デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
4節 保険
1款 東洋生命保険株式会社
■綱文

第51巻 p.295-305(DK510081k) ページ画像

昭和6年11月15日(1931年)

是月十一日栄一歿ス。是日葬儀ニ際シ、当会社ヨリ弔詞ヲ贈ル。


■資料

竜門雑誌 第五一八号・第二〇―六一頁昭和六年一一月 葬儀○渋沢栄一(DK510081k-0001)
第51巻 p.295-296 ページ画像

竜門雑誌  第五一八号・第二〇―六一頁昭和六年一一月
    葬儀 ○渋沢栄一
十五日○一一月
○中略
 一、青山斎場着棺  午前九時四十分。
 一、葬儀開始    午前十時。
 一、葬儀終了    午前十一時三十分。
 一、告別式     午後一時開始三時終了。
○中略
また東京市民を代表した永田市長の弔詞、実業界を代表した郷誠之助男の弔詞朗読があり、他の数百に達する弔詞を霊前に供へ、十一時半予定の如く葬儀を終了した。
○中略
 - 第51巻 p.296 -ページ画像 
    弔詞
○中略
 尚ほその他弔詞を寄せられたる重なるものは左の如くである。(順序不同)
○中略
 東洋生命保険株式会社
○下略


東洋生命社報 第七五号昭和六年一二月 思出深き故子爵の芳墨(DK510081k-0002)
第51巻 p.296 ページ画像

東洋生命社報  第七五号昭和六年一二月
    思出深き
      故子爵の芳墨
 過ぐる大正十一年七月、木村現社長は故渋沢子爵並に当時第一銀行頭取であられた佐々木勇之助氏(我社現相談役)の推輓により、我が東洋生命に専務取締役として来任、直ちに各方面に亘り種々研究調査の歩を進め、それに基いて専ら社業の刷新に懸命の努力を続けられたそして、年末近くなつて就任第一年度の決算を終らんとする時に当り予てより慎重考慮の末確立されたる社業経営の根本方針並にその実際的方法等につき詳細に書き認めて、これを社況報告を兼ねて故子爵の御手許まで差出されたのである。これに対し翌十二年一月九日附にて子爵より上掲○凸版略ス の如き懇篤なる一書を寄せられ、前記方針に賛意を表せらるゝと共に、尚この上の成績は実行の如何にありとて古語を引いて大いに木村専務を励まされる処があつた。この御手紙は震災前神田旅籠町にあつた本社旧社屋の壁間に、これも同じく故子爵の御揮毫に係る「東洋生命社報」の題字(本紙第一頁上段に毎号使用せるもの)と共に掲げられ、我々は日々これを仰いで常に心の戒めとなしたものであるが、かの大震火災の砌、遂に祝融の厄に遭ひしは返すがへすも遺憾の極みである。たゞ僅かに社報第一号の存するありて、この意義深き芳墨の面影を再びこゝに写し出すを得たのは誠に不幸中の幸である。今や社業は当時と全く面目を一新し、日と共に進展の道を辿りつつあり、当時を回顧すれば洵に今昔の感禁ずる能はざるものがある。我等は更に努力して故子爵の遺されし此のお言葉に副ふべく社業の正しき発展の為に益々黽勉するところあらねばならぬ。


竜門雑誌 第五一九号・第四―一四頁昭和六年一二月 聊か所感を述べて青淵先生を弔ふ 東洋生命保険株式会社社長 木村雄次(DK510081k-0003)
第51巻 p.296-303 ページ画像

竜門雑誌  第五一九号・第四―一四頁昭和六年一二月
    聊か所感を述べて青淵先生を弔ふ
                東洋生命保険株式会社社長 木村雄次
 私は多年敬慕し来れる青淵先生を遂に本誌上に於いて弔はねばならぬやうになつたことを悲しむ。然し青淵先生に就いて語ることは、否先生の偉業を讚美し高徳を頌述することでさへも、門下生の末輩たる私如き者にとつては、為し得べく余りにも重く且つ大いなる課題と感ずるが故に、今更らしく、さうした事に触るゝことを止めて、たゞ私が三十有余年来眷顧をうけつゞけて来た先生の薨去せられた時に際して、先生の人格や偉業や行事やを回顧し、玩味し、その中如何なる点を力点として、私は今後公生活に於いても又私生活に於いても、先生
