デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
5款 社団法人東京銀行集会所 東京銀行倶楽部
■綱文

第50巻 p.475-484(DK500102k) ページ画像

明治45年1月(1912年)


 - 第50巻 p.476 -ページ画像 

栄一、是月発行ノ「銀行通信録」ニ『我邦に於ける銀行業の発達』ト題スル論文ヲ寄稿ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四四年(DK500102k-0001)
第50巻 p.476 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四四年       (渋沢子爵家所蔵)
十二月十七日 晴 寒
午前七時起床、半身浴ヲ為シテ朝飧ヲ食ス、後銀行集会所宇野氏来リ通信録ニ記載スヘキ四十五年一月発行ノ問題ヲ請ハル、依テ銀行ノ起原ニ関スル事ヲ談話ス○下略


銀行通信録 第五三巻第三一五号・第一―八頁明治四五年一月 ○我邦に於ける銀行業の発達 男爵渋沢栄一(DK500102k-0002)
第50巻 p.476-484 ページ画像

銀行通信録  第五三巻第三一五号・第一―八頁明治四五年一月
    ○我邦に於ける銀行業の発達
                   男爵渋沢栄一
烏兎匆々として四十四年も既に余す所数日となつて、玆に四十五年を迎へねばならぬ訳である、若い時分にも随分歳月の短いやうに感じたこともあつたが、況んや老年の多忙の身は月日の経つのが層一層早いやうに感じます、丁度私は七巡の子の年を迎へる訳で、其の子の年毎に、或は一身の変化に、或は世態の変化に、若くは己れの経営する事業の関係に付て、此の程各社の新聞記者からお尋があつたのでお話をしましたから、それを又重複する必要はなからうと思ふ、併し私が此の事業上の関係から、既往を回想すると、明治六年に銀行者となつたのだから、明年で丁度四十年目になる、殆んど三十九年の間を同じ位地で経過したといふ次第であるから、此の間に実業界の有様が如何に変化したかといふことは、多少興味あるお話ではないかと思ふ、但し実業界といふても余り範囲が広くなりますから、又追て他の話を継続するとして、先づ第一に銀行界の有様をお話して見ようと思ふ
日本に銀行を設立したいと企てたのは、明治三年に故伊藤公爵が亜米利加に行かれて、亜米利加に於ける財政経済に関する諸規則を十分に調査して見たら、大に学ぶべき所があるであらうといふので、其の年の冬渡航されて、段々調査の末送つて来られた事柄が、銀行制度及び国に公債といふものを起さねばならぬ、又当時貨幣の制度が完全でなかつたから、是非真正なる金貨制度を立てたいといふ意見と、それから諸官省の職制章程といふものを制定したいといふのであつた、蓋し御一新匆々には、官制は大宝令であつて、其の時分には専ら「令の義解」といふ書物が行はれた、詰り大宝令の註釈書である、殆んど官途に居る者は、令の義解を持たなければ役人が出来ないといふ有様で、総て大宝年間に行はれた法制に則つたものであります、今日の何々省といふ名は、即ち「令」から出た名である、さういふ千年の昔の制度に依つて現在の仕事をするといふことは、事業に於て出来ぬものだから、是非とも之を改正せねばならぬといふのであつた、其の外にも種種なる箇条があつたけれども、主として今の四ツの廉を丁寧なる意見書を添へて来た……、其の時伊藤公は大蔵少輔、大隈伯は大蔵大輔であつた、私は大蔵少丞といふ卑い位地でありました、少丞も奏任官といふのであつたから、極く下級ではなかつたけれども、其の省に於ける上位地ではなかつた、そこで其意見書を以て大隈伯始め私共に対し
