デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
4節 保険
1款 東洋生命保険株式会社
■綱文

第51巻 p.236-237(DK510064k) ページ画像

大正4年4月23日(1915年)

是日、浜町常盤屋ニ於テ、当会社主催、第一銀行幹部招待会開カル。栄一出席シテ挨拶ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正四年(DK510064k-0001)
第51巻 p.236 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正四年          (渋沢子爵家所蔵)
四月廿三日 曇
○上略 午後五時浜町常盤屋ニ抵リ、東洋生命保険会社ノ招宴ニ出席ス、夜十時過帰宅ス○下略


(東洋生命保険株式会社)社報 第二八号・第三一頁大正四年四月 第一銀行幹部招待会(DK510064k-0002)
第51巻 p.236-237 ページ画像

(東洋生命保険株式会社)社報  第二八号・第三一頁大正四年四月
    第一銀行幹部招待会
 毎年春季に於ける吾社の定例たる第一銀行幹部諸氏の招待会は、同銀行の支店長会議を機として去る四月二十三日午後五時より日本橋区浜町常盤花屋敷に於て開催せられたり。来会者は左記の諸氏にして頗る盛会を極めたりしが、当日は本会の呼物たる囲碁に本因坊の高弟少年碁客として知られたる小岸氏を招聘しければ、開会前既に数番の興味ある対局あり、又一方喫煙室に於ても諸家の談論風発して一段の景況を添へたり。六時半宴を開き尾高社長の挨拶に次で、渋沢男爵は来賓総代として左記の答辞を演述せられ、大小美妓の斡旋に興倍々深く殊に柳家小さんの落語『貧乏長屋の観桜会』と『凹坊の亀井戸参り』には、主客一同頤を解き時の移るを忘れたり。宴を撤して後更に数番の囲碁対局ありて、十時半和気靄々裡に散会を告げたり。
      尾高社長の挨拶
○中略
      渋沢男爵の答辞
 従来東洋生命保険会社の為めに、多少の御力添を致したるに対し、御鄭重なる御挨拶を頂き甚だ恐縮の至りで御座います、私は寧ろ夫れ程の効能の無かつた事を恐れます。然し乍ら事業は常に先輩が後輩を引立てゝ行くのが社会の習ひでありますから、況して此の如く特別に親密なる間柄に於ては、御力添をする位の事は当然と思ひます。去る明治四十三年でありましたか、尾高氏が東洋生命の責任の衝に立たれるといふので、其御相談を受けましたる当時、左様な保険などゝいふものには御関係なさらぬが宜しからうと御止め申た事もありましたが其後私が米国の漫遊を卒へて帰りました際、銀行の佐々木氏から、尾高氏が保険会社の経営を引受けたること、及び既に斯くなる上は多少の援助は止むを得ないであらうといふ話を聞きました。最初お止め申したのは、畢竟今日の成効あるを想はなかつたが為めでありまして、今更会社の隆盛を慶賀すると共に、第一銀行の力添が其処に幾分効果のありましたのは、銀行としても大に面目を施した訳であります。然し銀行の効能は僅に其一部分で、此健全なる発達の原因は、云ふ迄もなく会社御自身が、自ら省み奮励努力した結果でありますから、今日では銀行の援助などは最早云ふに足りませぬ。或は将来進んで銀行が御力添を乞ふやうになるか知れませぬ、固より第一銀行が東洋生命の
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庇護の下に立たうとの意味ではありませぬが、其発展の著しきに感じて斯く申すのであります。
 只今社長は、社会的縁故に結び付いたといふ事を云はれましたが、私は常に銀行業や保険業の如きものは社会と共に其発達の運命を同ふするものであると信じて居ります。恰度鏡に物が映る如く、社会が大きくなればなる程此事業の発達は大を成し、社会の発達に因つて事業の拡張を見るものでありますから、幸に東洋生命の事業が社会と共鳴するやうに助成せられ、尚ほ今日の成効を以て足れりとせず倍々精励されて更に大に発展せられん事を切望して止まないのであります。