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の遺訓を実践躬行すべく努む可きであらうかについて、多少考へさせられたが為めに、其の事について少しく述べて見たいと思ふ。
 明治以来赤手空拳を以て起ち、財界に覇を唱へた人は、独り我が青淵先生のみではない、大企業を創立し完成し巨財を積みたる点から云へば岩崎・安田・大倉の諸氏が却て先生の右に出づるでもあらう。然るにも拘らず社会の凡らゆる方面からの尊敬――と云ふよりは、寧ろ恰も慈父に於けるが如き敬慕の的となられた事は、到底他の二・三子の追躡をさへ許さない。之は先生を好む者にせよ好まざる者にせよ何人も事実として認めざるを得ない所で、従つて此点こそ先生の偉大さの中心であり、軈て門下生はそこん処の呼吸さへ飲み込めれば、いくらかでも先生に近づける訳であらうから、私は此事について先輩や知友の意見を求めて見たが、最も簡単な意見は、つまり先生に、それだけの徳があつたからだと云ふにある。此の説は如何にも御尤も至極ではあるが、然しそれを私共が少しでも自分の生活上の実用に供しようとすれば、私達も先生のやうに徳を養はねばならぬ、修養せねばならぬと云ふ事だけになつて了つて、それに異議を挟む余地がないだけ、それだけ又甚だ漠然たる見方で、私共に対する教訓価値は至つて乏しいと云はねばならぬ。
 或るものは又先生は一意奉公の事に急であつたが為めに、他人を世話することが自分を世話するよりも先になり、より厚くなつたが為めに、従つて衆水の大海に帰するが如く自然に財が先生に帰したでもあらうけれども、努めて財を蓄へると云ふやうな殊更らしい所は先生に於いて見られなかつた、だから財産を作ることは小さくとも、それだけ先生より財的に大を為した人達までも、自然に牽制されて、先生の言ひ分に聴従せねばならぬ破目になつたからだと云ふ。
 寔に先生の御一生が国家及び社会の為めに身心を捧げ尽された、奉公一途の御生涯であつたことは誰も否むことは出来まい、然かしそれ有るが為めに先生が謂はゆる財界世話業者として立ち行けたんだと云ふに至つては、寧ろ私は青淵先生の徳が傷けられたとさへ感ぜずにはゐられない。それよりか私はもつと深く此点を凝視したい、私は寧ろ先生の奉公の御苦衷も御奔走も、多くの場合に於いては、先生がよく御在世中に言つて居られた「縁の下の力持」に終つて、先生の御苦心も又有形無形の御損失も、一向世間には知れもせず、まして感謝などされもせずにゐた点に着眼したい。そしてどんな場合でも先生は更に不平も言はれず、顔色にさへも出されない、あの寛仁大度の御態度こそ、少しでも私共のあやからねばならぬ所だと思つてゐる。実に私共は「労すべきを択びて之れを労す、又誰をか怨まん。仁を欲して仁を得、又いづくんぞ貪らん」とある孔夫子の述懐が、あの春日煦々たるが如き先生の温容、あの暖い春の霞のやうな気分に、接する人をも物をも包み切つて了つた先生の態度に、それが如実に表現されてゐた事を追憶し崇拝し、先生の心の光が永遠に私の心に灑ぎ込み、光被せんことを祈つてやまぬ。
 青淵先生は偉大であつた。我々門下生は先生の全部を学ばんとすれば却つて取り止めもつかぬものに成つて了ふであらう。では那辺をか
 - 第51巻 p.298 -ページ画像 
着手の所として先生に倣はむ、かく私は自問自答しつゞけつゝ来たがそれは実を云ふと先生の御生前からでもあるが――今の所私の考へてゐる所は、先生が朝を辞して野に下らるゝ時に当つて、商工業の拠つて立つべき道義的根拠――今風に適切に云へば企業の哲学的根拠――をしつかりと把握して、それを死に至るまで、思想及び実行の上に一貫された点こそ、私は大に心を潜めて考へもし、又力を込めて実行もせねばならぬ着手の所でもあり、重心でもあると思つてゐる。
 青淵先生の企業の道義的根拠に関する所説は、恐らく数万言に上るであらうが、これを最も簡単に要約した文句は「義利何れの時か能く両全、佳節に逢ふ毎に思ひ悠然、頭を回らせば愧づ我が成事の少きを流水開花九十年」と云ふ先生九十歳当時の御作にかゝる此の漢詩中の「義利両全」の四字に尽くるであらうと思ふ。其外私の着眼した重要な章句は実験論語のうちに「知行合一によつて実業の発達を計り国を富まし国を強くし、天下を平かにすべきものだと信じた」とある所で私は此頃これによつて先生の義利両全は、王陽明の知行合一から一展開され、一深化されたものだと考へるやうになつた。
