デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
5款 社団法人東京銀行集会所 東京銀行倶楽部
■綱文

第50巻 p.626-642(DK500148k) ページ画像

大正10年1月(1921年)

栄一、是月発行ノ「銀行通信録」ニ『新年の感想』ト題スル論文ヲ寄稿ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正一〇年(DK500148k-0001)
第50巻 p.626-627 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一〇年         (渋沢子爵家所蔵)
一月十日 快晴
○上略 午前十時、銀行集会所員井口氏速記者友野氏ト同行来訪ス、其通信録ニ余ノ意見ヲ徴スル為メ来レルナリ、依テ先ツ本年ノ歳入出予算ノ問題ヨリ立論シ、外交問題・軍事問題・財政経済及商工業ニ論及シ終リニ思想問題ヲ詳述シ、自己ノ関係スル竜門社又ハ修養団ノ現況ヲ説明シ、専ラ道徳経済合一ノ趣旨ヲ力説ス、且其道徳ノ進化トシテ今日ノ仁義道徳説ノ幾分昔日ト異ル所以ヲ詳述シタリ、正午頃ニ至リテ講演ヲ終ル○下略
  ○中略。
一月十四日 雨 寒
 - 第50巻 p.627 -ページ画像 
昨夜ヨリ風邪気ニテ十時頃起床、洗面ノ儘朝飧ス、後日記ヲ編成ス、又銀行通信録ニ掲クヘキ演説筆記ヲ修正ス、朝来雨蕭々然トシテ四望寂寞、最モ読書ニ可ナリ、楼上単ニ汽車ノ東西ニ往来スルヲ見ルノミニシテ、田園ノ光景モ亦閑人ヲ慰スルモノヽ如シ、終日演説筆記ノ修正ニ勉焉タリ○下略
  ○栄一、是日及ビ翌十五日大磯ニ滞在。


銀行通信録 第七一巻第四二三号・第九―二五頁大正一〇年一月 ○新年の感想 子爵渋沢栄一(DK500148k-0002)
第50巻 p.627-642 ページ画像

銀行通信録  第七一巻第四二三号・第九―二五頁大正一〇年一月
    ○新年の感想         子爵渋沢栄一
私は近頃年頭に詩を作つて其時の懐を述ぶることを例と致しますが、当年は斯う云ふ詩が出来ました。
  無復功名累此身
  悠遊我自養吾真
  馬齢八秩還加二
  天使寿康帰逸民
去年来の思想界混乱の心配が全く止んで悠遊自適、世の中を安楽に送る訳ではありませぬが、何時も心配する許りでもないと思ひまして、今年は斯う云ふ詩を作りましたが、毎年銀行通信録には其年の社会的の事業なり若くは経済上の事なり、或る場合には政治にも関係して愚見を述ぶることを例として居りますから、其嘉例に従て本年も一言を述べよと云ふお求に対しては私の喜んでお答せざるを得ぬのであります。唯或事柄を取立てゝ纏めて演説的にお話をすることは出来兼ねますので、断片的にならうと思ひますが、それで御容赦を願ひます
第一に財政経済の事に就て古い記憶を喚起して、現在に就て私が如何に思ふて居るかと云ふことを遠慮なく玆に申述べて見たいと思ひます旧臘竜門社の社員が私の八十の寿を祝するのと、又昨年陞爵致したことを喜んで呉れる為めに、会を開いた、其席で大隈侯爵や阪谷男爵などが頻りに維新当時の財政の有様に就て懐旧談がありました。続いて又此大正十年の予算が一月から議会に提出される、其要領を大蔵次官が一覧せいと云ふて寄越されたのを見まして、実に今昔の感に堪へぬやうな気が致したのであります。其事に就ては正月の二日に帝国「ホテル」に開催された年始会に罷出た所が何か一言を述べろと幹事からの勧誘で、遂に国家の予算に論及して国運の進んだ有様を喜ぶと共に其増進拡張に就ていつもながら軍事費の膨脹が強い、それが果して国家の慶事であらうか、或は少しく権衡を失つては居ないか、吾々は精細に之を研究したいものだ、何れ此歳出入予算は近々に議会の問題に上つて討論があるであらうが、私抔の閑人が之に係つて大に論ずるでは無いけれども、併し大切なる国家の財政経済の事はお互に能く考究すべき価値あるものである、既往を回想すると斯う云ふ事があつたと云ふて維新匆々の時の古い話を致しました。それは私が明治四年大蔵省に居つた時に、大久保利通公が其時の大蔵卿であつて、陸海軍の経費を臨時に入用だからと云ふて求めると、大蔵省が出すの出さぬのと云ふ面倒があつて誠に困るから、是非一年に幾らだけは遣へると云ふ定額を立てゝ貰ひたい。而して其定額は陸軍が八百万両、海軍が二百
 - 第50巻 p.628 -ページ画像 
万両、即ち一千万両を支出するやうにして、それだけは大蔵省で受合つて彼是言はぬやうにして欲しいと言はれるが、如何にして宜からうか、自分が内閣に於ける会議に於て独断で決定も仕兼たから、省内の事務を執る人々と相談をすると云ふて戻つて来たとの諮問であつて、私も其時大蔵大丞と云ふ位置に居つた。共に其席に列なつたのが安場保和・谷鉄臣・渡辺清左衛門など云ふ人々であつたと記憶する。岡本謙三郎と云ふ人も大丞であつて大丞が四・五人あつた。そこで私は先づ口を開いて、一体歳出予算を定めると云ふことは収入総額が明確になつた上で立てるのが本当ではありますまいか、西洋では出を計つて入を為すと云ふ算法を用ゐるさうに聞きますけれども、日本の今日は迚も左様に為し得るものではない、定つた歳入を以て歳出を弁ずる外ないやうに思ひますから、是だけ必要があるから国民から是だけ徴収すると云ふ如き西洋のやうな方法は迚も出来まいと思ひます。然るにまだ歳入の確定せぬのに歳出の予算を立てると云ふ程間違つた事はないではありませぬか、故に大蔵卿の御諮問ではあるけれども極言すれば私は不可能と思ひます。と述べましたら、大久保大蔵卿は大に立腹されまして、それでは渋沢は陸海軍の軍費は支出せぬでも宜いと云ふ積りか、軍事はどうなつても構はぬと極言されるのかと厳しい反問があつたので、私も大に憤慨して、是は余り大蔵卿のお言葉とも覚えぬ渋沢不似と雖も陸海軍が要らぬとは思ひませぬ。左様な極論を致さうと云ふのではない。併し一ケ年の定額を立てると云ふ以上は、内に収入すべき確実の見込の無いのに、外に向つて出す金を約束すると云ふことは、今日の計算法では出来能はぬことと思ひますから愚見を申したのであります。此の上は大蔵卿の思召次第でありますが、量入為出の今日の計算法でなければ会計を誤ると思ひます。今日は未だ廃藩置県の制度も其実施が充分に行はれて居りませぬ、七月に其令が布かれて未だ二・三箇月しか経ちませぬ。今頻に歳入合計を調査して居りますが、私共の見積りでは一年の歳入が三千万円にも届くまいと思ひます。而して現在の所では大蔵省には金は無いのであります、故に国家の歳入の半額に近き額を軍事費に充てると云ふことは、余り過当であらうと思ふから前段の如く申上げたのでありますと云ふて、遂に私は其席を退いて、それから直に井上大輔の手許まで辞表を出してしまつたが、其辞表は種々の事情で井上大輔に握り潰されて勤続することになつて、夫から五年六年と経過して遂に六年の五月に井上大輔と共に辞職しましたけれど、其頃の事を回想すると予算の数字こそ大変に違ふけれども、大正十年の予算も其有様が同じやうで、恰も五十年以前の景況と同様に思はれて頻に懐旧の感が生ずるのであります。前段の事は明治四年であるが、其後明治六年には私一人でなく井上大輔と二人で官を辞するに当りて、太政大臣に奏議を提出した、其奏議の文章中数字の処を一覧しますと、歳入総計が概算四千万円である、それで各方面の政治即ち軍事なり司法なり教育なりに力を張りて、そうして国家の力を養ひ富を増すと云ふ方面には一向資源が供用されぬ。詰り今日の政事は兎角形の上の完備を求めて、実力を進める勉めが甚だ乏しい。斯の如きは国家を真に鞏固にする方法ではないと思ふ。体面に
