デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
4節 保険
1款 東洋生命保険株式会社
■綱文

第51巻 p.283-288(DK510075k) ページ画像

大正13年1月14日(1924年)

是日栄一、当会社支店長会議ニ出席シ、訓話ヲナス。


■資料

東洋生命社報 第一〇号・第一一頁大正一三年一月 本社支店長会議開催(DK510075k-0001)
第51巻 p.283-284 ページ画像

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集会日時通知表 大正一三年(DK510075k-0002)
第51巻 p.284 ページ画像

集会日時通知表  大正一三年       (渋沢子爵家所蔵)
一月十四日 月 午後四時 東洋生命保険会社へ御出向


東洋生命社報 第一〇号・第二―四頁大正一三年一月 予は勉強の二字を以て諸君に見えん 子爵渋沢栄一(DK510075k-0003)
第51巻 p.284-288 ページ画像

東洋生命社報  第一〇号・第二―四頁大正一三年一月
    予は勉強の二字を以て諸君に見えん
                   子爵 渋沢栄一
 本文は本社のために常に多大の御後援をなすつてゐて下さる渋沢子爵が、一月中旬の本社支店長会議に立ち、社員一同に御話下された御訓話の筆記であります。
      一
 先日木村専務から、本日は当東洋生命の支店長会議で、皆様方の御集りになることであるし、此機会に従来当東洋生命とは深い関係のある私にも、是非罷り出て皆様方に御目にかゝるやうに、又御目にかゝつたら、何か一言愚見を述べるやうにとの御話でありまして、只今も亦その御紹介で御座ゐましたが、御承知の通り、私は保険事業には従来何の智識も経験も有たないものでありまして、従つてその点では、とても皆様方に御話申上ぐるなどいふ資格はないので御座ゐますが、しかし、会社の経営に従事するものはかう考えてゐなければならぬ、又かうしなければならぬといふことだけは、多少の愚見もあるつもりでありますから、専門的の智識と経験を有たるゝ皆様方に対して、甚だ烏滸がましい次第ではありますが、古い御縁故を辿つてこの事を一言申上げて見たいと存じます。
      二
 昨年の大震災が、この生命保険事業に対してどういふ影響を及ぼしてゐるか、私は詳しいことは知りませぬが、兎に角損害は部分的であると致しましても、一般経済界にとつての大打撃でありまして、何れの方面の事業も大なり小なり其の影響を免るゝことが出来ないのでありますから、東洋生命も必ずや何程かの損害を受けてはゐませうし、又皆様方御自身にも、被害の少くない御方が随分おありであらふと窃に御察し致してゐるのであります。
 それにも拘らず、当東洋生命では、木村専務並に在勤者諸君の異常な御活動によつて、会社の重要書類は安全に保存されてあるやうに承知致して居りまするが、是は誠に不幸中の幸とも申すべきものでありまして、皆様方の御注意と御努力の至れり尽せりでありましたことは私も後に承りまして、実に感服致したのであります。
 然るに私は、あの当時兜町の事務所に居りましたが、地震に慌てゝ飛び出しまして、一先づ第一銀行へ行つて休息しながら、火災のことなどは思ひもせずに事務所も定めし破損したであらうから、明日にも修繕しなければなるまいなどゝ呑気な考を有ちながら、翌日の報告に
 - 第51巻 p.285 -ページ画像 
依ると事務所はすつかり灰燼に帰して了つて、商売上のものではありませんが、大切な書類を全部焼いて了つたといふ仕末でありました。年齢から申せば、木村君は勿論誰よりも私の方が老人でありまして、経験も多少は積んで居る筈でありますのが、そういふ不注意に了りまして、誠に御恥かしい次第であります。
      三
 私は只今大切な書類と申し上げましたが、それは私がずつと以前から徳川慶喜公の伝記を編纂致さうと思ひ立ちまして、各方面から沢山の資料を集めて居つたのでありますが、それを指すので御座ゐます。この事は皆様方には或は御縁故のうすいことかも知れませぬが、私が大切な書類を焼いて了つた懺悔話として、しばらく御清聴を煩はしたいので御座ゐます。
 私が青年の頃に一橋家に奉公致しましたのは、僅に三ケ年でありますから、慶喜公は、私にとつて必ずしも三世相恩の君といふわけではありませぬが、慶喜公があの当時の難局に立たれて、国家の為に一方ならぬ苦心をなされて、遂に慶応三年に大政を奉還さるゝに至りました、其間の事情については私も聊か承知致して居ることもありまするし、何とかしてこれを後の世にも伝へて、慶喜公の心事を明かに致したいといふ存念からこの事業に着手致しましたので御座ゐます。