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て、是非此の事を大蔵省で骨を折つて貰ひたいといふ事の建議であつた、所が明治四年になつて、大隈伯は太政官に這入て参議になられて故大久保利通公が大蔵卿になられた、而して井上侯爵が大蔵大輔になられた、それで前に申す大隈伯及び私共に宛てゝ寄越された伊藤公の建議は、井上侯爵が之を処置して行くといふ立場になつた、其の頃廃藩置県といふ大変革が行なはれて、大蔵省の事務が益々頻繁になつて来た、当時の大蔵省は民部省を併せて居つたから、今の有様で云ふと即ち大蔵省・内務省・逓信省・農商務省、司法省の一部分、それから制度調査局といふやうな事業まで兼て、或る場合には大蔵省で種々の調査をされた、先づ大蔵省が天下の政治を半分以上握つたというても宜い位であつた、そこで銀行といふものを如何にして造るかといふことが種々なる評議になりまして、伊藤公の建議された銀行制度は、銀行をして商業上の金融機関たらしめたいといふのは勿論でありますけれども、独りそればかりでなく、更に望む所は銀行に依て当時発行されて居つた所の不換紙幣たる太政官札を、兌換制度に引換え得るやうな方法を講じたいといふのが主たる目的であつた、それは米国の南北戦争に付て、引換の出来ぬ紙幣を沢山発行した、其の紙幣を戦争の止んだ後に俄に正貨を作つて引換えるといふ力はなし、さればというて為めに大に租税を増収するといふやうなことも出来ないものだから、今の銀行法を立てゝ、其の銀行に依つて兌換制度を立てられた、依つて此方法に則つて見ようといふのが伊藤公の計画であつた、当時の大蔵省は之を是認して、是非やつて見たい、兌換制度を立てたいといふのが井上大輔の最も深い希望であつた、独り井上大輔ばかりでなく、私共も斯の如く不換紙幣で時々物価に動きがあるやうでは、国の商工業を繁昌させることは出来ぬ、貨幣が商工業の根本である、貨幣の制度が厳正に又確実に立たなければ、迚も一国の財政経済を完全に発展することが出来ないといふことは、其の頃「ケリー」「ペリー」抔の経済書も翻訳されて、皆読んで居る際でありましたから、俄か出来ではあるけれども、西洋の経済説も略々解して居つたのです、それが即ち国立銀行制定の原因になつたのであります、但し其の時に二つの説があつて米国の国立銀行方法はどうしても中心が無い訳になる、各銀行が各地に散在して放漫の虞がある、亜米利加の現在が既に困つて居る、あれではいけぬから是非中央銀行を立てゝ、各銀行を連絡すること、丁度連続せる小網が一本の大綱に依つて締められて行く如く、又人の身体に程好く脈管が分派されて、血液の循環するが如くなければならぬ、是は英吉利の制度でなくてはいかぬ、亜米利加の制度は完全でないといふ議論と、又其の反対説は右の論理は一応尤もだけれども其の法に依ることは今俄に出来ない、亜米利加の制度であると或は成立つであらうと思ふから、他日は兎に角、此の場合は矢張亜米利加制度に依る方が宜い、と云ふ二説でありまして、伊藤少輔は頻に此の説を主張されて居つたが、之に反対したのが矢張大蔵省に出て居つた吉田清成といふ人で、これも少輔で私共と同年輩の人であつて、英吉利学者で、英蘭銀行の有様を調べて来たものですから、頻に其の説を唱へて対抗した、私も井上侯と共に吉田の説は追て用ゆるとも、此の場
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合は亜米利加の制度に依るが宜からうと伊藤案に賛成して、遂に明治五年に国立銀行条例といふものを制定するに至つたのであります、さて組立てゝは見たけれども、之れを如何に行ふかといふことに至つては、殆んど茫乎として其の手段を得ることが出来なかつた、何故ならば兎に角一の制度であつて、欧米式に依つて仕事をして行かうといふのであるが、其の時の商売人といふものが、規則だの文章だのといふことには殆ど感じの無い人ばかりだ、又明治政府の役人と、其の頃の東京・京都・大阪辺の商売人とは、全く種類が違つて居つた、其の顔を一見したばかりで直ぐ判然と分る程、人種が違ふと云うても宜しい有様であつたから、是等の人を以て、此の仕事がやれるといふことは迚も覚束ない、其の前未だ令の官制にならぬ前、御一新匆々に立つた役所から種々の会社を造らせるが宜いというて、明治二年頃に創