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全きを求めて実質の貧弱なるのは虚栄を以て国家を粉飾するも同様であると論じました。且つ其頃発行して居る不換紙幣の総計及廃藩後の各藩の借財を政府が引受けた金額を総計すると、凡そ一億四千万円ばかりが償却の見込の確定せぬ借財を政府が負ふて居るのであるから、是はどうしても歳計上追々に剰余を産み出して之を償却せぬと、財政鞏固とは言へぬ。財政が鞏固でなければ国家は安泰と云ふ訳にいかぬと数字を掲げて切実に論じて、遂に其奏議の全文を新聞紙に記載したので其筋から叱られた事がありました
本年一月二日の年始会に於て、大正十年度の予算が十五億六千万円の歳出に対して八億に近い軍事費を支出される計算になつて居る、殊に予算は年々膨脹し来つて居る。尤も予算の膨脹は国家の財力が増すのであるから、数字の多くなるのは喜ぶべき事ではあるけれども、併しいつもながらに其割合が軍事費に多く増すのである。明治四年頃から或時には歳入の半額に近いやうな数字もあつたけれども、平時は三割位に居つた。然るに此大正十年の予算は、軍事費の予算が成立し始めてから、総予算に対して最も多大なる年であると云ふことを、玆に数字が現して居る。之が益々国が強くなるものとして喜ぶべきものか、
 編者曰く、この予算と軍事費の割合に付て子爵は日清戦争・日露戦争及欧洲大戦前後の状況につき、左の数字を示されたり

         歳出総額           軍事費  歳出総額に対する軍事費の割合
                   円            円     割
明治二十六年度   八四、五八一、〇〇〇   二二、八二二、〇〇〇  二・七〇
明治三十年度   二二三、六七八、〇〇〇  一一〇、五四二、〇〇〇  四・九四
明治三十六年度  二四九、五九六、〇〇〇   八三、〇〇二、〇〇〇  三・三三
明治四十年度   六〇二、四〇〇、〇〇〇  一九八、三一六、〇〇〇  三・二九
大正二年度    五七三、六三三、〇〇〇  一九一、八八五、〇〇〇  三・三五
大正十年度  一、五六二、五四二、〇〇〇  七六一、七八一、〇〇〇  四・八八

或は余り外飾に張り過ぎて、却つて実力を損耗することになる虞が有りはせぬか、宜しく経済界の人は攻究すべきものであらうと云ふ意見を述べました。故に今日銀行通信録に述べる事も矢張り二日の年始会の愚説を繰返さゞるを得ぬのであります。私は政治上に何等関係を持つて居りませぬ、又持たうとも思つて居りませぬ。政治上の財政に就て其適否を考究することは、其職に在る諸公の本務であると信頼しますけれども、概括的に論じても国家の財政が軍事費に傾き過ぎると云ふことは、予算に現れて居るとまで私は言ひたいと思ふ。私は今日軍人と一般の国民とを昔日の封建時代のやうに別け隔てを附けて、彼は軍人である、国の富貴には一向関係ないものだ。是は実業家であるから殖益にのみ尽力して、国防に対しては注意せぬと云ふやうに相疎隔するのは甚だ宜しくないと思ふ。所謂国民皆兵と云ふ主義を以て、出ては矛を執り入つては算盤と鍬とを執ると云ふやうに相成りたい。彼此の勤務は違ひますけれども、心は全く一致して国家を愛し且つ憂ひ唯々職に依りて其形が変るだけで、其心は全く同一にして進まねばならぬと云ふことを主義として居ります。是故に近頃諸物価の暴騰に就ては現職に居る軍人は暫く別としても、退職の人々又は軍属廃兵等の人々は真に生活の困難を気の毒に思ふて何とかせなければならぬと云
 - 第50巻 p.630 -ページ画像 
ふことを常に心に案じて居つた。丁度昨年の十月陸軍大臣から御心配があつて、私共実業家の協同で報効会と云ふものを創立して広く世間から寄附金を募集して完全の方法を設け、右等の人々を救助することに尽力して居ります。蓋し武力と経済と相共に国家の守備となり、又進展となるは素より論を俟たぬ所である。併し唯々一方に偏して、軍事のみに重きを置くと云ふことになつては、内にして殖産の妨礙と為り、外にしては世界の疑惑を受ける。如何に国力を偏重せしめても、世界に対する防備と云ふことは出来ない。試に亜米利加・英吉利等に比較して、対当の軍備をせねば安心は出来ぬと云ふならば、今日の日本の力が果して出来得ると言はれますか。残念ながら到底出来ないと云ふことにならう。更に進んで前の両国が一つとなり、之に対する場合があるとするか。軍備に歳入の全部を投じても迚も之に応ずる訳にはいかぬ。而して欧羅巴の大戦五年間の経過を観察すると、軍費も勿論大関係があつたらうけれども、其決勝点は経済力にあつたと云ふことは争はれぬ事実であつて、独逸の屈伏したのは兵器弾薬ではなかつたと申します。是は私には方面違ひの事であるから詳くは分りませぬけれども、経済の為めに敵は倒れたと云ふことを、屡々耳にするのであります。果して然らば唯々軍事費を増すと云ふことを唯一の務めと思ふならば、それは大なる誤謬と謂はねばならぬ。斯く申すと私が軍人に対して攻撃の矢を放つやうに聞えるけれども、真に憂国の情よりして兎角偏重の弊に陥り易きを憂慮する為め、第一に此事を言ふのであります
次も矢張り重要な問題で海外との関係であります。欧羅巴大戦後は尚更であるが、仮令其以前と雖も、我帝国が世界の仲間入をし、各国と相上下して其国交を維持して行くには、何処までも世界的観念を以て世の中に立たなければならぬことは論を俟たぬことで、既にそれは国是と相成つて居る。然るに是は唯々誹謗的に言ふばかりでなくして、現政府も其前の政府も、何時の内閣でも、日本の外交には余り満足と言はれぬ憾みがある。今無遠慮に之を指摘すれば支那と亜米利加に対する国交に於て特に然りとするのである。是が矢張り軍事と関係するやうに私には思はれる。支那外交に於ては政治の局に当る人も左様であるが、一般の人気、殊に彼の学生が頻に日本に対して悪感を持つのは、同じく東洋の中に在つて殊に長い歴史を持つて居り、往昔は多く彼の文明に模倣し其指導誘掖を受けた日本が、欧米諸国との交通開けぬ前には両国の間稍々対当の交際をした積りであつたけれども、欧米から見る所では日本は支那の属国の如くに思はれたこともあつた。現に私が維新前仏国に滞留中仏蘭西人から私共一行を支那人だと云はれるから、私共は之を嫌ふてノウノウと否認して日本人だと答へると、日本は支那の属国ではないか、本国人と言はれる方が比較的名誉であらうと侮蔑されたことさへありました。此有様からして我慢を去りて思惟すれば、支那人にも同様の感じを持つて居つたに相違ない。それが俄然其位地を変化したから、必ず嫉妬もあらうし、不安もあらう。何事につけても打解けぬで常に憎み見ると云ふことも数の免れぬ所でありませう。併しそれよりも尚ほ両国の外交の一致せぬと云ふことは