 多くの人々が言ふやうに、我が青淵先生にとつては、実践価値のない、観念遊戯にしか過ぎない哲学や宗教やは、秋の団扇にも増して無用なものであつた。だから先生は老荘の哲学を指し、成程あゝした風に考へれば、それはさうも考へられもしようが、偖てその考を実際に当て嵌めようとすればどうする事も出来ぬ空の話に過ぎないと云はれてゐるし、のみならず先生は中庸をも哲学臭しとして宗とせず、大学でさへも、あれは治国平天下を教ゆる政治家の為めの書で、実業家には不向きとして取られず、論語こそ修身斉家の規矩として、実業家の実用書とすべきだと云つて、九十になつても王陽明学派の先生から論語の講義を聴いてゐられたのである。私は先生が論語を講義されたと云ふ事よりも、「朝に道を聞きて夕に死すとも可なり」として、この講義を聴かれた御態度こそ、学ぶべきと云ふよりは寧ろ神らしい事として崇敬せねばならぬ事とさへ感ずる。
 偖て先に述べたやうな先生の考へ方乃至は立場から観るならば、知即行、行即知と主張する所の儒教に於いては、恐らく最も弁証的である所の、それだから逆説的ではあるが最も実践的に深められた所の、王陽明の知行合一論は、蓋し先生が最先に着眼せられた学説であらう然し維新の際の如き、政治的にも社会的にも、革新の一大波瀾が捲き起つた際に、其の怒濤の中にもまれながら生活して実世間の生きた問題に血みどろになつて戦つて来た先生にとつては、知行合一論でさへも空疎な哲理としか見えなかつたに相違ないと私には思はれる。
 青淵先生は我国では仁義は仁義、金儲は金儲として、全く異つた世界に別居してゐる、仁義道徳によつて身を修めた感心な人々は、中江藤樹のやうに殆んど実世間とはかけ離れた世界にゐた道学者先生で、熊沢蕃山などが、少しく実際政治にたづさはつたに過ぎないと言つて青淵先生は暗に王陽明学派の人々さへも頗る非実際的なりしを指摘して、商工業者の実行に於ける心的準備としては、王陽明の知行合一論さへも無力なることを述べられてゐるやうである。
 - 第51巻 p.299 -ページ画像 
 此処に於てか王陽明の知行合一は、先生の義利両全へと一転進したのでもあらう。由来利なる観念、やがては利となるものゝ理念については、儒教に於いては余り説かれてゐないやうに私は思ふ。利なる文字は、周易には元亨利貞として利は最も重要なる地位を占めてはゐるが、それさへ文言に「利は義の和也……物を利しくして以て義を和するに足り……」云々とある位で、たいして突き込んだ説明はされてゐず、論語には「子罕に利を言ふ」とある位だから、利に就いては孔子からも多くを聞くことが出来ない。此くの如く東洋に於いては――独り東洋のみではないだらうが――利を恐ろしく軽く扱ひ、又は卑しみさへもした傾向があつたにも拘らず、実は利を度外して人間は一日も生活出来ない筈である、それだのに社会の指導者を以て任じてゐる賢人とか君子とか乃至道学者先生とかは自分達の利に基く生活自体を直下に奥深く省察することもせずして、そんな根本的の要求が人間には無いものゝ様に仮定して、人間の全生活を規律すべき筈である所の倫理道徳を説くから、倫理は実は生活に無関渉となり、経済と道徳とは二つの世界に別居するやうになり、おまけに自然人――理想によつて克己することなき肉体人――にとつては、倫理的要求よりも物質的要求が、いつも其度合に於いて強烈であるが為めに、倫理によつて外面的に制約されてゐる世界は、いつの間にか物質的要求の世界から漸次に、然しながら実際的に力強く破壊され克服されて来たのである。
