デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
4節 保険
1款 東洋生命保険株式会社
■綱文

第51巻 p.243-246(DK510067k) ページ画像

大正6年10月9日(1917年)

是日栄一、新潟市ニ於ケル、当会社新潟県代理店聯合歓迎会ニ臨ミ、演説ヲナス。


■資料

(東洋生命保険株式会社)社報 第五六号・第二四―二五頁大正六年一〇月 新潟県代理店の主催せる渋沢男爵尾高社長歓迎会(DK510067k-0001)
第51巻 p.243 ページ画像

(東洋生命保険株式会社)社報  第五六号・第二四―二五頁大正六年一〇月
    ○新潟県代理店の主催せる
      渋沢男爵尾高社長歓迎会
 十月七日長岡市六十九銀行新築落成式に参列せらるべき渋沢男爵・尾高社長一行は、其翌日新潟市に赴かれ、更に東北各県下をも巡遊せらるゝことゝなりたるを以て、予てより一行歓迎の計劃ありたる同県下の我社代理店主幹各位は、愈々此好機会を逸すべからずとなし、新潟代理店主幹石山治四郎氏始め、本社外事監督田宮鈆三郎氏等熱心に奔走して、男爵及社長の同意を得其準備に着手したり。斯くて十月六日東京を出発せられたる一行は予定の如く七日六十九銀行の落成式に臨まれ翌日八日を以て新潟市に入られたるが、代理店主催の歓迎会は九日午前十一時より同市行形亭に於て開催せられたり。当日の主賓たる男爵一行並に陪賓及び代理店主幹の諸氏は左記○略ス の如くにて、先づ別席に於て石山新潟代理店主幹は主人側の総代として開会の挨拶を述べ、最も熱誠に男爵一行に対する歓迎の意を披瀝せられ、之に対し尾高社長答辞(左記○略ス)あり、次で渋沢男爵は本誌巻頭に掲げたる演説を試みられ、記念の撮影(本誌巻頭に掲載)を終り、それより宴席に移りたるが、主賓たる一行は勿論同県下知名の士陪賓として一堂に会したることゝて会は近来稀に見る盛況を呈し、余興の舞踊などありて午後二時頃散会せり。


(東洋生命保険株式会社)社報 第五六号・第一―八頁大正六年一〇月 新潟県代理店主催の招待会に於て(文責在記者) 男爵 渋沢栄一(DK510067k-0002)
第51巻 p.243-245 ページ画像

