デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
5款 社団法人東京銀行集会所 東京銀行倶楽部
■綱文

第50巻 p.570-576(DK500135k) ページ画像

大正5年11月15日(1916年)


 - 第50巻 p.571 -ページ画像 

是日、東京銀行集会所・東京交換所・東京銀行倶楽部ノ三団体連合シ、栄一ヲ招キテ東京銀行集会所ニ於テ晩餐会ヲ開キ、栄一ガ多年銀行業ニ尽瘁セル労ヲ慰ム。栄一出席シテ謝辞ヲ述ブ。


■資料

銀行通信録 第六二巻第三七四号・第七五頁 大正五年一二月 ○渋沢前会長招待晩餐会(DK500135k-0001)
第50巻 p.571 ページ画像

銀行通信録  第六二巻第三七四号・第七五頁 大正五年一二月
    ○渋沢前会長招待晩餐会
当東京銀行集会所は、東京交換所及び東京銀行倶楽部と聯合し、前会長男爵渋沢栄一君を招請し、十一月十五日当集会所に於て晩餐会を開きたり


竜門雑誌 第三四二号・第七五―七七頁 大正五年一一月 ○銀行家の青淵先生招待会(DK500135k-0002)
第50巻 p.571-572 ページ画像

竜門雑誌  第三四二号・第七五―七七頁 大正五年一一月
    ○銀行家の青淵先生招待会
東京銀行集会所・銀行倶楽部・東京手形交換所の三団体主人側となり十一月十五日午後六時より東京銀行集会所に於て、青淵先生の為に盛大なる慰労宴会を催せり。当夜は主賓青淵先生を始め、財界の諸名士陪賓として出席し、各銀行の出席者又百六十八名の多数に上り、実に近来稀有の盛況を呈したり、食後東京銀行集会所委員長早川千吉郎氏は、主賓青淵先生及陪賓諸氏の出席を謝したる後、大要左の如き挨拶を為せり。
 渋沢男爵は五十年来我国銀行業に尽瘁せられ、斯業をして今日あらしめたるのみならず、男爵が明治初年以来経済界に貢献されたるは一々之を陳述し得ず、其我が貿易の大宗たる生糸業及紡績・製紙の発達の如きも、全く男爵の指導に俟てるのみならず、鉄道事業も男爵の尽力に依り今日の盛を致せるなり。加之男爵は教育上社会上凡ゆる精神的方面に於ても偉大なる感化を与へ、我国の文化に対し不朽の功績を垂れたり。然るに今や男爵四十余年来一意易らず誠意を捧げて経営せられたる第一銀行を去らるゝは誠に遺憾とする所なり然れども男爵は仮令第一銀行を去らるゝも、爾後公共方面に全力を傾注さるることなれば、今後男爵に俟つ所一層多大なるべし。殊に目下世界大戦乱に際し、経済界の状勢一変せんとするに当り、吾人は男爵の監視援助を望みて止まず。而して吾人の行程は男爵の教訓たる至誠一貫を以て始終せんと欲す。
次ぎに青淵先生左の如き演説を為せり。
○中略
次に阪谷男は起ちて左の演説をなしたり
○中略
最後に奥田市長来賓を代表して謝辞を述べ、午後十一時頃散会せる由なるが、当夜の出席者は左の如くなりしと
      主賓
 青淵先生
      来賓
 男阪谷芳郎君    公徳川慶久君   奥田義人君
  若槻礼次郎君   男高橋是清君   添田寿一君
 - 第50巻 p.572 -ページ画像 
  菅原通敬君     水町袈裟六君  井上友一君
  神野勝之助君    嘉納徳三郎君  勝田主計君
 侯徳川頼倫君     佃一誠君    菅野盛次郎君
  森俊六郎君     倉知鉄吉君  男近藤廉平君
  橋本圭三郎君    山本達雄君   浜口雄幸君
  安田善次郎君   男大倉喜八郎君  高田慎蔵君
 男三井八郎次郎君   豊川良平君   中野武営君
 男郷誠之助君     小野義一君   須田利信君
  林民雄君      三井元之助君  浅野総一郎君
  日比谷平左衛門君  団琢磨君    末延道成君
  福原有信君     内藤久寛君   藤山雷太君
  青木得三君     各務鎌吉君


銀行通信録 第六二巻第三七四号・第二七―三一頁 大正五年一二月 ○渋沢男爵招待晩餐会に於ける演説 渋沢男爵の謝辞(DK500135k-0003)
第50巻 p.572-576 ページ画像

