デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

2章 交通・通信
2節 陸運
4款 上武鉄道株式会社(秩父鉄道株式会社)
■綱文

第51巻 p.516-522(DK510110k) ページ画像

明治44年11月12日(1911年)

是ヨリ先、当会社経営不振ニ陥リ、栄一ニ援助ヲ請フ。栄一、諸井恒平等ヲ派遣シテ調査セシメ、四十万円ノ優先株ヲ発行シ、予定線ノ敷設ヲ完成セシム。是日栄一、長瀞ニ於ケル其開通式ニ出席シ、演説ヲナス。

尚、当会社ハ大正五年二月、秩父鉄道株式会社ト改称ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四三年(DK510110k-0001)
第51巻 p.516 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四三年       (渋沢子爵家所蔵)
一月十七日 曇 寒
○上略 二時上武鉄道会社ノ事ニ付現役員及山中・諸井・其他ノ諸氏来リ会ス、優先増資ノ事ヲ談ス○下略
   ○中略。
六月七日 晴 暖
○上略 午後三時第一銀行ニ抵リ佐々木氏ト行務ヲ談ス、後事務所ニ抵リ上武鉄道会社ノ事ニ関シ山中・諸井・柿原・中村諸氏ト談話ス、蓋シ今朝加藤政之助氏来リ、東武鉄道会社根津氏ノ企望ニヨリテ上武線買収ノ談ヲ申出ラレシニヨリテ、其得失ヲ協議スルナリ、一同ノ意見一致セシニヨリ、加藤氏ヘ回答ノ事ヲ打合ハセテ散会ス○下略


諸井恒平談話筆記(DK510110k-0002)
第51巻 p.516-517 ページ画像

諸井恒平談話筆記             (財団法人竜門社所蔵)
                     昭和二年七月廿一日於秩父セメント株式会社
秩父鉄道と子爵との御関係の始まりは、明治四十二・三年の頃です。それは子爵がアメリカへ実業団の団長としてお出掛になつた年で、其御出発前です、秩父鉄道は其時分上武鉄道と云ひまして、土地の人々によつて計画されたものです。
其の目的は埼玉県の熊谷から秩父町(其時分秩父大宮町といつた)迄の間約卅哩の鉄道を敷設する事に在つたのです。ところが其の中の十二哩ばかり、熊谷から波久礼までの間の鉄道を敷設した時資金つき、其上営業成績は辛じて二分配と云ふ訳で、当初の目的地まで鉄道を入れる事が出来なくなりました。其の結果竹井淡如・中村孫兵衛(此人は当時郡長をして居た)の二人が地方を代表して子爵に御尽力を懇願しに来たのです。
其時子爵は「見込あるものなら後援してやり度い。目的の大宮町まで敷設して果して採算あるものかどうか調査して見なければ判るまい」との御答であつた。これに対して二人の代表者は、自分等の調査書を示して其の採算のあることを申述べたのですが、子爵はなほ細密な調査に依つて其の正否を確める為に、私と最早故人となつた山中隣之助
 - 第51巻 p.517 -ページ画像 
と云ふ人とに此仕事を命ぜられたのです。
そこで私等二人して専門的経験ある人を頼んで調査させた結果、大変見込がある。此の鉄道は延長して採算が取れない事はない、代表者から出した計算書に間違なしといふ報告を得たので、早速この事を子爵に復命したのです。依て子爵は此の線路の延長敷設に徹底的に力添へしやうと云ふ事を決心された次第です。
其方法として従来の六十万円の資本金を百万円に増資し、四十万円の新株を優先株とし、さし当りこれに依つて七哩を延長して金崎と云ふ所迄敷設しやうと云ふことにされ、尚優先株には年八分の優先的利益配当を与へる外、其残りの利益金は優先・普通の両種の株に均当に配当することになつたのです。そして其延長線の敷設完成したのは大正元年か二年でしたが、開通の結果は予期の成績を挙げることが出来たのです。そこで更に進んで金崎から目的地の大宮町まで七哩を延長し再び四十万円の優先株募集を敢行して、遂に最初計画した鉄道全線の完成を終へました。そして此時も予期通りの好成績を得たのです。
会社は此の間にあつて前後二回の開通式を行ひました。一回は金崎迄延長した時、一回は金崎から目的地の大宮町迄敷設した時です。子爵は二度とも式に臨場されて一言の祝辞を述べられました。
そこで今度残つて居る仕事は優先株の整理ですが、会社は普通株六十万円を四十万円に切下げて、優先・普通の両株の区別を除き全く平等にしてしまひました。だから資本総額は結局百二十万円となり、その後は平均年一割二分配当と云ふ全く予期以上の結果を見るに至つたのであります。
当初普通株の株主は利益を挙げ得やうなどゝは夢にも願はず、全然犠牲になつてもよろしいから延長計画を達し度いとまで子爵に願出たのでしたが、それを全部切捨てることなかつたばかりでなく、一割二分の配当に均霑する事が出来たのは子爵の賜であると今日でも喜んでゐる次第です。以上の様な関係で、私と山中君とは第一回の優先株が出来上ると同時に取締役に就任しました。残念ながら山中君は既に故人になられて私一人其地位に留ることになり、一昨年の暮からはこうやつて社長の椅子に就いてゐる次第です。尚子爵と秩父鉄道との御関係から、現在では正雄○渋沢さんが取締役として勤めて居られます。


竜門雑誌 第二八三号・第四五頁明治四四年一二月 ○青淵先生上武鉄道延長開通式に臨まる(DK510110k-0003)
第51巻 p.517-518 ページ画像

竜門雑誌 第二八三号・第四五頁明治四四年一二月
○青淵先生上武鉄道延長開通式に臨まる 去明治四十三年同社増資の際より、青淵先生が特に尽力せられたる上武鉄道延長線波久礼・秩父間の開通式は、十一月十二日午後一時宝登山駅附近にて秩父赤壁の称ある長瀞の勝地にて挙行されたり、当日同社に於ては熊谷駅より別仕立の列車にて青淵先生を迎へて式場に案内し、定刻に至るや柿原取締役の式辞、島田埼玉県知事の祝辞に次きて青淵先生の演説あり、三時式を終り直ちに園遊会に移り、頗る盛会なりしと云ふ、青淵先生は四時閉会と共に直に帰途に就かれ、其夕無事帰邸せられたり。
 因に秩父は武州の西偏、古来知々夫の国と称し、鉱物・山林・織物の産地として聞ゆ、今回延長せる波久礼・秩父間は其距離僅かに六
 - 第51巻 p.518 -ページ画像 
哩九分なれど、漸く秩父連山の富源に迫り交通を便益にせる事少なからず、昨年十月一日起工以来一年に亘る難工事、其経費三十九万円、同地方は狩猟地としても有名なり。
   ○栄一演説筆記ヲ欠ク。


渋沢栄一 日記 明治四四年(DK510110k-0004)
第51巻 p.518 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四四年     (渋沢子爵家所蔵)
十一月十二日 晴 寒
午前六時半起床入浴シテ朝飧ヲ食ス、八時二十七分王子発ノ汽車ニテ上武鉄道会社新線開通式ニ出張ス、諸井・山中・加藤ノ諸氏同車ス、浦和駅ヨリ島田知事及其随行者数名同車ス、十二時長瀞ニ抵リ、式場附近ニテ車ヲ下リ、人車ニテ式場ニ抵ル、荒川沿岸ニ設ケテ風景佳良ナリ、来会スル者頗ル多シ、式ハ重役ノ式辞、鉄道院総裁・県知事・県会議長・郡長等ノ祝辞アリ、最終ニ株主代表ノ資格ニテ一場ノ演説ヲ為ス、式畢テ園遊会ヲ開キ、露店ニ付テ午飧シ、後宝登山神社ヲ参詣シ、午後五時発ノ汽車ニテ帰京ノ途ニ就ク、夜九時王子着ニテ帰宿ス○下略
   ○上武(秩父)鉄道株式会社第弐拾六回報告(自明治四拾五年壱月至同年六月)ニ優先株売譲渡二〇〇株トシテ栄一ノ名見エ、更ラニ第参拾弐回報告(自大正四年壱月至大正四年六月)ニ同ジク優先株売譲渡八〇〇株トシテ栄一ノ名見ユ。


