デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
1款 株式会社第一銀行
■綱文

第50巻 p.156-168(DK500026k) ページ画像

大正5年11月12日(1916年)

是ヨリ先、栄一ノ喜寿記念トシテ当行ハ玉川清和園内ニ記念館誠之堂ヲ建設ス。是日、帝国ホテルニ於テ、ソノ開館式ヲ兼ネテ、栄一ノ喜寿祝賀会ヲ開ク。栄一出席シテ謝辞ヲ述ベ、次イデ清和園ニ赴キ記念植樹ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第三四二号・第七七―八二頁 大正五年一一月 ○青淵先生喜寿祝賀会(DK500026k-0001)
第50巻 p.156-159 ページ画像

竜門雑誌  第三四二号・第七七―八二頁 大正五年一一月
○青淵先生喜寿祝賀会 第一銀行本支店行員諸氏は、青淵先生の本年七十七の寿齢に躋られたるを祝賀する為め、予て同行々員園遊地たる
 - 第50巻 p.157 -ページ画像 
玉川清和園に記念館を建設中なりしが、此の程竣工を告げたるを以て本月十二日帝国ホテルに於て、先生・同令夫人を始めとして、先生の同族諸氏に来臨を請ひ、右開館式を兼ね献寿の典を挙げられたり、午前十一時席定まるや、行員総代佐々木勇之助君は起ちて賀表を朗読して祝意を表し、同賀表及祝賀人名簿を先生に献呈し、先生は欣然として之を納め、深く行員諸氏の厚意を謝し、且同銀行の創立時代に於ける経営の困難なりし状態を演説して、行員諸氏に尚一層奮励努力を請ふ旨を述べられ、終りて午餐会に移り、席上佐々木勇之助君の発声にて、青淵先生及同族諸氏の万歳を三唱し、次ぎて青淵先生より第一銀行及行員諸氏の万歳を三唱し、爰に宴を撤し、夫れより佐々木勇之助君の案内にて青淵先生始め来会者一同、自働車に分乗して玉川清和園に赴き、記念館内にて茶菓の饗を受け、先生には記念の為め泰山木を手植せられ、後記念撮影ありて黄昏散会せられたりと云ふ。
当日の来会者
主賓  青淵先生 同令夫人
陪賓  男爵穂積陳重君 同令夫人 渋沢武之助君 同令夫人 渋沢正雄君 同令夫人 明石照男君 渋沢信雄君 穂積重遠君 同令夫人 渋沢市郎君 渋沢元治君 同令夫人 渋沢義一君 尾高幸五郎君 尾高次郎君 同令夫人 大川平三郎君 同令夫人 星野錫君 清水釘吉君 清水揚之助君 田辺淳吉君 八十島親徳君 増田明六君 桃井可雄君 上原豊吉君 武石弘三郎君 山口荘吉君 中村鎌雄氏
行員総代 佐々木勇之助君 男爵三井八郎次郎君 日下義雄君 公爵徳川慶久君 佐々木慎思郎君 土岐僙君 石井健吾君 竹山純平君 野口弘毅君 湯浅徳次郎君 広瀬市三郎君 宇治原退蔵君 西園寺亀次郎君 野口弥三君 杉田富君 西村道彦君 大沢佳郎君 西条峰三郎君 大塚磐五郎君 河野正次郎君 竹村利三郎君 松井万緑君 井上徳治郎君 藤森忠一君 永井啓君 内山吉五郎君 江藤厚作君 大野富雄君
当日行員総代佐々木勇之助君の朗読せられたる賀表は、左の如し
    賀表
 玆ニ大正五年十一月十二日ノ佳辰ヲ卜シ、株式会社第一銀行頭取佐佐木勇之助全行員ヲ代表シ、虔テ 渋沢男爵閣下ノ喜寿ニ躋ラレタルヲ祝シ、謹テ賀章ヲ呈ス
 恭シク惟ルニ、閣下ハ明治維新ノ後我国商工業ノ甚タ振ハサルヲ慨シ、顕要ノ地位ヲ去テ実業界ノ誘導扶掖ニ任セラレ、道徳ヲ経トシ経済ヲ緯トシ、卓越ナル識見ト偉大ナル精力トヲ以テ、実践躬行スルコト幾ント五十年、苟モ閣下ノ干与シタル事業ニシテ、其効ヲ成サヽルハ無ク、皇国ノ産業駸々トシテ進ミ、商工業者ノ品位ヲ高メ其実力ヲ涵養シタルハ、真ニ閣下ノ力ト謂フヘク、内外斉ク仰キテ実業界ノ師表ト為ス、固トニ偶然ニ非ラサルナリ、我々行員ハ幸ニ閣下指導ノ下ニ在リテ、日夕高教ヲ聆キ長ク薫陶ニ浴シ、欽慕ノ情倍々篤キヲ加ヘ、敬仰ノ念弥々切ナルヲ以テ、今日閣下ノ為メニ此祝寿ノ典ヲ挙クルニ当リテハ、何ヲ以テ葵向ノ意ヲ表シ得ヘキヤ
 - 第50巻 p.158 -ページ画像 
 顧フニ閣下先覚ノ明ヲ以テ我銀行ヲ創立シ、推サレテ頭取ノ職ニ在ルコト四十余年、遂ニ今日ノ盛大ヲ致サシメ、加之夙ニ斯業ノ模範ヲ示シ、大小ノ銀行各地踵ヲ接シテ興リ、為メニ全国ノ金融ヲ疏通シ、国家新興ノ大勢ヲ促進シタル功績ハ、朝野ノ普ク認識スル所ニシテ、本行ノ共ニ其声誉ヲ享受スル所以ナリ、而シテ閣下ハ功成リ名遂ケテ、本年七月其職ヲ退カレタリト雖、本行ヲ念ハルヽコト曩日ト異ナラス、屡々行務ヲ問ハルヽ而已ナラス、行員ニ対スル眷愛ノ情猶父母ノ児孫ニ於ルカ如ク、特ニ金拾万円ヲ本行ニ寄贈シテ行員育英資金ニ充テラレタルカ如キ、其深切懇到ナル誰カ感激セサランヤ