 然るに先生は明治初年に於いて義を理想とする政治の世界、治国平天下流の人々が生活した世界から、「遠く慮つて野に下り」市に錙銖の利を争ふ所の利の世界、商工業の世界へ鞍替へされやうと云ふのである。所が先生はそれは藍玉の商ひもされたのであらうけれども、幼年の頃から儒教的の素養があり、漢学塾に学び、それから治国平天下の為めには、自分の説が行はれねば邪魔立てする奴を殺して自分も死ぬと云ふ程な烈しい考へで、当時の志士仁人の間を往来馳駆した人である。そんな環境に壮年まで過した人が、忽ちにして先生の謂はゆる当時の「角い文字」は読むことさへ嫌つた人達と伍して、彼等と一厘半毛の利を争はふと云ふのである。真面目なる先生、何事もいゝ加減に片付て置けない先生、しかも意地も張りも最も盛なる壮年期の先生は此点について必ずや自己矛盾を深く感ぜられたであらう。そして此矛盾を克服し此溝渠を塡める為め、三十四・五歳以後の青淵先生の胸中には恐らく長い間、相当激しい哲学的苦闘があつたに相違ないと私は憶ふ。かくして此の眼前につきつけられたる難題の解答として打出されたものが即ち義利両全であり、それは同時に先生にとつては達したかと思はれると、更に前方へ遠のいて行く水平線の如き理想でもあつたことは、先生の此の詩に於いて私共は味はふことが出来る。
 私は青淵先生の義利両全の由つて来れる此の経緯を想察し、たとへ其の大いさと深さとは比較にならぬにしても、同じ型の心内の苦闘を日々に――日々感ぜられたら結構であるが、実は往々にして体験しつつ、此の遺訓を噛みしめる時、滋味更に一層なるを覚える。
 更に又先生の義利両全が果して私の考へるやうに知行合一の一展開であるとするならば、其れは恰かもヘーゲルの理想主義的弁証論が、
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マルクスの唯物的弁証論へ転向したると甚だ似た形式を取り、実は全く反対の結果になつてる事に時節柄特に着眼して見たいと思ふ。マルクスは恐らく物質力の根強さを体験して、ヘーゲルの理想主義に絶望し其方法論のみを踏襲して、彼の唯物史観は建設されたのであらう。だから其の結論に至つては、両者は全く相反するに至つてるけれども義利両全は決して知行合一と対蹠的関係に立つものではない。青淵先生はマルクスと共に物質力の強さ、物慾の烈しさを体験はされたが、かるが故に之れには降服すべきことを決して断じて主張されはしない却つて物慾を理想的要求によつて調和的に指導し、統一してこそ、人間としての価値があるのであつて、「義利両全」たゞ其れのみによつて、其れのみに於いて個人は個人として公明な中正な生活を営み得るのであり、社会もそれによつて、それに於いてのみ正しき平和なる存在と進歩とを贏ち得べきものなる事を首唱されたのである。実際私共が私共の毎日の生活を仔細に点検するとき其処にはいつも義利の闘争がある。然るに其の利慾なるものを、如何なる場合にも悪なりとして否定して百の道を説かれ、千の徳を教へられたりとて、私共が現に食つて行かねばならぬ人間、父母妻子ある俗人である以上は、それ等の哲理や教訓やは二階から眼薬ほどの効能もありやしない。それを王陽明の知行合一論のやうに、行即知、知即行だと云ふ説に基いて考へて見た所で、私共の生活上の行為の大部分が利に基くものであり、吾人の生活上の思索が利によつて強く動かされるものなるとき、況んや営利を存在の理由とする商工業即ち企業及び企業家にとつては、日常心内の苦闘に就いての解決を、王陽明の知行合一論まで持つて行くには大変に暇がかゝつて了つて、殆んど実践的価値を獲得することが出来ない。之れに反して私は、先生の数万言の経済道徳一致論を「義利両全」の四字に要約し来るとき、私の道徳意識にはより一層の明瞭さが加はり、私共の行為にはより一層の自信が加はり、却て始めて知行合一の境に達するやうな気がする。かく考へれば先生の義利両全は知行合一が更に実践的方向へ徹底されたものと云はねばならぬ。何となれば先生は行即知、知即行なることを承認する――と云ふよりは寧ろそれ以外のものを空理として斥けながら、其の知と行の中から、真剣な血のにじむ程な体験によつて義と利とを其の核心として摘出し止揚し義即利、利即義となすこと、なさんと努むること、即ち其の一事のみによつて俗人、世間人、商工業者は始めて知即行、行即知なる深遠なる哲理を体現し得ることを明瞭にされたからである。