デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
4節 保険
1款 東洋生命保険株式会社
■綱文

第51巻 p.256-276(DK510071k) ページ画像

大正9年10月4日(1920年)

是日、芝増上寺ニ於テ、故当会社社長尾高次郎ノ追善法会営マル。栄一出席シテ来会者ニ謝詞ヲ述ブ。翌五日、帝国劇場ニ於テ、当会社組織更革十週年記念祝賀会開カル。栄一出席シテ演説ヲナス。次イデ六日、飛鳥山邸ニ於テ、栄一ニ対スル当会社ノ謝恩式及ビ園遊会開カル。栄一臨席シテ訓話ヲナス。


■資料

(東洋生命保険株式会社)社報 第八二号・第四三―五〇頁大正九年一二月 組織更革満拾週年祝賀会記事(DK510071k-0001)
第51巻 p.256-260 ページ画像

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竜門雑誌 第三八九号・第六六頁大正九年一〇月 故尾高社長亡被保険者追善大法会(DK510071k-0002)
第51巻 p.260 ページ画像

竜門雑誌  第三八九号・第六六頁大正九年一〇月
 故尾高社長亡被保険者追善大法会 東洋生命保険株式会社に於ては故尾高社長の宿願たる十年一期保険契約高一億万円突破の遺策は、期日に先だちて愈々成功したるを以て其の英霊を慰むると同時に、同社創業以来の亡被保険者六千有余人の追善供養の為め、十月四日を卜し芝増上寺に於て荘厳なる追善大法会を営みたり。午前十時喚鐘響き渡るや、大導師堀尾大僧正衆僧を牽ゐて昇殿あり、厳かに法会を営まれたる後、同社常務取締役福島宜三氏の弔詞、青淵先生の挨拶(本誌演説欄参照)あり、遺族及親族一同の焼香、堀尾大僧正の回顧十念ありて故尾高次郎氏の法会を終り、次いて亡被保険者の法会に移り、全く式を終りたるは正午にて、夫より亡被保険者の遺族一同南北霊廟を参拝して、午後三時退散したりといふ


(東洋生命保険株式会社)社報 第八二号・第五三―五四頁大正九年一二月 祝賀会(DK510071k-0003)
第51巻 p.260-261 ページ画像

(東洋生命保険株式会社)社報  第八二号・第五三―五四頁大正九年一二月
    祝賀会
 十月五日、当会社組織更革満拾週年記念祝賀会は、午後二時より帝国劇場に於て開かる。此日、帝国劇場全部の座席を買ひ切り、他の観客を交へず全部当会社祝賀会の為めに使用せり。
 予て請待せる来賓各位、及び社業後援者・尽力者・株主・代理店・社員の諸氏、午後一時頃より陸続来会せられ、受付にて胸飾徽章・プログラム、及び今回特に作製せる社業発展の状況を統計図表となせし小冊子「回顧拾週年」、番組等を贈呈すれば、各位案内につれて設けの席に着かる。二時、開会を報ずる鐘の響きに、満場寂として金屏風たてめぐらせる舞台の、几を置き花を飾りたるあたりを注視すれば、福島常務取締役徐ろに進み出でて一揖し、当会社今日の隆盛を得たる沿革を述べ将来の抱負を告げて降壇するや、渋沢子爵は急霰の如き拍手に迎へられて登壇、当会社との縁由を語りて、今後尚ほ監督すべく文鎮の例を引きて満場を首肯せしめられたり。子爵の演説了れば、一斉拍手して更に田中農商務次官を迎ふ、次官また鄭重なる祝辞を述べ
 - 第51巻 p.261 -ページ画像 
られ、平素抱懐せらるゝ所の保険事業に対する注意と希望とを披瀝されたり。
演説は皆本誌巻頭に掲載せり。
 午後三時稍過ぐる頃、式を了りて少憩の後、当日の余興たる観劇にうつる。劇は梅幸・幸四郎・松助・宗之助・勘弥等の幹部をはじめ専属俳優総出にて、所謂我が国固有芸術の美を、新らしき構想によりて演ずるところ、先づ第一番目「千姫」は徳川秀忠の息女にして政略の犠牲となり、豊臣秀頼に嫁したれども、秀頼の滅ぶるとき心ならずも助けられて江戸に帰りし後に於ける怏悩煩悶を写せしもの、第二「大森彦七」は有名なる福地桜痴居士の脚色にて、楠正成の遺子千早姫が賤の女に身をやつし、大森彦七の他行を覘つて、父の怨を散ずると共に、彦七が守護する、正成が先帝後醍醐天皇より賜はれる宝剣を奪はんとし、たまたま機会を得て鬼女の姿となり彦七を刺さんとせしも事成らざりしが、彦七其志を憐れみて宝剣を与ふと云ふ、英雄の襟度を示せる勇壮なる狂言なり。第三は「地獄」とて、妄想痴呆の変態心理を悲劇として新作せしもの、大切は「三人石橋」とて美しく賑はしき踊なり。
 千姫二幕目の了りしとき、中央亭・花月・東洋軒の各食堂を開き、来賓各位に晩餐を供し、同三幕目の後社員並に社員家族に饗応し、九百余人の来会諸氏に対し幸ひに欠礼なきを得、歓を尽して散会したるは午後十一時に近かりき。
 此日重なる来賓左の如し(次第を立てず)
 渋沢子爵・同令夫人・岡部子爵・同令夫人・大倉男爵・故尾高社長御家族。