 今ヤ我々行員ハ閣下ノ徳望一世ヲ覆ヒ、名声中外ニ洽ク、強健壮者ヲ凌キ、而シテ本年喜寿ノ高齢ニ躋ラレタルヲ祝センカ為メニ、此ノ玉川清和園ニ記念館ヲ新築シ、閣下ニ其館名ヲ乞ヒ誠之堂ト命名セラル、蓋シ中庸ニ謂フ所ノ、誠ハ天ノ道ナリ之ヲ誠ニスルハ人ノ道ナリ、トノ格言ニ取ラレタルモノニテ、行員ヲシテ博ク之ヲ学ヒ審ニ之ヲ問ヒ、慎テ之ヲ思ヒ、明カニ之ヲ弁シ、篤ク之ヲ行ヒ、以テ善ヲ択ヒテ、固ク之ヲ執ルノ意ヲ寓セラルヽコトナラン、然ラハ則我々行員ハ閣下ノ示サレタル誠之ノ二字ヲ体シテ、智ヲ磨キ、徳ヲ養ヒ、行務ヲ励ミ、閣下ノ創立セラレタル我第一銀行ノ事業ヲ進メ、閣下ノ令名ヲ長ク後昆ニ伝ヘサルヘカラス
 聞ク、閣下ハ独リ実業界ヲ指導セラルヽ而已ナラス、新ニ精神界ノ啓発ニ任シ、以テ有終ノ美ヲ完フセラレントスト、何ソ其意気ノ剛壮ニシテ思想ノ高遠ナルヤ、冀クハ閣下自重シテ愈々健康ヲ保持シ国家ノ為メニ福利ヲ増進セラレンコトヲ、乃チ閣下ノ命名セレタル誠之堂ニ賀宴ヲ開キ、謹テ南山ノ寿ヲ祝ス
又青淵先生喜寿記念誠之堂建築の梗概は、如左
 建坪  椽側を込め壁外法にて三十五坪七合三勺
 壁体  大日本煉瓦株式会社製品一枚半厚洗出積、煙突外側に朝鮮風「喜寿」を顕す
 木材  外廻り、椽側、玄関の上部は杉材、窓廻り、其他造作材は「タモ」材、何れも「ラツク」、漆、防腐剤を塗りて木理を示し、「ペンキ」を用ひず
 石材  椽側椽石、同上階段上端は鉄平石「割り膚」のまゝにて、加工石材を使用すること極めて小量なり
 様式  英国農舎に国風を加味し支那朝鮮の手法を按配せり、装飾其他諸備品共清水組技師長工学士田辺淳吉の意匠設計監督による
 広間  暖炉煉瓦積は三河平坂産装飾煉瓦にして、中央の青淵先生薄肉彫刻は原型武石弘三郎作にして、阿部整美の鋳造なり
  暖炉両側の小窓三ケ所の「ステインドグラス」は、支那漢代画像石に模したる庶民貴人を饗するの図とす「ステインドグラス」並に窓入口の曇帳は森谷延雄の図案なり
  青淵先生着座用安楽椅子の中央「長生無極」の四字は、支那漢宮の瓦文を写したり、天井は石膏製にして松葉の縁とし、高麗青磁の雲鶴散しなり、両側壁際には竜及寿字の文様あり
 - 第50巻 p.159 -ページ画像 
  椽側中央の扁額誠之堂の三字は青淵先生筆跡なり
 控室  網代天井にして其他広間同断の設備あり
 化粧室 「ステインドグラス」円紋は点及鳳凰の図とす
 便所  手洗器は清水巌図案鈴木古拙鋳造、特に本館の為めに造る
 工事関係者 合資会社清水組工事一切を担当し家具は清水米吉商店、電灯は福島商会、椅子並に曇帳の裂地は曾和商店の特製にかゝる
 工事期間 大正五年三月十七日起工、同年十一月十二日竣工
  以上


渋沢男爵閣下喜寿祝賀会報告書 第三―三〇頁(DK500026k-0002)
第50巻 p.159-168 ページ画像

渋沢男爵閣下喜寿祝賀会報告書  第三―三〇頁
    渋沢男爵の演説
 第一銀行を代表なされまして、佐々木君より只今賀章を頂きました此文章の御趣意が、私の身に一々受け得らるゝとは思ひませぬけれども、此の如く佐々木君を始めとして重役諸君、及行員各位の御心を籠められたる賜物を私は有難く拝受致します。
 斯かる機会に於て、既往の回想談を申上げるのが其当を得るか得ぬかは分りませぬが、七十七の高齢に上りました私の身は、曾て室鳩巣の壬子の試筆を一読しまして、其冒頭に「月日迭に移りて白駒の隙過やすく、衰病日に侵して黄金の術成がたし、されば犬馬のよはひ是まであるべしとも思はざりしが、いつしか老の波より来て、今年は七十余り五つの春にもなりぬ」とありまして、多分鳩巣の死ぬる年の元旦の試筆であつたと思ひます、鳩巣は当時の篤実なる学者で、反対派たる萩生徂徠の、功利の説を酷く排撃する趣意から、其頃の人心を警醒する心を以て道破されたことのやうに見えます、私はさう云ふ学殖ある者でもなく、平生の蘊蓄甚だ乏しうございますから、色々精しいお話をして、諸君を益することは出来ぬけれども、斯く打解けたる御間柄にて、私から申しますれば子・孫と云ふやうな諸君に対して、此銀行の将来に付て希望を述べますには、自己の経歴談が或は御参考になりはすまいかと思ひます、依て此御懇切の御待遇に就て、私が今日七十七歳になりました経過と、且つ此銀行に関して私が時々抱持した感想とを、是迄も折に触れて、佐々木君には、度々お話したこともございますけれども、諸君にまで皆其事を御聞に入れて居るとも思ひませぬから、順を追ふてこれを申述べて謝意に代へたうございます。
 賀章に御賞讃下さいました、私が顕要の官途を去つて実業界に力を入れたのは、卓見であるとか、社会に大なる功績があるものゝ如くお褒詞を蒙つたのは、確かに的評とは申されませぬけれども、私は有難く之を拝受致します、但し私は顕要の官途は固より望んだのではないから、去つたと云ふことに就ても過当に賞讃されるのは意外に思ふのであります、蓋し自分の希望に適うたまでのことあります、而してそれが私の三十五歳の時であつた、更に其以前からお話すると、私が二十歳頃から所謂民衆皆心を生ずると云ふ旧幕府の政治の壊乱が、志ある者をして、安んじて其家に居ることの出来ぬやうな場合に至らしめた、但し之を概して旧幕府の政治が悪かつたとのみに論ずるは少しく無理である、私が徳川家に関係がありますから、弁護するのではあり