立した会社は、皆失敗してしまつた、故に玆に法制丈は出来たが、其の理想を実現せしむるには如何にして宜いかといふことに付ては、時の立法者且つ行政官たる大蔵省も随分弱つたのです、其の時に私は予てより官吏は厭だから、罷めて実業家にならうといふことを、其の前々年から請願して居つた、是非とも好い機会があつたら官を辞して、実業家にならうといふ考を持つて居ました、折柄に丁度明治六年の五月三日、井上侯が政府の人と大衝突をして大蔵省に帰つて来て、もう厭だ己は官吏は罷める、其前からもさういふ事は屡々ありましたが、愈々辞表を出すから君に宜しく頼むといふことであつた、そこで私も貴方が辞するなら私も辞す、それは困る……其の時分には岩倉公が大使として、木戸・大久保・伊藤・山口などゝいふ人が副使として、条約改正の為めに海外各国を巡廻された、其の留守中のことでありますから井上侯の大蔵省の事務担当は名は大輔であつて次官であるけれども、長官を代理して居つた、同時に又私も名は三等出仕と云つて、少輔の位置であつたけれども、恰も井上侯の次官であつた、故に両人で所謂大臣次官の位地を勤めて居つたものですから、共に辞すといふことは宜くない、君は何でも残つて呉れと云つて、井上侯から引留められました、併し私はどうしても辞す、残るならば貴方が残るが宜い、私は一昨年から既に辞表を出したのだ、其時貴方が、せめてもう一年待つて呉れと云うて、公然の事ではないけれども、貴方が其辞表をば聴届けるというて、お互の間では約束があるのだ、それを今日政府と意見が違ふから、自分だけ引いてしまふ、君は残れといふのは、私に対して残酷といふものだ、さういふ訳ではないが両人共に辞しては後が困る、それは多少困るだらうけれども、自ら其人があらうから、貴方が辞するなら何でも私も辞すといふので、とうとう共に辞したのであります、其の時に政府は財政の鞏固を図らずに、無暗に政事に手を伸ばし過ぎる、これでは国家の基礎を危くする、国富を進めるの法でない唯々体面を装ふことのみ努めて、実力の増進を図らぬといふことは、決して堅固なる政治でないといふ奏議を上げたことがあります、そこで私は五月三日辞表を出して二十六日免官の辞令を得たのです、それで六月の初から自由の身となつた、其の頃官吏が願つて辞表が聴届けられても、御用有之滞在申付るというて、幾許の金を下されて数月を
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抑留する例があつた、今の休職よりももつと寛大で、民業に従事しても一向差支ないといふ制度であつた、それで其年末まで御用滞在を申付られたやうに覚えて居る、而して大蔵省の後を引受けたのが大隈伯であつたから、大隈伯に話をして、それから銀行設立に着手した、第一銀行の設立はそれからであるのです、蓋し第一銀行といふよりは日本に於ける銀行の設立はそれが初めだと申して宜い、当時東京では三井組と小野組といふものが、有力な金融を取扱ふ商売人であつたのでどちらも相応の素封家で長い歴史を持つて居る、番頭もあれば手代もあるといふやうな訳で、唯々一本立ではない、三井組・小野組といふ名を以て一種の金融事業を経営して居つた、それが明治二年頃からである、私は大蔵省に居る時分から此両組に対して財政関係から始終接触して居りましたから、其家柄も其主人も番頭も多く知て居つた、そこで此の二家を共同せしめてやる外ないと考へて終に一緒にした、故に第一銀行の創立の時には頭取が二人あつた、三井八郎右衛門・小野善助……支配人も二人あつた、総て二人づゝ拵へなければならぬ、勿論少し勇断をやつたら一人で済んだか知れませぬが、調和を保つ為めには頭取も支配人も総て二人づゝなければならぬといふ事情であつたそこで勢ひ其の判断役がなくてはならぬので、即ち私が第一国立銀行総監といふ名に依つて銀行者になつたのである、それが明治六年七月の末であつた、官を罷めると直に其の方に取掛つたから迅速に出来たのです、八月の一日に営業の許可を得た、二百五十万円の株式の組織であつた、当時は私も実に勉強したのです