 田中農商務次官・岡本農務局長・鶴見商務局長・天岡貯金局長兼簡易保険課長・伊藤保険課長・東京府会議長花井源兵衛氏・市会議長加藤正義氏・日本橋区長新居友三郎氏・星野錫氏・大川平三郎氏・田中栄八郎氏・渋沢篤二氏・渋沢武之助氏・渋沢正雄氏・渋沢秀雄氏・佐々木勇之助氏・増田明六氏・神田鐳蔵氏・織田雄次氏・伊藤紀兵衛氏・植村澄三郎氏・上原豊吉氏・松尾寛三氏・高野金重氏・朝山義六氏・広瀬清兵衛氏・岩崎清七氏・白石甚兵衛氏・粟津清亮氏・福原有信氏・石井健吾氏・明石照男氏・岡実氏・杉田富氏・土岐僙氏・山口荘吉氏・佐々木慎思郎氏・繁田武平氏・塩川幸太氏・西沢喜太郎氏・永井嘉六郎氏・正木清一郎氏


(東洋生命保険株式会社)社報 第八二号・第一〇―一八頁大正九年一二月 渋沢子爵の御演説(十月五日祝賀会に於て)(DK510071k-0004)
第51巻 p.261-263 ページ画像

(東洋生命保険株式会社)社報  第八二号・第一〇―一八頁大正九年一二月
    渋沢子爵の御演説
                (十月五日祝賀会に於て)
 閣下、淑女、諸君。只今常務取締役の福島君から、会社の由来を詳しく述べられ、且つ前社長たりし尾高次郎の功労を、少し手前褒めのやうな嫌がありまして、外部の御方に対しては、或は会社としても、殊に私共親戚としては些と溢美に陥りはせぬかと思ふのでございますけれども、併し其事実に於ては漏れなかつたと思ふのでございます。私は其の尾高と別して関係の深い身であつて、こんな御席に自己の身
 - 第51巻 p.262 -ページ画像 
の上を申上げ、尾高との関係を述ぶるは少し無用の弁でございますけれども、尾高次郎の父は藍香――尾高惇忠と申しまして、私の兄に当り、且つ師匠であつて、故郷を同じうし、先輩として種々なる指導誘掖を受け、青年の頃には共に国事に尽さうなどゝ相誓うた事もある位の間柄であります。物変り星移つて明治聖代になつてからは、互に関係する方面を異にしましたが、其次子次郎は別家の方の相続を致しまして、且つ少年から私の所で成長しましたから、殆ど我子も同様の感じを有つて居ります。況や続いて私の娘と縁合になりましたから、即ち聟たる関係よりして、至つて其間が深いのでございます。私は御承知の通り従来銀行業者であつて、保険の仕事には何等の経験も有つて居りませぬ、尾高自身も矢張私に随従して実業界に馳駢しましたから当初は保険に経験ある人では無かつたのでございます。丁度明治四十二年私が亜米利加旅行の際に、只今福島常務の述べられた如く、東洋生命保険会社の殆ど衰頽に属して、或は会社を解散せねばならぬかと云ふ悲境に陥つた頃、朝鮮に関係のある縁故から尾高が之に参加することになつた趣でございます。但し其頃私は海外に旅行をして居りましたから、其議には参与しなかつたのでございます。四十二年の冬に帰つて参りますると其事を承つて、銀行事業は私も経験あり、又足下も銀行のことには永年経験を有つて居るが、保険事業には何等経験がない。似た形ではあるが保険は中々困難である。斯様な衰頽した会社に這入つて、若し建て直すことが出来なかつたならば、株主諸君に対しても迷惑を掛け、社会に対しても或は大なる不都合を生じまいとも限らぬ。是は宜しく我身を省みて寧ろ御免を蒙つたが宜からうとまで忠告をしました。併し其時の境遇が業に既に尾高がどうしても御免を蒙ると云ふことが言へぬ有様になつて居る。若し之を断つたならば、或は恐る、遂に会社が廃滅に帰しはしないか。小い事ではあるけれども、東洋生命保険会社の当時の境遇は、尾高の進退に依つて死生存亡が決すると云ふやうな有様だつたさうでございます。右等の事情を以て、どうも今更引くに引かれぬ有様であると云ふことから、私も審に之を承つて、然らば専心にやり上げて、どうか隆興を図るやうにお努めなさいませ、是も亦男子の務めであらう、私は経験もなし力も細し大に助けると云ふことは出来ぬけれども、右やうな次第に陥つて居る訳なら、応分の幇助は致しませうと云ふたのが、丁度其時の話でございます。只今福島君の言はれる如く、十年の歳月は、一方から云へば長くもあり、一方から云へば甚だ短くもあるが、併し其間の苦心経営が、遂に三百万円からして一億円に保険額を進めたと云ふことは決して是は尾高の働きよりは、私は今御演説になつた福島君或は其他の多数のお人々の実に刻苦勤勉が此場合に至らしめたものと思ふのでございます。併し幸ひにして尾高が之を統轄する位置に立つて、十年の計画を立てて、諸君と共に働いたと云ふことに就ては、其目標には尾高が立つたので、或は追懐し称讚するの価値があるかも知れませぬ。私に於ては唯尾高の其場合に於て、どうしても退くに退かれないと云ふなら、微力ながらも幾らかの注意を致さうと申したに過ぎませぬ。其以外に此会社の経営に対して何等御助け申した事はないのであります
 - 第51巻 p.263 -ページ画像 