 - 第50巻 p.631 -ページ画像 
支那人をして常に疑惑を増させ、不快を感ぜしむることが多いのである。而して其原因は何かと云ふと、表面なる外務省の外交と内部の軍人関係との不一致にあると思ふ。私は玆に軍人関係と曖昧なる文字を使ふたけれども、詰り支那外交に二様あると云ふことは私一人が言ふのではない。誰も言ふて居る。又事実も多くあると思ふ。蓋し従来支那に対しては、陸軍から多くの人を出して種々なる調査をすると同時に、政治に軍事に関係してそれが一の外交にまで及ぼすやうになつて居る。是等の事は普通世界的の外交と違つて、或場合には局外の方面から之に反対をすると云ふやうな事が生ずるから、益々対手国の感情を悪くする、而して表面政治の局に当る人には左迄でないかも知らぬが、一般的に国威の失墜を憂ると云ふ学生などにあつては、殆ど日本は支那を侮辱すると云ふやうにまで考へて、遂に今日の有様を馴致したと思はれるのである。私は常に言ふて居るが、本邦人は支那人に対しては、政治家も実業家も平素忠恕の心を以て彼を敬愛して交際しなければいけないのに、私の見た所では殆ど恩と威ばかりで圧迫して居る。蓋し人の交際に恩と威とのみでは決して真の情愛の生ずるものでは無い。此弊風を断然改良しなければどうしても支那人の心をして融和せしむることは難いであらうと思ひます。併し反対の説を為す人に言はすれば、支那人は困れば従順になるけれども、平生は此方の説には一つも従はない。甚だしきに至つては例へば山東問題の如き直接の交渉を如何に勧誘しても之に応ぜずして却々横筋の運動をするとか、又は学生達が大勢徒党して大声に排日を唱へるのを彼の官憲は充分の制裁も出来ぬから、已むを得ずして今日の如くなると弁駁するであらうが、斯くては互に相憎むと云ふ今日の有様は何時までも改良は出来ぬ。仮令先方が情誼に冷淡なるにもせよ、此方は厚い心を以て飽迄も道理を履み情愛を厚くし交際したならば、必ず彼をして感動せしむることが出来るに相違ないと思ふ。而してそれが決して我心の軟弱なるのではない、寧ろ真勇と称すべきである、之に反して徒らに空威張をするのは、それこそ卑怯未練と云ふのであるから、私は是非とも前陳の主義を以て両国の国民交際をして、互に相敬愛するといふ有様に恢復したいと切望します。正面の外交上所謂樽爼の間の折衝に就ては、何も彼も満足を得るやうにばかりは行きますまい。此方の面目も重じなければならぬ、又他方の権衡も考へなければならぬが、国民的に支那人と接触する人々は、総て前陳の情意を以てしたならば、必ず恢復が出来るであらう。私は自身の小さい範囲内即ち日華実業協会とか、又は日華学会とか云ふものに就ては切に此主義を貫徹して見たいと思ふて居ります。而して此主義は政治上からも互に相愛し相信ずるやうに心掛け、縦令相争ふ事あるとも愛し敬するの心を以て争ふならば所謂君子の争となるのである。今日の有様は両方共に自我を主張し、諺にいふ揚足取り又は弥次ると云ふやうな事ばかりであつて、実に情けないと思ひます。亜米利加に対しては、外交が二様になると云ふやうな弊害は無いけれども、時に感情の齟齬を来す場合が多いと思ふ。而して東洋の関係が常に亜米利加をして疑惑を生ぜしむるの根源となるのであります。昨年も加州方面の有志家若くは紐育方面の紳士連所謂
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知識階級の人々が、特に職務を帯びたでもなく又自己の営利でもなく態々東京に参られて、私共と聯合協議会を開いて、東西の来賓、どちらも一週間づゝ遠慮もなく斟酌もなく相共に胸襟を披瀝して談論して見ました。能く事情を知つた人は其疑惑が少ないけれども、未だ充分に徹底して居らぬ人は、口を開くと日本の軍国主義を質問し、支那に対して領土野心がありはせぬか、と云ふ疑惑を以て立論するやうである。而して桑港の人々、紐育の人々、即ちアレキサンダーの一行もヴンダーリツプの一行も満足に討論もし又弁解もし説明もして、能く理解して帰つたやうでありますけれども、此外に渡来した米賓即ち先づ支那を視察して来た米国の国会議員連中を紅葉館にも招待し、又私の宅へも其の中の数名を案内して、加州問題に就ては歓迎会に於て此等の事を言ふのは宜くないと思ふて勉めて差控へましたけれども、議員中の重立たるスモールなどゝ云ふ人と外に六・七人ばかり私の宅へ来られ時は殊更に前提して、東京に来着以来数回お目に掛つたけれども歓迎の席上で加州の苦情を御聴かせするのは珍客に対して失礼であるから、謹で其説を述べなかつた。左りながら議会に列する諸君であるから、折角日本に御渡来あつたに加州に対する吾々の不平を一向に諸君の御耳に入れぬと云ふのは、寧ろ自ら欺くやうで、吾々の熱心が薄いやうに思はれてはならぬから、今日は拙宅へ尊来を忝ふして粗末な午餐会の席を以て申上げるのである。蓋し是は物の順序に従ふ忠実の行動と自分は思ふから、お厭であらうが聴いて呉れと云ふて、抑々加州へ日本の移民の行きしは斯うである、其以後斯く変化して、今日は斯様な待遇を受けるのである。是は加州人の仕方が尤もか、日本人の苦情を言ふのが無理か、貴所方は如何に御考へなさるかと質問的に問題を出しましたら、其処に来会した連中は多く加州方面の人でない、唯々オスボーンと云ふ人がロスアンゼルスの人であつたが、一同の答へて言ふには、遠く離れて居るから詳しい事情は知らないが、今のやうに聴いて見ると一も二もなく、加州人の仕方が悪いやうである。併し其「レフェレンダム」が通過しても、貴所が懸念するほど残酷な事は出来まいから、さまで御懸念なさらぬで宜いだらう。但し今日の国民投票即ち「イニシヤティーヴ・レフェレンダム」と云ふことは、私共の考には宜くないと思ひます。帰米の後は力の及ぶ限りはお説に従つて尽力しませう。それから続いてスモールと云ふ人は、玆に一の疑問があるとて日本の軍国主義と云ふ説が亜米利加では中々多いが、何故にさう云ふ事を評判されるであらうか、亜米利加人の誤解であるとすれば、それまでゞあるが、何かそれに就て説明する所はありませぬか、是は決して攻撃の意味で言ふのではない。唯々謂れなく日本を軍国主義と誹謗すると思へば、それまでだけれども、左様に亜米利加人の多数が云ふのは、斯う云ふ理由があるからと思当る事はありませぬかと、所謂皮肉の質問であつた。私は之に答へて、日本の遠い昔の歴史は事細かに説明し得ぬけれども、三百年以前徳川幕府となつた頃に馬来半島の「ジェスイット」教徒が宗教と軍事とに依つて他国を侵略する。是は容易ならぬものだと云ふのが遂に日本の鎖国した原因となつて、他の侵略を防ぐと云ふ観念が非常に強くなつたのである。是よ
