デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
5款 社団法人東京銀行集会所 東京銀行倶楽部
■綱文

第50巻 p.576-585(DK500136k) ページ画像

大正6年1月(1917年)

栄一、是月発行ノ「銀行通信録」ニ『本邦の経済界に対する予の希望』並ニ『東京銀行集会所の起原及沿革』ト題スル論文ヲ寄稿ス。


■資料

銀行通信録 第六三巻第三七五号・第五―八頁 大正六年一月 ○本邦の経済界に対する予の希望 男爵渋沢栄一(DK500136k-0001)
第50巻 p.576-579 ページ画像

銀行通信録  第六三巻第三七五号・第五―八頁 大正六年一月
    ○本邦の経済界に対する予の希望
                   男爵渋沢栄一
経済界の直接なる関係は辞退した身柄であるから、銀行通信録に向つて意見を述へると云ふことも、果して適当な仕方であるかを疑ひますけれども、毎年の例であつて、是非一言をと云ふお求に応じて所感の一端を以て、旧を送つて新を迎へる談話と致して見ませう、年々歳々花相似たり歳々年々人同じからずと云ふは、唐人の詩であつて極めて平凡な句ではあるけれども、年を迎へる毎に何時も新しく思ひなすやうであります、如何にも山河草木旧態と異ならぬけれども、人に属する事物の新陳代謝して行くところは神すら尚前知し兼る程であらうと考へるのである、一昨年勃発した欧羅巴の戦乱が日本に如何なる影響を与へるかと云ふことすら知り得ることが出来ずして、当時は余程疑義の間にあつた、其初めは我が商工業は大変な打撃を受ける様であつたのが、今日は反対に大層な好い影響を与ふると云ふことは、総ての経済界の人の云ふ所で事実が明かに示して居る。海外貿易も順調になり、正貨も段々に増加する、戦乱に直接関係のないものでも、例へば紡績糸とか織物の類とか、総ての工業品に利益を与へて居るやうである、而して是等の事は他の難儀を以て自己の幸福とするのであるから
 - 第50巻 p.577 -ページ画像 
人道として唯々喜んでばかりは居られぬと思ひます、けれども此中に喜んで少しも悪くないと思ふ一事は、戦争の為に或る品物の輸入が杜絶されたに由つて、日本の当業者が種々なる工風を凝し特別に勉強して、到頭其品物を製作し得たと云ふが如きは、軍需品を売つて利益を得たとは違うて実に心地能き事にて、大に当業者の丹誠を感謝せねばならぬことゝ思ふのであります、斯かる事柄に就ては、各新聞も賞賛し世間でも皆言ひ伝へて居るから、深く其詳細を説くのも冗長に亘る嫌がありますによつて大体論に止めて置きます、唯々私が今日の有様に対して不安心の念を持つのは、一般の経済界に質実とか鞏固とか云ふことの欠けて居るやうに思ふのである、但し極く堅実を主とする業務、知識階級とも云ふべき商工業者中には、比較的厭ふべき事柄が少ないかも知らぬけれども、所謂成金と称する者、若くは投機事業経営の向々には、別して真摯正確と云ふ風が少なく、進むと止まるを知らず、一朝変に遭ふや周章狼狽、宛然秋の木の葉の散るやうな有様に見えるのは、実業者の性格が未だ堅実でないと言はれる虞がありはしないかと思ふのである、私は之を英米等に比較して丁寧に評論する程深い攻究もして見ませぬけれども、亜米利加は少しく軽佻なる国民であるから、時としては進んで止まらぬやうに人気立つて、それが又急転直下に落込むやうなことも間々あるやうです、併し英吉利人はさうでないやうに見える、元来日本は亜米利加の如き天恵を持つて居るとは云へぬから、寧ろ堅実なる気象、質朴なる風習があつて欲しいと思ふ亜米利加では進むも激しい力を以てする為に、或る時は急転直下に退歩するやうな場合を生ずるも亦宜なりと云へるけれども、我国の実力