したのであります、昨年仏蘭西滞在中、大に自己の心に感銘した二つの事柄がありました、其一は商工の事業を合本法で経営すると云ふ事、即ち今日の株式会社であります、他の一つは商工業に従事する人と、政治・軍事、若しくは教育・法律等の方面で
 - 第50巻 p.142 -ページ画像 
社会に立つ人との関係が其時の日本の有様とは全然相違して居る、此二点は私の最も強く感触した所であつた、或は各国巡回の際に白耳義の国王が徳川民部公子に向て鉄の広告をしたと云ふこと、又はブールスと云ふ商人の公会場があつて、公債証書・株券等が即座に売買されると云ふこと抔、日本にては想像の出来ぬものゝ目に触れ心を惹くこともありましたが、前に述べたる二点は特に私をして深く感奮せしめたのでございます、故に帰国と同時に、商工業の方面に於て力を尽す外はないと云ふ念を堅く定めたのであります、故に駿河へ参つて静岡藩庁に於て頻に其事を主張致しまして、商法会所といふものを静岡市に設立しました、今日考へますると、法理上からも事実上からも笑ふべき仕組ではあつたけれども、一の官民合同的会社である、金融もやれば商売もやる、委託販売もやると云ふ性質の商会を組立てました、それが私の帰国しますると直ぐ翌年で、即ち明治二年二月頃であります、詰り私の建議が幸に静岡藩に容れられたのであります、但し其時に特別なる一種の資本があつた、それは石高拝借と唱へて諸藩に貸付られたる大政官札である、当時其札は容易に使用が出来ぬから藩庁でも色々に心配をして居る、依て此太政官札を以て資本に宛てたが宜からうと云ふのが、私の建策の主意であつた、而して之れに民間の資本を加へて、玆に官民の合同事業を組織し不規則なる合本法を以て地方商工業の発達を謀つたのであります、十箇月ばかり其業を経営すると二年の冬私が明治政府から召されました、其頃欧羅巴帰りと云ふことは、仮令鍍金であらうとも金か銀に見られる時代であつた為めに、私もお見出しを受けたと見える、而もそれが太政官の呼出しと云ふのは重く用ゆるの趣意である、私は前に述べたる商会を組立てましたから今日官に就くことは迷惑である、殊に当初の覚悟にも戻ると思ふて只管御免を願ふたが、其頃藩の事情は政府からの命とあれば辞する事は出来ぬと云ふ有様で、最非行けと云ふ藩の厳命もあり、余儀なく其年の十一月の末に東京に出たのである、其時の覚悟は、商工業で世に立つことが出来るか出来ぬかは第二として、一生を之に委ねると決心した上は官職は是非辞退する積りでありましたが、それも叶はずして遂に大蔵省の租税正と云ふ職を拝命致した、丁度今日の総理大臣たる大隈侯爵が其時の大蔵大輔で、先づ大蔵省の全権者で、少輔は故伊藤公爵であつた、私は十数日を経て大隈大輔の邸を訪問し従来の履歴を簡単に述べて、是非静岡藩で企図した事業を成功したいから官職の御免を蒙りたいと申しましたが大輔は其事を許可されませぬ、のみならず私の身の上を詳細に聞糺されたから、農民から攘夷の企望を起したこと、階級制度を打破したいと思うたことを申したのでございます、是に於て大隈大輔の私へ説示の趣旨は、既に其心で起つた者が今日静岡藩士になつたと云うて、小さい区域に捉はれて、明治政府に勤めぬと云ふのは訳が分らぬ、今日の王政維新は所謂八百万の神達が神集ひに会合して万事を改革するのであるといふ雄弁に、私も俗に申す面喰つてそれでは暫く勤務しませうと御受をした、それから四・五年間大蔵省に勤務しましたのでございます、併し自身の覚悟は何処までも変りませぬから、大蔵省の奉職も尚ほ商工業の開発と考へたのであります
 - 第50巻 p.143 -ページ画像 
露骨に言へば前拵へ位の見込で、或は貨幣制度の確定、金札の引替方法、公債証書の発行、株式会社の設立と云ふやうなることに就ては最も必要として尽力した積りであります、玆に於て遂に銀行論が起つたのであります、明治三年の冬故伊藤公爵が財政の整理の目的に依つて亜米利加に行かれて大蔵省中の事務を種々調査された、其調査中には色々の項目がございましたが、第一に金札引替公債証書に依つて銀行を設立し、其銀行紙幣にて政府発行の金札を兌換する、即ちナシヨナル・バンク・システムを日本に採用しやうと云ふ一案が企てられた、それより先に貨幣制度を確定して金貨本位としたから、玆に銀行設立を企図するには此金札引替公債証書の制度を日本に起さなければならぬ、而して亜米利加に於る公債の仕組は斯様であると云ふて、綿密なる公債証書発行の方法を書送された、其頃の我が大蔵省は大宝令に拠りたる仕組で、省・寮・司と云ふ職制でありましたが、是では今日の財政を処理するに不適当である、寧ろ欧米の制度に倣つて各局を設け事務の分掌を立てねばならぬと云ふので、事務章程と云ふものを制定し其他色々の改革もありましたが、伊藤公爵の調査して書送された事は、私共の最も注意して攻究すべきものとなりて、玆に始めて銀行論が大に進んで参りました、其頃一方に英吉利仕込の吉田清成君が銀行通として、伊藤公爵の亜米利加式を駁し、種々の議論で、何れが是、何れが非と云ふ判断は定め兼ねましたが、兎に角英吉利式は他日の事として、今日の場合に処するには先づ亜米利加制度に拠るが宜からうと云ふのが、段々論議した末の大蔵省の結論であつた、但し其時の大蔵省は故井上侯爵が首脳に立つて百事を取扱ふたのであります、斯く省議が定つて、私共の手で調査を進めて、遂に明治五年の十一月、国立銀行条例が発布になつた、私は此国立銀行と云ふものが成立つならば、他の種々なる合本会社も出来るであらう、果して然らば私が欧羅巴から帰つたときに漠然と想像したことが、規則的に行はれるのであると喜悦したのであります、明治二年から六年の春まで大蔵省の官務に従事致しまして、六年の五月に至り井上侯爵の辞職と共に私も職を辞しまして、銀行者と成つたのでございます、其銀行は即ち第一国立銀行であつて、創立後二十年を経まして、更に第一銀行と称する普通銀行となり再び二十年を経過して今日に及んだのでございます、其始め銀行に従事しまするときに私の期念は、成べく各商工業者が銀行に親睦して、銀行を利用するやうにしたいと思ひましたけれども、私共の想像のやうには世間が思ふては呉れぬ、此席にお集りの諸君の中にも、伝馬町の旧式を御承知の方もありませうが、其頃洋服を着け時計を下げて居る人をば軈て破産をするの観を以て居られたのであります故に私共から斯様な便利なものと云ふ説明が、先方からは危険のものだ、浮と近付いてはならぬと云ふ様に見られて、其接触が却々六ケ敷うございました、故に株式会社を他の商工業に進めて行かうとしても容易に成立ちませぬ、同時に銀行の預金は斯様である、小切手の取扱方は斯うである、為替金は斯くすると便利である、コルレスポンデンスの方法もあると色々の手続を示しても、甚しきは、元来借用証文と云ふものは兄弟の間にも見せぬものを世の中へ振り撒くなどゝいふそ
 - 第50巻 p.144 -ページ画像 
んな不作法なことがあるものか、と憤る人が多かつたと云ふ有様であつた、勿論私は銀行のことは書物の上では多少研究も練習もしましたけれども、実務は何も知らない、又銀行者になると云ふも実は甚だ大胆なる挙動ではありましたが、明治六年の五月に官を辞しますると同時に、三井・小野両家で銀行組織の事ありて、恰も好しとて其処に聘されて何も知らずに銀行者となつたのであります、若し尠少なりとも専門的の学問があつたならば、決して銀行を引受け得られる筈はなかつたのである、所謂何も出来ぬ為めに何でも出来るやうに思はれた、一の特長もなかつたから銀行者になつたと言はざるを得ぬ、併し当時の世の中が左様な有様であつたから、如何に私が何も知らぬにしても銀行以外各種の事業にも手を出さねばならぬと思ふて、甚しきは四十五・六の会社に重役又は相談役と云ふやうな職責を持つた場合もございましたが、幸に私の従事した銀行も、実は自分の働が銀行をして大に発達せしめたとは申上げ兼ますけれども、社会の進運に伴ひまして各種の会社と共に発展し、種々なる計画も段々行はれ、随て又会社組織とならざる一般の商工業者も多く銀行を利用するやうになつて、社会の富の増進と相待つて銀行も亦拡張して参りました、但し此銀行の歴史から申しますと、国立銀行が普通銀行に変ずるに就ても、又国立銀行の兌換方法が違却したる事情に就ても、其間に色々な紆余曲折、所謂行違ひ思違ひ等にて種々の失敗談がありますけれども、是等を尽く申上げますことは余りに冗長に亘りますから省略致します、第一国立銀行の成立しましたのが明治六年八月一日であつて、其時の主任者たる大蔵省の紙幣寮頭、今日の銀行局長が芳川伯爵閣下であつて、第一国立銀行の開業式に御出席で訓戒的の式辞を御朗読下されました縁故から是非今夕は御臨席をとお願を申して、尊来を得ましたのを有難く存じ上げます、実は今夕の宴会には、大隈侯爵・松方侯爵等の諸閣下にも賁臨を請ひ、当初創立に関する御高配若くは兌換制度を中止する方法等に就て容易ならぬ御幇助を蒙つたので、右等の懐旧談を申上げ、感謝の意を述べたいと思うたのでありますが、両侯爵はお差支で御臨場を得ませぬのを遺憾とします、想ふに我国の銀行は其初めは適順に発展したとは申し兼ましたが、世の中の進歩と共に銀行も亦之に附随し、殊に追々に知識ある当業者も輩出して、更により好い取扱ひも発明され、又明治十五年には日本銀行が創立されて、亜米利加式の分立制度が工合好く統一的に変つたのは最も松方侯爵のお力と深く其功労を感佩して居るのであります、当時私共銀行同業者が申合せて頒徳の表を呈したことは、今尚ほ記憶して居ります、而して社会全体の進歩が追々に其度を加へて、当時の数字の微々たるものが、今日は十倍、二十倍若くは五十倍、百倍を以て算へる程になりましたことは、其初め起した者の力は極めて微々たるも、所謂能者が之を紹述して今日あらしめたと申して宜からうと思ふのであります、右様なる現状から思惟しますと、私も実業界に此身を置きますことを好まぬのではございませぬけれども、頽齢限りあるを以て限りない歳月を何時までも其業に居ることは、寧ろ其宜しきを失ふものと考へまして、恰も今年が喜寿を迎へまするを機会と致して、玆に明治の初年に思ひ起しまし
 - 第50巻 p.145 -ページ画像 
た事業の今日の盛況に達しましたるを祝賀し、私の実業界に対する責任を卸したのでございます、就きましては、其初めから四十年の間引続き、又は追々に代謝して御若い方もあられますが、爾来別して御懇親、御助力を得て今日に至つたのでありますから、斯く諸君を一堂に御出席を願ひましてお礼を申上げるのは、甚だ不敬とは考へましたけれども、区別して御礼を申上げまするも、亦何やら残り多いやうに思ひますので、玆に併せて陳謝の意を述べて、私が実業界を隠退する告別の詞と致すのでございます。
 将来の実業界も弥増し繁栄することは信じて疑ひありませぬけれども、今日隠退する私の心から申しますると、どうぞ堅実なる繁盛を深く希望するのでございます、前に申上げました通り、私は物質的の関係は此際に御免を蒙るとも、精神界の事に付ては余命短しといふとも一層微力を尽して見たいと思ひます、蓋し精神と物質とは全然分離すべきものでもなく又引離す事も出来ませぬ、倩ら観察しまするに、今日の実業界は物質は大に進んだが、精神が同じく随伴したかと申すと或は疑点なきを得ざるの感があります、果して其一方のみ進みて一方が之に伴はぬとしたならば、其間に必ず亀裂を生ぜざるを得ぬのであります、満堂の諸君に於ては、どうぞ未来の物質界を進めると同時に精神界にも注意せられ、両者併せ進むことに御精励あらんことを、呉呉も懇願して已まぬのでございます。