今日と雖も既に然り、況や将来吾々が大に御助けするなどゝ云ふことは及びも付かぬ事であります。唯聊か世故に慣れて居る上から、それは過度ではないか、それは少し注意を要すると云ふことだけは、或は今日でも申し得られるかも知れぬのでございます。私の今日の境遇は丁度彼の文房具の一つに文鎮と云ふものがある、是ぐらゐ役に立たぬ邪魔の物はございませぬけれども、若し紙や書冊が風の為めに吹き飛ばされると云ふやうなときには、文鎮決して無用の物ではないのであります。併し他の事物に対してもでございますが、東洋生命保険会社に対しては、或は文鎮の用も満足には尽し得られますまいけれども、僅に其点に於て多少の裨補を致す積りでございます。今日の此御席に於ては、会社側に対しては尾高の親戚として厚く御礼を申上げねばなりませぬし、又会社から御案内申上げました満場の諸君に対しましては、当会社が諸君の御同情御引立に依つて今日になりましたと思ひますると、実に満腔の熱誠を以て謝意を表さなければならぬのでございます。之を以て謝辞と致します。


(東洋生命保険株式会社)社報 第八二号・第五五―六三頁大正九年一二月 園遊会(DK510071k-0005)
第51巻 p.263-267 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
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竜門雑誌 第三九〇号・第一一―二二頁大正九年一一月 ○青淵先生の訓話(大正九年十月六日曖依村荘に於ける東洋生命保険株式会社謝恩会に於て)(DK510071k-0006)
第51巻 p.267-275 ページ画像

竜門雑誌  第三九〇号・第一一―二二頁大正九年一一月
    ○青淵先生の訓話
               (大正九年十月六日曖依村荘に於ける東洋生命保険株式会社謝恩会に於て)
 編者曰く。本篇は青淵先生が経歴の一端を詳述し以て実例を挙示して訓戒とせられたるものにして、言々句々肺腑に徹するものあり。是れ真に処世処事の鑑と為すべきなり。
△感謝の辞 此席から一言御礼を申上げます。今日は東洋生命保険会社の重役諸君、且つ総ての職員、又各地方から会社代理店の方々が御参集になつて、玆に御会同あらしつて、只今福島専務取締役よりして私に対して甚だ恐縮なる御礼のお言葉を頂戴致しました。続いて又代理店の御総代として只今御朗読になりました文章は、此れ以て甚だ私には其全部のお引受を難んずるやうに感ずるので御座います。斯る御催し、皆様のお集りに於て自己が其能があるとか或は其効果があると
 - 第51巻 p.268 -ページ画像 
かは兎も角として、恭く御厚遇を感謝する外は御座いませぬ。
△維新当時の我境遇 昨日祝賀会の会場に於きまして、事短かに愚見を陳上しました。多数のお集りの方々が丁寧に其趣意をお聴き下さらないでも、其大要だけは御了承があつたらうと思ひますが、私は明治六年に銀行者になりましたのも、決して銀行を知つて居つて、銀行事務が己れには出来ると云ふやうな抱負を以て、其職に就いたのではないです。斯う申すと自ら欺いたと或は御非難があるかも知れませぬが私の其当時の観念は、ドウモ此日本の現在が斯様に政治熱にのみ行走つて実業の発展を余所にしては、所謂理窟倒れの国になつて、人気は益々議論に傾き富は段々減ずるとも増すことはない。遂に理窟沢山の力の乏しい国情に行走りはせぬか。己れ自身の家を出ました其頃までの境遇は、矢張り其弊害の最も多い方面を歩いて居つた人間であるが是れは大に過てり、況や己れ自身が徳川を倒さなければいかぬ、階級制度を覆さなければいかぬ、今で言へば民権伸張とか、デモクラシーとか云ふ主義を以て世に出掛けた身が、不幸にして変化して徳川の家来になつて、遂に維新の政変に遭遇したので、政治界から見れば、私は真に失敗した人間であつて、自ら考へると殆ど面目を失墜したので御座います。併し国を憂ふるとか、社会を思ふとか云ふ念は、仮令失敗しても少しも変りはないので、是から先きにどう云ふ事で世に尽し得るかと云ふことは、仏蘭西に居ります時分に幕府が倒れた、王政が復したと云ふことを聞くと同時に深く心に観念したので御座います。但し海外旅行からして、自分等の是迄の無謀に唯客気を以て世の中の事が為し得られると思ふたのは、自ら過てりと云ふ多少の悔悟心は持つて居りました、又それと同時に吾々が其頃頻に攘夷の議論を以て、欧羅巴の功利説に始終反対して居つたのも、或る点に於ては決して滅却する訳には行かぬけれども、併し是から世界に国を成して行かうと云ふには、左様に唯義気とか勇敢とか云ふばかりで、物質の働きを持たずに、国民の進歩を図る訳にはいかぬと云ふことは聊か心付いた際に、今申上げましたる御国の大政変に遇ふたのでありますから、未だ其頃私は三十にならぬ壮年ではありましたけれども、是から心を入れ替へて生れ代つた人間にならねばならぬと云ふ感念を起したのは、無理ならぬとお察し下さるだらうと思ふのであります。実は丁度仏蘭西に行く前に、慶喜公が将軍になられた時に、元の浪人になつて死なうかと真に思ふたのです。けれども再び考へて見ると、さうして見た所が、何等国家に貢献する所はない。死ぬは易いけれども唯一死、申さば藤村操が華厳から落ちたと同じやうな有様になる。其志は憐むべきも、其事柄は笑ふべし、詰らぬと思ふ際に、丁度幸にも民部公子に随従して海外旅行を申付けられたのは