に於て軽々しく進んで而して俄に頓挫すると云ふ如きは、当事者の素質が不健全である、軽卒であると言はねばならぬやうに思はれて実に懸念に堪へぬのである、是は独り株式取引所・米商会所等の投機的事業に関かる人々のみが悪いと云ふ訳でなく、世間一般にさう云ふ悪風習があればこそ自然と其処に現はれて来るのである、嘗て私は銀行の業務の進むのは決して銀行自身が進むのではない、銀行を利用する社会の進歩が銀行をして繁昌せしむるのである、故に銀行は自己のみの力として自慢することは出来ぬのであると言ふて居るが、独り銀行ばかりではない、海運事業でも、陸運事業でも、其他各工業会社でも同様である、而して銀行は特に其関係が強い、詰り社会の力が銀行に現はれて来るものであると思ふ、丁度前に述べた取引所の仲買に依つて現はれる有様は、取引所それ自身が悪いばかりではなく、社会が悪いと申すのと同一であると思ふ
それから私は其実際を審かに知らぬのであるけれども、好影響を受けて輸出事業の繁昌するは喜ぶべきことではあるが、此間に頗る厭ふべき事がある、是は欧米に対する貿易には少ないやうであるが、殊に印度貿易に付て粗製濫造の評判を聞くことが多くある、詰り景気が好い注文が多い為に品物が粗悪になる、或は第二の注文には先方から値を負かされる、其注文を逃さぬやうにと思うて其値段に応じて、同時に品質を劣等にする、価に応じて品質が悪くなると云ふことを標榜せずして品物を劣等にする、結局価が安いから品物が悪いのだけれども、
 - 第50巻 p.578 -ページ画像 
注文先からは粗製濫造と誹謗される、甚しきは日本の商人は信用を重んじないと言はれるやうになる、是は前に述べた景気の好い為に調子に乗り過ぎて、一変すると直に狼狽するのと共に、甚だ憂ふべき陋習と言はなければならぬものではないか、此の如き悪習慣はどうぞ全然打切つて、大正六年からは根本より改良されるやうに望まざるを得ぬのである
上来申したやうなる欠点を指摘すれば、独り此二点ばかりでなく、他にも多少あるであらうけれども、全体の経済界は先づ都合好く進みつつあると云ふことを私は喜んで居るのであるが、此喜びに付て、更に将来に企望するのは、国内の進歩ばかりでなく外に対する発展である所謂国際的経営が大いに進むやうにありたいと思ふ、而して其外といふのは主として支那に向つて発展したいのである、想ふに対支商業は従来の関係からは相当なる当業者の取引もあるけれども、国際的経営に属すべき大事業には何一つ成立したとは云へぬのである、現に中日実業会社なども、漸く一製鉄事業を支那の原料に依つて起さうと企てて居るが、種々なる面倒があるから未だ確乎と成立つとは云へない、支那に対しては鉄道であれ鉱山であれ、其他の工業であれ、其事業が彼の富を増し経済の発展を図るに於て必要であるから、我邦の為めにも最も希望しなければならぬ、我より力を協せて彼の幸福を増すのは即ち我も亦其富の分配を受けると云うても宜いのである、論語に言ふ所の己れ立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達すといふのは経済上に適応して行けるのである、而して之を完全にしやうと思ふには何うしても資本の充実を必要とするから、昨年来私は日米の協力を以て支那の実業を開発することを論じて居るが、日本ではそれ程注意して呉れぬ、近頃亜米利加の輿論は、日本と提携して支那の開発を図るが宜からう、資本共通は必要であると云ふことを知識階級の人人は皆云うて居るやうである、此間も在紐育の日本協会の会長から精しい手紙を寄越されて、其事に就ては斯くしたら宜からうと云ふやうに攻究をしつゝある、のみならず先頃来遊されたジヤツジ・ゲリー氏が帰米の後に、各地方に於ての演説も私の希望と殆ど其旨を一にして居る、併し此企望を達するのは一会社一銀行で出来るものではない、勿論私は今日一銀行にも自己の関係はないけれども、仮にありとするも左様なる小規模では行けないのである、どうしても国家が之に対して相当なる力添をして、所謂官民一致の意見を以てやつて行かねば充分なる望を達することは出来ぬと思ふ、故に大正六年に於ては、日米の資本共通を図ると同時に、支那に於ける経済上の発展を努ると云ふことは、実に急務中の急務であると考へる