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り先には元寇の乱と云ふものもあつた。右等の理由から王政維新となり天皇が自ら政治をお執りなさると云ふことになると同時に、唯々文政ばかりでなく軍事にも重きを置きて、大元帥は天子の御身に在る、軍国の事は天子自ら当ると云ふのが即ち今日の事実である。故に日本の軍備は防禦観念であるけれども、其後余所からの攻撃は無くて却て外に向つて戦争をして其戦争は何時も日本が勝利を得た、是が自然と軍国主義の評を受ける原因となつたのであらうと思ふ。但し明治二十七年の日清の戦争と云ひ、三十七年の日露の戦争と云ひ、所謂已むを得ざるに在つたけれども、其戦争に勝つたから軍国主義だと誹るのは実に謂れなき申分である、勿論国家を扞衛する方法が日本は相当に整ふて居る。故に禦ぐに強ければ攻めることも出来るから、そこで疑はれるかも知れぬが、私共から云へば甚だ迷惑千万である。蓋し軍国王義と考へるのは唯々皮相の観察疑惑からさう云ふことを言ふのだとお答する外ありませぬと其理由を丁寧に申添へましたら、其人には解つたやうであつたけれども、矢張其疑惑は全然に消滅はしないと思ふ。それ等から考察して見ても、唯々人が思ふばかりではありませぬ、私自身で思ふても、余り軍費予算の過当なるのが数字に現れると、それこそ軍国主義だと他国人に言はれはせぬかと恐れるのであります。話しが少し前に戻りますが、結局日米の国交に就て、外務当局の人の憂慮する所は如何なる処であるか、外交秘密もあらうから、吾々平民には詳細な事を聴かせもせず又聴かうとも思ひませぬが、私の見る所では加州の問題は実に同地の排日主唱者の政事的慣用手段が次第に悪化したのであるから、外見よりは其憂は小であるが、支那関係からしての米国人一般の疑惑は切に注意を要するのである。而して加州の問題は昨今新聞の伝ふる所に拠れば、幣原大使とモーリス氏と評議を凝して居る様であるが、果して都合好く協定して、詰り昨年の十一月加州の国民投票に決つた事を打消して呉れるやうになれば実に仕合せであります。一方には紳士協約を厳正にして切に人を遣らぬやうにすると云ふ制裁は強くなるとも是は已むを得ぬ事として、今加州に在る移民が苛酷な処置を以て追除けられて、路頭に迷ふやうな事になつたならば、日本の体面から困るのみならず我同胞として聞くに忍びぬやうな惨事のないやうに致したいと思ひます。故に呉々もモーリス氏と幣原君との交渉が、都合好く行届くやうに懇祈するのでありますが、之が屹度旨く行くかどうか甚だ疑問である。現に昨年聯合協議会の続きから、加州方面即ち桑港の米日関係委員会でも、去年は日本へ来たから今年は桑港で開きたい、故に是非渋沢に来て呉れ、其他相当の人を組織して来会する様にと既に其案内状を貰つて居りますが、是もどうしやうかと東京なる日米関係委員会の諸君と相談はして居りますけれども、加州方面の問題が落着せぬ前に、唯々ボンヤリと行くも困るし、さればとて折角の好意で案内するのを行かぬのも遺憾であるし、其回答に苦しんで居るやうな訳である。其内に何とか落着が付くであらうから、其模様に依つて私の行くのが両国の国交上に多少裨補することがあるならば、甚だ老衰して居るけれども、其旅行が未だ出来ぬとまで言はぬでも宜からうかと思ふのであります。続いて東部の問題は、
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例の四国借款は大抵は折合つて居るけれども未だ快然となつたとは言へぬ。況や山東問題が決局に至らぬものだから、亜米利加がそれに対して公然異議は無いとしても、疑惑と云ふことは全く取去る訳に行か無いのである。殊に近頃米国も頻に海軍を拡張する。此点から云へば亜米利加は人を責めて己れを反省せぬ。己れの欲せざる所を人に施すのである。私は遠慮なく亜米利加人に言ふ積りでありますけれども、仮令大統領が近く交替するにもせよ、何事ぞ自国が原動者となつて主張した国際聯盟規約を、他の国々が同意したるにも拘はらず発案者たる亜米利加は之に加入せぬ。又国民的国際聯盟協会なるものも、他の国々は大抵出来て居るけれども亜米利加には出来ない。実に亜米利加こそ独逸に代つて欧羅巴の国々を威圧しやうと云ふ野心でも持つて居るかと、疑惑が生ぜぬとも言はれぬのである。是等の事は隔意なく亜米利加人にも言ひたいと思うて居る。蓋し亜米利加の軍備拡張は前に言ふが如き意思ではないと信ずるけれども、或る場合にはさう云ふ野心を持つ人が必無とは言はれぬ。要するに直情径行を其性質として正義人道を尊重する国民であるから必ずさう云ふ観念は持たないであらう。余り見越して邪推に陥り互に相疑ふて相共に誤るの愚を做さぬ様にせねばならぬ。故に今日の亜米利加に対する国交は、我政府も成たけ神経過敏にならぬやうにしたいと思ひます。併し又遠慮が過ぎて、却て意志の徹底を欠く事がありはせぬかとの虞なきにしもあらざれば国民として心ある人々は時も費やし経費も投じて其情意を貫徹するやうに、所謂国民外交と云ふものが必要と思ふのであります。敢て自分等の些細な骨折が大効があつたとは思はぬけれども、少くも害は無かつたに相違ない。果して幾分にても日本を能く感ぜしめたならば所謂国家に報ずることの為し得られたやうに思ふのでありますから、仮令老衰事に堪へぬでも、生命の存在する限り力を尽したいと思ふて居ります。唯々其終局が如何になるかと云ふことは、支那に亜米利加に向後私の宿望が遂げ得らるゝかを懸念します。私は尚ほ英吉利に対する国民的交際が頗る乏しいのも甚だ遺憾に思つて居る。此事は昨年の冬新大使エリオット氏と添田博士の家で会見の時に其話をしましたら、大使は誠に好い考だ、自分も其事は極く賛成である、本国の方へも言つてやりませうなどゝ同情して呉れました。夫に付て昨年の十二月の初めに大使館から特に招かれて、横浜の商務官も来会され午餐を共にして頻に話をしましたが、元来日本の貿易は当初英吉利から習つたのである。殊に英吉利から明治十年・十一年頃に紡績糸及木綿織物を沢山輸入して、日本にも又必要があつたから多く買ふた。貿易としては結構であるけれども、外国から買ふよりは日本で製造を始めたいと云ふ希望を起して私共が其事を首唱した。是から紡織の業を日本に進めて、今日では余所から輸入のないやうになつた。棉花こそは輸入するけれども、製品としては輸入がなくなつた。是は英吉利の商売人には得意を失つたと言はれるか知れぬが国の経済上已むを得ぬ事である。其代りに何か外の商売が進んで行くべき筈である。それには英吉利の商人も成るべく日本にはどう云ふ物が必要だ、又日本からは斯う云ふ物が宜からうと互に攻究すれば、次第に貿易を進める道は多々あるに