 私の身の上の段々に変化した有様を回想しますと、恰も私の故郷で農家の専業とする蚕が、四眠を経て遂に繭となると似て居りますので嘗て私は家族に対して身上の談話を為せし時に、我身の変化は取も直さず蚕の三眠と云ふ順序を経、上簇して繭を造るのである、但し其繭は不出来なるも変化の次第は相類すると戯言した事がございます、其初めは農民から浪人となり、それから一橋の役人となり、更に政府の官吏となり、終りに元に戻つたのであります、其変化する時代は長短不揃でございましたが、併し丁度四つの変化を待て玆に上簇致したのであります、諺に虎は死して皮を留め、人は死して名を留むと、言ふてありますが、私は到底大なる名を留むることは出来ませぬ、又虎の如く立派な皮をも留めませぬ、但し虎の如き立派の皮を留むるものは其存在の間には、或は呑噬搏撃の害を為すことが無いと言はれぬ、然るに私は蚕であるから、死したる後には聊かながら世人を益する糸を留むるのでございます、幸に未来数年の間の事業に於て幾分たりとも精神界に裨補することが出来ましたら、私の満足此上もございませぬ故に今日実業界を隠退するも、満堂の諸君には引続いて御懇親のほどを願ひます。
 此機会に於て更に一言を添へますのは、四十三年間私が頭取たりし第一銀行の後任者は、諸君の御熟知の佐々木勇之助君であります、私から斯く申上ると自己を賞賛するやうになつて、心苦しい次第でありますが、実に銀行業には長く経験されて、専心実務を取られた人であります、私が第一銀行に勤務して聊か効果ありとせば、佐々木君のあつた為めと申して決して溢美ではございませぬ、而して我が第一銀行は将来佐々木君に依つて経営されますから、何卒相替らず御懇命の程
 - 第50巻 p.146 -ページ画像 
を願ひます、一身の経過を長々と申上げてお聴苦しいことゝ存じましたが、其実業界に入る動機は斯うである、銀行は如何なる心で経営した、未来の処世は如何なる考であるかと云ふことを、折角諸君の尊来に対して一言を陳上致しましたのは、失礼のやうには思ひましたが、私としては一身の終局とも見るべき場合ゆへに、敢て無用の弁でないやうに思ひます、為めに長々と愚見を述べまして、尊聴を煩はしました段は甚だ恐縮でございます。(拍手)


竜門雑誌 第三四二号・第五一―五五頁 大正五年一一月 ○芳川伯爵の謝辞(DK500025k-0003)
第50巻 p.146-149 ページ画像

竜門雑誌  第三四二号・第五一―五五頁 大正五年一一月
    ○芳川伯爵の謝辞
 本篇は十月六日青淵先生が帝国ホテルに於て第一銀行頭取退任披露会を催されたる際、伯爵芳川顕正氏が来賓を代表して演説せられたるものなり(編者識)
 満堂の諸君、甚だ嗚呼がましき事ながら私は褐を脱して官途に就きましたは、今より四十六・七年前でありまして、当時渋沢男と銀行に就ては深い関係を持つて居りますゆへ、諸君の総代として謝辞を申述べたいと思ひます、お許を乞ふ(拍手)
 男爵は今日殆ど五十年に垂々とする長年月の間銀行事業に御従事なされ、第一銀行をして今日の盛大を致さしめ、所謂功成り名遂げ、玆に七十七即ち喜の字の祝ひの年を以て完全なる成功を以て御辞職なさると云ふことは、重ね重ねお芽出度いことであります、それに就て一言お喜びを申上げると同時に、将来に就て聊か希望を抱いて居りますから、これを申述べたいと思つて参つたのであります、抑々自分が男爵の知遇を辱う致しましたのは明治四年の秋でありました、当時男爵は大蔵省の三等出仕、今日の言葉で申せば即ち大蔵省の次官を務めておられたのであります、私が褐を脱して官途に就いたのは明治三年の冬でございました、官途に就きますや否や、大蔵省の出仕を申付られたが、当時の大蔵少輔は伊藤博文氏でありました、東京へ出ると旬日ならずして伊藤氏より、自分は今回大蔵少輔として亜米利加合衆国へ派遣の命を受け、銀行制度の取調に行く積りである、是非吾輩に随いて来い、と云ふことの勧めを受けまして、三年の冬亜米利加に参りました、即ち合衆国華盛頓に参り、大蔵省に就て其銀行制度並に公債発行等のことを取調を致し、帰朝致しましたのが明治四年の七月、即ち廃藩置県を仰せ出されたる辛未の年でありました、廃藩置県を実行せられたのは慥七月十四日と記憶しておりますが、私は其月の二十五・六日頃に帰朝致した、其初め亜米利加へ出張したる当時は、先刻男爵の仰せられたる通り、今の大隈侯爵が大輔で、故伊藤公爵が少輔であつた、而して廃藩と共に官制が改つて民部省と大蔵省が合併せられ、其内に紙幣寮と云ふものを設けられた、同時に故井上侯爵が大蔵大輔となりて大臣の職を執り、其下に男爵が三等出仕にて即次官の任を執る事となつた、さて私が亜米利加へ行つて銀行制度並に公債の事項を取調べたと云ふに就て、帰朝の後直ちに私は紙幣寮権助と云ふ奏任の一番下級の役人を命ぜられたが、紙幣寮が設けられて僅かに十日程しか経つて居らぬから役人と云つては只僅に属官三・四人しか居なかつ
 - 第50巻 p.147 -ページ画像 
た、其時に権助になつて始めて次官たる男爵にお目に懸つたのである先刻も男爵の述べられたる如く、当時天下に通用する紙幣は明治の初年発行せられたる太政官札及民部省札が合計五千五百万円、それに諸藩の紙幣凡二千八百万円を加ふれば殆んど九千万の巨額に登つたのである、之が発行の当時は諸君御承知の通りに、余程流通に困難を致して、明治二年に至り遂に年五分の利付の公債証書と交換をしてやるから、疑念なく通用しろと云ふ太政官の布告を出したのである、そこで之を如何に整理するかと云ふことは当時の最も緊要なる問題であつたそれが為めに亜米利加へ伊藤少輔等一行を派遣して亜米利加の制度を研究し調査せしめたる所以であります、其結果として廃藩のときに紙幣寮と云ふものが設けられ、そこで吾輩に紙幣寮を担任するやうにと云ふことで、紙幣寮権助と云ふ官職を拝命致したと云ふ次第である、それまでは私は役人を致したことはない、唯僅に横文字を少し捻つて書物の上で多少の調は致したが別段好い考も出なかつた、唯当時亜米利加へ行つて取調べて来たと云へば大層学者になつて来た如くに世間からは見られた、そこで政府は吾輩を紙幣寮権助に任じたのだ、さう云ふ訳で役人にはなつたが一向何も知らない、そこで男爵に就て始めて役人の稽古をした、其後伊藤公は全権副使として岩倉大使と共に欧米諸国を巡歴する事となりたるに由り、伊藤公に随行したる福地源一郎・吉田二郎等が再び随行することになつて、私独り取残された、私も是非行く積りであつたが、是非共に紙幣寮に留まれと云ふことで、無理に引留められた、それから間もなく一・二ケ月経つと紙幣権頭に抜擢された、其当時紙幣頭に欠員があつて、三等出仕の男爵が紙幣頭兼仕で、即ち私の長官に戴いたのであります°爾来男爵を長官に戴いて、其指揮の下に国立銀行条例、公債発行等の事に就いて働いたといふ深い縁故があるのであります、それで明治五年の末に至つて国立銀行条例の発布せられたのも、最も力を致されたのは男爵である、翌明治五年私は又抽でられて紙幣頭となり、そこで始めて長官下官の関係は取れたが、併し男爵は三等出仕として尚上長官である、六ケ敷いことがあれば男爵の教を仰ぎ、新たなる事は相談を致し、其指揮の下に紙幣寮の事務を執つたと云ふ次第である、明治六年に井上侯が職を辞されると同時に男爵も大蔵省を去られた、其時分吾輩は殆ど盲の杖を失つたが如くに思うた、そこで男爵のお世話で覚束なくも稍々独り立が出来て紙幣寮を務めた、ところが既に銀行に就ては、明治五年に国立銀行条例を発布されて、それから諸方に国立銀行が設立されんとして、第一番に出来たのが、即ち男爵が従事せられたる所の第一銀行、其時に私は紙幣頭として銀行を支配する役を務めて居つたので、銀行の創立の際には招かれて参つたのであるが、其時は幾許ハイカラ振つてもまだまだ演説などゝ云ふことを心得なかつたのである。祝辞を書いて持つて行つたことを覚えて居ります。それから男爵は第一銀行の経営に任じられ、私は明治七年の春紙幣頭を免じ工部大丞に転ぜられたと云ふ次第であつて、其後の関係は絶えましたが、斯くの如き縁故がありまして、爾来五十年に垂々とする歳月を経過し、男爵が喜寿に達するまで銀行の為めに尽力され、玆に充分なる成功を収めて引退さ
 - 第50巻 p.148 -ページ画像 
れると云ふお芽出度い時期に際会したことは、大に私の喜ぶ所であります、それ故に今日私は罷り出てお喜びを申上げると同時に、尚一言の希望を申上げたいと思うたのであります。
 男爵は齢喜寿に達せらるゝと雖も尚矍鑠として壮者を凌ぐ程の元気であります、縦令銀行を罷めたにしても、此より以往尚国家の為めに大に尽力せられ又希望しなければならぬことがある、即ち一言所感を添へる所以であります、さて私は今日大に成功隠退のお喜びを述べ、又将来に希望を述べやうと思つて参つたが、先刻別室に於ての御演説を承つて、初の間稍々失望の感が致した、其の演説に自分は今日まで長年月日間務めたが、もう此社会を去つて、繋がれざる船、放たれたる鳥の如くと云ふに至り、是は怪しからぬと思うた、私は男爵に対して放たれたる鳥、繋がれざる船を希望して居つたのではない、其健康壮者を凌ぐ男爵は、縦令銀行の一小部分を去つても、尚広大な天下の局面に対して尽瘁されることを希望して居つた、然るに放たれたる鳥繋がれざる船と云ふのは、世に所謂閑雲野鶴と云ふ意味であらう、それなれば吾輩の希望に違ふ、甚だ私は不満に感じたが待てしばし段々演説が進行するに随ひ、男爵は退隠しても世と離れて何もしないと云ふのではない、所謂物質界を去つて精神界で大に働くと云ふことであると言ふ所に至り、怪しからぬと思つた疑念は雲散霧消し我意を得たるものとして不満は去つて大に欣喜した訳である、当初男爵の知遇を受けた当時を顧みると、政府の世帯も寔に僅かなもの、世間も甚だ幼稚であつた、銀行と云ふと大層に聞えるが、其銀行が銀行界に行はる簿記を附けるをも知らぬ、依然呉下の阿蒙で旧来の大福帳を担出すと云ふ次第であつた、そこで男爵と相談をして、是ではいかぬ、欧羅巴に銀行簿記と云ふものがある、之を学ばせやうではないか、そこで香上銀行の支配人シヤンドと云ふ人を紙幣寮へ聘して教師となし、三井・小野・島田の豪商よりそれぞれ丁稚若者を出して簿記の稽古を始めさした、独り実地に教ゆるばかりでなく、私は紙幣寮に於て銀行簿記精法と云ふものを発行した、之が簿記の濫觴である、其位世間は幼稚であつた、先刻男爵の言はれた通り、静岡に於て始めて会社様のものを拵へたが、実は何も知らなかつたと云ふ人が、世間第一の物識と思はれた、以て世間の幼稚のことが分る、爾来殆ど五十年を経過した、今日は中小学校の教育を受けたるものは直ちに定款を作り、会社を創立する位のものは世間其数の多きに苦むやうな実況である、男爵が物質界を去ると云ふのは実に御尤の事だ、今後物質界のことは、他の世間の人達に任せて、是から精神界に働いて貰ひたいと云ふことを、私は男爵に懇望しやうと思うて今日参つたのである、今や五十年前の当時に較ぶれば経済社会は幾層倍の拡張を致し、外国貿易の如き、当時は殆ど算ふるに足らなかつたものが今日は十数億円の巨額に達した、政府の歳計も当時は僅かに数千万円であつたものが、今日は五億六億と云ふ莫大の数字を示して居る、之を以て見ても経済社会の膨大が察せらるゝと思ふ、今日は未曾有の欧羅巴大戦乱の為めに我国の事業が発達して、年々殆ど一億何千万円の輸出超過であると云うて大層喜んで居る、併し是は何時までも続くものではない、必ずや期年ならずして
 - 第50巻 p.149 -ページ画像 
平和克復となれば、是まで遑なかつた欧洲諸国の人は、大に奮発して戦時疲弊の回復を図るに相違ない、其暁には今まで鼓腹して喜んで居つた経済界の順潮も、或は一場の夢と化せられはせぬかと憂へるのであります、此時に当つて男爵の如き、実地に経験あり社会の信望を荷へる方が、日本の将来の為めに、精神界に努力せらるゝと云ふことは最も必要であらうと思ひます、男爵は七十七の長寿を保たれ、其壮なることは壮者を凌ぐ程でありますれば、必ず将来に向つて是等の点に充分御尽力下さることゝ信じます、其処に至れば繋がれざる船、放たれたる鳥と云ふことは、身体はさうかも知れませぬが、精神は以前に増して一層検束されて、国家の為め国民の為めに反て繋がれたる船、放たれざる鳥となつて、充分に精神界に御尽力あらんことを御覚悟あらん事を切に希望して已まぬのであります、私は脱褐以来五十年間知遇を受けましたる経過を述べ、旁々将来に対して聊か希望を陳べました次第であります、玆に諸君と共に男爵の御健康を祝し乾盃いたします(拍手)(起立乾盃)