銀行通信録  第六二巻第三七四号・第二七―三一頁 大正五年一二月
  ○渋沢男爵招待晩餐会に於ける演説
○上略
    ○渋沢男爵の謝辞
会長並に臨場の諸閣下、会員諸君、今夕は存じ寄りませず、私が銀行界を退きますと同時に、永年皆様の御厄介に相成り居りました銀行集会所・東京交換所・銀行倶楽部等の関係をも御免を蒙りましたに就て玆に三団体がお打揃ひて此の如き盛宴をお張になり、私を招待して下すつたと云ふことは、実に身に余る光栄で何とも御礼の申上げやうがございませぬ、先月既に此盛宴の御案内を頂戴致しましたが、老人の悲しさ、所労の為めにお断りを申上げたは、業に既に恐懼に堪へぬのでございます、更に本日は稍健康を回復致しましたが為めに玆に罷り出でゝ、此の如き身に余る仕合せを負ひますることは、喜びと共に、仮令職を引きました身にも、何やら復た一部の責任を負はせらるゝやうな心地のする程でございます、殊に只今会長早川君から、私の実業界に身を立てまして以来四十有余年の事柄に就て、お心深い讚辞を下さいましたのは、洵に感謝に堪へませぬが、或は少し溢美の嫌がありはせぬかと恐れるのでございます、但し私の精神は、今会長の仰せられた如き希望を持つて居りましたから、徳薄く力少なく、其功は甚だ乏しうございまするけれども、意念は其処であつたと仰せらるゝならば、或は之を甘受致して宜からうかと思ふのでございます、要するに此の長い間過失の少なかつたのは、銀行職務に関しては殊に此処に御集まりの諸君の賜と考へねばなりませぬ、又他の方面に関しては、今夕特に私が御懇親を厚うして居りまする銀行以外の諸君をも御案内があらしつて、各方面の皆様にお目に懸かることを得たのでありますが蓋し此諸君が等しく今日の此実業界の繁盛をお遂げなされた人々であつて、私の身の碌々旧阿蒙たるにも拘らず、斯の如き諸君と共に此盛大の宴に参して、斯様な讚辞を受けますことは如何にも有難いと申すの外、もうお答の申しやうがないのでございます
元来私は青年の時分には、多少政治観念を以て世に立たんとしたのでございますけれども、不幸其出処を誤りました為めに、寧ろ其観念は
 - 第50巻 p.573 -ページ画像 
打去りまして、他の方面に微力を尽して見たいと云ふのが、丁度明治の初めの期念でございました、時々の折に申します通り、西行法師が法衣を着たやうな考で、実業界に這入りましたから、彼は至て清浄、此は至て卑俗、大層違ひますけれども、赴いた感じは稍々似たやうなものと自身は思ふのでございます、五十年の昔欧羅巴を廻りましたときは、言葉も通ぜず学問もなし、何等学ぶところはありませなんだが唯彼の実業界の有様、即ち物質的文明の発達が如何にも羨しうございました為めに、寔に浅薄ながら之を見及んで、恰も前に申上げましたやうな精神の変化を惹起しました為めに、どうぞ一身の終るまでには聊かたりとも玆に貢献をしたいものだと云ふ意念は、其当時も深く感じましたが、爾来決して撓まず孜々と努めた積りではございます、微力自己の事業は何等成し遂げませぬけれども、明治の昭代は勿論世の進歩を助ける、又丁度其昭代に相応する能者智者交る交るに輩出して遂に物質的文明も今日に進んで参つて、之を昔日に回想しますれば実に霄壌の感を為すのでございます、世間には多く物を悲観して考へます、或は又楽観して論ずる、悲観楽観所謂流儀がございまして、御同様種々なる人に接遇すると、先輩の方々などにも段々悲観論者・楽観論者種々ございます、私共もどちらかと申すと、寧ろ楽観よりは悲観の方に傾きはせぬかと思ひますが、併し此実業界の今日から既往を回想しますると、唯悲観ばかりをすべきものではなからう、或は之を楽観し、又大に自ら愉快とし誇とすることが出来得るやうにも思ひまするのです、第一に此銀行に就て既往を考へて見ますると、私の四十三年間職に居りました第一銀行が、二百五十万の資本で創立しましたけれども、併し之が一般から募つたのではございませぬ、当時日本の大有力家と云ふ三井と小野・島田、殆ど其頃には是等を除いては金融界に有力の者はなかつたのです、其力に依つて大騒をして漸く成立ちました大銀行と云ふのが、勧めて這入つた金額はどれ程あつたかと申すと、多分四十万に足らぬやうに思ひます、当時の有様が如何に貧弱であつたかと云ふことは此お席のお若い方には、それは少し小さい方に誇張して云ふのではないかと、お疑ひなさる位であらうと思ひます、而して此銀行が折角組立はしましたけれども、社会が如何に之を迎へたかと云ふに至