デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
5款 社団法人東京銀行集会所 東京銀行倶楽部
■綱文

第50巻 p.504-506(DK500110k) ページ画像

大正元年11月26日(1912年)

是日、逓信省技師浅野応輔・横山英太郎・鳥潟右一等ヲ招待シテ、銀行倶楽部第九十五回晩餐会開カル。栄一出席シテ挨拶ヲ述ブ。


■資料

銀行通信録 第五四巻第三二六号・第五八頁大正元年一二月 ○録事 銀行倶楽部第九十五回晩餐会(DK500110k-0001)
第50巻 p.504 ページ画像

銀行通信録  第五四巻第三二六号・第五八頁大正元年一二月
 ○録事
    ○銀行倶楽部第九十五回晩餐会
銀行倶楽部にては十一月二十六日午後六時より、逓信省技師浅野応輔横山英太郎・鳥潟右一及技手北村政次郎の諸氏を招待して、第九十五回会員晩餐会を開き、食後、渋沢委員長の挨拶に続きて浅野氏の演説あり、終て別室に於て鳥潟氏より実物に就き無線電信及電話に関する説明あり、一同逓信省との間に於ける無線電話を聴取して其音響の明瞭なるを認め、午后十時三十分散会せり


銀行通信録 第五四巻第三二六号・第二七―二八頁大正元年一二月 ○電話事業開始当時の事情(大正元年十一月二十六日銀行倶楽部晩餐会に於て) 男爵渋沢栄一(DK500110k-0002)
第50巻 p.504-506 ページ画像