そして同時に青淵先生は義利両全を説くことによつて、従来動もすれば如何なる場合に於いても利を悪なりと考へようとする、固陋なる道学者的見地を断然排斥し、利が義によつて掩ひ尽され、利が義と合一することに於いて、始めて全き人間性が維持され長養される、言ひ換へれば、人間の社会性が保存され発達さるべきものなることの哲理を、極めて解り易き、或は「縁の下の力持」とか、「論語と算盤」とか云つた風な俗談平話を以て説き、九十二年の生涯を通じて機あるごとに説いて止まず事あるごとに躬行範を示して止まなかつた熱心家であつた。実際私共が義利両全主義に傾倒すればする程、同じく幕末以来の代表人たる福
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沢諭吉氏の、ミルやスペンサーからの直訳的功利主義よりは、乃至は近頃亜米利加から輸入されたジエームスのプラグマチズムなどよりは遥に深玄な、それだけ東洋的な深みを見出し得ると思ふ。
 斯く考へればヘーゲルとマルクスとの関係と、王陽明と青淵先生との関係は、全く似て而して非なるものなることが一層明となる。マルクスは物質の根強さを認むることによつて、ヘーゲルの理想主義への反逆者となつたが、青淵先生は利の根強さを体験して、却つて利の理念としての義を見出された、文言の謂はゆる「利は義の和なり」と云ふ漠然たる文句が、先生の所説によつて頗るはつきりしたものとなつた。そして其れが最も近代的に、而も最も実践的に――理論的ではなくより強く実行的に――かるが故に最勝義に於ける知的に、証明された、而して知即行、行即最勝知なる所以を実証することによつて、王陽明と同じ方向に於いて、更に大股の一歩が進められたと考ふべきであらう。
 唯私共は――青淵先生の門下生は――先生のこの深き義利両全論が多数の人々によつて、それが単に一実業翁の方便論だ位に考へられてるのが甚だ遺憾でもあり、癪でもあり、又他方には最近四・五年来滔滔として澎湃として、我が思想界に押し寄せつゝある、義利両全説とは如何にしても妥協し難き唯物的社会主義に対抗する意味に於いても私は先生の此説がもつと思索され、もつと弁証され、義利両全主義の倫理学、義利両全主義の経済学までもが、建設さるべきものだと考へてゐる。かく云へば空理は先生の好まれなかつた所だから、かゝる事は無用のことだと云ふ人もあらう、無論私も実業家に算盤を捨てゝ今更哲学者になれと勧めようとは思はない。然し青淵門下には今や実業人のみではなく若き学徒もあるであらうから、そして学者にとつての思索は即ち学者の実行であるならば、此の企ては必ずしも先生の遺志に反くものであるまいと思ふ。
 何故私は、自分の身分柄をも考へずに、こんな余計な事を申出づるかと云ふに、先生が最も旺んに経済道徳の一致を説かれた時代と、先生無き後の今日とは最早著しい社会相の変化もあり、又義利両全とは全然反対の唯物的社会主義を称ふることなどが、却つて衆愚の人気を博する程の時代となつて居るのに、彼等と理論闘争に於いて敗を取ることはやがて、義利両全主義の根柢的な敗北を意味せぬことを誰が知つてゐるか。反対論を唯だ空理で候、虚偽で候と云つて罵り返し、まぜつ返し、それで満足して義利両全に執着し得るものは、少くも私位の年輩以上に属する人々であつて、理論的に緻密に説明されざる単なる御題目が、現代の理智に眼覚めた青年――即ちやがては次の時代を指導し得ない事は恐らく多言を要さないであらう。若し私共が先生の義利両全を首唱された心事を深く忖度するならば、如何なる事業もしつかりした道義的根拠に立たざるものは、砂上の楼閣の如く必ず容易に倒るゝものであると云ふ信念、単なる財力や権力を以て社会を善くすることは出来ない、それも亦道徳的根拠による実行によつてのみ可能であると云ふ信念に基くものとせねばならぬ。然らば義利両全の哲学的存在理由を明にすることは、特に此時代に鑑みて必要な事でもあ
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り、又それは私共が形無き先生の記念像を建設するものと考へてもよいと思ふ。