ては、実に亦酷いので、株主になる三井・小野は兎に角自己が銀行者にならうと思うたから、其資本を其処に提供しましたけれども、堀留・小網町若くは富沢町の従来の商人と云ふものは、殆ど今夕の如く時計を吊げた洋服を着た商人は、必ず直ぐ潰れるものと看做して、誰も附合うては呉れぬと云ふやうな有様でございました、又明治十三年と覚えます、紡績業を起したいと云ふので、迚も実業界だけで資本を集めることは出来ないと思うて、丁度横浜の鉄道を華族のお方々二十七名がお申合はして、政府から買取ると云ふことが齟齬して、其為めに払込まれた金の残を以て紡績事業を企てやうと云うことすら、却々に六ケ敷うございました、其二十七名の華族のお方々の資本が十数万円這入つて、漸く二十幾万錘の会社を造つたのです、尤も是は別に政府の保護等のございませぬのですから、尚更以て資本を集めるに甚だ困難であつた、是より前十二年に海上保険会社の創立も
 - 第50巻 p.574 -ページ画像 
やはり其資本に依つてやりましたが、是等は殆ど其華族様に対して、所謂国家的を大きな声で振廻して、さうしてやつと出来たが、併し今日海上保険会社の株は、実に天下の宝ものになつたと云ふやうな奇観が数々あるのでございます、其当時の有様を親しく記臆して居ります私共には、或る点からは物が延びぬとか、彼が困るとか足らぬとか云ふやうなことを申上げますのも、憚り多いやうにまで感ずるのでございます、銀行界の権威あるやうに致したのは、渋沢与つて力ありと今会長が仰しやつて頂きましたが、幸に銀行は左様に困難に成立はしましたけれども、政府も爾来大に力を入れまして、明治六年の創設は果して順序立つたる仕組とは申し得ませなんだが、已むを得ず其九年に一歩を転じて銀行紙幣の兌換法を改正し、更に十六年に国立銀行に許せる特権を営業満期後には継続せしめぬと云ふことになつたので、吾吾銀行家としては少し政府の恩の少ないことを憂へたこともありましたが、併し将来に之を鑑みますると、寔に宜しきを得た制度であつた勿論丁度明治十五年に日本銀行が成立して、玆に統一的金融機関を具備せしめたと云ふことなどは、却々に銀行者それ自身が追々に進んで一歩々々と仕事をし得るやうになりましたが、財政上の処置も寔に宜しきを得たと申上げて過言でなからうと思ひます、現に此日本の銀行制度が其始め亜米利加に則つて、忽ち豹変して統一的に引変へましたのは、もう亜米利加に到る度に同国の実業者・学者が日本は寔に良い所だけを撰み取つた仕方であると申して、賞讚致して居るやうであります、現に一昨年出来ました「フエデラル・レザーヴ・バンク」が阪谷氏に伺ひますと、多少効果があるやうに承りますけれども、私が昨年参つてストロング氏なり或は市俄古のアーノルド氏なりに承りました所では、此「フエデラル・レザーヴ・バンク」は未だ完全なる働きは為し得られまいかと思うて居るのでございます、之に反して日本の金融界は、日本銀行の仕組、横浜正金銀行の働き、特殊銀行の経営又一般商業銀行即ちお集りの諸君の働きが、果して今会長の仰しやる通英米を凌駕すると云ふやうなことは申されませぬ、其力の鈍いことは如何にも其通でございますけれども、併し彼の長所のみを見て我短所に較ぶれば、それは甚だ恥る所が多い、併し我長所を以て彼の短所に較べて御覧なすつたならば、何でも斯でも吾々恐入つたとばかり仰しやらぬでも宜からうと思ひます、私は今夕は成べくたけ国粋保存ではない、少し覚えたことの進歩したことを誇張して申したい位に考へるのでございます、是も若し頭取職を勤め居りましたら、左様なことを云うたらドツコイと云ふお言葉を頂戴するかも知れませぬから、一寸遠慮せざるを得ぬかも知れませぬが、今日は此の如きことを申しても其責任は私になくして皆様にありと思ひますから、別して申し易いやうには感じますけれども、併し唯左様に何も斯も皆己れは進まぬ、己れは足らぬ、己れは劣つて居ると云ふことはどうぞ言はずもがなと思ふのでございます、銀行者既に然り、他の方面を見ましても唯今丁度重要の物産が渋沢と関係したと仰しやる其養蚕業も、既に三億の多き輸出を致すと云ふやうに相成りました、各地の進歩する農業決して軽蔑は出来まいと思ふ、又此製糸のお方も昨年は糸価の下落で大に打撃
 - 第50巻 p.575 -ページ画像 