(東洋生命保険株式会社)社報  第五六号・第一―八頁大正六年一〇月
    新潟県代理店主催の招待会に於て
            ――(文責在記者)――
                   男爵 渋沢栄一
 当御県下に於ける東洋生命保険会社の代理店諸君が御申合せ下さいまして、私共の御当地へ罷出ましたのを機会に、此処に御集りになつてお互に事務上の事に付ての御打合があり、又私の旅の情を御犒ひ下さるといふことは誠に望外の幸であります。
 東洋生命保険会社と私とは其縁故が甚だ深ふ御座いますので、株主としては誠に微々たるものでありますけれども、関係としては頗る濃厚なるものがあるのであります。故に一方から申さば、始終会社の諸君の御相談相手になつて居りますので、諸君に御礼こそ申せ斯る御饗応を享けると云ふことは反対のことで恐縮するのであります。既に昨年から此御計画があつたさうでありますが、私共が御当地へ参りますことを見合せました為めに其御計画を中止されてあつたのを、今回の機会に於て御催しになつたといふ唯今御総代の石山さんからの御言葉でありましたが、これは私として最も其御厚意に感謝しなければなら
 - 第51巻 p.244 -ページ画像 
ぬ次第であります。昨年御当地へ参る計画は致しましたけれども丁度病気で御座いまして、其旅行を延期して本年になつたのであります。
 元来私は御承知の通り銀行業者で、明治六年から銀行業に携はりまして、それも昨年辞職を致しましたが、保険の仕事には余り力を入れたことは無かつたのであります。保険事業に関する私の経歴を申しますると、明治十二年に彼の海上保険会社と云ふものに対して聊か微力を尽しました、蓋し金融上には何うしても運輸が完備しなければ、到底完全に金融を裨益することが出来ぬ、運輸を完備するには荷物に対する保険が附いて居ないと、均しく地方々々の荷物に就て金融の便利を与へることが出来ぬ、夫れを必要と認めて頻に海上運送保険のことを論じましたが、まだ其時分は銀行業すら起すに最も困難な時代でありましたから、保険会社を起すにしては更に困難でありました、資本を集めるにしても却々容易に集まらぬので、止むを得ず他の関係、即ち鉄道に縁故を有つて居る華族の二十一人ばかりから資本を無理に出し合つて貰つて、折柄海運業に最も勢力を張つて居た三菱の岩崎氏が力を尽して成立つたのが現今の東京海上保険会社であります、夫も其当時は随分困難に陥つたこともありましたが、今日は頗る盛大なる会社と成りました。それで私は自己の働き以外に銀行の金を運用し得らるゝ事業を可成り沢山に助成しましたが、此の海上保険会社も其一つと云つて宜しからうと思ひます、品物をやつて代価を取るとか、荷物が無事に這入つて来るとかいふのは喜ばしいのみならず、英吉利とか亜米利加とかいふ方面の保険業を日本の人が経営して、其間に保険料を取つて日本の荷物を殖やすといふようなことは、随分喜ぶべきことであるといふので、当局者は喜んで居りました。話が少し枝葉に渉りましたが、海上保険の事業は斯う云ふ風に其初め私も力を入れましたが、爾来其人あつて私共自ら力を注ぎませぬでも今日の如く発展するようになつたのであります。而して生命保険に就ては丁度其頃より少し後に阿部泰蔵と云ふ御方が企てゝ力を竭されましたが、私も保険の必要は認めましたけれども、海上保険は銀行に関係が深いから力を入れましたが、生命保険には微力を其処に致すといふ機会が御座いませんで、爾来何れの会社にも直接の関係を持ちませぬで参りました。所で東洋生命保険会社の起りに就ては大分古い歴史もあるやうでありますが、其沿革の詳細は、此処に社長が御出になつて居りますから私の喋々を要しませぬ。社長尾高氏とは浅からぬ間柄で同氏は第一銀行及び朝鮮の興業会社に力を入れて居られました、丁度明治四十二年と記憶して居ります、其前から此会社に関係を有つて居られたが、私の亜米利加旅行中尾高氏は已むを得ず此会社の為めに大に尽さねばならぬ事情が生じて、其冬私が亜米利加から帰つて参りますると、遂に尾高氏が進んで経営の任に当らねばならぬやうに成つたと云ふことを聞きました。爾来会社の基礎を鞏固にする為め種々と骨を折られて、四十三年七月に於て根本的の改革が出来上つたやうに記憶して居ります。私は其当時尾高氏に向つて、苟くも責任の衝に立つた以上は何処までも尽力しなければならぬと云つて置きました、人は往々にして甚だ無責任に種々なる職業を勤めるといふけれども、無責任ではいけない、
 - 第51巻 p.245 -ページ画像 
成程朝から晩まで其処へは往つて居らずとも、其処に適当な人が居つて仕事をすれば自身に始終仕事をせぬでも仕事が捗取つて行くことが出来ぬと云ふことはない、所謂心を労する人としては物足らぬ感もあらうが、最初の決心と不断の熱誠とを以てすれば、数多く関係して居つても充分責任は尽されるものである、況んや社長に成つたる東洋生命に就ては、如何に職責を尽すか如何に責任を重んずるか、固より成算が無ければならぬ筈だと、多少詰るが如き言葉を以て申した位であります。多少の激励を加へたと云ふ嫌ひはありますが、併し尾高氏は私の言葉に従つて夫れがために東洋生命保険会社は言はゞ一紀元を起し出したといつても宜しいやうに存じます。爾来同氏の奮励に伴ふて段々力を注いで下さる方々が出来て、遂に御当地にまで此の如く力が伸びて参つたのであります。丁度七年間に斯く優秀な代理店諸君が此の一堂に御集りに成つて、斯の盛会をお開きなさるのを見受けることになつたのであります。是れ畢竟私の激励の言葉が尾高氏を奮起せしめ、尾高氏の奮起が各地方に及ぶやうになつたことゝ思ひます。
 保険の事業は最も慎重にしなければならぬことで、世の中の進むに従つて人文の進歩して行くほど、此保険を大切にするといふことは論を待たぬのであります。私共も其初め命を保険すると云ふことは六かしい、医者でも六かしいものを何うするのかと疑つた位であります。併し能く考へて見ると、相当の期限を以て将来其人の安全を計ると云ふことは、見様によつては命を繋ぐと云ふことにもなりますし、之は文明の人の最も好むべきことであります。又欧米先進国に較べますると、日本の保険事業はまだ少し不足を感ずるといつても宜しからうと思ひます。御当地の如きは総ての事物が穏健に進んで行く国柄と思ひますから、必ずや代理店諸君が御尽力下さる余地がまだ沢山に有らうと思ひます。果して然らば東洋生命の契約高五千万円の祝賀会も軈て出来るだらうと、此上もなく嬉しく思ひまするで御座います。私は此祝賀会のことに就て尾高社長に云つたことがあります、二度や三度は遣らうけれども、段々重なると遂には遣らぬことにならうと思ふが、其様なズルイ事をして貰つては宜しくないと云ふ約束をして置きましした。今後度々御祝をして下さるのには、此処にお集りの諸君の如き各地方の特別なる後援者のお骨折に俟たなければなりませぬから、此事も併せて此の席上に於てお願ひ申上げて置きます。前に申上ました通り、私が参つた為めに此席を御設け下すつたことは私は望外の喜びであり、尚ほ会社に対する私の喜びは右様の次第でありますので、此席上に於てその次第を披瀝した訳であります。