 - 第50巻 p.160 -ページ画像 
ませぬけれども、維新の変化は世界の大勢と見て宜いので、唯徳川の弊政とのみ論ずるは眼界が狭いと思ふ、成程、慶長以前にも外交のことは其端緒を開かれ、文禄には豊太閤が朝鮮から支那に渡らうと企図した。独り支那ばかりではない、呂宋にも希望を持つた、他日山田長政が暹羅に雄飛したのも、それらの事から相聯続して居るやうに思はれる、然るに徳川幕府で中途外交を閉ぢたと云ふのは、全く基督教の害を察知したからである、果して其処置が適当であつたか、或は為めに国運の発展を押へたかは、大に学者の調査研究を要することで、吾吾どもが軽々に当否を論断すべきものではない、兎に角海外の関係を断つことにしたのが徳川の政策であつた、是は外交から如何なる弊害を国内に生ずるかも知れぬといふ懸念と、又一国の無事太平を謀ると云ふ企望とで、海外の事情の分明ならぬ所から、鎖国一点張で、二百五十年余を経過した、其処へ俄然生じて来た海外の関係である、殊に七百有余年、政権が皇室を離れて武門の手に移つて居つた、然るに其二つの解決を一時に見たのが、明治の聖代であるから、之を単に幕府の制度が悪かつたとのみ断案して、徳川家に罪を帰するのは、少し苛酷と言はざるを得ぬ、併し当時家を去つて、壮士とか志士とか云ふやうな位地に立ちます人々は、決して今申上げたやうな広い範囲の考は持ちませぬで、唯目に触れた儘に之を排斥するのである、例へば現今の藩閥打破とか、憲法擁護とか云ふやうな言葉と、何等選む所はなかつたのでございます、然るに事志と合はずして私は反対に徳川家に勤仕する身となり、更に一転して明治昭代に移りましたに就て、自身の心が全く政治界からは離れたから、もしも西行法師であつたならば笠を阿弥陀に冠り、袈裟を着るべきを、袈裟の代りに算盤を持つたと、斯う見て下さらば宜いのである、斯く申すと大層自己を志あるものの如く、諸君がお思ひかも知れませぬけれども、実はさうでないので、それまでの間は今日死ぬか明日死ぬか、どうぞ死ぬるまでも多少の力を国家の為めに尽したい、それが一生の勤めであると信じたのであります、故に如何にしたら宜からうかと云ふ考が、どうも西行を真似て袈裟を着るでもなし、又文覚の如く更に謀叛を企てると云ふ考も起きませぬから、何か平穏の道で国家に尽すこともがなと思ふ折から、想ひ起すと、欧羅巴に於ける僅少なる見聞が深く私の心を動かして、どうしても国家は唯武力又は政治のみで行けるものではない、物質的の進歩がなければ、如何に政治家が八釜しく云うても、我国運を進めることは出来ぬと云ふことを、充分なる研究はしなかつたが、概括的に期念したことは、今日から思うても大なる過失ではなかつたやうでございます、夫れと同時に合本法を日本に起して見たいと云ふことが、自分の希望であつた、どうぞ共同して事業を経営するに就いて、其事柄が単に力に依るやうにしたくない、成るべく徳に依るやうにしたい所謂覇道に依らずして王道に依りたい、此合本会社をして模範的なる営業がやつて見たい、それにはどうしても自己を捨てゝ、唯其事に奉公の念を傾ける外はない、さらばといふて一身が維持し得られぬやうであつては他人の信用を受けることが出来ぬ、詰り一国の物質文明を進めねばならぬと同様に、個人も一身の存立が必要である、甚しきは
 - 第50巻 p.161 -ページ画像 
妻子を養ふにも他人に依頼するが如き有様では、迚も信用は得られぬ訳であるから、自己の生計を立るに於ても、相当なる勤労を要すると云ふことは、同時に考へました、去りながら自己の富を本意とせず、其事業の完全に発展して行くことを目的としたい、而して其合本事業の経営は先づ銀行に依るが宜からう、銀行に自分の一身を委ねて見やう、其銀行は即ち今日佐々木君の頭取となられたる第一銀行である、之れを自己の事業として見やうと覚悟したのでございます、爾来四十余年の歳月は、或は私が此銀行を盛大にしたと若し諸君の讃辞があるなれば、尚ほ一歩進んで、銀行が私をして斯の如く老衰に至らしめた私は此銀行の為めに老人となりましたと言へ得るやうに思ひます、併し又其言葉の裏面には、銀行の為めに私は此の如き幸福を得た、世間からして私が一事業を完全に成し遂げたと言はれるのは、第一銀行あればこそでありますから、渋沢は銀行に依りて名を識られた、渋沢の経済歴史は詰り銀行が与へて呉れたのだと云ふも、決して諛言ではありませぬ、故に私と銀行とは所謂相俟つて今日を致したと申して宜からうと思ふのでございます、第一銀行の創立までは数年間のことでございましたけれども、其歳月は私には長く感じた、明治六年から、今歳大正五年までの四十三年は、事柄が一様で恰も箱根の峻嶺を上下