竜門雑誌 第三四四号・第三五頁 大正六年一月 ○青淵先生の答辞(DK500025k-0004)
第50巻 p.149 ページ画像

竜門雑誌  第三四四号・第三五頁 大正六年一月
    ○青淵先生の答辞
 本篇は昨年十月六日帝国ホテルに於て開かれたる青淵先生実業界引退露披会席上に於て、前号掲載の芳川伯爵の演説に対し謝辞を述べられたるものなり(編者識)
閣下、諸君、私は芳川伯爵から、先刻繋がれざる船、放たれたる鳥と申上げたことに就て、大にお訓戒を戴いて、これを謝し且つ喜ぶのであります、私の繋がれざる船、放たれたる鳥と申したのは、向後一身の営利に属する事を離脱するのであつて、国民たる責任は何時でも其覊絆を受ける積りであると御承知を願ひたい、故に将来も微力ながら実業界の経済問題よりは、其精神界に就て精力の有らん限り尽瘁致すと云ふことを誓ふのでございます、是は芳川伯爵に御承認を願ふと同時に、満場の諸君にもお聴置を願ひます(拍手)


竜門雑誌 第三四八号・第七九頁 大正六年五月 ○青淵先生招待会(DK500025k-0005)
第50巻 p.149-151 ページ画像

竜門雑誌  第三四八号・第七九頁 大正六年五月
    ○青淵先生招待会
 京浜間の主なる実業家諸氏は、青淵先生が昨年喜寿を機として実業界を引退せられたるに依り、先生が四十有余年間、終始一貫社会国家特に実業の為めに尽瘁せられたる功労に対し、感謝の忱を表せんが為め、青淵先生・同令夫人を首めとし、穂積男爵・同令夫人(病気の為め欠席)・阪谷男爵・同令夫人、渋沢武之助・同令夫人、渋沢正雄・同令夫人、渋沢秀雄・同令夫人、渋沢敬三(旅行の為め欠席)、渋沢信雄、渋沢智雄諸君、即ち青淵先生一家一門を招待して、四月廿一日午後五時より帝国ホテルに於て慰労会を開かれたり。当夜の出席者は四百有余名にして、其主たる人々左の如し。
 侯爵 大隈重信  男爵 三井八郎右衛門 男爵 三井八郎次郎
 男爵 中村覚次郎 男爵 近藤廉平    男爵 高橋是清
 男爵 武井守正  男爵 郷誠之助    男爵 古川乕之助
 - 第50巻 p.150 -ページ画像 
 男爵 大倉喜八郎    中野武営       安田善次郎
    山本達雄     水町袈裟六      木村清四郎
    志立鉄次郎    柳谷謙太郎      原六郎
    早川千吉郎    豊川良平       団琢磨
    有賀長文     大橋新太郎      和田豊治
    小池国三     服部金太郎      加藤正義
    柿沼谷雄     高田慎三       村井吉兵衛
    串田万蔵     松方巌        馬越恭平
    益田孝      浅野総一郎      日比谷平左衛門
    茂木惣兵衛    藤山雷太       杉原栄三郎
 諸氏にして、先づ余興室に於て松尾大夫の常磐津(釣女)踊、藤間勘右衛門の越後獅子等の余興ありて後「渋沢男爵招待記念」として特に右田寅彦氏作の新曲松竹梅即ち「功績は成りて身退く家の風こそ久しけれ」の帝劇女優の舞踏あり、六時三十分発起人総代中野武営氏、青淵先生外主賓一同を壇上に導き、左の感謝状を朗読し、且つ記念品として寿像一基(伊太利人ペシー氏作大理石胸像)・蒔絵料紙文庫・同硯函一具(耕作之図)を贈呈せられたり。感謝状は即ち左の如し。
      △感謝状
 我等之を古語に聞く、功成り名遂げて身退くと、然れども豊功偉績身名美満の日に於て高踏勇退して晩節の芬芳を放つもの世上果して幾人かある、況んや其身已に社会の重鎮に膺り、社会の信頼尤も深きに於てをや、而るを明智別に見る所あり、翻然として首を回らし更に余勇を以て世道を仔肩せんとする、吾渋沢男爵の如きは蓋天下の第一人と謂ふべきなり、窃に惟ふに、男爵は聡明の資を懐きて身を国家多事の際に起し、其関係せられたる事業は甚広汎にして、其功績の偉大なる、殆んど言辞の以て名状する所にあらず、然れども銀行家として一世の由斗と為り、四方の仰望を一身に集めたるは、誰れか復た男爵に比肩すべき者あらんや、明治の初年社会各般の事業は尚ほ混沌として未だ施設するに遑あらず、殊に経済界の事情に至りては尤も巨人の手を待つもの多かりき時に、男爵は挙世未だ嘗て銀行の機能を解せざるの日に於て、衆人に率先して其妙用を発揮し、以て牛耳を斯界に執らること玆に四十有余年、其間毎ねに国力の発展と相伴ひて社会の進運を裨補し、凡そ実業界各種の事業に於て直接間接に其啓発指導を与へられざる者少く、関与せられたる銀行会社及公私の団体幾んど挙て数ふ可らず、其他或は国際的国民的施設に斡旋し、或は社会的慈善的事業に尽力し、或は人材を養成して国家の用に供し、或は交通の便を開きて公共の利益を興し、又或は風俗を改良して文明の域に躋さんと欲し、東奔西走遑々として寧処に暇あらず、殆んど一身を以て国家に靖献せられたるが如き、其忠信篤実、誠に天性に発し、之を行ふに剛健の気象を以てせられたるにあらざるよりは、安んぞ能く此に至らんや、昨年喜寿の佳辰に値ひ、気力未だ衰へざるも自ら老の已に至るを思ひ、一律に其関係事業を辞謝して専ら意を精神界の事業に傾注せられんとす、蓋哲人の志は自ら世情と異るものあり、其操行大節、啻に一世に師表たる
 - 第50巻 p.151 -ページ画像 