、今考へて見ても人はあの位勉強したら大概の事は出来るであらうと思ふ位である、それこそ小使から頭取まで大抵一人でやつた、大蔵省に向つての願書なり様々の協議の方法なり規則書なり、或は大隈伯の所へも行かなければならぬ井上侯にも会はなければならぬ、三井にも相談しなければならず、小野にも内議しなければならず、随分努めた積りであります、所で双方の調和を図つてやつて行くところが困難だ、悪くすると疑心暗鬼を生じ易い、甚しきは私が彼方へ重くするとか、此方へ軽くするとかいふ苦情が起る、私は公平の考を以て事を処するも、三井に都合好いことがあると、小野の方では三井に偏するといふし、小野の方に多く融通すると、あんなに金を貸して危くはないかと、三井の連中が懸念するといふことが屡々あつた、併し前にも申す通り私が十分なる精力と公平なる意見を以て唯々正心誠意事に当つた為でありませう、多少の物議はあつたけれども、其物議は唯々斯うして欲しい、あゝして欲しいといふ望みを云ふだけで、私を疑ふといふ意思を以てした人は一人もなかつたので、私が事を取扱ふ上には甚だ自由且愉快でありました、然るに明治七年の冬小野組が破綻を生じて閉店せねばならぬといふやうな次第になつた、これは第一国立銀行としては大打撃であつて私自身もどうしようかと思つた位で、恰も片腕が折れて了つたのですから……加之銀行は小野組へ大変の金を貸して居つた、勿論株式は抵当にして居つたけれども、株金以上に金を貸して居つた……能く覚えて居ります、小野組は業務が二つに分れて居つて、本店は為替方というて金融を取扱ひ、別店の方は糸方というて、今の古河の経営して居る鉱
 - 第50巻 p.480 -ページ画像 
山もやり、生糸もやる、元来生糸を取扱うて居たから糸方といふ名があつたけれども、色々の事をやつて居つた、其の商法に向つて六・七十万円、他の為替方に向つても七・八十万円、合せて百五・六十万円の金融をしたと覚えて居る、それだけの債務を持ちつゝ倒れたのだから弱つたのです、併し為替方と称へる方は、皆株式を以て抵当にされたし、糸方の方は鉱山とか米とかいふやうな物品を皆担保に取つたから、為めに俄に一本の腕が折れたけれども、第一国立銀行は殆んど損なしに利息も取れたといふやうな次第であつた、左りながら其の間に立つて事を処理して行くに付ては、小野組の方からは随分恨みも起るし、僻みも出るし、種々な事情が纏綿しますから、それを程良く調理して、物議なく、銀行も亦其余弊を受けぬやうにして行くといふのは頗る難事であつたのです、今考へても其の時の刻苦したことを能く覚えて居ります、其の場合に井上侯が大層深切に心配せられ、別に此方から頼んだ訳ではないのに、進んで力を添へて下すつたのを、今も尚ほ記憶して居ります
斯くて第一国立銀行・第二国立銀行、……第三といふのは地方の人が願つたけれども成立たなくて、後に安田氏が引受けた、第四が新潟、第五が鹿児島、五行の中一行は名ばかりで実は出来なかつた、それで各行ともに多少の紙幣を発行して見たけれども、小野の破綻の翌明治八年頃から金銀価の差額が生じて金が高くなつた、金が高くなると銀行紙幣の引換が多くなる、引換が多くなると高い金を買つて来て金貨を造らねばならぬから始終損をして行くやうになる、恰かも安い金の売所のやうになつてしまふ、初めの間は解らぬから少々宛の金を買つてやつて見ると益々損が強くなる、取も直さず高い物を買つて来て安く売ると同じ道理である、詰り金貨制度の保てない国が、一部を実行したから、丁度籠の中へ水を入れたやうなものだ、詰り伊藤公の其の時の考案は一を知つて二を知らないのであつた、それを私共が賛成してこれで兌換が出来ると思つたのは誤であつた、金貨制度は事実に於て出来ない、それを一部分に於て実行しようといふのは、所謂一杯の水を以て一車薪の火を消さうとすると同じ訳である、そこで拠どころなく明治九年に、已むを得ず此の銀行紙幣の引換を政府紙幣を以てするといふことに、制度を直して貰つたです、それは大隈伯が大蔵卿、松方侯が大蔵大輔の時であつた、其の時華士族の禄制を定められた、常禄を廃し金禄公債証書を与へるといふ制度を立てゝ之を渡した、公債証書を渡しても之を使つてしまつて士族が無資産になつては困る、就ては此公債を基礎にして国立銀行を造らせたら宜からうといふことになつた、最初の目的は兌換制度を立てる為めに銀行を設けたのだ、それが政府の紙幣を以て銀行紙幣を引換へるといふならば、俗にいふ「イタチゴツコ」をするやうなもので、無意味に終るのであるが、併しそれでも金融機関を立てるといふことだけは残るといふことで、已むを得ぬ手段として兌換制度を変更した、そこで銀行は大に其営業が安心になつた、第一に十五銀行の如き大銀行も出来た、あれは華族の公債証書を集めて創設したのです、それから士族の公債証書を集めて彼処でも此処でも、設立して終に百五十有余の国立銀行が出来た、是
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故に或る変態から銀行といふものが大に拡張した、玆に於て銀行者が申合せて営業上の便利も図り、利害を攻究するを必要として、明治九年に択善会といふものを東京に立てた、之が銀行集会所の濫觴である其の当時は各行持廻つて、今度は第一国立銀行に集会するとか、十五国立銀行に寄り会ふといふやうなことであつた
続いて特殊銀行が成立つて来た、多分十一年であつた、横浜正金銀行が創立された、これは中村道太といふ人が主唱者であつた、海外貿易を主としてやらうといふ計画であつた、これは私の手で成立つたのではない、併し私も一の株主となつたが都合に依つて株主はやめました……此銀行も初めやりかけて不慣の為めに色々な困難を経、原六郎君が大に中村君の跡を整理し、其の後園田君となり高橋君となり、遂に今日に至つた、一張一弛、一憂一喜、種々の変化があつて、其の中に追々一般の国運、貿易の伸張と共に、後々に出た人が段々優れた力を以て整理して行つたから、今日の如き盛大に至つたけれども、一時は絶えなんとする程の厄難に出遭つたこともあつた、決して横浜正金銀行とても初めから無病息災に生れてからあの通り筋力逞しい肥大な人であつたといふ訳ではない、其の間に種々なる病気、或は腸を患つたこともあろう、胃を患つたこともあらう、種々なる病気を凌ぎて今日に至つた、又明治十五年に日本銀行が出来た、此の日本銀行を創設したのは松方侯爵である、それは前に云ふた吉田清成といふ人が伊藤公の説に反対したことが、十年を経て始めて実現された訳です、私共も其の時に諮問を受けたので至極宜しうございませう、是非お立てなさるが宜からうというて日本銀行設立に対して賛成を表した、………己れ自身は第一国立銀行の位地に居つたけれども、為に日本銀行を立てることに付て聊かも苦情がましいことは云はなかつた、但し第一銀行としての経営からは少しく迷惑な訳であつた、何故といふと、三井組と小野組を合せて政府の用向を皆引受けさせるといふので、組立つた第一国立銀行であるから、日本銀行が其位地に代るのだ、申さば己れの株を取られるやうな形になるけれども、それは私のこと、第一銀行が直に日本銀行になることは性質が違ふと思ふたから、聊かも苦情は申さぬ、で創立に賛成した訳である、此の日本銀行は初め吉原重俊といふ人が総裁の任に当られて、それから富田といふ人に代り、川田といふ人に代り、岩崎・山本・松尾といふ順序を経て今日に及んだ、其の間に誰が一番力を入れて大に盛にしたといふのは面白くない、皆が良くて今日に至つたというて宜いでありませう、横浜正金銀行のやうに致命傷を受けたやうなことは勿論なかつた、極く順当に進んだというて宜いけれども、併し日本銀行とても唯順境ばかりとは云へぬかも知れない、其の間に多少苦心惨憺の時代もあつたでありませう、而して日本銀行の経営は総て適順であつたというて宜からうと思ふ、唯私共の日本銀行営業の今日に於て或はどうかと思ふのは、海外に準備金を置いて内地で兌換券を発行するのは、これを今後に継続するならば一の考慮すべきものではないかと思ふ、果してそれが適当なことであるかどうか、数年前から経済に心ある人は種々説を為すが、私尚ほ其の説を為したい一人と言はざるを得ぬやうに思ふ、日本銀行に対しては