して小田原へ出て、平坦なる関東の曠野を行くと等しく距離は長いけれども、目に触るゝ処は何でもない、唯広原平野と言ふに過ぎぬ、故に其短いと云ふも長いと思ふも皆人の境遇に依ることである、嘗て私は雨夜譚と題して家族の者に自分の過ぎ来し経歴を話したことがある、別に刊行したものではありませぬけれども、冊子に綴つたものであります、其序文に短くとも感ぜられる、長くとも思はれると云うて、自己の過ぎ来し有様を形容したことがございますが、今日其事を想ひ起すと寔に其通であつて、前の四、五年間が寧ろ長いやうに感ぜられて後の四十三年が短く思はれます、併し此平垣の道路にも第一銀行の経営に於て、多少昂低なき能はず、此点に就ては、抑も発起の時は斯うであつた、夫れから斯うも考へ、あゝも思ふて今日に及んだと云ふことを申述べて見やうと思ふ、而して其後半は佐々木君が、私より能く御承知であるから、或る事柄には私の思ひ違があるかも知れませぬけれども、斯かる機会でありますから、さして価値あることとは思ひませぬが、青年の諸君にはさう云ふ経過を御熟知ないお方もありまするで、是等の点を少しくお話して以て今日の優待に対する謝意に代へやうと思ひます。
 日本の銀行制度が国立銀行条例に依つたのは、伊藤公爵が亜米利加から調査して来て太政官紙幣を償還する方法として、設立したいと云ふ意見からであつたと云ふことは、諸君も大抵お聞及びの通であります、其時に英吉利制度が善いと主張した吉田清成と云ふ人と、亜米利加制度が優れりといふ伊藤公爵とで、各自両国の長所を極論した、併しながら両氏共に所謂一知半解であつて、当時他の人々が無知であつたから、大変知つたらしう思ふたのである、斯く評すると古人を誹謗する嫌がないでもない、けれども其時分の先覚者の間に、英米説の外にも種々なる意見があつた、私は大体に於て伊藤公の説に従ふて国立
 - 第50巻 p.162 -ページ画像 
銀行を造るのが宜からうと云ふ意見であつた、それから色々の面倒を切抜けて米国式国立銀行を創立して見ると、金貨兌換は事実に於て行ひ得られぬ、是れは是非とも変更せざるを得ぬと云ふ場合になつたので、直さま嗟跌を惹起して、為めに第一国立銀行は大に困難を致しました、それは明治八年の始めであるが、是より先に七年の冬、小野組の破綻と云ふことも、第一銀行の大厄難であつた、一体第一銀行の創立は、維新以後御用方と称へて、三井・小野・島田の三富豪が組合うて、国庫の出納を引受けて居た、第一国立銀行が創立されてから其事務を第一銀行が引受けた、恰も今日の日本銀行の本金庫事務に似寄つつて居つたのである、而して三富豪は成るべく第一銀行の業務を増大しやうと云ふ趣意では居たけれども、実地に処して見ると、各種の事務を総て第一銀行に取纏めると、三家の業体が減却する故に金融機関を一にしやうと思つて第一国立銀行を創立したのが、終に三家の外に一個を添へたる有様となつた、殊に小野組には急進の人が多くして常に三井組と張合つて、各県の為替の事業其他の仕事を引受けた、三井組とても其意気は同様であつたけれども、余り過激のことをしない、之に反して小野組は奇道を踏み過ぎたのが原因となつて、結局明治七年十一月本支店資産負債概略の精算して、大蔵省に御処分を願ふと云ふことになつた、此事は詰り私が介錯して詰腹を切らせたやうなものであつたから、此時の私の苦心は却々のものであつた、銀行を閉店することも出来ぬ、さればと云つて小野組を破産せしむると云ふことも実に心苦しい、一方三井組からは頻りに懸念して種々の議論が出る、併し人道に欠けると云ふやうなことは出来ぬ、是は如何にして宜いかと、千々に心を痛めたのであります、蓋し人情と道理との分界で其判断は余程六ケ敷い、誰も斯る場合には迷惑することで、人情に泥むと道理を誤る、唯道理にのみ依ると人情に欠ける、其中を得て情に走らず理に偏せずと云ふことは、孔孟と雖も難しとする所であらうと思ひます、況や吾々常人に於ておやである、幸に一方に偏すると云ふやうな行為を致さずして、而して銀行は其資本を減ずるだけで、此始末を附けたのは多少私の勤労苦心が与つて力ありと思ふのでございます、其次に起つて来たのが前の兌換問題で紙幣の引替は迚も出来ないと云ふ困難に際会した、此時には私は向後此銀行を如何に経営して宜いか大蔵省に居る時分には無法にも是非やらせると云うて、主治者位地から主張して、実行の段になると考へ違ひであつたと云ふことは、既に物識顔に人に向つて講釈をした身からは実に言ひ悪いのであつた、併し幸に大隈侯・松方侯が最初から協議した人でありましたから、其事情を能く承知であつて、明治九年に此銀行紙幣を政府紙幣に引替へると云ふことに制度を改正したのは、国立銀行としては一活路を得たのであります、若しあの改正がなかつたならば、国立銀行は閉店する外なかつたかも知れませぬ、併是とても敢て第一銀行の為めにしたのではなくて、他の特別なる要用からである、其訳は明治六年頃から、華士族の禄制を此儘で置いては国家の財政は行立つものではない、さればとて此禄を全然廃止することは出来ぬ、相当なる方法に依つて、制限法を設け、さうして公債証書で渡すやうにするが宜いといふのは、