を受けたときは少し狼狽の容もありましたから総て楽観は致し兼ますけれども、幸に事態変更して今日の有様、それこそ諏訪を始め各地の製糸場の盛況、又横浜に於ける委託販売の働き、左様に唯欧羅巴人は豪い亜米利加人は感心だとばかり仰しやらぬでも宜い程に進めつゝあるやうに思ひます、一歩翻つて紡績を見ませうか、最初私共三十万錘どうぞ日本に起したいと思うて、明治十三年に始めたのであります、是は決して私一人云うたのではない、紡績に関係の人が「どうぞ三十万錘」と云うたことは度々の話である、今日は如何でございませう、もう三百万錘にもならうと云ふ勢である、而して其紡績は初めにはビンビンとお婆さんや娘さんの紡ぐ糸の代りと思うた仕事が、三十万錘にならぬ間に其位地を進めて、遂に之が海外輸出と云ふことになつた今日は内地の需要も増しましたが、海外の需要と云ふものが大に増加し、その多くは朝鮮・支那に移出又は輸出されます、而して最近の総錘数は二百四五十万錘以上になつて居ります、而して此紡績事業も方方にある紡績会社の株式の値段を見ても、如何に繁昌するかと云ふことを証拠立て得られると思ふのでございます。試に印度若くは本場の英吉利又ボストン最寄の亜米利加の工場に較べましても、勿論彼に盛大の工場がございますけれども、併し日本の紡績が、例へば鐘紡にせよ、東洋紡績にせよ、世界の大会社に較べて四つ五つ――如何に下つても十の指を折るやうにはなつて居りませぬ、以て紡績の事業が欧羅巴亜米利加ばかりを羨んで、日本は詰らぬと言はないでも宜からうと思ひます、私は何も心得ませぬことですから、其云ふことは或は誤つて居るかも知れませぬが、此間船卸をした軍艦伊勢、三万何千噸の船が寔に立派に進水されたやうに承ります、或はどう云ふ学問、どう云ふ人があの影に居りますか、私はやはり髪の黒い顔の黄色の人だけであれだけの事業が成し得られたものと思ひます、実に吾々心丈夫の話と申しても是亦決して過言ではなからうかと思ふのでございます、又今日最も力を尽さなければならぬと思ひまする例へば化学工業、此化学工業に就て此処に斯様なものがある、彼処に斯う云ふ優れたものがあると云ふことを申上げる程の私に知識はございませぬけれども、蓋し一歩を進めて行きますれば、敢て独逸を凌駕出来ぬまでも、英吉利に負けぬ位にはならぬとも限らぬと思ひます、斯う考へて見ますると物質的の文明は四十年の歳月が、御互に日本人の能力に如何に進歩を与へたか、如何に発展を与へたか、随分喜ぶに余りあり申しても左まで過言ではなからうかと思ふのでございます、さう申しますると総て皆喜び事のみで、憂へる点は一つもないかと云ふと玆に反問が生じます、私は唯単に喜びを以てのみ終るとは申しませぬ、或は若し悲観すべき点はと申しますれば、精神界、人格の向上に就きましては、未だ少し悲観の点を加へざるを得まいかと思ふのでございます、試に政治界に問ひ、若くは教育界に問ひ、或は社会に問ひ、御同様の実業界に問ひましても、必ず今の各種の進歩と果して同歩調を以て進んで居ると云ふことが、諸君は左様御覧遊ばし、又満場のお方々は、殆ど其位地に達して居るか知れませぬが、世間一般から評論しますれば、他の満足に較べると未だ地歩低落なりと謂はざるを得ぬかと思ふのでござ
 - 第50巻 p.576 -ページ画像 
います、而して今会長のお述の通、欧羅巴の戦乱も軈て終熄する時期がございませう、此終熄の時期は独り実業界ばかりではございませぬ世界の全体に――社交にも、政治にも、総ての方面に大変革を与へると云ふことは、是は必ず予期せねばならぬことである、斯かる時代に遭遇するに於て、物質的文明に於ては予め用意ありとするも、若し之を料理する人格に於て不足すると云うたならば、是は大に注意せねばならぬものではございますまいか、併し幸に先づ――斯く申すと少し我田に水、我仏尊しと云ふ嫌はございますけれども、お集りの銀行者諸君に於ては社会に最も重きを置かれ、又御自身一頭地を抜いて居るとまで思召さるゝでございませうが、今総て楽観すべき間に多少悲観ありとするならば、其悲観すべきものに早く注意を与へて、どうぞ悲観の為めに困厄を見ることのなからしむることを御同様に相努めたいと期待して已まぬのでございます、寔に私の如き最も古い者が、此集会所の如き極めて新しい、而も最上なる場所に於て演説を致しまするは、其対照甚だ奇と謂ふべき有様でありますが、先刻会長より実に身に余る讚辞を賜はりましたは、畢竟皆様の御好意が会長のお言葉に依つて私の耳に達したものと、従来深く御懇命を蒙つたことを謝するのみならず、特に今夕の此名誉ある、又愉快とすべき御饗宴を厚く感謝致しまして玆に一言の謝辞を申述べたのでございます(拍手)