竜門雑誌 第三五四号・第七〇―八四頁大正六年一一月 ○青淵先生北越及奥羽旅行(上) 随行員 白石喜太郎記(DK510067k-0003)
第51巻 p.245-246 ページ画像

竜門雑誌  第三五四号・第七〇―八四頁大正六年一一月
    ○青淵先生北越及奥羽旅行(上)
                随行員 白石喜太郎記
○上略
      日程
○中略
十月九日 正午新潟県下に於ける東洋生命保険会社代理店聯合歓迎会
 - 第51巻 p.246 -ページ画像 
に列せられ、午後三時半物産陳列場に赴かれ、商業学校其他の学生のために講演せられ、午後六時より官民合同の歓迎会に列せられ、更に鍵富氏の招宴に列せらる。
○中略
      四 新潟
○中略 十一時半○一〇月九日午前令夫人御同伴にて旅館を立出でられ、行形亭に開かれたる東洋生命保険会社新潟県下代理店聯合の招待会に赴かる。先づ別席に於て一同着座、石山治四郎氏主人側を代表して開会の挨拶を述べ最熱心に歓迎の意を披瀝せられ、次で尾高次郎氏東洋生命保険会社社長として挨拶せられ、最後に青淵先生起つて東洋生命保険会社との関係を縷述せられ、当初の状況より進みて一千万円の祝賀会の事に及び、将来一千万円宛にては面倒なれば二千万円、三千万円宛としたしなどいはれ、御馳走を省略することなく必ず其度毎に御馳走に預りたしと戯言したることありしが、何卒度々千万円の祝をせられたくそれにつけても御尽力に俟つこと多大なりとて諸氏の同情並に努力を希望せられたり。かくて庭前に於て紀念の撮影あり、更に席を変へて宴に移り、石山氏の挨拶及先生の謝辞あり、酒中芸妓の手踊等の余興ありて午後二時過散会したるが、先生には之より学生に対して講演せらるゝ為め、物産陳列場に赴かれたり。○下略