更に私が懸念するのは、現在の日本の貿易は戦時状態から順調に進んで行くけれども、是は待つあつて進むのではなくして、来らざるが為に好いのである、孫子の兵法に、来らざるを恃むなかれ、以て待つあるを恃めと言ふてある、詰り――自分が充分なる生産力があつて、割合に安く輸出が出来るのではなくして、欧洲戦乱の為に工業製品が欠乏して居るから、それで日本の品物が行くのである、故に今日喜んで居つても此戦乱の終熄と共に彼の力が伸びたならば、遂に其競争には
 - 第50巻 p.579 -ページ画像 
打負けると思はざるを得ぬのである、斯く考へると、独り亜米利加との資本共通ばかりを以て安んじては居られない、英吉利に対する貿易が、私から見ては、近頃別して疎遠になつて居はしないかと思ふ、又露西亜の貿易も甚だ鈍いではないか、私は其事業者を能く知らぬから果して如何なる方法があるかと云ふことに就ては妙案もなく、只抽象的の議論しか出来ぬけれども、玆に斯う云ふ組織があつて漸次進歩し得ると云ふ見込が立て居らぬやうに思ふ、今日の時機に於て右等の計画の当業者に乏しいと云ふことは甚だ残念に思ふのであります、私は永年実業界に居つたけれども、商業の実務は直接に関係せなんだから甚だ暗い、況や今は実業界を引退した躯であるけれども、併し将来の経済界に満足を望めば、此戦乱の時に於て、一般の商工業者に対して未だ勤勉が足らぬ、注意が少いとか云ふことを訴へざるを得ぬのである、要するに大正六年の希望として玆に一言を述べるのである


銀行通信録 第六三巻第三七五号・第七二―七八頁 大正六年一月 ○東京銀行集会所の起原及沿革 前東京銀行集会所会長 男爵 渋沢栄一(DK500136k-0002)
第50巻 p.579-585 ページ画像

銀行通信録  第六三巻第三七五号・第七二―七八頁 大正六年一月
    ○東京銀行集会所の起原及沿革
        前東京銀行集会所会長 男爵 渋沢栄一
本篇は昨年九月当集会所の新築落成に方り、特に男爵に請ひて東京銀行集会所設立以前に於ける銀行界の状況、並に設立当時の事情より爾来今日に至る迄の沿革に関する談話を求め、当時之を掲載する筈なりしも、尚男爵の厳密なる校閲を経ることゝし、此程漸く校了を告げ、玆に之を掲ぐることゝせり。
銀行集合所[銀行集会所]の時運と共に段々に発達して今度永楽町に大厦高楼が新築されたのは、日本に於ける銀行業者の力が如何に進歩したかと云ふことを表はす訳である、同時に日本に於ける金融業が如何に発展したかといふことを証拠立てたと云うて宜しい、此点から観察すると、銀行集会所は銀行業者が相集つて談話する家屋に過ぎぬけれども、其進歩発達は国の経済の増進を示すものであるから、何人も共に喜んで祝賀の意を表して呉れて宜いのであらうと思ふ、元来私は銀行業を評して自分が自分を増大するといふことの出来ぬもので、他の力に依つて発達すべきものであるといつて居る、斯く申すと何か仏法の他力本願と云ふやうに聴き誤られるかも知らぬが、凡そ人間万事己だけで自己を発達させると云ふことは出来ぬものである、殊更銀行業ほど他の進歩に依つて自分が進歩し、他の衰微に依つて自分も衰微すると云ふ他力主義の強い者はないと云つて宜い、それだから銀行自身が己に独りで偉くなつたと云ふが如きは、言ひ得るものでない