 - 第50巻 p.163 -ページ画像 
故井上侯を始め私共の立案ばかりでなく、大蔵省全体の主張であつたそれと同時に米穀の貢租を金納にしなければならぬと云ふことも、大蔵省の改正掛に於て種々調査したのである、貨幣制度・銀行創設・禄制改正及び貢租米の改正、其他にも色々ありましたけれども、重要の政務は此四件であつた、其最も重なる禄制改正が明治八年に行はれて華士族の禄を金禄公債証書で渡すことになりました、蓋し此公債を起すと云ふことは私が仏蘭西に居つた時、能くは知らぬけれども幾分か実験して居つた、然るに伊藤公が亜米利加から建策して、どうしても国家は公債を起さなければいかぬと云つて来たのが、丁度相合つて、井上侯に勧めて、遂に明治四年の廃藩置県が好い機会となつて、旧公債に新公債と云ふものが出来た、あれは全く公債政策の見手本であつた、其後明治八年に禄制奉還の制度が決せられて、秩禄公債証書が発行され、明治九年に至りて金禄公債証書の事が実行になりました、それと同時に全国の多数の士族に下附された公債証書を失はぬやうに、保護してやりたい、それには此国立銀行条例に依つて、銀行を設立させ、其公債によりて紙幣を発行し、金融業を営むことゝすれば、俗に云ふ士族の商法で、元も子も失くしてしまふと云ふやうな危険の無いやうに経営が出来る、果して此方法が完全に行はるれば所謂一挙両得であるといふので、此政策が即ち明治九年の銀行条例を改正するの原因となつたのであります、是は主として大隈侯の決断であつて、時の学者連中には大分非難攻撃もあつた、現に故田口卯吉氏などは最も攻撃の矢を放つたのである、併し私は論理から云ふと田口氏の説は尤であるけれども、当時に於ては機宜の処置と思ふたのであります、実は此改正の為めに日本銀行の設立も起つて来たと云うて宜いやうである此改正から国立銀行が続々と創立して、遂に百五十余行になりましたから、当初の見手本たる第一銀行も、追々に手足は伸びかゝりましたけれども、其後に至りて個人主義と合本主義との衝突とでも申しませうか、故岩崎弥太郎氏の一派と私の流義とが事々物々に意見を異にした、先方では渋沢の空想なる理窟を以て会社組織を主張しても到底旨く行けるものではない、寧ろ個人主義で事業の改進を努むるのが必要であると云ふことを、或る時には説得的に談話されたこともあつたけれども、私はそれは間違つて居ると思つたから、応じなかつた、其為めでもあらうか明治十二、三年頃からは自然と相反目するの有様を強くして、第一銀行は其頃実力も少く基礎も不鞏固の場合であつたからして、為めに幾多の迷惑を受けたのであります、独り営業上のみならず、それが政治に連及して、私が紙幣の下落して銀紙の差の激しくなるのを憂へて、これを救済する為め各国立銀行の紙幣を二割方減じて政府に紙幣償還法を立てることを請願しやうとして、十五銀行をも勧誘して、政府への建白書を作つたことがある、然るに其建白書は大隈侯に稟議せずに作つたところから、私が野心を包蔵して大隈侯の財政を破壊せむと努めて居る如くに言做した人があつて、大隈侯は実にさう思ふたかどうか知りませぬが、三野村利助に内意して私の第一国立銀行頭取を罷めたら宜からうと言はれたとのことであつた、択善会の名を廃して銀行集会所としたのも其年である、遂に其評判が伝播して
 - 第50巻 p.164 -ページ画像 
伊藤公が大層心配されて、丁寧に其事実を私から聞取られ、更に大隈侯に話され、大隈侯も始めて其行違が氷釈されて、私は伊藤公と共に大隈侯の宅へ行つて、過誤の顛末を弁明して、此時の雲霧が消散するやうになりましたけれども、暫くの時日は第一銀行としても、私も他の重役諸君も、ハテ困つたものだ、大蔵卿の機嫌を損しては将来の営業が如何なるかと心配した、中には大蔵卿として銀行頭取を罷めろと云うても、内意丈で辞職は出来ぬと云ふ人もあつた、此様なる忌はしい懐旧談は喋々するも心地悪うございますけれども、今日の談話は全く本行員のみの会同でありますから、遠慮なく事実を申上げるのであります、併しそれは僅々二、三月の間のことで、或人の離間の小策も行はれ得なかつた、是等は第一銀行の歴史中随分苦であつたのであります
