デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
5款 社団法人東京銀行集会所 東京銀行倶楽部
■綱文

第51巻 p.69-72(DK510016k) ページ画像

昭和3年1月25日(1928年)

是日、東京銀行倶楽部新年晩餐会開カル。栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 昭和三年(DK510016k-0001)
第51巻 p.69 ページ画像

渋沢栄一 日記  昭和三年          (渋沢子爵家所蔵)
一月七日 晴 寒威強カラス
午後○中略 銀行通信録担当者江口百太郎氏来リ本年及昨年ニ於ル銀行界ノ状況ニ付テ余ノ批評ヲ乞ハル、依テ其一端ヲ説示ス、要スルニ一般ノ人情殖利ニ付テハ道徳ヲ無視スルノ弊ニ陥ル事ヲ痛切ニ論述ス○下略
  ○中略。
一月二十五日 晴 寒気強カラス
○上略 午後六時銀行集会所ノ晩飧会ニ出席ス、来集二百五十名余、山本・阪谷・井上・木村ノ諸名誉会員来会、一場ノ演説ヲ為ス、他ノ諸氏モ各其所見ヲ陳ヘ頗ル盛況ナリ、夜十時頃帰宅○下略


竜門雑誌 第四七三号・第七九頁昭和三年二月 青淵先生動静大要(DK510016k-0002)
第51巻 p.69 ページ画像

竜門雑誌  第四七三号・第七九頁昭和三年二月
    青淵先生動静大要
      一月中
廿五日 ○上略 東京銀行倶楽部月例晩餐会(同倶楽部)


銀行通信録 第八五巻第五〇五号・第七二頁昭和三年二月 録事 東京銀行倶楽部新年晩餐会(DK510016k-0003)
第51巻 p.69 ページ画像

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銀行通信録 第八五巻第五〇五号・第二三―二五頁昭和三年二月 東京銀行倶楽部新年晩餐会演説(昭和三年一月二十五日東京銀行倶楽部に於て) 銀行家は得意の時に注意す可し 子爵渋沢栄一(DK510016k-0004)
第51巻 p.69-72 ページ画像