のみならず、亦将さに以て百歳に炳垂せんとするなり、吾等本と其豊功偉績に対して衷心感佩を懐き、又其高世の人格を仰ぎて毎ねに景慕を深ふするものなり、玆に此の機会に於て同志相謀りて謹みて寿を膝下に献じ、又別に目録を呈して聊か感謝の忱を表す、不典の儀固より以て其大徳に報ゆるに足らざるを知るも、寸心は寓せて微物に存す、伏して祈る、男爵閣下及令夫人の並びに福寿康寧にして高門本支益々繁栄限りなく、均く天の霊寵を享けられんことを
  大正六年四月廿一日         渋沢男爵招待会
 之れに対し青淵先生には「余が従来の微功に対し、斯く鄭重なる式を設けて歓待せらるゝは、自分の身の限りなく光栄として深く感謝する所なり」とて、農民より身を起して廿四歳の時家出したる当時の事情より、五十余年間に亘る経歴談を為して感謝の意を表せられ、是れにて式を終りて、八時食堂を開けり。軈てデザートコースに入るや、発起人総代として奥田市長は「渋沢男爵が実業界のみならず、慈善事業に将た教育事業に、社会万般に亘りて尽力せられたる功績の偉大」なるを頌し、且つ男爵の為めに一同と共に盃を挙げて万歳を三唱し、次いで大隈侯爵は「予は渋沢男爵とは五十年来の知己なり、抑も渋沢男爵は我国経済界革新の先覚的一大勢力者なると同時に、社会的・精神的事業にも大いに努力せられたり、之を要するに男爵は富力と仁義との調和者なり」と称讚せられ、之に対し青淵先生は「自分の衣食住に就ては正さに七十七旬循環の感なきに非ざれども、社会及国家的事業に対しては吾れ未だ及ばざるの憂へなきに非ず。随て陶淵明の所謂富貴何ぞ求めんの流れに憧がるゝ次第には非ざれども、天爵を楽みつつ余命を社会事業並に精神的教育の為めに尽さんことを期するものなり」と挨拶せられ、主客歓を尽して散会せられたるは十一時頃なりしといふ。


竜門雑誌 第三四一号・第五五―六三頁 大正五年一〇月 青淵先生関西旅行 随行 白石喜太郎記(DK500025k-0006)
第50巻 p.151-152 ページ画像

竜門雑誌  第三四一号・第五五―六三頁 大正五年一〇月
    青淵先生関西旅行
                  随行 白石喜太郎記
青淵先生には今年七十七の高齢に上られたるを機とし、四十有余年間董督の任に在られたる第一銀行を退任せられたるにより、之が披露の招宴を、東京始め大阪・京都・神戸・名古屋に於て催さるる事となり東京にては本月六日夕帝国ホテルに之を開催せられたるが、引続き十日に神戸に於て、十一日に大阪に於て、十二日京都に於て、而して十三日名古屋に於て順次催さるる予定を以て、本月七日朝東京を発し、先づ神戸に直行せられたり。かくて八日・九日を同地に過されたるに十日朝より感冒の気味にて軽微の気管支加答児併発、多少の発熱ありしため、予定を全然変更せらるるの止むなきに至り、只神戸に於ける招宴に寸時出席して簡単なる挨拶を陳べられたるのみにて、大阪・京都・名古屋に於ける分は急に中止せられたり。而して引続き神戸に滞在、只管静養せられ、軽快に赴かれたるより十四日午前同地を発し、即夜東京に帰着せられたるが、其の間常に先生の坐右にありて見聞したる所の一斑を記し、玆に各位の劉覧に供ふることゝせり
 - 第50巻 p.152 -ページ画像 
  ○十月七、八、九日ノ記事略ス。
十月十日 火曜日
 又しても頭重き曇天なりき。先生には風邪の気味にて、朝来心地勝れず、咳嗽頻りに、稍発熱の御様子なりければ、諸氏協議の上、川本ドクトルを迎へ診察を請ひたりしに、左右少許りの気管支加答児を起されたる由にて、さして重態にはあらねど、静養を第一にせられずば変症などあらば容易ならずとの事にて、医師の勧告に従ひ、此日正午に行はるべかりし知事・市長の招宴は勿論、午後の慈善救済に関する講演会にも、急に出席を見合せられたり。午後更に同ドクトル並に西県立病院副院長の来診を請ひたるが、午前とさしたる変化なかりき。然るに此日午後六時より今回御旅行の眼目たる引退披露の宴をオリエンタル・ホテルに於て催さるゝ筈にて、既に其時刻漸次切迫し来たるにつけ、之に御出席の如何につき皆共打案じ、相成るべくは中止せられんことをと念じたるも御自身の切なる御希望もあり、医師も之に賛したるより、ホテルへ往復の途中を注意し、御挨拶を出来得る限り短かくし、往復二十分の限度に於て出席せらるゝ事となれり。併し大阪以後の分は断然取消す事と決し、夫々手続をなし終れり。
 午後六時稍過る頃、会場より来客の揃ひたる由の電話を待ちて、宿を出でられ、ホテルに着くや直ちに食堂に入り、席定まるを俟つて、立つて簡単に挨拶を述べられ、之に対する服部一三氏の謝辞を受けられたる後、席を立ち各テーブルを縫ふて挨拶をせられて、会場を辞し急ぎ自働車に打乗り帰宿せられたり。此間正に十八分なりき。明石氏は此夜九時過帰京せらる。
十月十一日 水曜日
 朝来稍蒸暑く、灰色の空、頭を圧して垂れたり。先生には終日臥床せらる、此日少しく熱度上昇せしため憂慮せしも、さしたる事なかりき。見舞客引きも切らず。川本・西両医師、午前、午後各一回来診せられたり。此より先、大阪・京都・名古屋に於ける招宴は、先生病気のため取消しとなり、夫々昨日中に通知せし事とて、各地よりの見舞電報並に書状の到着頻りなりき。
  ○十月十二、十三日ノ記事略ス。
十月十四日 土曜日
 早朝念の為め今一度川本ドクトルの来診を請ふ。診断の結果差支なしとの事にて、午前七時四十七分、三の宮発の列車にて出発す。○中略
午後八時三十分東京駅に入れば、プラツトホームに溢るゝ出迎人に元気よく一々挨拶せられたる後、自働車にて曖依村荘に帰られたり。


渋沢栄一 日記 大正六年(DK500025k-0007)
第50巻 p.152-153 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正六年          (渋沢子爵家所蔵)
三月十六日 晴 軽寒
○上略 午後六時再ヒ大阪ホテルニ抵リ、地方銀行者及商工業家百名許ヲ招待シテ、昨年第一銀行隠退ニ付テノ挨拶トシテ宴ヲ張リテ食卓上一場ノ謝詞ヲ述フ、土居氏・小山氏等ノ答辞アリ、一同歓ヲ尽シ、夜九時散会帰宿ス○下略