 元来第一国立銀行は商業的銀行ではあるけれども、事業を始めて見ると唯商業ばかりを以て発達しやうと云ふことが思ひ能はなかつた、積極に思慮すると他の商工業が充分に進歩せぬ時は、此銀行業も発展することは出来ぬ、東京に於る商業の中心たる伊勢町・富沢町・堀留辺の有力なる商売人は、未だ少しも銀行には頼つて来ない、却て銀行は危険なものと観念して居つた、されば合本法によりて相当の経営を為して、終に此古風なる連中を風靡するやうにせねばならぬ、併し目下の処はどうも此銀行が充分に信を得る道がない、詰り之を知らぬから信用も亦生じない、色々と勧誘して見たけれども却々分らぬ、其中に大阪紡績会社の設立抔は第一銀行をして、実業家に密着せしむる端を啓いたのである、是より先に東京海上保険会社の創設も、銀行と会社と密接の関係を持つ始めであつた、爾来私は切に思ふた、是はどうしても有力なる商工業会社を起して、以て銀行の業務を進めて行くより外の妙案はないと云ふことに深く期念したので、段々私が各種の会社に手を出すことになつたのである、夫に就ては又現に重役諸君からも困つたものだ、どうか早く多方面の関係は廃めて欲しいと企望された、私もこれを了解し御尤だと思ふたので、多分四十二年であつた、佐々木君を始めとして重役諸君の御忠告を受け、私は衷心から感謝した、併し私は敢て自ら弁護するでないけれども、創立当時の商工業の有様では到底銀行の発達を望むことは出来ぬと考へたのが、各会社を組織しやうと云ふ念を強めた原因であつた、但し重役から忠告の頃は既に時勢が順に帰したから、敬服してこれに同意したのである、併し其時も申上げたが、今も尚弁解の意味でなく只忌憚なく自己の心事を吐露致するのでございます、それから今一つ御話しするのは佐々木君が私の経営は銀行を危くすると考へられたらうと思ふた、奥羽に対する開拓的事業である、明治十一年に私が奥州に旅行して、福島・石ノ巻・仙台・盛岡等を巡回した、今日も少しく政治家らしく東北振興会と云ふものに加名して居りますけれども、其頃は別して彼地に向つて同情を持たざるを得なかつた、同じ日本でありながら、一向に開拓されて居らない、且つ政事上から別して圧迫されて居るから、之を発達させねばならぬといふ意念を起した、そこで宇都宮に、福島に、仙台に、石ノ巻に、山形に、盛岡に、秋田に時の前後はあつたが、残らず
 - 第50巻 p.165 -ページ画像 
支店を置きました、是は只過失ばかりではなかつたけれども、第一に石巻では戸塚貞輔氏、第二に盛岡・秋田では瀬川安五郎氏との取引上に大なる滞貸を生じた、明治十五年に私が北部支店を巡回した時、尾高藍香翁が盛岡支店長で秋田支店の監督をもして居られたが、瀬川氏との取引を翁の情に脆い処からして甚だ不安心に思うて、私が帳簿其他の検査をしながら其取扱振に不審を起して、忘れもせぬ十五年の七月秋田の帰途、横手から千人峠を超えて黒沢尻に来て、同処にて瀬川氏を呼んで、深夜まで掛りて切実に訓誡した、其前秋田の支店で既に藍香翁及一ノ瀬文次郎・石川弥吉などと云ふ人から実状を聞糺すと、実は段々瀬川氏其他より依頼されて所謂預合勘定から、本店への報告以外に巨額の貸金をして居ることが分つたから、それは大変だと思ふて善後の方案を講じたのである、幸に酷い厄難に陥らなかつたが、斯う云ふ開発的経営が、明治十一年から明治二十九年まで十七、八年間の苦辛であつた、東北の経営に付ては第一銀行は完全に功を奏するに至らぬが、併しまるで失敗にも終らずして、仙台にも盛岡にも秋田にも相当なる後継者を作り、第一銀行の支店は引揚げて、今日も尚其後継銀行と取引して居る、又福島支店の生糸に就ても、北村芳太郎氏の支店長の時代に段々失敗を重ねて心配した、多分明治二十年頃でありました、私は突然参つて整理方法を講じたことがあります、是等は奥羽に於る苦心談であるが、其原因は如何なる念慮から来たかと云ふと奥羽は東京の地盤である、且つ維新の際には政治上の敗者であるから如何にして之を発達する方法があらうかと云ふ観念が、私をして奥羽に銀行業を増進せしめたのであります、第一国立銀行は明治六年の開業でございましたけれども、再び明治九年に開業免状が直つたから、明治二十九年が営業満期になつて、国立銀行の名が私立に変つた、其時に於て将来の経営を如何したものであらうか、即ち二十九年以後は多く佐々木君の手腕によると思ふて種々相談を重ねた、佐々木君は奥羽の経営は銀行の為めには幾分の利はあるにしても、寧ろ害の方が多いと思ふ、故に相当なる善後策を講じて手を引き、向後は開発的経営は可成之を避け専ら商業銀行として、寧ろ繁華の地金融繁忙の場所に支店を設けた方が宜からう、開発的の場所は如何に苦んでも労多くして功少ないと言はれて見ると、既往の事が私の思案通に功を奏しなかつたから、残念ながら私は貴君の説に従ひませうと申して、奥羽の各支店を止めて反対に西方に支店を出すと云ふことになつたのである、又朝鮮に対する経営に付ても此場合に詳述する必要がある、元来外国に対する経営に付ては昨年の九州旅行の際に、汽車中で竹山君・杉田君抔より申されたるには、現下の第一銀行は余りに退嬰主義でいけない、少しく海外発展を試みなければならぬ、元来渋沢も石橋主義である、佐々木も遠慮深きに過る、向後の銀行経営は是非海外発展を必要とすると、各自の心事を吐露された、其時私は頻に之を弁解して、元来私は退嬰どころではない、大に海外発展を企望した、第一に明治十一年に朝鮮へ支店を出したではないか、続いて支那政府に金貸に行つたこともある、同時に支那へも支店を出さうと云ふ考を持つた、然るに例のシヤンドが大に憂慮して親切に忠告をして呉れた、其趣意は現