銀行通信録  第五四巻第三二六号・第二七―二八頁大正元年一二月
    ○電話事業開始当時の事情
       (大正元年十一月二十六日銀行倶楽部晩餐会に於て)
                   男爵渋沢栄一
来賓各位、会員諸君、今夕の晩餐は特に新しい趣向を考へまして、浅野博士・鳥潟技師、其他電気界の諸君を御依頼しまして、玆に無線電話のお話を願ひますことに相成りましてございます、会員諸君と共に学術技芸の斯の如く進歩したることを一夕の御講話に拝聴し得るのを
 - 第50巻 p.505 -ページ画像 
深く喜ぶのでございます、斯る場合に古いことを申すのは無用の弁のやうでございますけれども、総じて進んだ有様に古風なる話、新しいものに旧式のことを取交ぜるは、多少御参考とならうと思ひますから私は日本に未だ無線電話ではない有線電話の起らぬ前のお話を簡単に申上げようと思ひます、蓋し臨場の来賓では浅野博士は御記憶があらつしやいませう、会員の中では山中譲三君ぐらゐのもので、其他のお方は前世紀のお話だとお聴き下すつて宜しうございます
電信と云ふものは日本にも大分早く開けましたけれども、電話は電信と一緒に開けたものではございませぬ、西洋でも我明治十一・二年頃から電話と云ふものは開けましたかのやうでございます、精しいことは此処に御本家が居らつしやいますから私は喋々しません、其後逓信省の電気局長と申したか電信局長と申したか、局の名は覚えませぬが局長に石井忠亮と云ふお人がありまして、頻に海外には電話と云ふものが行はれて居るけれども、未だ日本には使用されて居らぬ、最非之を日本に広めて見たいが、今政府では費用が足らぬから民間で一つ企てゝはどうかと云ふことで、石井君から私一人ではないが、其時分東京商業会議所の連中が御相談を受けました、段々お聴き申して見ると家に居ながら他人と話が出来る、こんな便利なものはない、今日使を以てすれば行つたり来たりなかなか手間がとれるが、それが三分か五分の間に手にとるやうに話が出来ると云ふのは頗る妙だ、併し其時には料理屋芝居抔には要るまいが、お医者は急病人のあつた時は都合が宜からうと云ふ話がありました、そこで三井なり三菱なり重立つた銀行会社などにも相談しまして、四十人ばかり組合が出来た、時に石井君のお話に、どうしても三百人の組合がないと算盤が持てぬ、又電話線敷設に付て五万円から七万円位要る、それだけの準備が出来たら許さうと斯う云ふことでございました、今日は総て物が大きくなり力も太つて来ましたから、五万・七万の金は何でもないのでありますけれども、其時分はなかなかさうは行きませなんだ、が何に致せ四十人ばかりの仲間が出来たから、是等の人々が五人・七人づゝ他人を勧誘して行けば三百人位は出来る、又資金も其位のことは出来ようから、やつて見ようと云ふことになつて、愈々組合を設立することになりました、ところが機械を取扱ふ時に政府の方から技師までも添へると云ふ訳にはいかぬから、今からして相当の技師を造つて置くが宜からう、丁度その時分大学を卒業された沢井廉と云ふ人がありまして、電気の方で新進の人であると云ふ所から、其人を傭つて亜米利加に遣りまして、二年修業すれば宜いと云ふことであつた、学費も凡そ二千円位のものであつたと思ひます、之を一同から醵出して終に米国に派遣した其後半年も経過してからでございませう政府の廟議が変じて、電話と云ふものは一種の交通機関である、之を民業に委すると云ふことは将来の為に宜しくないから、廟議の結果、民業には許さぬ、官で経営することに決したと云ふことになりました、其時には最早石井君は代つて他の人が局長になつて居つた、今の話をした人は能く記憶致しませぬが、野村靖君が次官で、大臣は榎本武揚君であつたやうに思ひます此事に付ての引合は重に私が衝に当つて居つたから、其話を聴いて大
 - 第50巻 p.506 -ページ画像 
に失望し、独り失望したのみならず頻に議論をしたのです、折角局から勧められたから民間に一つの組織を為し、愈々遣らうと云ふので技師まで海外に派出して、多少の費用も投じた、然るに又廟議が変つたから許さぬと云ふのは頗る困却する、事業は政府でも民間でも宜いけれども、余り吾人を翫弄になさるやうではありませぬかと苦情を申しましたが、兎に角廟議が決したのだから、どうか勘忍して呉れ、其米国へ派遣した技師は政府の方で傭ふやうにしよう、君方で使つた費用も仕払つてやつて宜いけれども謂はれなく支出の途を立てるに困るから、マアさう八釜しく費用の弁償まで望まぬでも宜からう、我慢して呉れ、それでは仕方がないからお負け申しませうと(笑)いふやうなことで、遂に民設は止んで官設になつたのであります、愈々官設になるに付ても、やはり官ばかりで拡張する訳にいかぬ、各銀行会社抔は是非民間の主要部となつて貰はにやならぬと云ふところから、今度は反対に施設者は官であつて、私共は之を引受けて所謂提灯持の位地に立つた、其初めて電話を架設した時に、忘れもしませぬ此集会所とそれから東京商業会議所・株式取引所、三井・三菱・第一銀行なども最初から仲間に加はつて、兎に角一つ試験をして見せるから人を集めろと云ふので、此処と株式取引所の方へ加入者を召集して、初めて私は株式取引所との電話交換試験の問答をしたのを今も覚えて居ります、其時誰が向ふに居つたか記憶しませぬが、全体吾々が心配して組立てたから、とうとう政府で斯う云ふものを造るやうになつた、併しお互斯うして話が出来て便利で面白いと云つて話した、それが明治二十年頃のことであります、僅か二十五・六年過去つた今日其電話の数を聞きますと何万と云ふ数になつて居る趣でございます、併ながら其電話は有線である、今日は線無しに電話が出来ると云ふまでに進歩したのであります、何時のことやら知らぬ、迚も吾々の生きて居る中には六ケ敷いとは能く老人の云ふことでありますが、私も現在老人だが、此老人が今申しまするやうに僅かの間に無線電話が出来た、此先どんな話が聴かれるやうになるか、生きて居るほど楽みが多い、幸に今夕は浅野博士が此お席に於て、電気に関する一場のお話を下され、尚無線電話の実地の事柄に付ては鳥潟君、其他の諸君が別室に於て実物に付てお話し下さると云ふことでございます、今夕は浅野博士・鳥潟君、其他の諸君に余興の芸人をお願ひ申すやうな有様でございますが、私は吾々の為に諸君が斯の如き労を執られますることを甚だ恐縮に存じます


竜門雑誌 第二九五号・第七一頁大正元年一二月 ○銀行倶楽部晩餐会(DK500110k-0003)
第50巻 p.506 ページ画像

竜門雑誌  第二九五号・第七一頁大正元年一二月
○銀行倶楽部晩餐会 銀行倶楽部にては無線電話の発明者たる逓信省技師鳥潟右一氏、並に浅野電気試験所長を倶楽部に招待し、十一月廿六日午後六時半より晩餐会を催したり、席上青淵先生の挨拶を終り、後別室に於て鳥潟技師の無線電話に関する実験講話に次で、同倶楽部と逓信省内電気試験所との間に無線電話の実験を試みたるに、頗る好成績なりしといふ。