  中略。
 - 第50巻 p.153 -ページ画像 
三月十八日 晴 寒
午前七時起床、入浴朝食ヲ畢リテ来人ニ接ス、午前十一時明石ノ家ニ抵リ家人ト談話ス○下略
  ○後掲、是日ノ第一銀行東洞院支店ニ於ケル訓示ニツイテハ記事ナシ。
三月十九日 雨 寒
○上略 午前十二時中村楼ニ抵リ、京都ナル各銀行者ノ招宴ニ出席ス、食事中ニ代表者ノ挨拶アリ、余モ答詞ヲ述ヘテ之ヲ謝ス○下略
三月二十日 晴 寒
○上略 午後三時伏見第一銀行支店ヲ一覧ス、明石・大橋氏等同伴ス○中略
午後五時半京都ホテルニ抵リ、余カ隠退披露会ヲ開ク、来会者約百五十名許ナリ、食卓ニテ一場ノ懐旧演説ヲ為ス、浜岡光哲氏来賓ヲ代表シテ答詞ヲ述ブ、夜十時過散会ス○下略
三月二十一日 曇 寒
○上略 銀行集会所○名古屋ニ抵リ、余カ隠退ノ披露会ヲ開ク、来会者百名許ナリ、食後一場ノ挨拶ヲ為ス、鈴木総兵衛氏来賓代表《(鈴木摠兵衛)》トシテ謝詞ヲ述ブ、夜十時散会○下略


竜門雑誌 第三四七号・第四一―六三頁 大正六年四月 ○青淵先生関西紀行 随行員 白石喜太郎記(DK500025k-0008)
第50巻 p.153-154 ページ画像

竜門雑誌  第三四七号・第四一―六三頁 大正六年四月
    ○青淵先生関西紀行
                 随行員 白石喜太郎記
 青淵先生には旧臘以来熱心御尽力中なる聯合国傷病兵罹災者慰問会に対する寄附金勧誘の要務を帯び、三月十四日朝出発西下せられ、神戸・大阪・京都及び名古屋を経て同月二十二日夜帰京せられたるが、序を以て、昨秋御病気の為め中止となりし第一銀行引退御披露の宴をも各地に於て催されたり。○中略 御動静の一斑を録し諸賢の劉覧に供ふることゝしたり。
  ○「一、日程」「二、神戸まで」「三、神戸」略ス。
      (重複)
        三、大阪
○上略 午後五時半頃○三月一六日又大阪ホテルに引返さる。蓋し御引退披露の宴を催されんが為めにして、先生には直に待合室に当てたる川沿のベランダに入られ、来会せらるゝ人々を接待せらる。かくて午後七時に至り、来賓の揃ふを見て、食堂を開けば○中略来賓は小山健三・土居通夫・麻生二郎・伊藤伝七・岸本兼太郎・湯川寛吉・杉村正太郎諸氏を初め、大阪一流の銀行会社重役等八十二名、軈てデザートコースに入るや、先生は起つて「永々御世話になりましたが、愈々今回喜寿の齢を迎へましたのを機会に実業界を隠退することに致しました、併し隠退するのは実業界だけで、決して国民を隠退する訳では無いのでございます」と前提し、更に「顧みますると過去四十四年間、物質文明の上には多少貢献する処があつたかのやうに自負致しまするが、精神界の方面に至つては甚だ遺憾なきを得ませんので、今後は余生を挙げて専ら此方面に尽したい考へでございまする」
 との意味を述べて着席せらるれば、小山健三氏来賓を代表して立ちて答辞を述べられ、次で土居通夫氏の発声にて先生の万歳を三唱し、九時過ぎ宴を撤したるが、先生には午後十時頃帰宿せられたり○中略
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  ○「四、法隆寺と畝傍」「五、京都」略ス。
        六、名古屋
三月二十一日○中略 午後零時四十一分名古屋に着○中略
御引退披露宴を張らるゝため、銀行集会所に赴かる。○中略午後七時頃に至り来賓揃ふや、階上に於ける食堂は開かれぬ。此夕の宴会の模様は名古屋新聞に詳しく報ぜられたれば、其を詳しく掲記せんに
 ……当日の来賓は徳川義親侯を始め市内の銀行家・実業家・新聞記者等約百名で、主人役の渋沢男が正面に座席を占める、男の左側が徳川侯、右側が会議所会頭の鈴木摠兵衛氏で○中略談笑の裡に賑かに晩餐を終れば、男の鄭重な退隠挨拶がある、国立銀行設立当時から最近に至るまでの自分の経過を簡単に述べ、自己に属する計算の一切は之を打切つて、今後は残躯を専ら精神界の為めに貢献したいという意味を告白して喝采の裡に着席すれば、鈴木会頭が謝辞を述べ徳川侯爵の発声で男の万歳を三唱し、午後九時半無事に散会を告げた○下略
  ○「七、帰京まで」略ス。


竜門雑誌 第三四七号・第七八―八〇頁 大正六年四月 ○京都に於ける青淵先生御退任披露会(DK500025k-0009)
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竜門雑誌  第三四七号・第七八―八〇頁 大正六年四月
○京都に於ける青淵先生御退任披露会 先生の第一銀行頭取御退任に就き、京都に於て昨秋披露会を催す筈なりし処、神戸に於ける御微恙の為め遂に延期となり居りしが、今回御健体に復せられしを機とし、三月二十日京都ホテルに於て同披露会を催す事となれり。
 当日六時半食堂を開き、宴了るや、先生は従来永年の厚誼に対し来会者一同に鄭重なる謝辞を述べられ、今回自己の属する営利の会社を退き余命を以て他の社会に尽したき希望なる旨を陳述せられ、更に京都との関係を叙して曰く、二十四歳の時慷慨悲歌の士として京都に入り、止まる事三年有半、当時禁裡に守護として京師に在はす慶喜公に見ゆる事を得たり。後、公の将軍の職に即かれし頃、自分は去つて仏国に趣き、明治元年冬帰朝し、大蔵省に出仕する事三年余、此間曩に海外に於て見聞せし事を基礎として、具さに国立銀行制度を調査研究する所ありき。明治六年八月第一国立銀行を創設するや、合本制度は斯くあるべし、銀行事業は斯くあらざるべからずと思惟しつゝ経営の歩を進めたり。当時我国商工業の萎靡不振甚だしく、今に至りて之を回想すれば坐ろ今昔の感に堪えず。上述の如く金融業を経営すると共に、後年合本組織を更に工業界に試み、当地に於て京都織物会社及製麻会社の経営を助け、斯くて株式組織が各種の事業に用ゐらるゝ端緒を得ると共に、合本と金融界調節の宿志は稍や成れり。爾来幾星霜、現今に於ては中央銀行・特殊銀行を始め、都市の諸銀行は何れも著るしく発達して、今日の隆盛を見るに至れり。