銀行通信録  第八五巻第五〇五号・第二三―二五頁昭和三年二月
   ○東京銀行倶楽部新年晩餐会演説
         (昭和三年一月二十五日東京銀行倶楽部に於て)
○上略
    ○銀行家は得意の時に注意す可し
 - 第51巻 p.70 -ページ画像 
                   子爵 渋沢栄一
新年早々例年の晩餐会をお開きになりまして、私も名誉会員たる故を以ちましてお招きを戴いて此席に列なることを得ましたのは、長く生きて居ればこそ斯かる愉快が受けられると思ふて嬉しうございます。
殊に此場所へ参つては、今日他人の位置に居りましても何だか我家に帰つたやうな気がしまして、皆様が我物顔に幅を利かすと、いや己れの方が主人だぞと言ひたいやうな気がして、何だか懐かしい感じを以て此宴会に列し得るのでございます
実はもう老衰しましたから夜分の宴会には出ない様にと医者から言はれて居りますが今夕は特に許して貰うて玆に参上致したと云ふやうな次第でございます。併し何も恩にかけて、皆様に己が来たぞと言つて自慢する訳ではございませぬ。心より嬉しう感ずる所から申した訳で誠に正直な申分でございます。老人は歳月の経過に就て始終感想が動いて参ります。先づ第一に銀行集会所が何う云ふ有様から発達して来たかと云ふことを考へると、今日は斯の如く盛大になられましたけれども、其昔吾々択善会と云ふ名に依つて、十四・五行打寄つて東京で開いたのが銀行寄合の初めでございます。其時の寄合の方では安藤君が若しお出に成つて居たら或は覚えてござるかも知れぬ、もう其外には――まあ佐々木さんが知つて居られるか、其位のもので、二百人、三百人の中で一人、二人しか当時の記憶を持つて居る者は無い。私自身は確に覚えて居ります。能くも斯く順好く進んで参つたものだと、何だか私自身が以前の私であるか、何か変つた私であるかと自ら疑ふ位の有様でございます。併ながら此集会所の成立は今も私が申します通り、我物顔をするのは無理からぬので、丁度只今串田君が己も覚えて居ると仰やつたのですが、此集会所の建築に就ては、当時まだ私も委員の一人であつて多少微力を致しました。其時の有様は、彼の坂本町の集会所が段々手狭になつて困つて居たが、地所まで一緒にしたいと云ふ所から、造ることが段々遅延をして居りました。先の短い私は愚図々々して居ると新集会所で集まることが出来なくなるかも知れぬと云ふやうな、少し先を急ぐ感じから、委員の一人として、寒い時分に出掛けて此場所を指定したと云ふことは、先づ私が第一の骨折だと申しても差支無いのであります。其時自ら顧みて、ハテナ斯うして心配はするけれども、此建築が完成するまで己が生きて居られるか知らぬと云ふことを余程疑ふた程でしたが、生きて居られるどころでは無い。それから後も大分長い間、斯う云ふ会合にも罷り出られたことを考へると、人間と云ふものは考へて見ると、思ひの外長命するものです(笑声)、こんな経過話は何の効能もございませぬが、今委員長は、頻に名誉会員たる吾々に対して、何か申述べる様とお求めでありました。御馳走は其れ程タント無いけれども、御註文は大変に多かつたやうに伺ひました(笑声)。併し之に対しては山本君・井上君などから、相当の御答が有るだらうと思ひますから、私は年甲斐に古い事を申上げますれば、先づ私の責任は済むと思ふのでございますが、甚だ講釈じみたことに成りますけれども、聊か文学と迄は申しませぬが、文学などを書く為に時々熟語を覚えて、それに就て始終翫味致しますが、
 - 第51巻 p.71 -ページ画像 
古人の句に
 成名毎在窮苦日
 敗事多因得意時
と云ふことがあります。又同じ意味で、多分陸放翁の句と思ひますが
 功名常向窮中立
 禍患多従巧処生
と云ふのがあります。どちらも好い時分に気を付けなければいかぬぞ勝つて胄の緒を締めろと云ふ戒めと思ひます。銀行と云ひ事業と云ひ総て此の感は有る。私は之を個人的訓戒とのみ解釈して居りましたが併し社会に於て或は団体に於て其感じが強く有ると云ふことを、私は今日深く思ふのでございます。敢て銀行者諸君が事を敗る因をお造りになつたと申す訳ではございませぬけれども、調子に乗ると云ふことが遂に物の過ちを生ずるに至ることは総ての事に有るのであります。個人に於て有り団体に於て有り、更に進んでは社会に於て有ると斯う解釈して宜くはないかと私は思ふ。或は銀行の総てが多少事を敗るは多く得意の時、即ち得意の時に禍の因を蒔くと考へねばならぬではありますまいか。諄々しく既往を顧み、斯う云ふ場合も有つた、斯う云ふ事も有つたと云ふことを申上げるほど細かに調べても有りませず、又それ程の記憶も持つて居りませぬ。併ながら今申上げました銀行の創立、明治六年頃から此の長い経過に、今申上げました通り多く其窮苦の日に功を奏することは有つた。試みに申すと、明治十四年頃の紙幣下落、甚だ窮苦の有様で有つた時に、此の経済界は何うであつたかそれから更に日露戦争以後などにも、時々に進み支へた有様が殆どドンと落行くやうな有様に変つて参つたと云ふことは、其間に時勢の然らしむる場合も有りませうけれども、其原因は必ず多くは得意の時に造ると云ふことは、一人々々に於ても有るが多数に於ても尚ほ然りで有る。昨年の銀行者の間違などは多少自分自ら造つた、多数皆が造つた或は人を其所へ誘込んだと云ふ迄に、若し外観から評したら言はれぬでも無からう様に想像するのであります。私は今銀行者仲間で無いから、それで物識り顔に申上げると云ふ自分勝手の申分では無い積りでございます。斯く考へると、只今委員長からお求めの如く、実に是から先の注意は最も必要ではないか、是迄に進んで来た此の銀行界をして益々道理正しく進歩、緊縮は緊縮とやつて行かうと云ふには、もう皆様の常に穏かにして且つ緊張せる志を以て、所謂其の窮苦の日に成した名を、得意の時に敗らぬやうにお考へなされたいと云ふことを深く希望するのでございます。但し私は前に申しました通り、それを個人に対する戒めと思ひましたが、個人に対しても然り、多数に対しても同様で有ると云ふことは、近頃の世相に就て深く感ぜられる様でございます。斯かるお芽出たい席に於て、多少の苦言の様には聞えますけれども、自分のさう思つて居ることを斯く直したら宜からうと云ふ様な好い智慧を此処へ提供するほど私は知識を持つて居りませぬ。唯々自ら顧みるだけでも強ち無用の弁でも無からうと思ひまして御懇親の厚い皆様に対して、委員長のお求めの如く一言を呈するのでございます。お正月早々の申分としては少し不祥の辞に当るか知れませぬ
 - 第51巻 p.72 -ページ画像 
が、蓋し是はお親しい間、お互に憚る所なく我思ふ所を申したのであります。況や委員長が其辺に気付があつたら一言話せと云ふお求めが有つたに於てをや。甚だお耳を汚して失礼を致しました(拍手)