△天未だ吾を棄てず と云ふやうな感じを持つて喜んだので御座います。其旅行中に今申しましたやうな、御国の政変でありますから、玆に左様な感念を惹起すのは、私の当時の境遇としては無理ならぬ事と諸君も御察し下さる事と思ひます。此に於て何も知らぬ身が欧羅巴の物質的進歩に近寄つて見たいと云ふ感想を起しまして、譬へば株式組織の方法とか、公債証書の発行法とか、或は財政と経済の区別はどん
 - 第51巻 p.269 -ページ画像 
なものであるとか云ふやうな事を、言葉も通ぜず書物も読めずだが、併し幾らか知りたいと思ふ為めに、英吉利と仏蘭西との所謂聴噛りの観察を致しました。其観察中に、私が特に深く己れを裨益したと思ふたのが、社会の交際の有様です。私共が日本に居つたズツト以前には百姓で、岡部の陣屋の役人には土下座をせねば話が出来ぬと云ふ境遇であつた。相手の人はドウ云ふ人かと云ふと、悪く申せば眼に一丁字もない、何の知識も能力もない人に、仮令少年なりと雖も聊か学問もあり、事理も弁ずると思ふ者が、行つて論ずる事も出来なければ意見も述べられぬと云ふやうな、所謂階級制度に蔽はれて居つたのです。其後一橋の家来になつて所謂役人の境遇から、大阪若くは播州、一橋領分の、丁度反対に商売人若くは農業家に接触しますと、一般の風習が自分ながら可笑しくて堪らぬ。私が知らぬ事でも御役人様の仰せ御尤。何か聴かうとすると中々向ふは話す所ではない、仰せ御尤と言うて、何も話しては呉れぬ。成程此姿では日本の知識の進歩のしやうがないと思ふた。二つの境遇に居つたから、是れは能く解かる訳です。其昔し
△圧迫を受けたる自身が今は役人 役人と云つてもヘボ役人でありましたけれども、兎に角接触して見ると其実情が能く判る。此姿で知識が少しも進まなかつたのだと云ふことが能く解つて来ると同時に全く此二つの階級は殆ど氷炭相容れぬ有様であると云ふ事も解つて来た。然るに仏蘭西・英吉利の有様を見ますると之れが全く異なつて居る。其知識、其経験、其学問、さう云ふ事の一番優れた者が一番先に立つ、人には係らない。道理が物を支配すると云つても宜い位。無秩序ではないけれども併し先づ一番良い者が先を制すると云ふことを主義として居る。人の階級・職分の如何等は殆ど措いて問はない。私はさう云ふ国柄の仏蘭西に居つて民部公子に学問をおさせ申したり、其他色々のお話をしたのでありますが、其当時奈破翁三世から伝役として附けて呉れた人があります。此人は相当の名誉ある軍人でありますが、私は其人と公子に関する俗事の引合をする、例へば旅行をする時に金をどうするとか、為替を組むとか、国へ手紙を出すとか云ふやうな日常の世話をする、どちらかと云へば商売人側の人に接触して様子を見ると、私が日本に居つた時の有様から考へると、全く反対である。そこで私は不思議に感じて、成程日本のやうに士農工商と区別を附けて、知識があらうが無からうが、唯其階級制度で圧迫すると云ふやうな事では、日本の事物は迚も進歩せぬと云ふことを真に深く感じました。それで
△物質的進歩を図るが我が天職 であると感じて、日本へ帰つても最早や政治界には顔を出すべからず、嗚呼我れ過てり、幸に生命が続いたならば、力こそなけれ、階級制度の変更と、物質的進歩を図る方面に於て、欧羅巴式に一つ日本の事物の進歩を進める途がありはせぬかと云ふ事を深く感念して国へ帰つて来たのであります。併し日本に帰つて来ますと、見るもの聞くもの殆ど意外で、我心は定つて居つても其刺戟を受けることが甚だ強かつた。斯様な事は今玆にお話しても何の益もない事でありますけれども、其感覚の強かつた一例として、私
 - 第51巻 p.270 -ページ画像 
は慶喜公には洵に主人としてのみならず日本の当代の名君主と仰いで奉仕した御人である。而して一橋の養子となられたが、其父は水戸の烈公であつて、此御人は愛国の御人であつて朝廷を重んじ、外国の事情抔も早くから知つて、未だ煙の挙らぬ前に警鐘を打つた人である。其人の御子で、且つ多数の御子様の中で特に優れた御人である。一橋を相続されてさうして幕府の末路に、ドウしても幕府を維持するには此人ならではと云ふので、守衛総督として京都に御座つたのを、十四代将軍の家茂公が死なれたに就て、余儀なく十五代将軍に座られた。兎に角幕府の末路であツても将軍であるから、私の仏蘭西に立つ時分の有様と云ふものは警蹕の声、舎前に満つると云ふやうな有様で、仮令衰へても幕府の御威光と云ふものは中々えらいものだと私共すら迷ふた位の事で、夫れが纔に前年の事です。