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勿論厚い同情を以て居るのでありますけれども、海外に存在する準備に依つて内地で紙幣を発行するといふ制度は、他の国にあるかは知らぬけれども、少し面白からぬやうに思ふ、これは日本銀行に対する余談であります、其の他勧業銀行なり、興業銀行なり、或は台湾銀行なり、拓殖銀行なり、是等の特殊銀行が段々成立つて来たのです、畢竟各種必要なものを組立つたので、先づ銀行の制度として斯くありたいといふ丈けは完備した、併し其の創立の時の趣旨と、出来た後便宜に依りて方法を変へて行く有様は時に相違することがある、即ち当春勧業銀行の制度を変更したに付ては、当時の大蔵大臣は斯ういふ理由であると弁解したけれども、私共は頗る御尤とは今でも思はぬのであるあんなことは無くもがなと申上げたい、各特殊銀行の組立は総てが其の宜しきを得て居る、或る点には斯くありたいといふこともあるけれども、勧業銀行・興業銀行、或は台湾銀行・拓殖銀行、皆それぞれ其事情に適応した制度と申して宜からうと思ふのです
更に特殊銀行に数へられるのは朝鮮銀行である、これは私が第一銀行支店として、あれ迄に育て上げたのだが制度上から是非他に譲れと故伊藤公爵から言はれたのでお譲り申した、故に若し朝鮮銀行が悪いと云はるれば私の組立てたことが悪い、又善いとなれば自慢するやうになるけれども、第一銀行の経営の宜しかつたのである、丁度明治十一年に第一国立銀行で朝鮮に支店を置いて、微々たる貿易に応じて営業を致して居つた、商売が少いから銀行の事務も甚だ乏しい、十六年であつたか漸く朝鮮の海関税金の取扱を引受けるやうになつて来たけれども、是れ以て極く少々なものであるから、手を伸ばす訳にならない二十幾年頃であつたかブラオンといふ英吉利人、これは支那の税関を引受けて居つたロバートハートの乾児であるが、朝鮮に来て朝鮮の関税を取扱つて居つた、此の人が至つて堅固の人で第一銀行の綿密なる取扱を喜ばれて、初めは釜山だけであつたが、追々仁川に、元山に、各所の海関の取扱を命ずるやうになり、其の中に二十七年の日清戦争が起つて、我国の政治上の関係が強く朝鮮に及んで来たから、時々朝鮮政府に対して銀行より金を貸すといふやうなことにまで至つたのです、併し三十年頃は政治上の力は稍々進歩したけれども鉄道は亜米利加の人に取られてしまひ、金融の事も二十九年に露韓銀行といふものが成立つて、追々に手を伸ばす模様があつたのです、故に私は三十一年に渡韓して此の有様を見て、これ程骨を折つて戦争をして、而して実業界の進歩の微々たる有様は余り情ないことだ、これは大に力を入れなければならぬと考へて、京仁鉄道も布設し京釜鉄道も布設し、とうとう銀行をして兌換券を発行せしめようといふので、百難を排して発行しかけた、其の始めは屡々取付られて非常に苦みました、甚しきは現今第一銀行の監査役をして居る尾高次郎が仁川の支店長をして居る時に、夜逃をしようかと云つて騒いだことまである位、それは勿論銀行本体に対する取付ではないが、紙幣を出して置いて引換準備のないのに俄に取付られゝば致方がない、二度も三度もさういふ困難を受けましたが、其の中に紙幣の取引に慣れしめ、又一方には日本の国力が進んで行くに従つて、我政府から内意があつて朝鮮政府に金融をせ
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よ、財政にも干渉をせよといふやうになつて来た、併し其の間には一度約束したことをそれは悪いから取消せ、前の内閣は右と云つても今度の内閣は左と云ふ、折角氷を当てゝ冷やせといふから其の通り手当をすると、俄に氷ではいけない、温石を当てゝ温めよといふやうなことが幾らもあつた、けれども堪え忍んで追々に銀行紙幣を拡張して行く中に、丁度三十七年の戦争後目賀田男爵が財政顧問として行かれ、貨幣制度を改めねばいかぬといふことを言出した、私も大に賛成して