 斯くて先生は、尚京都市と過去五十余年間深き関係を有する旨を縷陳せられ、更に話頭を転じて総ての方面に於て弱肉強食の行はれつゝある現代に於て、精神的方面に対し自己の余生を挙げて努力すべき事を述べられ、最後に道徳と経済と合一すべき事を切言せられたり。
 先生の挨拶了ると共に、京都商業会議所会頭浜岡光哲氏は起ちて、
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一同に代りて先生の鄭重なる招宴を謝し、尚語を次で実業界に於ける先生の功労を頌し、先生の関係せられし会社は多けれども、総て国家の為なりとの信念を以て経営せられしは、吾々の多とし且敬服する所にして、其一度国家の為に経営せらるゝや、斃れて後止むの堅き御覚悟は常に吾々の脳裡に感銘する所なり。本夕計らず深遠なる心裡状態に迄立入りて深く吾々に教訓を与へられしは、吾々の感謝措く能はざる処なり、玆に謹て先生の幾久しく長寿を重ねられん事を祈る旨を述べらるゝと共に、一同起立して先生の為に乾盃し宴を了へたり。
 宴後、別室に於て招客の多数は、尚先生を囲繞して款談を交へ、一同の散解せしは、正に十一時に垂とする頃なりき。当日の来賓左の如し。(イロハ順)
 今井和三郎君    今井利喜三郎君  井上金治郎君
 伊藤平三君     伊藤直四郎君   飯田政之助君
 磯野良吉君     石川済治君    稲垣恒吉君
 六鹿清治君     浜岡光哲君    硲文次郎君
 林茂久君      原田緑太君    西池成義君
 西村総左衛門君   西川忠次郎君   西堀清兵衛君
 西松亥吉君     西村吉右衛門君  保科捨吉君
 堀真君       細田善兵衛君   堀江義三郎君
 外村与左衛門君   大野盛郁君    太田豊造君
 大倉恒吉君     大橋弥一郎君   大沢徳太郎君
 大滝新之助君    奥村猛君     奥田久兵衛君
 奥村安太郎君    渡辺真平君    渡辺定次郎君
 加藤武男君     粕淵武一郎君   神戸勘七郎君
 紙勇蔵君      川島甚兵衛君   吉居佐助君
 田中一馬君     高橋重吉君    高橋謹弥君
 武田信政君     田中源太郎君   高橋吉郎君
 曾野作太郎君    津田栄太郎君   辻忠四郎君
 中沢利八君     内貴甚三郎君   内貴清兵衛君
 中井源左衛門君   村松豊吉君    野橋作兵衛君
 久保田庄左衛門君  安盛孫兵衛君   安盛善兵衛君
 山田長左衛門君   山口源兵衛君   山田啓之助君
 山田茂助君     丸茂藤平君    松居庄七君
 松居久右衛門君   前田奈良三郎君  松尾喜七君
 福井伊右衛門君   舟阪八郎君    船橋繁之助君
 藤田徳三郎君    小池一君     小島伝兵衛君
 遠藤九右衛門君   江村君之助君   荒木寅三郎君
 雨森菊太郎君    荒川益次郎君   佐藤勤君
 佐々木清麿君    木内重四郎君   湯浅七左衛門君
 三浦豊二君     三浦一君     後川文蔵君
 下村忠兵衛君    島津源蔵君    塩見清右衛門君
 芝原豊三君     新荘孝之輔君   志波鷹治君
 平井仁兵衛君    兵須久君     守屋孝蔵君

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〔参考〕竜門雑誌 第三四七号・第八〇―八一頁 大正六年四月 ○青淵先生の訓示(DK500025k-0010)
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竜門雑誌  第三四七号・第八〇―八一頁 大正六年四月
○青淵先生の訓示 青淵先生の御入洛を好機とし、第一銀行京都・東洞院・西陣・松原・伏見の五支店員は、先生の御高教を受くる為め、東洞院支店に御来駕を得ん事を懇願せし処、先生は御多用中にも拘はらず快諾せられしを以て、三月十八日午前十時先生を上記支店に迎ふる事を得たり。
 当日大阪・神戸・京都三支店支配人を始め、京都支店所管五支店員全部百余名、東洞院支店楼上会議室に参集するや、先生は例の通り、温容の内厳粛なる態度を以て、懇ろに第一回御渡欧後に於ける我国当時の状況を細叙せられ、当時に於て早くも合本組織の欠べからざる事に着目すると共に、野に下りて此所信を貫徹する事に勉め、遂に明治六年八月一日当行の前身たる第一国立銀行創立の事を遂行し、爾来重役の経営宜しきと、行員一同の協力とにより今日の盛況に至れる旨を説かれ、我国銀行業の始祖たる当行に籍を置く諸子は、第一銀行員たる事を以て誇とし得べき充分の理由ある事を理解せざるべからずと陳べられ、話頭一転して、先生が少壮時代に翻読せられし群書の内、特に今に至るも忘るべからざる座右銘とも称すべきは、英蘭銀行の元重役ギルバートの所説なりとて、之を布衍せられぬ。即ち銀行事務員に対する心得として、(一)政治の内情を知悉理解して、而かも其渦中に投ぜざる事、(二)客の要求に応ずる能はざる場合にも、尚其客をして歓んで銀行を去らしむる事、(三)執務は鄭寧にして而かも遅滞なき事等を挙げられ、反覆説明訓示せらるゝ処ありき。尚昨冬の京都商工銀行合併の結果、同行より当行に転ぜし行員と、従来の行員とは今後全然同一方針の下に執務する事なれば、両者は必ず一致して第一銀行の為めに極力奮励努力せざるべからざる事を、毛利元就の例を引きて熱心に懇示せられ、最後に如上の所説は自分衷心の熱望なるを以て、単に一場の談話として聞流すが如きことなく、必ず諸君に於て深く感銘服膺し、其脳裡に牢記せむ事を乞ふと、懇切且つ熱心に訓示せられ、会衆一同は深く感奮する処ありたり。之に対し明石支配人は一同を代表して御懇切なる御訓示を感謝し、御訓示の次第は眷々服膺して行員一同、協心協力益行務に勉励すべき旨を誓ひたり。