翌年の冬帰つて駿河へ行つて御様子を見ると、宝台院と云ふ貧寺の極く狭い一室に蟄居して御座つて、私の御目に懸つた時は行灯の火、行灯の火です。左様に私は親しくする程の身柄ではなかツたけれども、海外旅行から帰つたのみならず、民部大夫と云ふ御人の御世話、初めは御伝役であツたけれども段々事変り、人転じて、遂に私が御帰りの時には万事御世話をしたものだから、夫等の事柄も尋ねたいと云ふ思召もあツたでありませう。位置は低かツたけれども、先づ身親しい者と思召されて、兎に角参つたら会はうと仰有る、私も是非拝謁をしたいと思つて、其お寺でお目に懸つたのが、今申す小さい一室、而かも畳が破れて居る薄暗い行灯の火でお目に懸つた。其時には私は真に泣きました、世の中と云ふものは斯うも変るものかと思つて、呆然自失せざるを得なかツた。其筈です。
△昨の将軍今は囚人同様 立つ時は将軍様、帰る時は見る影もない囚人同様の御有様。敢て夫れが為めに気も狂ひませぬけれども、真に暗涙に咽びました。夫れから余りの事に少し為され方が間違つたではないかと云ふ事を、心ならずも一寸一・二発言をしたのです。所が慶喜公は笑つて答へぬのみならず、夫れは今日の話ではないだらう、私がお前に遇ふたのは民部の行動を聴きたいが為めだ、民部が留学中の話なら聴かうが、さう云ふ話なら今日は言はぬが宜いだらう。斯う言はれて私は翻然と悟つて成程私が悪かつた、もう斯う云ふ境遇に安んじて御座るのだ、覚悟して御座るのだ、夫れに向つて愚痴などを言ふのは私の智恵が足らなかつた、斯う思つて其話を打切つて、民部公子の一年有半の御行動に就て、又御帰国後の手続、水戸へお供はせなんだけれども、斯う云ふ都合になつて居ると云ふ事抔をお話して、其席は下りましたが、其時の感じなどは今お話しても洵に無用の事でありますけれども、世の中と云ふものは斯くも変るものかと云ふ深い感じを持つたのであります。同時に今申す物質的に幾らか力を添へたいと思つて居る折柄、丁度静岡藩で勘定組頭を言付かツた、今で言ふと大蔵次官とでも云ひませうか、勘定奉行に副うて勘定方を支配すべき職分であります。併し私は夫れは受けられぬ、強ひて御免を蒙つて
△商法会所の設立 商法会所と云ふものを拵へた。即ち駿河で或る事業を企てかけたのであります。夫れは玆に申上げる物質の進歩を図つ
 - 第51巻 p.271 -ページ画像 
て見たい。而かも合本法に依つてやつて見たいと云ふ計画であつた、夫れが二月に出来ました。所が十一月に政府へ召出される事になつた丁度其時に駿河の政治を執つて居たのが大久保一翁と云ふ人で、どうか藩の方から断つて戴きたいと申しましたら、一翁曰く、どうも今の静岡藩は朝廷の事に就て彼此れ言ふと疑惑を受けて困る。そんな事を言ふと静岡藩が朝旨に悖ると云ふやうな誤解を受ける虞があるから、自身で断るなら格別、藩から断ることは出来ないと言はれたので、私は自身に出て参りました。今も能く覚えて居ります。其時分大隈侯爵が大蔵省の全権であつたものですから、大隈さんの処へ行つてお話をしましたら、大隈さんからひどく反駁されて、其れは一を知つて二を知らぬのだ、実業界に力を伸ばさうと云ふ考へは決して悪いとは思はぬけれども、今君が直ぐ実業界へ這入る云つて見た所で、実際出来るものではない、第一財政を良くしなければどうしても経済は進まぬではないか、是れは分り切つた話、それで今財政を立てやうと思つて居る所だ、君は財政の事は知らぬと云ふけれども、君も知らなければ我輩も知らぬ、お互に財政を如何にするかと云ふことは知らぬけれども併しお互ひ有志として多少の常識を有つて居るから、仮令ひ知らぬ事でも遣つて出来ぬことはあるまい、今日は所謂
△高天原に八百万の神達の神集ひ に集つて万事を改革する時だ、君も其一柱となつて働いて呉れと云ふのだと大に説破されて、遂に其忠告に随ひまして、それから丁度明治二年から六年まで、私は役人をして、玆に始めて国立銀行条例と云ふものが、明治四年から五年にかけて伊藤公爵が亜米利加から調べて来たものに拠つて、日本も此仕組でやつたら宜からうと云ふことを私は切に感じまして、今日は変りましたけれども、明治五年の十一月に発布された国立銀行条例と云ふものがあります。この銀行条例は亜米利加の千八百六十年の兌換法、即ちナシヨナルバンクシステムを取つて日本に応用したものであります。それで先づ私は唯一の自分の仕事――自分の仕事と云つても、自己の為めと云ふではなくて、之れを以て日本の実業界の一の基礎としたいと斯う深く祈念したものであります。そこで既にさう覚悟した以上は唯学者的・役人流儀では駄目だ、自身が飛込んで之れに没頭する事なくてはイケヌと斯う考へましたから、直に官を辞して其の方に向ひましたのが、第一銀行の頭取になつた所以であります。併し其時分資本を集めると云ふことは、中々今日の皆様のお考のやうなものではありませぬ。今日とはまるで世の中が違つて居りました。第一銀行の資本金は漸く二百五十万円であつて、其内百万円づゝ三井と小野が出して他の五十万円を方々に頼んで、私は金がないから一万かそこらの株主でありましたらう、それもはつきり覚えて居らぬ位ですから、彼方に頼み此方に頼み、甚だしきはソンナ事を申しては如何でありますが、蜂須賀さんが十五万円持たされたが、其翌年になつて厭だから売りたいと云つて、其株を引受けた為めに私は大に得をした、其反対に蜂須賀さんは損をした事もある。夫れ位の時代ですから此株式会社の組織と云ふものは、如何に困難であつたかと云ふことは迚も貴所方が想像しても想像し能はぬ。けれども三井と小野が力を入れて百万円づゝ持