第一銀行が任じて必死にやりました、其の整理と共に第一銀行が出して居る紙幣を朝鮮の法貨として取扱つて呉れるといふことになつて、玆に初めて私の取引手形であつたものが、「ローフル・モニー」といふものになつたのである、故に私から云へば、第一銀行の支店を継続して朝鮮の中央銀行としたからと云うて、何も差支はない、三十年も苦辛経営してあれだけに仕上げたのだから、性質が違ふからと云つて取り放してしまはぬでも宜いと思ふたけれども、併し本店を移すなら格別、支店ではいけない、本店を移すことが出来ぬならば新たに創立する、それには斯うしたらどうか、あゝしたらどうか、といふやうな種々なる協議があつて、遂に今日の朝鮮銀行といふものになつたのである、而して第一銀行に居つた市原君が総裁に任ぜられ、其の他重なる役々は、大抵私の手に属して居つた人が引続いてやつて居るのである、第一銀行永年の苦心が今日の結果を遺して、其の名は変つたけれども吾々の精神が彼処に存し居ると云うて、決して過言でなからうと思ひます
話が前後しますけれども、最初国立銀行の紙幣は通用が二十年の年限で許されて居つた、其の時は期限に達すれば更に継続が出来るだらうと思うて許可を受けた、然るに日本銀行が創設されてから国立銀行をして紙幣を発行せしむると、国に紙幣発行権を持つ者が幾つもあつて不都合であるから、日本銀行の成立と共にそれを止めたいといふ大蔵大臣の希望で、これも松方侯から最初国立銀行を造るときはさういふ意味ではなかつたが、今日日本銀行を立てた以上は已むを得ぬ、どうか各国立銀行の紙幣発行を止めて呉れ、さうして其償還法は成るべく各国立銀行の利益と便宜を謀りて立てゝやると、丁度今の朝鮮銀行の引継と似て居る、一方は第一銀行だけであるが、国立銀行は百五十余ありましたから、明治十六年に国立銀行紙幣償還法といふものを立てました、これも私共大蔵大臣の意向に参与して、所謂共通して成立つた償還法であつた、其償還法が十年ばかり継続して、二十八・九年頃から、大抵国立銀行は前後して営業満期になつて、普通の銀行と変つた、続いて其以外に私立銀行として成立つたものが続々あつて、今日は遂に其の数を挙げたならば二千を越え、其資本額も七億五千万円に達して居るといふ次第である
明治六年に銀行といふものが日本に生れて以来、丁度玆に四十年目に当ります、私の関係したことは殆んど順序的に大概言尽したやうであるが、其の間に或は為替の方法だとか、荷為替の方法だとか、小切手の取扱だとか、手形の流通だとか、或は交換所の仕組だとか、興信所を立てるとか、さういふ銀行附帯の事務に就て経営したことも少なか
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らぬのである、併しそれらは私が組立つたこともあり、或は私よりも尚ほ智慧のある諸賢が相集つて方法を講じ、更に拡張したのであるから、独り私の骨折とする訳には参りませぬが、多少其経営に力を添へたといふことは申して宜からうと思ひます
最初二タ葉であつた銀行が、今日は十分に繁茂したと言ひ得る、何んとなれば其の銀行の総数が千を以て算へるやうになり、其の払込金額は億を以て算へるやうになつたといふことは、明治六年には僅に二百五十万円(それも全額払込でない)にて組立つた銀行の当時から較べて見ると、実に盛大なものである、併しながら小さい時から比較するからさう感ずるので、他国の経済界の事情に較べると、未だ実に幼穉と言はなければならぬやうに思はれるのです、又不鞏固と思はねばならぬやうに感ずる、況や此の金融界は財政界に密着して居る為めに、財政から受くる圧迫が甚だ強い、財政が鞏固であれば金融界も自ら安穏に行けるけれども、財政が不鞏固であると金融界も随て動揺を来たさゞるを得ぬのである、寧ろ此金融界の力が十分に強くて、財政を扶け、或る場合にはこれを強制するといふ力を持ちたいと思ふが、なかなかさういふことには、未だ今日達する訳にはならないと思ひますると、既往を顧みて大に進歩したと喜ぶ心も、前途の遼遠たることを憂ひなければなりませぬ(完)