      四
 慶喜公は、十一歳の時に水戸家から、一橋家の養子となられ、維新前に京都へ行かれたのでありますが、其時に、私は初めて御仕へ致したのであります。只今でこそ、政治は只制度・言論等の温健なる方法で行はるゝことになつたのでありますが、当時の時勢は、保元平治以来の武門政治が王政に変る際でありましただけ、実に紛乱・殺伐を極めたものでありまして、何事にも血を見ねば止まぬといつた状態であつたのであります。殊には、当時の対外関係が、英仏両国の確執から仏国は幕府を援け、英国は薩州の後押しをするといつた有様で、一つ間違へば日本は両国に分割されて了ふかも分らぬといふ、誠に危機一髪の時代であつた。
 この国家非常の際に、西郷とか木戸とか大久保とか板垣とか後藤とかいふ人物が交々現はれて、何れも国家のために尽力を致したことではありまするが、慶喜公はこの間に在つて、大局に鑑み、国家を安全にするがためには、何としても一身を犠牲にして大政を奉還するより外に途がないといふことを決意され、殆んど公の独断で以て、慶応三年十月十四日に大政奉還の事を奏上したのであります。当時私は、仏国滞在中でありまして、その詳細は知り得ませぬが、朝幕の形勢次第に悪化するを見て、公は大阪に居を移され其後尾張大納言抔の調停にて、大阪より上洛する事となり、終に其途中鳥羽伏見に於て、慶応四年一月三日に、公の先供の人々と薩長の兵士との間にあの騒動が持上つたのであります。跡から考察すると、あの騒動は持上らずに済みさうなものだつたらうにと評する人も沢山ある、又私もさう考へるのでありまするが、これには実に已むを得ぬ事情があつたのであります。
 それはそれとして私は、慶喜公が其際断然決意されて何も理窟は言
 - 第51巻 p.286 -ページ画像 
はぬ、唯々一身を犠牲にして国家の安泰を図るといふ忠誠なる御行動から、あの維新の事業が都合能く成熟したのである、言葉をかへて申せば、慶喜公が居られなかつたなら、当時の政変は、到底混乱の世となるであつたらうといふことを深く推察致しまして、その当時の事情と公の心事とを、他日世人に広く了解させたいといふ希望から、公の伝記編纂を思ひ立つたのでありまするが、しかし、公の良い方ばかりでも、或は身贔屓になりまする虞がありまして、その反対の方面の資料をも出来るだけ多く集めて居つたのであります。而してこれ等の資料を、私の家の家宝と致しまして、兜町の事務所に蔵つておいたのでありまするが、それを私の不注意から全部焼いて了ひましたので、何共面目次第もないのであります。これは実に私の一生涯の大失策であると、今に自責の念を禁じ得ぬのであります。
 之に反して当東洋生命では、あの混乱中にも拘らず重要書類を残らず運び出し、中には土中に埋めてまで火災から安全にされたといふ御話を承りまして、木村専務初め皆様方の御尽力と御注意の行届いたのに、今更乍ら感服致しますると同時に、若し木村君と私が入れ替つて居つたならばあの大切な資料を焼かずに済んだであらうにとつくづく後悔して居るのであります。
      五
 昨年の大震災は実に稀有の出来事でありまして、各方面の被害を考へますると何とも言ひやうのないのでありまするが、しかし世の中がこれで已むものでもなければ、人類がこれで逼塞して了ふものでもない。たとへ自然がどういふ暴威を振はふとも、之に対抗して人智を発揮して行くのが人類の努めでありまして、自然に征服されて唯恐れ入つて了つたのでは、人間は世に在る甲斐がないのであります。
 かやうなことは今更申上ぐる必要もないことではありまするが、私共もこの心掛けで、今後は是非共あの大天災に打克つだけの力を尽して、国富の恢復を図らねばならぬが、勿論これには、只経済一遍のみで行くことではない。政治なり学問なり、その他種々のはたらきが必要なるは申すまでもないのであります。とは申しても、私の眼から見ますれば、現今の政治は恰も地震と同じく、常にぐらぐら動いてゐて私共の手に余ることでありまするから矢張り経済の本領に立籠つて、出来るだけ之を発揮し、以て寧ろ政治を指導して、一層良い施設を勧誘することが出来れば結構であると考へるのであります。それにつけても、私共の進むべき道としては唯々勉強といふことの外はないのであります。
      六
 私の見ますのに、近頃の世の中は、必ずしも勉強を後にするといふ訳でもありますまいが、兎角に智識を先にして、知る、言ふ、行ふ、といふ順序となつて、言ふことの多く、行ふ事の少く、行ひは常に最後に置かれるやうに見受られるのであります。この風は実業界にもありますが、政治界には殊に多い。これは甚だ困つたことでありまするから、どうか東洋生命だけはこの悪風から離隔して、言ふよりも行ひを先きにする方針で進行して御貰ひ申したいと考へて居るのでありま