、悪いのも人が悪いのだから、善いのも亦人が善いのだと云うても宜い、新聞紙抔もさうで大勢を相手にする事業は総べてそうであると思ふ、一般の善くなる時は自然と其処へ進歩を表はして来る、反対に悪い時には悪いことが表はれて来る、故に銀行は恰も鏡のやうなもので、周囲が善ければ好い反映が現出し、周囲が悪ければ銀行のみを善くすることは出来ぬ、周囲を善くするのが自分の銀行を善くするのであると私は常に言ふて居るが、今日の銀行集会所が左様に立派なものゝ出来ると云ふことも銀行自身のみが自慢する訳には行かないので、銀行の得意とする社会
 - 第50巻 p.580 -ページ画像 
が段々進歩して、自然と銀行も発展し、其結果が一集会所にも大厦高楼を要するやうになつたのである、斯く考へると銀行自身が喜ぶのみではなくて、日本の経済界が共に喜で呉れるであらうと思ふ
凡そ事業は個々別々になつてはいかぬ、相当なる連絡が必要であると云ふことは殆ど根本の道理で喋々するを要せぬことである、殊に銀行の如き金融上広い範囲に関係を持つて居る事業は、決して一勢力一団体で之を満足させる訳には行かないから、世の進歩する程種々なる方面に其事業が拡大して行くのは必然である、而して同じく銀行と云ふ中にも各地方に差別されるばかりではなく、内国を主とする者あり、外国を主とする者あり、商業に対する金融を専らにするもの、或は工業に対する融通を主とするもの、其工業も時期の長いのに対するもの或は農業に対するもの、又は発行事業と云うて社債とか公債とかに関するもの、或は小額なる貯蓄を引受けて安全の方法で運用するといふのもある、大別しても前に述べたやうなものであるが、尚仔細に類別すれば千差万別と云うて宜しい、それらの種類が所謂人の嗜好を同じふせざるとか、或は面貌を異にするとか云ふが如く、百人寄れば百色の有様が同じ業務の間にも必ずある、況んや又其経営する人々も個々特色を具へるのであるから、之を皆同様に誰も酒を好むとか、餅を好むとか、皆肥つて居るとか、痩せて居るとか、背が高いとか低いとか決して一様にし得るものではない、少々づゝの差のあるのが蓋し世の常であつて、而して又それが進歩する所以である、此点から論ずると個々別々に特徴を以て進むのが即ち社会の発展となるのである、左様に特徴を以て差別されるものであるとしたならば、必要の場合に統一が着かない、殊に此経済上重要の金融事業に於て、苟くも此統一がなかつたならば、恰も人の身体に手が勝手に働いたり、足が自由に走つたりして四肢五体に聯絡がないといふ有様と同じくなる、そこで又此統一に努めなければならぬ、それに就ては国に相当なる制度も必要であらう、それは主治者の考ふべき所であるが、其業を営む者も互に相一致する方法を講究しなければならぬ、これが銀行業者間に斯の如き銀行集会所を必要とする所以でその理由は申さぬでも分ることであるが、詰り必要が今日をあらしめた訳だと思ふ、現に永楽町に斯様に立派なる集会所の出来るに至つた沿革は私が第一に古い関係を知つて居るのであるから、此機会に於て申し述べて置きたいと思ひます
日本に銀行の起つたのは、明治五年に国立銀行条例が発布されて、六年の八月一日に第一国立銀行が開業免状を得て、事業を開始したのが初めである、併し銀行と云ふ名を附けたのは明治五年であつて、其頃からして西洋で唱ふる「バンク」と云ふ名に依つて、東京の富豪、三井・小野・島田などゝ云ふ人々が金融事業を経営したいと云ふて居られたのであります、三井が銀行設立の出願をせられたのは明治四年頃であつたが、其時日は判然覚えて居りませぬ、三井「バンク」と云ふ名称に依つて経営したいと云ふのであつた、未だ銀行と云ふ名称も定まらぬ前であつた、勿論それは大蔵省の主権者たる大隈大輔・伊藤少輔抔が有力なる商估をして、銀行と云ふものを創立させたいと云ふ意志から、欧米の有様を説示して勧告した、其頃の三井・小野等の富豪