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相違ないと思ふ。殊に欧羅巴の大戦乱後一般に模様が変つて来て、交通の状態にも物品の需給にも色々と相違を生じて来たから、此際東京大阪等の商売人が団体でも拵へて、欧洲の実況視察調査の為めに、英吉利は勿論其他の諸国スカンヂナヸヤ方面までも旅行して丁寧に研究して来るやうにしたいものだと私は希望して居ります。近頃は中央欧羅巴の羅馬尼亜若くはスカンヂナヸヤ方面の丁抹より種々なる人が渡来して日本との交通貿易を企図して居るから、日本からも相当の人を出すやうにしたいものだと英吉利の大使に言ひましたら、大使もそれは至極尤もだ、併し貴所は今商売人仲間には居らぬではないかと言はれたから、実業界は隠退せしも始終心は其方面にあるものですから、友達にもさう云ふ事を勧めて居りますと言つて話合つたことがあります。此事に就ては私が原総理大臣に嘗てお話をしたら、総理は兎に角羅馬尼亜だけは早速人をやつて調べて見やうと云ふことでありましたが、私は一国だけとせずに各国に亘つて丁寧に調べる必要があらうと思ひます。且つ羅馬尼亜に於て調べたものは未だ公表してないやうだが、海外に対する貿易の調査は敢て怠つて居るとは申さぬけれども、普く届いて居るとは未だ言へぬやうである。私の希望は其間には外交もありませうが貿易に就ても支那・亜米利加ばかりでなく欧羅巴各方面に就て、もう少し力を入れたいやうに思ひます
仏蘭西も、大に日本との接触を能くしたいと云ふことを考へて居られる。既に昨年「リオン」大学の総長ジュバン氏と云ふ人が日本へ来られて兎角日仏間の交際が少いから商売上の取引も殆ど無いやうな有様である。殊に日本に仏蘭西の語学をする人が些ともない。些ともないと極言はしかねるけれども、甚だ少ない。もう少し何とか学生其他に仏語を話す人があるやうにしたい。如何にして此接触を造る途を講じたら宜しいかと、頻に苦心して居りました。未だ名案は成立ちませぬけれども、蓋し是も欧羅巴の有力な国で且つ古い交誼のある国民である。殊に私は維新前に、一年許り仏蘭西に居たから、自ら懐旧の情が動いて何等かの方法を講じたいと、頻に心配をして居ります。
之を要するに現今の日本の外交が支那に対し亜米利加に対して甚だ不満足である。其理由は斯うであると云ふ要点を指摘するのが必要であるけれども、日本の外交は独り此二国ばかりではない、他の国々に対しても、政治上又は経済上からも注意が乏しい。頗る疎略になつて居る嫌があるから、斯の如きは日本が五大国の一などゝ唯々講和会議に於て虚名を附けられただけで、大方さうであらうと自慢して居るやうではいけない。今少しく実のあるやうにしたいものだ。其実のあると云ふのは即ち徹底的の国交が出来なければいけぬのである。既に明治天皇が維新の始に於て知識を世界に求めて此国を進めて行かなければならぬと仰せられた。是は動かすべからざる国是である。又それでなければ国運は進展せぬ。万一にも此趣旨が段々退歩するやうであつたならば、日本は段々孤独に陥つてしまふのである。蓋し国も人も進まざれば必ず衰へる。故に日本国民は上も下も、老人も若い者も、女も男も皆此方針を以て飽までも進み行かなければならぬと思ひます
眼を転じて経済界の事を述べて見やうと思ひます。想ふに欧洲大戦の
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関係から、本邦の事物も俄然と増進し、其国富も拡大したのは次に掲ぐる統計表でも
       全国銀行会社計画資本高

図表を画像で表示全国銀行会社計画資本高

 日露戦後三ケ年半    新設            拡張            合計                       円             円               円 自明治三十八年七月   八四二、六一七、〇〇〇   三一〇、九〇一、〇〇〇   一、一五三、五一八、〇〇〇 至明治卅九年十二月 明治四十年       四五八、〇九一、〇〇〇   二一六、六八六、〇〇〇     六七四、七七七、〇〇〇 明治四十一年       七五、三四三、〇〇〇    五九、八八九、〇〇〇     一三五、二三二、〇〇〇   計       一、三七六、〇五一、〇〇〇   五八七、四七六、〇〇〇   一、九六三、五二八、〇〇〇  欧洲大戦後三ケ年                       円             円               円 大正七年      一、六五五、二四〇、〇〇〇 一、〇二一、六六一、〇〇〇   二、六七六、九〇一、〇〇〇 大正八年      二、六八〇、五二二、〇〇〇 一、三八七、九五二、〇〇〇   四、〇六八、四七四、〇〇〇 大正九年      三、〇四八、〇九七、〇〇〇 二、〇六五、五三一、〇〇〇   五、一一三、六二八、〇〇〇   計       七、三八三、九五九、〇〇〇 四、四七五、一四四、〇〇〇  一一、八五九、一〇三、〇〇〇 



一目瞭然として洵に喜ぶべき事であるけれども、昨年の三月頃から急転直下に変化して、現在の不景気を現して居ると云ふことは、申さば当然の帰結であつて、決して怪しむべき事でも何でもない。意外の災難が生じたなどゝ思ふのは間違である。冬が来つて寒いと同じことで何時までも酒を飲んで酔つて居られる訳のものではない。欧羅巴の大戦乱の為めに俄に生じた変態であるから、それが止めば恰も飲んだ酒が醒めると同じやうなものである。幸に酒の為めに一時の愉快を尽した人もある。又其為めに成金が続々と生じたことも喜ぶべきである。但し其成金も一時の夢で、却て元も子も失ふた人もありますが、是れは其人の自業自得であつて、大体の経済界は詰り大に増進して居ると思ふ。又貿易も段々に進んで参つて、一時は輸出超過であつたが、昨年は遂に輸入超過に傾いたと云ふことも免れざる事態であるから、追追に挽回の策を講じて行かねばならぬと思ひます。試に此実状を調査すれば、次の数字にて明確になる。

         輸出              輸入            輸出入合計       差引超過額
                  円              円              円              円
大正三年    五九一、一〇一、〇〇〇    五九五、七三五、〇〇〇  一、一八六、八三六、〇〇〇 入超   四、六三四、〇〇〇
大正四年    七〇八、三〇七、〇〇〇    五三二、四五〇、〇〇〇  一、二四〇、七五七、〇〇〇 出超 一七五、八五七、〇〇〇