 - 第50巻 p.166 -ページ画像 
今英国に於ける銀行の仕組は、国内に於る預金を以て商業的経営をするものと、海外の為替事業に従事するものとは、全く性質を異にして両方兼営すると云ふことは寧ろ危険としてある、それには英吉利に適例があると云うて、今は覚えて居りませぬが、原書を示されて、詳細なる実験談がありました、素より其人も誠実であり、又学識も経験も富んで居る、而して英吉利の実例を引証して丁寧に説かれたるより、私も大に敬服して、遂に内地銀行としては、先づ海外へ手を出さぬ方が宜いと云ふことに改悟して、支那へ支店を出すことも止めたのである、但し朝鮮だけは継続したが、或る時にはどうも詰らぬ、高級の人を遣ると収支が引合ぬで持出をしなければならぬ、又薄級の人では思ふやうに行務が進歩せぬ故に時々止めやうと云ふ考も出したが、折角開店したものだから、今少しく我慢をしやうと云うて居る中、明治十六、七年頃に海関税の仕事を引受けて、幾分か将来の望を生じ、更に十年を経過すると、日清戦争となつた、玆に至るともう手を引く訳にいかぬ、朝鮮に対する一種の政治関係が、自ら銀行に依つて活動を為すやうな場合が生じた、去りながら其時分は朝鮮の経営としては、何等面白いと云ふことはなく、唯懸念ばかりで、所謂労多くして功少なしと云ふ有様であつたが、兎に角実地を見て置いた方が宜からうと思ふて、三十一年に私は朝鮮に旅行した、到著早々実に残念に思ふたのは露韓銀行が出来ると云ふことである、それから鉄道も折角朝鮮と暫定条約と云ふものが締結されてあるにも拘らず、一も日本人の手で成立つたものがない、随て銀行事業も一向発達しない、是は遺憾だ、何とかせねばならぬと深く感じたのである、併し此鉄道に付ては老政治家中に二説あつて、第一の伊藤・井上の両君は、露西亜との関係を懸念して、朝鮮に手を張ることは、遂に其間に衝突を惹起しはせぬか、成べく静穏を是とすると言はれて居つた、反対に又山県・桂両君は、如何にしても日本は朝鮮から手を引くことは出来ぬ、全体伊藤・井上の考へ違ひだと主張する、両方の先輩が説を異にする為めに、私は余程躊躇する場合があつた、併し私は寧ろ其点に就ては、山県・桂両君の説に同情して、朝鮮に手を伸さうと云ふ考で、先づ第一に京仁鉄道を米人モールス氏より引受けた、是は松隈内閣の時であつて、大隈侯の大決断から成功したのである、又京釜鉄道は二十九年に願書を出して、三十一年に許可を得、三十三年から手を着けるやうになつた、此京仁京釜の両鉄道は単に私共発起出願人の力のみではない、同時に第一銀行も之に対しては大に力ありと謂はなければならぬ、遂に日露戦争の場合には此鉄道も完全なる効を奏し、又銀行も大に力を伸すことが出来た、やがて朝鮮が保護国となつてから、朝鮮の貨幣の整理、銀行の組織、国庫金の取扱まで、都て第一銀行が遣り遂させたと申しても過言ではございませぬ、然るに伊藤公が如何なる理論から其考を起されたか、支店銀行では一国の中央銀行とする事は出来ぬ、第一銀行にて本店を朝鮮に移すならば、是まで通り経営をしても宜しいと云はれたから、私は腹の中で頗る不服であつたので断然止めませうと云つて、第一銀行にて経営し来つた中央金庫事業は他に引継ぐ事にした、此顛末は佐々木君は御承知のことで、精しく申す必要はありませぬが
 - 第50巻 p.167 -ページ画像 
詰り朝鮮の銀行制度は第一銀行が与つて其基礎を築いたと申しても、決して過言ではなからうと思ひます、此朝鮮の銀行事務に就ては、土岐君・尾高君抔のお骨折も大に与りて力あることでありますが、或る点には困難もあり又或る点には利益もあつて、遂に朝鮮銀行と移り変つて来ましたけれども、朝鮮の経営に就て、第一銀行も単に労して功なしと云ふ訳ではない、唯此間に於て折角の骨折が自己の名の儘に遣らぬことは已むを得ぬけれども、それを云へば京釜鉄道も政府に買収されて、今は会社の形は事実には存せぬ、併し其昔の各種の経済事業の措置から、朝鮮銀行に至るまでの経過は、第一銀行の後進諸君は能く之を記憶せられて、先輩が此の如く勤労したと云ふことをお忘れないやうにお願します、此より以後の銀行経営に就ては、私が演説するよりは、佐々木君其他の重役及今日お会同の各支店の諸君が、もう年久しく経営されてござるから、私が申すより却て諸君に伺はなければならぬ位と思ひます、唯一つ最後に申上げて置きたいのは、凡そ此株式会社と云ふものは、英吉利は如何なる習慣があるか知らぬが、亜米利加では兎角覇道が行はれて、王道を以て株式会社の経営を為す者が少ない、過般来朝されたジヤッヂ・ゲリー氏などは、これに就て討論して見ると