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つた為めに、又政府が大に之を助けると云ふ方法を講じて呉れた為めに、玆に第一銀行と云ふものが成立しましたが、実は禅僧の物知らずで、殆ど
△寄集りの梁山伯 であつたものですから、此銀行が果して旨く成立つかと云ふことは、人が疑つたと云ふ許りでなく、首脳に居る私すら多少の疑ひを起さざるを得ぬ位、実に憐れ儚ない有様であつた。此処へ預金を為す人は若し此事が分つて居つたならば、或は真平御免々々であつたであらうか、マサカさうでもなからうと云つて、段々に力を入れて呉れた人もあつたです。夫れから直ぐさま玆に生じて来た困難と云ふのが、明治六年に銀行を創立して間もなく七年の十一月に、小野が破産と云ふ悲況に陥つた。是れは中々の困難でした、何にせ百万円の株主である、のみならず三井や小野に拠らねば第一銀行の事業を進めて行く訳に行かぬから、自然多額の融通をする、其中に小野が余り手を伸ばして競争をする為めに三井と確執を生ずる、紛議を醸す、色々の面倒がありましたが、遂に小野が余り遣り過ぎた為めに、七年の秋から冬の移り変りに到つて蹉跌を惹起し、玆にどうしても整理方法を講じなければならぬと云ふやうな事態に立到つたのであります。小野が倒れゝば殆ど同時に銀行も倒れなければならぬと云ふ境遇に立到りました。僅に六年の七月廿日に開業免状を得て八月一日に開業した銀行が、一年半経つか経たぬ中にさう云ふ有様に出会したのですから、未だ植ゑた木が根付きもしなければ、新芽も吹かぬ中に大風に遭つたと云ふ傾きがあります。福島さんが今農夫の力ではない、日の力が強かつたと云ふお話がありましたが、日の力にも農夫の力にも、力の施しやうがない、さう云ふ動揺を来たしたのでありますから、殆どどうしやうかと途方に暮れた。今の慶喜公に御目に懸つた時の感想は一時的の感想でありましたが、今お話の事はドウしたら宜からうかと殆ど途方に暮れて了つた。けれども根が自分の力で金を儲けやうと云ふ考へではなかつた、唯日本の為に斯うしなければならぬと思う一念のみであつたから、私の行動に於ては何等蟠りもなし、銀行の金を百円借りた訳もなければ費ひ込んだ訳でもない、只道理に依つて経営し筋道に従つて働き来つたのであるから、仮令
△倒れても天に恥ぢず人を咎めず 斯う云ふ覚悟でありましたけれども、さて倒れて了へば、自分丈けは夫れで宜くても世間が承知して呉れぬ、世間も構はぬか知らぬが、折角の目的を達せぬ訳になる、そこでどうしても決心をしなければならぬ、整理もしなければならぬと思つて、此破産に就ての苦心と云ふものは中々名状すべからざるものでありました。今も尚ほ能く記憶して居ります。田所町の小野の本店、瀬戸物町の古河、此二つで以て殆ど二百万円の貸金でした、今なら何千万円と云ふ金です、併し整理の結果は結局一万四千円許りの損勘定になりましたが、先づ夫れ位で終局を告げたのは聊か注意の宜かつた為めと思ふので御座います、併し其憂が一つ免がれたかと思ふと、玆に又一の憂慮を生じた。夫れは何かと申すと、其時の銀行制度は発行紙幣は金貨で引替へる事に定められてあつた。其金貨と云ふものは大抵世間の相場が一定して居つて、左様に変動あるものでないと思つた
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のが、実に愚の話で、蓋し皆様に於てもそんな馬鹿で能く銀行の経営が出来たものだと仰有るに違ひない。実際馬鹿であつたが、それは私ばかりではない、伊藤さんもそれで出来るものと思つて亜米利加の制度を移して来た、井上さんも賛成した。所が銀行紙幣は金貨兌換券で其時分の金銀の価が始終高低があつて、銀が下ると金が上り、金が下ると銀が上る、其変動のある毎に金がズンズン出て行く、紙幣の信用如何に拘らず、他の物質の変動に依つてドシドシ金を引出される。夫れが為めに銀行は高い金を買つて之を補充しなければならぬと云ふ苦境に陥つた。そんな事があらうとは夢にも知らず、出来るものと思つて、申さば自己の経験の無い事を遣りかけて始めて解つたのです。扨てさうすると迂濶に銀行紙幣を出す事が出来ぬから、其初め独占を得たやうな紙幣発行権と云ふものは何にもならなくなつて了つた。