 - 第51巻 p.287 -ページ画像 
す。
 私はこれ迄に大なる為したこともないのでありまするが、唯勉強だけは欠かさぬやうにと日頃心掛て居るのであります、此先とても余命のある限りはこの心掛けを怠らぬやうにと、窃に覚悟致して居るのであります。
      七
 昨年の冬でありました、ラプーソン・スミスといふ英人の著はした「百歳不老」といふ書物を、早稲田の文明協会で翻訳して、私の所へ一部送つてくれましたので、それを読んでみました所、年をとつても耄碌をせずに世の中に生きて行くにはかうすればよい、といふやうなことが書いてあるので、老人に取つては大に参考になる事であると考へたのであります。
 この著者の言ふ所に依りますると、詰り百歳不老の道は、第一に労働(即ち勉強の意味でありませう)次に節制、それから平和とこの三つに尽きて居るといふのであります。平和といふのは、本書には満足と訳してありまするが、これは平和と言つた方がむしろ適切であらふと存じます。そしてその三つのものを実行するには、六十歳から九十歳迄の間の修養が一番大切であると詳しく説明してあります。世間では、老人と釘は早く引込めとか、寿長ければ恥多しとか言つて、老人を悪く言ふ癖がありまするが、これは、老人といふものが兎角に人としての働きの鈍くなるので、さう言はれると思ひます。若し老人の、働きが鈍らずに多年の経験を満足に活用することが出来さへすれば、老人だからとて、何も世の中から嫌はれる筋合ひはなからうかと考へらるゝのであります。
      八
 で、この書物は私に対する非常に好い忠告と心得まして、今後共十分に服膺する積りで居りますが、しかし、これ等忠告の中にも勉強といふことは、独り老人ばかりではない、若い人々が行つても決して御損の行くことではないのであります。老人でも青年でも、世の中のことは勉強といふこと以外にはないのであります。
 斯く申しても、其勉強が結局何の効果もなかつたといふのでは可けないのであります。残念ながら吾々は米国人に比べると、事業に能率が上らぬやうに見受けられるのでありまするが、私の考へますのに、勉強といふことも、一人のみがやつたのでは矢張り駄目で、総体が調子を合せてその気にならなければ完全に能率が上るまいかと存ぜられます。
 これは老人の僻目かは知れませぬが、この節の世の中は、何につけても自分といふことが先きに立つて、公共といふ観念が欠けて参つたやうに思はれるのでありまするが、これでは、能率の上らぬのも無理はない。
 で、この自分本位の悪風を撓め直して、社会全体としての能率を高めるには、何うしたらばよいかといふに、人々によつていろいろな意見もありませうが、私は、自分の踏んで参つた長い間の経験に照らして見ても、これは矢張り、忠恕の道、犠牲の精神、縁の下の力持ち、
 - 第51巻 p.288 -ページ画像 
又は己の欲せざる所人に施す勿れといふやうな従来の東洋道徳に則つて、この精神を何処までも社会全体に行き亘らせること以外に、方法はなからふと確信して疑はぬのであります、忠恕博愛の道が、隅々までも、人々の心を潤ほすことになれば、勉強といふことにも自づから土台が出来る訳でありまして、能率の上ることは明白であらふかと存じます。
      九
 とは申せ、かくいふ私とてもいつの間にか過を犯してゐます、既にこの会議にも、四時に来るといふ約束がもう四時過ぎてゐます。その前にも三時といふ約束が少し遅れて了ひました。私は約束だけは固く守つて、成るべく他人に迷惑をかけないやうにと平生心掛けて居るのでありまするが、それが兎角にさうなり兼ねることが多いのであります。尤もかうしたことは、人々が御互に注意し合はなければならぬことでありまして、何も取立てゝ労働界の人を誹謗するではありませぬが、私が王子の自宅を出入りする際に、門の前へ荷車を置くものが多くある。夫が為に出入に不便を感ずる。これは何も人の門前に好んで馬や車を止めずともよいのでありまするが、全く注意の足らぬからである。少し考へたならばお互の利便を図ることは、容易であらうと思はれるのであります。
 要するに、自分さへよければよいといふ自己本位の考を捨てて、社会の為共同の利福の為に勉強しやうといふ事が、今日の時勢から言ふても、震災の復興事業から申しても第一着に必要なことであります。しかしこれは、独り東洋生命のみがやつてもいかぬことでありまするが、請ふ隗より始めよといふ大決心を以て、天下に率先して御実行あらんことを切に御願ひ致す次第であります。私は今日皆様方に御目にかゝつて、唯この一言を以て御頼み致すより外ないのであります。