、どうしても王道でなければいけぬと云ふ答であつた、寔に我意を得た人と思ふ、亜米利加の各製鉄会社を一致せしむるに就ては、我が明治三十三年頃であつたがシユオーブと云ふ人が、カーネギー氏に信任を得、且つ此人は才幹ありて弁舌に長じた人である、此等の人達が種々協議して、カーネギー氏をも其中に入れて、玆に始めて大合同が出来た、それから以後の合同会社の経営に付て、ゲリー氏は王道を主張し、シユオーブ氏は覇道に依つてやらうといふて争ふた、併しゲリー氏はどうしてもそれではいかぬ、総じて事業は第一に正義でなければならぬ、それから其事柄が適当でなくてはならぬ、次に其経営に勉強せねばいかぬ、更に堪忍が必要である、此四要点が完全に行届けば、其事業の成功せぬと云ふことはないと極論して、終にシユオーブ氏も其説に同意したとの事である、ジヤッヂ・ゲリー氏の言は私の今云ふやうではなかつたが、之を解釈するとさう云ふ意味になります、此の如き正義の実業家あるを見て、私は亜米利加の決して軽蔑は出来ぬと感じたのであります、而して会社経営に王道・覇道の別あるはどう云ふことかと云ふならば、例へば一会社の経営に当りて五割五分の株式を所持して、多数権利を以て其会社を自由にするのが覇道である、其投票権の多少によらずして全体の株主が懐いて之に信頼するのが王道である、単にそれのみを以て王覇を区別するのは其例が極端になるかも知れぬが、併し先づ是が一番解り易い実例と思ふ、王道覇道の類別は右の如くであるが、従来第一銀行の株主総会に於て、多数を以て少数を圧しやうとしたことは一度もない、数多ければ勝つと云ふ孫子の兵法を用ゐたことは全然ございませぬ、他の会社に於ては無拠、私の取締役若くは取締役会長にあつてもさう云ふことを行ふたことも稀にはありましたが、第一銀行に於ては決して一回もございませぬ、蓋し私の頭取たりし中、輔佐下すつた諸君が宜かつたからでございませうが、株数を算へて投票権を争ふことは、前後四十三年間に
 - 第50巻 p.168 -ページ画像 
一回もなかつたのは第一銀行の誇りとしても宜いことゝ思ひます、此一事だけは株式会社は斯かる心を以て其事に当つたならば、斯くあるべしとの最初の理想が、四十年間に証拠立てられたと申しても、敢て過言ではなからうと思ふ、斯く申すと私が一人で贏ち得たやうに聞えますが、御互と云ふよりは寧ろ諸君に其期念の強かつた為めであつたと云ふことは、既に辞職しました今日も、辞するに臨んだ其時も、是程嬉しいことはございませぬ、幸に長い間苦楽を共にした佐々木君が思慮と云ひ操行と云ひ、才幹と云ひ勉強と云ひ、ゲリー氏の所謂正義と適当と勉強と堪忍とを兼ね具へた人と思ふ、斯かる完全なる後継者を得て私は玆に其職を退くことの出来るのは、此上もなく喜ばしく感じて居るのでございます、回顧しますと、第一銀行の歴史には相当なる波瀾もありまして、其間に於て憚りながら、諸君の先輩たる私なり佐々木君なり其他の重役諸君が、勤勉堪忍して今日の地盤を築いたと云ふことは、他の諸君が御記憶下すつて、未来に於ても此王道が益々進んで、第一銀行の流義が愈々拡大されることを深く希望致すのでございます、長生すると唯喜びばかり多いとは申されませぬかも知れませぬが、私は殊に其間に種々なる変つた境遇にも出会ひまして、自ら多方面に接触しましたから、嗚滸がましうはございますけれども、満場の諸君よりは苦楽を多く経過しましたが、両三年来の欧羅巴の戦乱は、日本に対しては偶然にも大なる仕合せを与へて、財政経済共に好況に向つて是迄に見られぬ喜悦が多くして、甚しきは英吉利の公債にまで応ずると云ふやうな、迚も吾々老人の夢にも見られるものではないと思ふたことが、夢でなく、現に見られるのは寔に喜ばしいことである、併し此戦争の結局は、果して此儘只喜悦のみでは居られぬと私は思ふのである、凡そ物には際限があると云ふ俚言は唯粗雑の言と聞流す訳にはいかぬ、昨夜阪谷男爵の言はれた如く、此戦争の為めに得る幸福は詰り、人の困難に乗じて己れの利益を図るので、士君子の忌むべき所であるから、諸君は必ずこれを幸福とする心のないのは勿論でありますが、唯さう云ふ心を持たぬのみならず、此幸福の後には大なる不幸の来るものであると云ふことを、一刻も忘れてはならぬと思ひます、第一銀行の今日の盛況は深く喜びますけれども、幸に此時局に関する悪影響を受けないで、換言すれば戦争を喜びとせぬ業体であるのだから、随て其余弊も受けぬと確信するけれども、世の風潮は必ず其時に第一銀行にのみ激浪が来ぬとも期せられぬ、是も私の婆心かは知れませぬが、斯かる場合に、諸君に御注意申上げるのは、単に老人の杞憂とばかりお聞流し下さらぬやうに願ひます、唯既往の事を回想して断片的に申述べたに過ぎませぬ、唯私の衷情を吐露したるお礼の言葉でございます、宜しくお聴取り下さることを希望致します
                          (拍手)