大正五年  一、一二七、四六八、〇〇〇    七五六、四二八、〇〇〇  一、八八三、八九六、〇〇〇 出超 三七一、〇四〇、〇〇〇
大正六年  一、六〇三、〇〇五、〇〇〇  一、〇三五、八一一、〇〇〇  二、六三八、八一六、〇〇〇 出超 五六七、一九四、〇〇〇
大正七年  一、九六二、一〇〇、〇〇〇  一、六六八、一四三、〇〇〇  三、六三〇、二四三、〇〇〇 出超 二九三、九五六、〇〇〇
大正八年  二、〇九八、八七二、〇〇〇  二、一七三、四五九、〇〇〇  四、二七二、三三一、〇〇〇 入超  七四、五八七、〇〇〇
大正九年  一、九四八、四一五、〇〇〇  二、三三五、六九一、〇〇〇  四、二八四、一〇六、〇〇〇 入超 三八七、二七六、〇〇〇

併し斯の如き経済の変化に就て無駄の事が生じ易いものであるが、是は勉めて防禦したい。例へば鉄の事業などが一時に各所に創立して、今日は皆苦んで居る。中には青息吐息の有様で居るものもあらう。此際斯業に於て大なる無駄が生ずると思ひますから、私は一昨年から頻に其事を言ふて居るけれども、八幡製鉄所が其気にならなければ大合同は出来ないので、私の希望のやうに行れませぬが、斯う云ふ姿で各会社ともに睨み合ふて居ると、其間には彼を悪み之を妬みてお互に相妨礙するやうな事が必ず生ずる。それが自然と他の政治運動となつて政略的の行動が生ぜぬとも限らぬ。斯の如きは皆経済の発展を妨礙する原因となると思ふのであります
船舶の事に付ても幸に国際汽船会社が創立されてから、一時に出来た
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汽船が二束三文に他に売却されると云ふやうな不幸を見なかつたので宜かつたけれども、新会社の経営が完全に行はれて居るか、仮令満足でなくとも相当に維持し得るだけの有様であるかどうか、爾来の経過は其事業に関係を持たぬ私は能く分りませぬけれども、斯の如き重要事業即ち経済の大動脈となるべき程のものは、国家が余程心配して、相当な援助も与へなければならぬ、又現に与へつゝある
又金融界即ち銀行の経営は私は左様に心配すべきものはないと思ひます。中央銀行も其制度と云ひ管理する人物と云ひ、洵に然るべき適材が良制度に依つて経営して居ると言つて宜いやうである。而して私の希望は成べく此中央銀行をして単に政治の要具たらしめずして、経済機関たるの機能を満足するやうにせねばならぬ。此希望を日本銀行総裁及幹部の諸君に注意して戴きたいと思ふて居ります。同銀行は常に両者の間に立つて居りますから、若しも財政の機関に厚くなると自然経済上の機能に其効果が薄くなる。又経済の機関のみになると、財政の方には不満足となる。此間に処して中庸を得るのは余程六ケ敷いことだらうと思ふ。幸に此等の呼吸を百も知つて居らるゝ諸君であるから、私は安心して居ります。又特種銀行及一般の普通銀行は皆堅固の経営をして居られるやうであるが、過般も高橋大蔵大臣が銀行者に希望された銀行者の貸出金に付ての注意は、五十年前、私が第一国立銀行頭取であつた頃、英国人シャンド氏が検査官として出張されて、頻に同様の趣旨を説示せられしも、私は其当時には不可能とさへ思ひたるが、後に至りて大に其非を悔悟したことがあります。故に今日の銀行家も能く之を服膺せられたきことと思ひます。詰り銀行者は成るべく冷静の態度を以て、取引先の商工業者を浮気にせず、又謂れなく恐怖させぬやうに心掛くるのが肝要であります。東京でも大阪でも其他の地方にしても相当な事業ある土地には、段々確実なる銀行が成立つて土地相応なる信用を以て経営して居ります。稀に昨年東京の貯蓄銀行に変な噂が立てられたといふことは、誠に不祥事であるが決して深く心配すべきことではない。私は現在の日本の銀行は追々に其行数を少くしたいと思ふ。数を少くしたいと云ふのは、相当の順序に依つて合併し得べきものは之を合併し、行数を減じて其働きを増すのが宜からうと思つて居ります。而して財政経済に対する金融の方法も更に進歩拡張すべきは勿論でありませうが、目下の処先づ順当に進んで居ると申しても決して過言でなからうと思ひます
工業界は一張一弛で今日の所未だ満足とは言へませぬ。殊に蚕糸業が甚だ懸念である。昨年帝国蚕糸会社が創立され、蚕糸の売却値段を定められた時に、私はこれが都合能く行はれるかといふ疑を持つて居つた。千五百円と限度を設け、それより安くは売らぬと云ふは一の保護案の様なれども、所謂手前定めになりはせぬか。嘗て大正三年に生糸が暴落した時、同じく救済的の会社を設立して七百円以下を売止めにした。私も其協議に与つて、已むを得ぬから同意したのである。而も横浜なる専業者原富太郎氏が再三熟慮して案出せられ、時の政府から五百万円、民間から百万円都合六百万円の資本を以て会社を設立し、其売止直段を以て市中の蚕糸を買つたのであります。然るに是れは偶
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然にも大成功で、大正五年に至り会社清算の時百六十余万円ほどの利益となつた。実に世の中には意外の事もあるものと驚いたのである。右の利益は政府でも想像外であつたから、歳入予算に編入せずに何か蚕糸業奨励の為めに用ゐて貰ひたいと、当時の総理大臣大隈侯爵に再三願ひましたけれども、大隈侯は聞入れずして政府の予算に入れて臨時の収入になつてしまつた。併しながら此事は詰り一時の出来事にて偶然に旨く行つたのである。且其時の価格は七百円であつたけれども今回のは千五百円より安くは売らせぬと云ふのである。果して之が適当の価格であるかと云ふことは余程疑問である。今日の或る新聞紙に原富太郎氏の談として見えて居る所では、さまで悲観せぬでも宜いと云ふ事が書いてあつたが果して前途が如何なるか頗る懸念の事であります。頃日小川愛次郎と云ふ人が、漢口に居住して支那繭の取扱を為し支那の蚕糸に通達して居る所から、日本は支那の蚕糸業が完全に発達すれば到底太刀打は出来ない。遂に廃滅の運命に帰すると云ふて居りましたが、是も極端の申分で、私はさうまでは思はぬ。併しながら支那は地味が肥沃で気候が適し、其の上蚕種に当り外れが少くて、而して其糸質が極く良い。日本蚕糸より繊緯が細いから「デニール」が低い。故に製糸が良好である。結局蚕糸業に就ては、何れの方面から見ても日本は支那に劣ると論断して居りました。既に「日支蚕糸業の将来」と云ふ印刷物を昨年末に出しましたが、蚕糸業の未来は実に寒心に堪へぬのであります。私は蚕糸業に対しては日本を大別して進歩した地方、即ち専ら機械取をやつて居る所と、又新しく開けて行く場所、所謂本場と新場と二別して、本場の者は勉めて糸の繰方を改良し直ちに亜米利加・欧羅巴の機業地の注文に応ずるやうな最上の糸を造るやうにありたい。詰り価を安くすることを望むとも夫れは出来ぬから飽くまで品物を改良する。又新場は当所より其位地には進めぬから成べく手数を省いて生産費を安くする。右等の注意をせずに只経費ばかり増加しては次第に原価騰上して、遂には支那の蚕糸と競争し得ぬやうになつて来る。殊に有力の人は支那に製糸業を開設し、尚ほ諏訪の製糸家が埼玉県へ分工場を起すと同じく支那に製糸工場を設立するが宜いではないか。支那の繭を買入れ、支那の工女を使用すれば、必ず割合安く製糸は出来ると思ふ。素より其の事には精通して居る又技術も勝れて居るから支那人と調和して相待つてやつたら成功するに違ひない。是は私の大体の意見でありますが、実に大事の工業であるから充分に注意したいものである。帝国蚕糸会と中央蚕糸会とか云ふ二つの団体があつて、是等の事は相当の研究をして居らうと思ひますが私も昔から苦心して居る事業でありますから、門外漢の意見として右の懸案を述べ置きます