要するに政府へ通貨を提供して六分利附の公債証書を貰つて、其公債証書を抵当にして更に紙幣を発行すると云ふ、二段の働きの出来ると云ふことが国立銀行の楽みであつたけれども、其二段の働きが止んで了つては、詰り利息の安い公債証書を買つた丈け損になつて了ふ訳である斯う云ふ不幸を生じた。是れは小野組の破綻の時ほど急激の変化ではなかつたけれども、併し今後如何に経営して宜いかと云ふ一大困難に遭遇したので、此時も大いに苦みました。けれどもどうも拠ろない、是れは今申さば制度が悪い、其時の政治家なり、経済家なりが皆過つたのだ、是れは何とか方法を考へて貰ふ外はない、国立銀行の制度を改正して呉れろと云ふことを頻に請求しまして
△紙幣を以て紙幣を替ふる新兌換法 遂に国立銀行紙幣は太政官の紙幣を以て引替へる。悪く言へば人を馬鹿にした話で、今日であつたらそんな不法の事を誰も承知する人はありますまいけれども、其当時に於ては夫れを咎める者すらなかつた。未だ日本の文明が余程低かつたと謂はなければならぬ。紙幣を引替ふるに又不換紙幣を以てする抔と云ふは、殆ど朝三暮四と謂ふよりはもつと人を馬鹿にした話であります。夫れは明治九年の事ですが、さう云ふ一の変則の行政処分に依つて此難関を切抜けた。之れが第二の困難を救ふた方法であります。其他其時分の仕組は三井と小野と島田と云ふ此三軒が先づ其時の日本に於ける富豪であつて、之が政府の出納方を掌つて居つた。丁度今の日本銀行の仕組で、其仕事を第一銀行が引受けたのは明治八年であつたと思ふ。所が俄に大蔵省が之を整理して行かねばならぬと云ふので、それを一時に政府に引上げて了ふことになつた、此等は先づ道理から言へば当然で、銀行は苦情を言へぬ訳であるけれども、今迄取扱はして居たものを俄に処置すると云ふは政府も亦甚だ無理と謂はねばならぬ。而して其無理が銀行の経営上に大に障害を来して又大に苦んだ。為めに時の大蔵大臣と大変議論も致し、亦陳情書抔を出した事もあります。夫れから其後明治十五年に日本銀行が成立すると同時に、国立銀行は紙幣発行の特典を奪はれた。是れも国立銀行は二十年が年限であつたけれども、其後とても銀行事業を継続すれば、矢張り紙幣発行権を継続することが出来ると云ふ法律の規定であつた。一例を申すと鉱山の採掘権は一期十五年であるけれども、シヤフトを卸したり、鉱
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区を整理したり、或は工場を造つたり、機械を据付けたり、十五年限りで打切られては鉱山の立行きやうがないと同じ事であるから、銀行も亦斯くの如きものと思つて居た所が
△紙幣発行権の褫奪 日本銀行を造つたに就て紙幣発行権は国立銀行には許さぬ。日本銀行に統一すると云ふことになつた。是れも国立銀行に取つては一大恐慌であつて殆ど其の為めに唯一の特権を奪はれて了つた訳である。併し私は是れは已むを得ない。ドウモ亜米利加式は統一を欠いて居る、ドウしても日本の中央銀行制度は英吉利式でなければならぬと謂ふて少しも異議を述べず、只既に発行して居る銀行紙幣の償還方法に就て便宜を与へて貰つた丈けであります。即ち私は中央銀行制度に第一に賛成したるのみならず、時の大蔵大臣たる松方さんが続いて、従来銀本位があつたのを金貨本位に改むる制度を設けて明治十九年に之を実行された。是れは日本の財政経済上に於ける勲功でありますから、其勲功を頌する為めに一の頌徳辞を作つて銀行業者一同から差上げた事すらあります。さて此明治十六年銀行紙幣償還と云ふことは、矢張り銀行に取つては大変な困難であつたけれども、併し私は聊かも苦情を言はなかつた。先づ私が銀行を経営し来つた中の二つ三つの重なる困難を申しますると以上述べたやうな事でありまして、果して維持が出来るや否や随分懸念しましたけれども、私は少しも岐路に這入つたり、危険な行動をしなかつた為めに、前に申した困難の外には懸念した程の困難も御座いませぬでした。併し取引をした向に対しては其苦心困難は一にして足らず、差当り覚えて居る事を拾つて申上げても、今日一日お話しても足らぬ位でありますが、併し其時に