 義利両全は先生を思想的に、やがて其れは「社会人」としての先生を――基礎づけたものとして、私共門下生が実践躬行に努め、祖述し顕彰せねばならぬものとすれば、之れと恐らく具体的に対立するものは、先生によつて我国に植え付けられ、培養され、今日の盛況を呈してる合本会社の仕掛――株式会社組織の企業形態であらう。そして此の株式会社なるものを、如何に長養し如何に発展せしむべきかは、私共青淵門下の者達に課せられた頗る大切の課題として、日々に而も時節柄急迫的に解決を要求せられつゝあるものと私には考へられる。
 元来先生が、明治初期に於いて合本会社なるものを日本に紹介し、之れが普及発達に努められた根本精神は、要するに我が国今後の産業は徳川時代に於けるが如く、少数の個人資産家によつて、独占的に経営されてはいけないし、又それだけでは日本の産業は発達しない、今後はよろしく多数の民衆から微小の元本を糾合して、之れを合成したものを資本とし、更に又一層大仕掛に商工業を経営せねばならぬと考へられたのであらう。だから先生が企業形態に於いて義利両全と認められたものは、民衆が民衆の力によつて資本を作り、又民衆が民衆自身の中から経営能力あるものを選出して事業自体を経営せしめ、其れから生じた利益を民衆が博く均霑するにあつたと云はねばならぬ。先生が個人企業とか、合資・合名等の企業形態よりも、合本会社を特に優秀なるものとして、西洋の制度の中から選択された道義的根拠は、「民の利する所に因りて之れを利す」と云ふ点にあつたであらう。かくして株式会社なるものは、先生の常ならぬ御尽力によつて、日本に於いては異常の発達を遂げ、之れを他の東洋諸国の現状に比すれば、雲泥の差を生じたのであるが、而かも今日に於いては、其れは余りにも尋常の事となつて、それが先生の御尽力に基くものであることなぞは寧ろ知らぬ側の人が多数かも知れない程、それ程にも此の先生の達見は実現したのである。
 然るに先生の御生涯の後期からは、世相は漸く変化して、株式組織による大事業会社・大銀行は、「民の利する所によつて利する」企業形態ではなくなつて、却つて小数の資本家が其の株式の過半数を独占することによつて、巨利を壟断する機関なりと考へらるゝやうになり今や株式会社は独占資本主義の牙城とさへ考へられ、之れを打倒することによつてのみ社会民衆に利福をさづけ得ると考ふる人が愈々多数となりつゝあるやうにも見える。然かもこんな風に先生の所期以外の方向へ発達して行く由来を深く考へれば、それも亦企業家が利にのみ喩つて義に喩らざるに由るのでもあらうが、私共は此の悲しむべき現状を眺めつゝも、尚ほ株式会社組織に代るべき、より善き制度を発見し創造し得らるゝであらうかに就いては更に一層の疑ひを持つ、私共は国家的資本主義やがては官僚的資本主義が余りにも不便にして不合理なることを良く知つてゐる。況んやそれこそ、さうも考へ得らるゝと云ふ程度の共産主義などは尚更空論で問題とすべくもない。
 斯く考へて来ると、私共の如く現に株式会社を経営するものは、再
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び深き冥霧の中に彷徨せねばならぬ事となる。然し此の際に於いても私共は又先生の義利両全へ立返ることによつて、最も堅実なる津梁と安心な規準を見出すことが出来る。そして義理両全の理想にしつかりと私どもの眼睛を据えて、着々その実現に努むるならば、私共は横暴なる利慾一遍の資本家の走狗ともならず、同時に又悪平等主義の民衆煽動家ともならずして、先生が壮年時代に於いて考へられたやうな合本会社主義の本旨に到達するのであらうと考へる。