 - 第50巻 p.581 -ページ画像 
の主人は何等の意見をも持つて居らぬけれども、其番頭の中には時勢の進運に伴つて行きたいと云ふことを企図し、寧ろ従来の金貸とか両替屋と云ふやうなものでなく「バンク」と云ふ名を以て、欧米に倣ふて事業を進めて行くが宜からうと云ふことで「バンク」創立の請願をしたのである、併し大蔵省の方では、銀行は適当なる制度を設けずして唯勝手気儘に経営させることは宜しくないと云ふことで、明治四年に伊藤少輔が亜米利加から持ち越された制度に依るか、又は英吉利の実際を取調べて帰られた吉田清成氏の説に依つて、英吉利式を採用するかと云ふ大問題が、四年から五年に掛けての大蔵省中の最も討論を尽せし要件であつた、而して之を判断するのは当時大蔵大輔たりし井上侯爵であつた、種々評議の結果兎に角、伊藤少輔の調べて来たものに依つて銀行を創立するが宜からうと云ふことになつて、即ち国立銀行条例と云ふものが発布されたのであります、それは明治五年の十一月であつた、於是其翌年の夏には第一国立銀行が東京に創立され、更に第二国立銀行が横浜に出来た、第三は安田系の手で出願されたけれども、其時には成立たずに、第四が新潟で創立し、第五が鹿児島の人で創立し、玆に第一から第五まで国立銀行が創立されたのであります此事に就ては過日も集会所でお話したのでありますから、重複を避けて略しますが、其亜米利加の制度に則りたる三つ四つの国立銀行の発行紙幣が金貨引替の多かつた為めに、容易に発達し得なかつた、折角銀行は創立したけれども、目的通りの働きは為し得られぬから、拠所なく銀行紙幣は自分の手で引籠めて、融通は悉く不換紙幣であつた、明治九年になつて金禄公債証書が発行されたが、是は各藩主藩士に対する禄制を設けて、一時に公債証書を渡したのであるから、全国に公債証書を下付した高が大変に多かつた、独り其額の多いのみならず此藩士の命の綱たる公債証書は政事上からも大に注意すべきものであつた、従来藩主藩士と云ふ者が皆常禄を持つて生活して居つた、それが封建制度の唯一の仕組で、彼等は此常禄を以て家を維持し、一朝事あれば、自分のみならず妻子眷属皆之に殉ずることであつた、それに政体が変じてから其必要がなくなり、其代りに常禄を止める、止めることで唯々取上げる訳にはいかぬので此金禄公債証書と云ふものを下付して、之に依つて相当なる恒産に有りついて、所謂忠良の臣民になれと云ふ趣意であつた、殊に武士と云ふものは一般平民よりは高等の教育を受けて居る、又気位も高い、而して平生の生活は常禄によりて立つて居つたから生計の立て方は頗る拙い、一朝事あると命を差出して国の為め、主のために殉ずるといふことは尋常茶飯事として居るが、一身一家の経理に就ては何等の知識も持たぬ、是等の人々が生活を立て得られぬやうになると、自然と国に禍乱を生ずることが無いとも言はれぬ、故に政府は此度金禄公債証書を渡すと共に、是等の人々の生計の安穏を謀るのは、一の政略としても考へなくてはならぬ、詰り藩士に対する一種の社会政策で時勢の必要に迫つたものであつた、然るに亜米利加式の金札引替証書に依る所の銀行紙幣は前に述べた如くに引替が多く発行し得られぬことから、銀行業を繁昌させるためにその組織を如何にしたら宜からうと云ふので、様々政府は講究の末に明治
 - 第50巻 p.582 -ページ画像 
九年に至りて銀行紙幣は政府の紙幣で引替をして宜しい、元来銀行紙幣は兌換すべきもので、其兌換といふのは正貨で引替へるのであるがこれを変更して政府の不換紙幣で引換えて宜しいと云ふことにして、此銀行の創設を各地に普及し得るやうにした、右の制度の改正によつて一般に大いに安心して前に述べたる金禄公債証書を基礎として、各地に続々と銀行が創立された、此制度の改正に付て私は度々骨抜制度と評しましたが、骨抜どころではない、根本の主義を滅却したのである、併しそれは私共も時勢已むを得ぬことゝ思ふたので今更批評することも出来ませぬが、具眼の人から論じたら批難は多かつたことゝ思ふ、但し伊藤・大隈・井上等の先輩も吾々実際の人々も其取扱に従事したのであるが、一般に経済界に多少の知識ありと自惚れ、世間もこれ許した人々の所作としては余りに道理に適せぬ事であつた、斯の如き思慮なき者が、能く当時の経済界を料理したと謗る人もあらうけれども、此間も私は集会所で申訳をしましたが、其時の所作は私ばかりの魯鈍でなく他人も同じく無智であつた、悪くこれを評すると下手競べをしたやうなものである、例へば下手なる碁打の如く負ける競争をして居るのである、競争に勝つた者が其碁に負けて、競争に負けた者が其碁に勝つ、吾々が当時の経済界の動作も少しそれに類して居つた金貨引替の銀行紙幣が流通し得ぬによつて政府紙幣を以て引替える、不換紙幣で不換紙幣を兌換すれば同じく不換紙幣である、さう云ふ苦しい制度に改正して遂に兌換制度の目的は達し得なかつたけれども、当時に緊要なる二つの理由は貫徹した、其一つは公債証書を基礎にして、各地に金融機関を造り、一般の商売に対する融通を便利にしやうと云ふ政策と、他の一つは士族の禄制を施行して公債証書を下付しても、所謂士族の商法で忽ち其公債を失ふことの無きを期し難い、此二つの目的は完全とまでは行かぬけれども、殆んど十の七八は遂げたと云うても宜いのである、かくして全国各地に創立された百五十余の銀行が其内一・二は破産したのもありましたれども、為めに金融業は各地に普及して其初めは熟練せぬ為めに下手な取扱もあつたれども段々都会の先輩銀行が、欧米の実況を調査、又は人を派して練習することもありて其真相を知り得るやうになつたからして、随て各地の銀行も自然とそれを学んで、金融界の一機関たることが出来たから、此点より論ずれば其目的は達したと云うて宜いのであります、為めに士族に下付した公債を基礎として、金融業が成立つたのであります
銀行業者の会合は多分明治九年が初発であつたと記憶します、当初択善会と云ふ名称で一の寄合を開かうと云ふことで、第一国立銀行が主唱者で同業者諸君と相談して、十行ばかりの会合であつた、各行順番にして一月第一銀行が主人となれば、二月は第二銀行と云ふ塩梅に、其集会費用も当番銀行が支弁して、当月は此事を議したら来月は何を相談しやうと前以て相当なる用意をする場合もあり、或は「バンカース・マガジン」によりて亜米利加の新規の説を講究し又は倫敦の「エコノミスト」を翻訳して、斯う云ふ論もあると云うて、海外の事を知り、中には斯かる便利なことがあるといふて、討議の要具にしたのである、殊に此会合に於て最も力を尽したのは当座取引の方法であつた
 - 第50巻 p.583 -ページ画像 
是は其頃の東京商人は当座取引を嫌ふて何程勧誘しても当座取引は不安心だ、間違が起りはせぬかと云ふ気遣を以て、小切手を取扱ふことをせぬ、金が要ると互に小僧を走らせる、それでは当座取引を開いた甲斐がないと云うても、借用証文を不断に書いて置くやうな気がするといふて、なかなか小切手を使つて呉れぬ、依て経済雑誌社と協議して田口鼎軒氏に尽力を請ひ、更に田尻博士に依頼して時々商売人を集めて講義をして貰つたこともあります、択善会に於て最も努めたのは銀行事業の真相をして得意先に了解させるのであつた、例へば或る新式の劇場が先づ観客を教育して、其眼の改良に努むると同じやうなる心持で、海外の商工業者が銀行を利用する実況を知らせる、それには多少の形式も手続も要るによりて、各行申合せてこれを作り又は特に人を派出して説示すると云ふやうなことが、択善会の務めでありました、択善会と東京経済雑誌との関係は田口氏によりて開始された、元来氏は大蔵省紙幣局の官吏であつて、実務希望の為めに、官吏を辞して英吉利の「エコノミスト」に倣うて経済雑誌を組立てた、同氏が大蔵省勤務中から第一銀行には検査の為めに度々来られて私は懇意にして居りました、私から見ると大分年の若い新進の気象ある操觚者で、且つ至て真摯質実の人でありました、同氏は当時の不換紙幣制度を甚く憂ひて、是非之を兌換にせねばならぬと主張した、又同氏の論旨は極めて自由平等で、貿易上の主義は全然、其頃の所謂「マンチエスター」学説であつた、昨日も同氏の噂がありましたが、徳富蘇峰先生は故人になられた人物中で、主義の徹底して、而して質実なる文章を書いたのは、第一に田口鼎軒に指を屈すると評したさうであります、其田口氏の経済雑誌を択善会に結付けて、択善会の記事を載せ、所謂機関雑誌とした、これは私に於ては至極適当の方法にて銀行の為めにも便宜のことゝ思うた、雑誌社に於ては種々の取調をして、取引上に就ても斯う云ふ方法があるとか、欧米には斯る説があるとか、是等の事を専門に調べつゝあるから、銀行業者の片手間にするよりは、学問的に能く出来る、又其調べたものを雑誌に載せて間接に商工業者を誘導するから、相俟つて利益を得ることゝ思うて、機関雑誌と定めたが、玆に一つ面倒を惹起したのは、当時の不換紙幣を是非とも兌換制に改革したいと私も中心から切望し、田口氏も亦操觚者として其説を主張した、故に両人の境遇は違ふけれども期念は一であつた、然るに明治十年の西南の戦乱は端なくも軍費を多く支出されたから、不換紙幣を益々多額に発行した、既に太政官札に依つて辛ふじて御一新の政費を維持し、今又西南戦乱の軍費も他の不換紙幣に依らざるを得ぬから、銀行紙幣を段々多く発行した、但し銀行紙幣は政府紙幣で引替へるものゆへに其銀行紙幣を多く発行すれば、随て紙幣の流通額が殖える、其結果自然と正貨と紙幣との間に差を生じて、正貨ならば米一石が五円であるのに、紙幣だと七円と云ふやうになつて来た、蓋し十年の戦乱の結果が十一年十二年となりて諸物価が高くなる、地価が上る、景気が段々好くなつて輸入品が増して来る、総ての物価が皆騰上して来るから、世間は自然に富が増したやうな気がする、随て紙幣と銀貨の差が益々生じて、甚しきは一円に五・六十銭と云ふやうな打歩が附く
 - 第50巻 p.584 -ページ画像 
是に於て、兌換制度に関する議論が大に其声を高めた、元来金札引替公債証書を以て亜米利加の制度に倣つて銀行を創立したのは、不換紙幣を兌換すると云ふのが眼目であつた、金融の便利を与へると云ふも一要件ではあるが、何れが重いかと云うたら、寧ろ兌換制度の確定が重要である、然るに金融上に一時の便を得たと思ひきや、為めに紙幣が益々下落して殆ど国家財政の基礎も立つか立たぬか分らぬやうになつたので、苟も経済思想のある人は皆これを喋々する、田口氏抔は最もこれを熱論して速かに改正しなければならぬ、当局の処置が不満である、経済の要務を学問的に経営せぬ、所謂姑息偸安だと強く財政当局を非難攻撃した、遂に銀行者仲間でも自家の利益を犠牲とし、発行紙幣の幾分を減少して兌換制度を企望することを議決した、詰り銀行は各自の利益を減じても国家の貨幣制度の鞏固を図りたいといふのだから、所謂公明正大の論と思ふて私が第一の発案者で、田口氏に諮つて其筋への建議案を作つて銀行者仲間に評議した、然るに其所作が大蔵当局の嫌忌する所となつて大なる行違を生ずるに至つた、それは第一に私が先づ以て当局の人に能く説明したならば、そんな間違も起らなかつたであらうが、玆に注意を怠りて単に田口氏と相談して銀行者仲間に協議したから、それに対して種々の誤解又は揣摩憶測が生じて私が財務当局を故意