△事業経営の唯一の覚悟 深く覚悟した事は、どうしても株式組織にして世の中の事物を進めやうとするには、既に成立つたものに対しては、努めて急激の処置を取らぬやうにせねばいかぬ。成べく緩和の方法に依つて、出来たものが潰ぶれると云ふ事のないやうにせねばならぬ。之を唯一の覚悟として遣りたいと云ふ事を深く覚悟した。故に私の経営した事業に就ては、随分苦んだものも数ございますが、其苦みを何処までも堪へて之を回復せしめたものが多いやうに記憶します。横浜の私と同姓の生糸商店と云ひ、或は会社で言へば人造肥料会社、若くば煉瓦会社、或は紡績会社の如き其他算へ来れば困難に遭遇したものが随分あります。けれども私は今申す主義を以て是非とも此合本法に由つて、各事業を順よく進めて行きたいと云ふのが予ての希望であつたから、屈せず撓まず其事業を遂行するやうに心掛けたのであります。デ私が保険事業に関係したのは、明治十二年に銀行業の関係からどうしても之れが無くてはならぬと思つて、三菱さんと力を戮せて作つたのが海上保険会社であります。其時に横浜の鉄道を買はうと云つて、華族さんから集めた資本があつた。其資本の一部と三菱さんの資本を合して株金に充てたので、益田克徳と云ふ人を主班として経営しましたのが抑も初めでありまして、此保険会社には多少関係がありましたけれども生命保険抔は頓と存じませぬ。其事柄に就て研究もせず知識もなかつたのであります、さりながら昨日お話しました通り丁
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度四十一年頃であつたか、尾高さんが度々西谷さん抔から此生命保険会社の事を承つて大いに心配すべきものとは思ひましたけれども、何分にも事柄を知らぬから成べく携はらぬ方が宜からうと云ふ意見であつたのが、丁度四十二年の米国旅行中に段々の事情からお引受けして一つ其衝に当つて遣らうと云ふ事を帰りましてから承知しました。併し外ならぬ間柄でもあり、且つ其以前朝鮮に於ける第一銀行の経営に就ては、仁川で尾高は実に苦んだ一人でありますから、再び左様な苦労をさせぬが宜からう、止められるものなら止めたいと思つて、段々相談しました所が、種々なる事情から今更ら引くに引かれぬと云ふ事であつたから、然らば已むを得ぬ、引受けた以上は
△誠心誠意道理に準拠 して線香花火で終らぬやう努力しなければならぬぞよ、私は此事業に就ては殊に充分の知識がないから、只単純な理想に依つて多少のお力添へをするより外に仕方がないと云ふことを申したので御座います。故に私が会社に対して貢献致しました働きは先刻福島さんのお言葉若くは代理店の御総代のお読みになりました文章などに一寸価ひ致しませぬ。けれども唯前に申しました如く、銀行経営に株式組織が甚だ必要であると感じたと同様の観念は此会社に対しても有つて居りますので、進むべき時は進まなければならねども、成べく軽挙に陥らぬやう堅実にせねばならぬ、又苟くも道理に戻つてはならぬと云ふことは、朝に晩に私の衷心からの希望でありまして、此事に就ては今迄も始終申しましたが、将来も尚ほ生命の続く限りは左様申上げる積りで御座ります。扨て此事業に対して古人の言葉を顧みますると、是れは誰の句であつたか、覚えませぬが、「成名毎在窮苦日。破事多因得意時」私共も実は窮苦の日に多少名を成したかも知れませぬ。先刻申上げた通り困つた場合にも辛抱して切抜けたのが、多少微なる名前でも成し得た所以であらう。実は古人は我を欺かず、窮苦の日には名を成しますけれども、得意の時には動もすると事を破り易いものであります、丁度夫れと同じやうな教で、韓退之の勧学解に斯う云ふ句があります「業精於勤。荒於嬉。行成於思。毀於随」即ち気が弛めば必ず頽敗し疲弊する、又ウンと思ふ時には必ず成るものである。併し其の思つた事に追随すれば従つて因循になり、段々弊を生じて毀れるやうになる。行は思ふに成つて而して随ふに毀る。支那人も中々隅には置けぬ、座右銘とするに足ると思ひます。どうか皆様も私が以上述べ来つた事が御参考になりますならば、此上一層奮励努力せられんことを望みます。(拍手)


竜門雑誌 第三八九・第六六頁大正九年一〇月 ○東洋生命保険株式会社満十週年記念祝賀会(DK510071k-0007)
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竜門雑誌  第三八九・第六六頁大正九年一〇月
○東洋生命保険株式会社満十週年記念祝賀会 東洋生命保険株式会社に於ては、明治四十三年組織更革以来本年七月二十日を以て満拾週年に達すると同時に、其の保険契約高も亦一億万円を突破したるを機とし、十月五日各地代理店主及縁故者約千名を帝国劇場に招待して、記念祝賀会を開催したり。午後二時同社常務取締役福島宜三氏の開会辞に次いで青淵先生(本誌演説欄掲載)及び田中農商務次官の演説ありて式を終り午後三時過余興を開演し、史劇千姫・中幕大森彦七・新作地獄及大一
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座三人石橋等の演劇あり。一同を歓尽して散会したるは午後十時過ぎなりし由。
 同社は又翌六日には午前十時より、飛鳥山曖依村荘に於いて青淵先生に対する謝恩式及園遊会を開きたり。来賓は各地代理店主及縁故者五百有余名にして、定刻同社常務取締役福島宜三氏及代理店主幹総代南谷幾次郎氏の謝辞、青淵先生の訓話(本誌次号掲載)ありて式を終り、夫より園遊会に移り、奏楽・大神楽・曲芸・西洋奇術・少年剣舞等の余興あり、和気靄々裡に散会したるは午後三時過なりしと云ふ。