 現に真実に民衆の利益を意とする英蘭銀行や、其他保険会社や鉄道会社などを公平に観察するとき、誰が其れ等を公衆の利益を犠牲にして二・三少数の資本家のみが利益を壟断する施設だと考へることが出来ようか、其等は却つて最も忠実なる公衆の機関でもあり公衆のものであることを知るであらう、良き社会は製造され得るものではなくして、生長し来るものである、かうした風に嘗つて説いたケーンズの所説の如きは、仮令それが余りにも保守的だとして若き人々からは排斥されたとしても、確かに事実に基いた実践的価値ある所説であつて、青淵門下の私どもにとつては、最も有力なる援護説として考へ得ると思ふ。かるが故に私共が義利両全の理想をめざして、真直に、真面目に、上品にさへ企業を経営してさへ行けば、それは決して民を損ふが如き事とはならない。或は世相の変遷と共に、此の企業形態にも色々の改良と変化が加へられ、やがては全く変質される時があつたとしても、私共の直接当面の必要としては、義利両全に殉教者的執着をもつことが最善なることを、私は我が青淵先生の在天の霊と共に信ぜんと欲する者である。
 私は先生の御薦めによつて東洋生命を御引受けして今や十年に垂んとし、而も碌々として何等為す所無きことを恥ぢ又悲しむけれども、我が東洋生命は普通に世間人が考へてゐるかも知れぬやうに、財閥的関係に於いて第一銀行に連つてゐるものではない。唯先生の義利両全の理想を通じて第一銀行と兄弟たり姉妹たる関係にあるものと平生固く信じ及ばずながら此の方針によつて此会社を経営しつゝあり、又将来かくすることこそ最も先生に忠なる所以だと信じてる次第である。
 噫我が青淵先生は今や逝かれた。御臨終の際先生は佐々木さんの手をお握りになつて、いつまでもいつまでも離さうともされず、傍の人はみんな泣いて了つた、それだのに先生も佐々木先生も――老の涙は出でがちであるのに――黙々として然かも一滴の涙が出づるにもそれは余りに悲壮であつた。何と云ふ古武士的な光景だらう。此の沈黙の中に私共は数万言の雄弁を聴き、此の涙無き眼底に私共は熱き千斛の涙が流れつゝあつたことを実感する。何と云ふ壮烈な意志力だらう。願はくば我が先生の柔かなる強き意志よ、この弱き私に今から乗り移り給へそして其の意志に於いてのみ、私は始めて義利両全の理想へ一歩をでも進め得るであらう。



〔参考〕竜門雑誌 第四八一号・第一一六―一一九頁昭和三年一〇月 青淵先生と生命保険 木村雄次(DK510081k-0004)
第51巻 p.303-305 ページ画像

竜門雑誌  第四八一号・第一一六―一一九頁昭和三年一〇月
    青淵先生と生命保険
                      木村雄次
 - 第51巻 p.304 -ページ画像 
 青淵先生と我国の生命保険業について、私が何か述べねばならぬ事になつたのであるが、然し青淵先生は単に竜門社の青淵先生ではなく日本の実業界の元勲と言ふ位地に居られるから、つまり此事は渋沢子爵と日本の生命保険業との関係を述べることゝなり、従つてそれは生命保険界には駈け出しの後輩である私にとつて、余りに僭越の感があるので一応御辞退した訳であるが、幸にと言ふ可きか、又不幸にと言ふべきか、先生は明治の初期から我国の経済界の殆んど凡らゆる事業と密接にして重要なる関係を持たれ、其の生育と発展に顕著なる貢献をされたにも拘らず、私が先生に聴く所によれば生命保険の事も心配して居られたが、具体的に我国の生命保険に幾分の関係を持つ様になられたのは、先生の愛婿の尾高次郎氏が、明治四十三年に東洋生命の社長として其の経営に当られた事を機縁として東洋生命の相談役となられたのが始めであり、其後東洋生命の為めに引続き尽力されてゐるので、他の事業に比しては比較的関係が新らしいと言はねばならぬ、だから青淵先生と我国の生命保険業との関係は、要するに先生と東洋生命の関係であり、先生は東洋生命を通じて、日本の生命保険事業に先生の偉大なる人格の影を投じてゐられる事となるのであるから、従つて保険界には飛入の後輩であるにも拘らず、東洋生命の社長をしてゐると言ふ点から、私が此事に就て多少の感想を述べる事となつた次第である。
 思ふに青淵先生の八十八年の生涯を貫く根本精神は東洋道徳の根本義を、先づ謂ふ所の実業に打ち込み、そこから其の精神を社会全体に押し広めて行かうと言ふにある、だから私共は西洋のポリチカル・エコノミー――市の家政――に於て先生の理想と事業を認めるには、其れは余りにも低く小さい感があるが、東洋的なる真の意味の経済即ち経国済民といふ第一義的意義の経済に於て、先生の理想の具現を見ることが出来る、だから先生の我が経済界に於ける態度は「古の明徳を天下に明にせんと欲する者」であると言はねばならぬ、先生の斯くの如き精神と態度から見るならば、我国の経済界の凡らゆる事業の内、生命保険業は恐らく何事業にもまさつて先生の理想と生命が注入されねばならぬ事業であらう。