次に木綿紡織事業も中々困難であります。戦時中若くは戦後の大打撃までは、実に都合好く利益を得て安穏に進んだ事業であつて、今日と雖も相当の利益があります。併し是も各方面に種々の影響を受けて居るやうでありますから、向後果して安全とばかりは言へないやうである。殊に原料を全部海外から仰ぐのでありますから、常に安心が出来ぬのである。故に紡績業者は少しく原料の上に注意を払つて貰ひたい
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と思ふ。例へば朝鮮の棉花栽培は其成績如何であるか。又米墨のヱンペリヤール・バアレーとか、又は南洋等に追々棉の生産地を開拓して欲しいのであります。兎に角内地人が大分木綿を用ふる量が多くなり又支那其他の国々にも輸出する故に、紡織事業は我邦の工業として仮令目下に困難はありとするも真に大切なるものであります。
各種の工業を悉く説明するほど私は知識も持つて居ませぬが、欧羅巴戦乱の為めに生じたる一夜造りの事業は、其景気の熄んだ為めに直に変化を来したものが数々ある。造船所・鉄工所の如きものは第一に指を折られるのであらうと思ひますが、追々に篩はれて、殻は取除けられ滓は飛ばされて漸く整頓して行くであらうと思ひます。而して此恢復期が幾許の月日を要するか。或人は本年中であらうとか、もう少し永く続くだらうとか、種々の説があるけれども、蓋し是は神に聴くの外はないと思ふ。仮に想像説を言うて見た所が、当つても八ツ当りで誰にも本当の事は分らない。而して其間に各方面の実業家、即ち銀行家も工業家も労働者も地主も小作人も、相共に力を協せ心を一にし道理に基きて恢復を図れば其達成早く、之に反すれば遅いと云ふことは免れないのであります
更に思想界の意見をもう一つ添へて此感想談を了らうと思ひますが、一昨年より昨年に継続して盛に「デモクラシー」とか「ボルシェヸズム」とか云ふ流行語が行はれたが、私は古風の学問に成長して居るから其説の原因は素より其字義さへも知らぬけれども、欧羅巴の学者中には所謂自己本位を頻りに主張する者が多いと云ふことを聞いて、恰も支那周末の時、孔子教の世間に伝播されて居る際に、楊朱・墨翟などと云ふ曲学者が反対説を以て孔子よりも自分の説が新奇であると宣伝した。其後百年ばかりを経て孟子が之を駁して楊墨の説を異端として弁妄に勉めた。故に私は去年の一月一絶を作つて、孟子に習つて異端を闢かねばならぬと云ふ懐を述べましたが、其詩は拙劣であつても今日も尚ほ左様に思つて居ります。此妄説が如何に懸念すべきものかどう云ふ風に成り行くものかと云ふことは、私の凡智凡眼では解りませぬが、変態の如何に依つては実に恐ろしいやうにも思はれる。去りながら日本人の良智良能が、極端にまで滅却するものでないから、さまでの心配を持たぬでも宜いやうにも考へられる。其程合は博学多識の人には解つて居るか知らぬが私には頓と解りませぬ。併し或る場合には危険でないとも言はれぬ。単に世界に超越せる国柄だとか、万国に比類ない政体だとかいふのみを以て晏如は出来ないと思ひます。私は元来孔子教で身を立てゝ居るから仏教にも基督教にも帰依せぬ。況や近来新しく生ずる宗教は極く嫌ひである。天理教とか大本教とか、又昨夜大阪の人が来て頻に其盛況を話されました金光教と云ふものも思想界混乱の為めに続々と生ずるのであると思ひますから、即ち異端の類である。依て楊墨の説と見て之を啓発したいと思ひますが、私の力では迚も其処までは及ばないから、私は唯々小さい範囲に於て成べく道理正しい趣旨に一致させるやうにして、自己一身の関係から我竜門社の人々などに、其宗教は自由であるが、主義として孔子教に拠り常に仁義道徳を尊重し、経済と道徳を一致せしめ、総じて人は富を進
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めると共に其所作に於て徳義を失ふことがあつてはならぬ。蓋し仁義道徳と云ふものは人世日常の行事に随伴するものにして、単に一種の信念に依つてのみ存するものではない。是を以て善悪と利害とは常に相伴ふものがあるから、利害得失を考究すると共に、人の守るべき道即ち仁義道徳に背かぬやうにせねばならぬのである
君に忠、父母に孝、兄弟に友、朋友に信、是れ皆道徳の発露である。済貧恤窮も道徳であれは、老人を敬し弱者を憐むも道徳である。而してそれが常に生産殖利と相調和して行かなければならぬ。道徳と云ふは只学理であつて、日常の事は貪慾で自己さへ満足すれば宜いと云ふやうな誤つた解釈ではいかぬ。即ち道徳経済合一と云ふことを主義として、竜門社の人々に始終之を訓示して居ります。但し此竜門社員は僅々千人内外の人でありますから、皆孔子と同じになつた所が高の知れたものである。併し私は又別に熱心に其主義を賛成して精神物質共に助力をして居る修養団と云ふものがあります。是は中には四十歳以上の人も少しく加りますが、多くは青年であります。此修養団は人数も多く且つ昨年は大分増加して四万五・六千人になりましたが、今年は十万人以上にならうと云つて居ります。矢張一種の道徳経済合一を目的として居る。此修養団の標榜する処は、流汗鍛錬、同胞相愛。即ち汗を流して働くのは経済であつて、愛は即ち仁徳とも云ふべきものであるから、其名を異にして其実を同じうする。是を以て私は至誠之を援助して、此多数の青年に孝悌忠信の行、仁義道徳の道、要は道徳経済合一の事を鼓吹して、常に之を講習し、苟も団員たる者は至誠を欠いてはならぬ、又信用を損するやうな行をしてはいかぬ、一事たりとも嘘を言はぬと云ふことを相互に誓約する。総じて人は唯々自己のみで立つて居るものではない。故に国家社会の為めに尽すべきことを必ず忘れてはならぬと注意を与へて居ります。特に私が各処を宣伝して歩く訳ではないが、団には主幹と幹事とが十人余りあります。此等の人々が諸方に出張して、彼処にも支部が出来、此処にも支部が出来て、前陳の主義を繰返して説明し、而して唯々之を論ずるばかりではいかぬから、皆各其勤めに励まねばならぬと督励して居ります。但し右様な多人数になると、其中には必ずしも嘘を云ふ人が一人も無いとは言へまい。又親孝行を忘れる人も絶無とは言はれぬかも知れませぬが、私は実に好い団体と思ふて、本部の設備、食堂の建築、又は支部発会式、冬夏期の講習会等に他の有志者にも依頼し、自分も微力を添へて満足の発達を得させたく思ふて居ります。毎年極寒と極暑に一週間位づゝ講習会をやりますが、寒い時に水に這入つたり体操をして身心を鍛ひます。一昨年は日光山、昨年は箱根の仙石原で開きました。団員中の希望者が多くて百五十名許り来会し、起居寝食を共にして互に意思を鍛錬する、其間学者教師が出張して修身上の事から処世又は道徳的の講話をする。会合する人々が皆賢人君子になるとも言はれぬけれども、私はそれが群衆心理で「ボルシェヸズム」に変ずるやうな気遣ひは万々なからうと信ずる。現に団員中に職工も大分あるが、一昨年の春川崎造船所に「ストライキ」のあつた時、修養団の這入つて居る工場には「サボタージュ」と云ふことは無かつたそうです。其中