に非難して、他に野心でもあるが如く誤り伝へられたのであつた、遂に此択善会に不一致を起して、甚しきは銀行者の集会をも廃さうと云ふ説が出ました、併し択善会の名を更へるは兎に角、銀行者の集会を廃すると云ふは宜くないと云ふことから、更に銀行集会所と命名して引続きて集会することになつたのが、明治十三年の秋頃と記憶します、想ふに此改名の起りは択善会の処置の悪いと云ふでもなければ、当時の銀行者の不協和と云ふでもない、唯財政に対する一部銀行者の意見が機関雑誌たる経済雑誌によりて強硬に論ぜられて、不遠慮に当局を非難したのが原因となつて、遂に択善会の名を廃めるに至つたのであります、但しそれは全く一時の行違から起つたことで、殊更に当局を誹謗したと云ふ訳ではなかつたから、伊藤公が親切に其行違を心配されて、私を財政の当局者の所へ帯同して種々調停されて、漸く其誤解が明瞭になつたのであります
明治十四年に至り、松方侯爵が大蔵卿となられて、頻りに兌換制度の事を研究され、明治十五年に中央銀行を創設し、尋で十六年には銀行紙幣銷却の事に付て各国立銀行に内示がありました、其趣旨は各国立銀行の営業期限二十年が充ちたなら、銀行紙幣発行の事は継続させぬといふのであつた、各国立銀行に取りては随分苛酷の処置とは思ふけれども、斯くせねば完全なる兌換制度が立たぬから、是非同意せよとの懇切なる内訓で一同已むを得ず承服したのである、其結果明治十九年には銀紙の差がなくなりて、二十年から兌換制度を実行するやうになつたのである
銀行業者の会合は其初め各行順番に開会し、爾来此処彼処と変遷し万町なる常盤木倶楽部、又は第百銀行の近傍なる家の二階に会合したこともありましたが、どうしても一家屋を必要とすると云ふので、明治十八年に至り弥其新築が必要と決し矢張私が主として其建築に尽力し
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ました、恰も好し辰野博士が建築学を修めて実地に就く時であつたので、同氏に其設計と工事の監督とを托し、竣工したのが彼の坂本町の集会所であります、其後倶楽部を建添へて長い歳月間同所を便利として居りましたが、大正二年の一月倶楽部の方が焼失して爾後仮普請で維持しましたが、今日に至つては更に大なる集会所が必要となつて再び新築を見るに至つたのであります
諺に命長ければ恥多しと云ふてありますけれども、私は長命して是非新集会所を建築したいと企望して、理事者をして居る中に屡々慫慂した、中には敷地を所有したいといふ説のあつた為めに建築の評議が一致を欠いたこともある、私は到底良い地所を買ふと云ふても容易でない、彼の三菱の地所が適当である、老人は先を急ぐ、私は成ることならば新築の家屋で宴会の一度もしたいと云つて頻りに同僚を督促したのであります、愈々評議が一決して其地所を見分するときも私が先に立つて参りました、而も其日は大変に寒かつたと記憶する、時に私の心に想ふには今日から着手して五・六年は建築に掛るかも知れぬ、さすれば私などは果して生存して居るか分らぬ、是が所謂他人の為めに嫁衣裳を縫ふと云ふ詩句と同じ事であると一笑したこともありました然るに今日銀行集会所の理事は辞しても、斯く新規の意匠によりて宏壮に且つ美麗に建築された楼閣に於て私の為めに初回の饗宴が開かれ多数の旧友と共に会食することさへありたるは実に喜悦に堪へぬのであります、独り私が喜ぶのみならず、東京に於ける未来の銀行業者が集会所の地名の如く永久に楽むであらうと思ひます、依て私は感じました、文明の世は命永き程快楽多きものなることを、是れが東京銀行集会所の起原より今日に至るまでの顛末を私の朧気なる記憶にたどりて開陳したのであります(畢)
        (大正五年十二月十八日湯河原客舎に於て修正済)