 元来東洋に於ては、国又は社会と家と言ふものは根本的関係にあると考へてゐる、単に家が経済的に又は法律的に、又は社会的に国家の単位であると考へるよりは、家は国又は社会の道徳的淵源をなすものと考へてゐる、「修身斉家」と言ひ「家斉うて而して後に国治まる」と言ふが如きは、明かに此思想を言ひ現はしてゐる、そして東洋殊に我国に於ける家の考へ方と、西洋の現代に於ける家の考へ方を比較して見るに、我国に於いては家を時間的に縦に考へるが、西洋に於ては家を横に空間的に考へてゐる。我国に於ての家は祖先から子孫に至る歴史的存在であるが、西洋の家は夫婦を中心とする時の現在によつて切られた血族団体と考へられてゐる。固より厳密に比較せば相互に似た点はあつても、家と言ふ事についての根本思想を捉へて比較すれば明らかに此くの如き区別はあり得るだらうと思ふ。
 翻つて生命保険業の精神を此の制度が西洋に発達した歴史に求めた
 - 第51巻 p.305 -ページ画像 
ならば、それは同業組合員の幸福とか相互扶助とか言ふ点に求むべきであるかも知れないけれども、もつと深く此の相互扶助の精神に立ち入つて、私共が東洋人的に生命保険なるものゝ本質を解釈して見るときには、歴史的意味をもつ永遠の存在である所の家を斉へると言ふ精神を認むる事なしに、生命保険業は成立たないと言ひ得ると思ふ。何となれば生命保険なる制度は、己の家を時間的にやがては道徳的に悠久の存在たらしむる一つの物質的手段と云ふべきである。自分が自分の父母より受け継いだ善きもの美しきものを保護し維持して、更に之れを子孫をしていやつぎつぎに受け継がせる、即ち時間的に歴史的に家を斉へる為めの生命保険は物質的手段に過ぎないからである。だから此の精神なき人にとつては、生命保険ほど厄介なものはない事になる。
 思ふに先生の青い深い人格の淵から銀行や其他の事業へは、幅広き溝を通して其の精神は注ぎ込まれた、又注ぎ込まれつゝあるであらうそして生命保険業界に注ぎ込まるべき精神は此くの如く此の事業に重要でもあり、又此くの如く根本的であるにも拘らず、其の溝となるべき東洋生命が未だ甚だ細く小さい事を思ふとき、私は先生に罪を得る事甚だ大なるものあるを感ぜずにはゐられない。
 先生は嘗て我社の従業員に演説して「私は自分の踏んで参つた長い間の経験に照らして見ても、これは矢張り忠恕の道、犠牲の精神、縁の下の力持ち、又は己の欲せざる所人に施す勿れといふやうな従来の東洋道徳に則つて、この精神を何処までも社会全体に行き亘らせること以外に、方法はなからうと確信して疑はぬ」と言はれたが、生命保険なるものが、修身斉家を精神とする人々の多数の寄合によつて出来上るものならば、生命保険業、即ち生命保険会社を経営するといふ事の根本精神は、此の多数の人々の世話をして、其の人達の幸福を計る為めに奉公すると言ふ事の外にあり得ようがない。即ち生命保険会社の経営者程先生の所謂「縁の下の力持ち」をやる精神を要するものはない、「国人と交はれば信に止る」と言ふが、もし日本の生命保険業の経営者が悉く、縁の下の力持ちたる事に甘んじ、国人と交はるに信を以てすることを根本精神とするならば、それは生命保険業経営の始であつて終でなければならぬ。
 青淵先生の根本精神は同時に生命保険の根本精神でなければならぬ点より見て、而して仮令先生が生命保険に関係されたことが比較的新らしかつたにしても、先生の此の精神の実業界の他の事業に於ける具体化は、やがては生命保険業にも長く光被されて居たに相違ない事を考へつゝ、而して日本の生命保険界今日の善良なる発達の部分に著眼するとき、私共はそれを先生の人格の発露と考へる事が出来る、若し私共がかく考へる事が妥当であるならば、青淵先生と我が生命保険業との関係は量に於てよりは質に於て、最も偉大なるものであり又最も精神的にして最も輝いたものであると言つても恐らく過言ではあるまいと思ふ。