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の主脳者で前田与一と云ふ人が其後東京に来ましたから、私は大に之を賞讚して其詳細の有様を聞きましたら、前田は謙遜して何も左様に力を尽したのではありませぬけれども、そんな事をしては悪いから止さうぢやないかと言つて、幸に兵庫の電気工場は百五十人許りの職工中で私共の仲間が百二十人も居つたから、其場所だけは「サボタージュ」をせずに済みました。それで大に幹部から褒められて、誠に嬉しうございましたと言つて居りました。右様の事が事実に現はれて来るのは真に結構の事と思ひます。頃日も足尾の銅山の坑夫が修養団に加入しつゝあります。追々と斯様に増加して行つたならば、遂には労働界にも道徳経済合一説が普及して、例の過激思想若くは無政府主義と云ふやうなものは、生ぜぬやうになり得るだらうと思つて居ります。唯々私の手の届かぬのは肝腎の教育界であります。現在の各種の教育に就て観察するに、どうも精神教育が満足でないと思はれます。勿論教科中に修身とか倫理とか云ふ科目はあるけれども、一向に力が這入つて居らぬやうである、唯科目が掲げてあるだけだから、知識教育は行き届いても、精神教育には熱も力もない。欧米にては宗教と云ふものに依つて精神教育を与へられるが、我邦にはそれが無いから、どうしても唯々智育のみに専らで、精神上の教育は殆ど無いと言つても宜いやうに思はれる。自分は教育家でないから、如何にすれば宜いかと云ふことの立案は出来ないゆゑ、嘗て教育調査会に委員を仰せ付けられし時、専門家の菊池大麓氏・高田早苗氏などと其事を論じて見たけれども未だ事実には行はれない。是が私は甚だ欠点であらうと思ひます為めに、前に述べた修養団の如きものを特に必要と感ずるのでありますが、儒教とても昔時は道徳と経済とを合一せねばならぬとは教へぬやうであつた、四書や五経を和訓したる教育は常に仁義道徳を先とし、利害得失を後にして説いてあるから、後学の者は利害得失と共に道徳は行はれぬものゝ如くに誤つて、遂に論語の為仁不富、富則不仁と云ふことを曲解したのであります、蓋し孔子は有博施於民而済衆如何、可謂仁乎。との子貢の問に答へて曰く、何事於仁、必也聖乎、尭舜其猶病諸。とあります。博く民に施すと云ふことが経済の働きがなくて出来るものでありますか、故に孔子の仁義道徳を説くは、経済も必ず離るべからざるものとしたけれども、後世に至つて利益を論ずる者は多くは貪欲に陥りて仁義を傷害する為めに、道徳は一切利害得失を余所に見るやうにしたが宜いと云ふやうに誤解したことと思ひます数日前私は或る会合にて、道徳の進化と云ふ説に就て、昔の道徳が決して利害を余所にしたではないけれども、其説き方の異なるより、今日の思想で解釈すると相違があるやうに思はるゝ、私は之を道徳の進化とする。蓋し孔子の布教したのは周末封建の世の中で、階級制度の時であつた。其以後漢唐宋ともに其制度は概して大同小異である。本邦に於ても、中世までの事は知らぬけれども、徳川幕府となりて初代の東照公と云ふ人が儒教を好んで、藤原惺窩を用ひ、次で林羅山を抜擢した。而して此時の制度が階級式であつたから、漢学は治者には必要なるも、被治者は六ケ敷い仁義道徳などは必要なきものと誤つた。
現に荻生徂徠と云ふ大学者すら道者士大夫以上之者と明言してある。
 - 第50巻 p.642 -ページ画像 
斯の如く昔の道徳は治者の修むべきものとしたが、私の玆に道徳の進化と云ふのは、道徳と経済と随伴聯絡せねばならぬといふのである。経済を離れては道徳は効能がない。又道徳を離れては経済は永続して行かぬものである。両者相待つて始めて真の道徳たることを得、又真の経済といふべきである。それから昔の階級制度では人を治むる位置の者でなければ、道徳の必要がない如くに誤解して居つたが、進化したる道徳では職工も小作人も下男も下女も皆道徳は行はなければならぬ。主人に対して忠実なるも道徳である、律義に小作を納むるも道徳である、職業を勤勉するも同じく道徳の進展である。何ぞ唯々人を治むる位置の者でなければ道徳は為し得られぬと言ふが如き謬見に安心して居るべきやである
更にもう一つは男女の関係である、是は論語には何とも教へてない。蓋し周末の封建時代は婦人に対する有様は如何であつたか知らぬが、女子与小人為難養也、近之則不遜、遠之則怨。といふ一語は多分論語か孟子にあつたと記憶する。斯の如く根本から婦人を蔑視して居るのは、決して真理ではないと思ひます。故に進化したる道徳では絶対に之に反対して、同じく国民として同等の教育と同等の待遇とを為さねばならぬのであります。唯々其体質性格に於て各相違があるから両性の長ずる所に随ふて互に其任務を別つを必要と思ひます。古来唱へ来つた道徳論と前に述べた新道徳との相違して居る点が能く理解されると、道徳が障礙なく世間一般に伝へ得られるだらうと思ふて、私は其主義を以て頻に之を鼓吹して、自己の範囲は勿論世の中へ拡張することを勉めて居ります
以上私は儒教に拠りてのみ説を述べましたが、日本には神道があるから、神の道に遵ふと云ふのが適当であるかも知らぬけれども、私も敬神の念は強く持つて居るが、修身斉家より社会国家に及ぶと云ふことは満足に未だ学び得ぬ。神道よりも少年の時から修養した儒教の方が世の中の推移に応じて、斯る時は斯うして行くと云ふ事も能く解釈し得ると思ひます。故に私は一にこれに依頼して一身を保持して居るのであります。実に世界の広き、変遷の甚しき、向後どう云ふ思想の変化が生ずるかも分らぬから、吾々の微力、世界をして必ず我に随従せしむると云ふことは為し能はずとも、一身若くは自己の狭い範囲に於ては、必ず前陳の主義を確保して、以て君に仕へ、以て父母に事へ、以て夫婦の間を調和し、以て子たるの分を守り、以て朋友に交れば必ず友道を全ふすることが出来る。之を広く天下に布けば必ず忠良なる国民たるを失はないと思ひますから、詰り国家に尽すの最大要務であると確信します。(畢)(一月十日談)