デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
4節 保険
2款 日本傷害保険株式会社
■綱文

第51巻 p.306-308(DK510082k) ページ画像

明治44年7月(1911年)

是月、粟津清亮等ニヨリ、日本傷害保険株式会社設立セラル。栄一株主トナル。


■資料

粟津清亮談話筆記(DK510082k-0001)
第51巻 p.306-307 ページ画像

粟津清亮談話筆記             (財団法人竜門社所蔵)
                   昭和十五年九月六日、於東邦火災保険株式会社社長室
    日本傷害保険の創立に就て
 私は予ねてより傷害保険と云ふものは生命保険に次いで重要な保険であるから、之を我国に拡張したら好いと思つて居りました、それで明治三十三年外国に行つたときにも、之に就て色々と研究したのであります
 明治四十年頃オランダのフイデス保険会社が来朝し、傷害保険をやらうとして農商務省に認可を申請しました、外国人に先鞭をつけられてはならぬと思ひましたので、私は急いで同志を糾合し色々と設計して、翌四十一年認可申請を致しました
 傷害保険は当時我国では未だ新しい保険でありましたから、誰れか知名の人に援助を頼みたいと思つて居りました、当時大阪に範多商会(E・H・ハンター氏の創立に係る)と云ふのがありましたが、この商会の当主の息竜太郎氏は色々と援助して呉れました、四十三年六月に認可がありました、実に三年余を要したのであります、そこで株式募集に奔走致しました、当時私は専修大学の講師をして居りましたので、学長の阪谷男爵に会ひ訳をお話して、同氏から渋沢男爵にたのんで下さる様に云ひますと、八十島親徳氏に直接会つて云つてくれと云ふことでした、それで阪谷男爵の御口添えで兜町の事務所に行き、先づ八十島氏にお会ひし、次いで渋沢男爵とお会ひしました、男爵にお話しますと男爵は、それは好いことだが新しいことだから却々困難だしかし行く行くは繁栄するだらうと仰言つて、明治十年東京海上保険創立のときの話をして下さいました、そして男爵は、私は安田とか大倉とか云つたような資本家ではないから、沢山の株は持てないが少し位なら持つて上げようと仰言つて、二百株程持つて下さいました、そして他の人を紹介して上げると仰言つて服部金太郎・日比谷平左衛門・大橋新太郎・森村市左衛門等の諸氏に紹介して下さいました、又当時矢野恒太君なども傍らから援助して呉れました
 そこで渋沢家に関係のある横山徳次郎氏に常務取締役になつて貰つて出発致しました、渋沢男爵には顧問になつて頂きました、そう云ふ訳で男爵には時々お目にかゝりました、その高き人格と深い経済上の経験に接して私共は尊敬措く能はざる状態でありました、初めは新しい事業のことゝて配当も出来ませんでしたが、海上保険・火災保険の再保険をやり、次いて欧洲大戦の余波を受けた好況時代に際会して、船客・乗組員等の保険をやり、又大工場の従業員等の保険をやつて居
 - 第51巻 p.307 -ページ画像 
る中に成績は漸次向上し、終には一割以上の配当をすることが出来るようになりました、その中に横山氏は隠退し私も隠退致しました、不動銀行の牧野元次郎氏の手に株の大半が移つたからであります、その中渋沢子爵と当社との関係も切れました、しかしその当時渋沢子爵の推薦によつて株主になつた人達で、今日未だ見受けられる人もあると思います、儲かる仕事だと途中からやつて来て横取りするやうな実業家は多いのでありますが、渋沢子爵のように儲かつても儲からなくても国家の為めに将来性のあるものならば援助すると云つた様な方は真に稀れなのであります、日本実業家の間に超然として、理想を実行されたことは私共の感佩措く能はざるところであります、子爵は多少遺憾に思はれても決して不愉快な言葉をおかけになりませんでした、常に情愛を込めた御待遇を受けたことは終生忘れることが出来ません、私は余り出席は致しませんが、竜門社の会員となつて今にその余香を偲んで居ります


損害保険研究 第四巻第一号・第二三〇―二三一頁 昭和一三年二月 我国火災保険会社の沿革(其二) 疋田久次郎(DK510082k-0002)
第51巻 p.307-308 ページ画像

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