青淵先生関係会社調 雨夜譚会編 昭和二年八月五日(DK510110k-0005)
第51巻 p.518-521 ページ画像

青淵先生関係会社調 雨夜譚会編 昭和二年八月五日
                  (渋沢子爵家所蔵)
    秩父鉄道株式会社
一、創立   明治廿七年四月十日本社の創立を出願し、同廿九年六月廿二日逓信大臣より仮免状を受け、線路測量に着手し、必要の書類を調製して免許状の下付を申請し、同三十年十一月十二日逓信大臣より本免状を受け、同三十二年十一月八日本会社設立の登記を受けたり(第一回報告書)
一、資本金  九十万円(創立当時)
       六十七万五千円(明治卅九年収益の見込立たず減資)
       六十万円(同四十一年収益なく減資)
       百万円(同四十三年工事拡張の為増資)
       百四十万円(大正五年工事拡張増資)
       二百万円(同八年工事拡張増資、但し内訳を示せば最初の六十万円の部を四十万円に減資し、従来百四十万円の資本金を百二十万円に減じこれを二百万円に増資)
       五百五十万円(同十一年北武鉄道株式会社を合併増資)
       千二百万円(昭和二年線路の新設改良、車輛増備の為め増資)
一、場所   東京市日本橋区堀江町四の三(創立当時)
       同 下谷区元黒門町二八(明治三十三年二月此処に
 - 第51巻 p.519 -ページ画像 
移転)
       埼玉県大里郡寄居町(同三十六年六月此処に移転)
       埼玉県大里郡熊谷町(同四十四年七月此処に移転現在に至る)
一、創立当時の関係人
       ○明治廿九年十月廿七日専務取締役に柿沼谷蔵氏、取締役に阿部孝助・小島精一・笠間靖・柿原万蔵の四氏、監査役に福島七兵衛・松本平蔵・堀越寛介・松本与作・南条新六郎の五氏、上任せり(第一回報告書)
       ○明治三十二年九月廿三日専務取締役柿沼谷蔵氏、取締役阿部孝助・小島精一・笠間靖の三氏、監査役南条新六郎・松本平蔵・堀越寛介・松本与作の四氏辞任し、専務取締役に柿原万蔵氏、取締役に松本平蔵湯本友蔵の両氏、監査役に大谷源造氏上任せり(同じく第一回報告書)
一、青淵先生との関係 諸井恒平氏談参照
一、創立目的 ○埼玉県の熊谷から秩父大宮町に至る約卅哩の鉄道を敷設することに在つた(諸井氏談)
       ○本会社は鉄道を敷設し旅客・貨物の運輸の業を営むにあり(定款第二条)
       ○本会社は鉄道を敷設し旅客・貨物の運輸並に石灰石の採掘・加工及販売を営むを以て目的とす(大正六年八月の改正定款第二条)
       ○本会社は鉄道を敷設し一般運輸営業を為し其事業の発展上必要なる遊園地及水道の経営、並びに石灰石の採掘加工販売其他の附帯事業を営むを以て目的とし、尚関係事業に対し投資を為すことを得るものとす(大正十五年七月改正定款)
一、創立迄の沿革 特筆する事なし、略す
一、創立後の沿革
       イ明治廿九年十月廿六日、東京市日本橋区浜町一丁目日本橋倶楽部に於て株主創業総会を開き、創業費の承認、仮定款、重役の俸給等を決議し、役員の選挙を行ふ
       ロ同三十二年十二月十日より地所買収に着手
       ハ同三十三年四月廿二日熊谷町大字石原松村楼に於て起工式を挙行
       ニ同三十四年九月廿一日熊谷寄居間工事竣功届書を鉄道局に提出
       ホ同年十月七日熊谷・寄居間運転開始
       ヘ同卅六年四月一日寄居・波久礼間の工事竣功に付、其筋の監査を経て運転開始の許可を得、同二日より開始
       ト同卅八年は運転開始以来四年を経るに、業績振はず全く無配当を継続。なほ三十五年下半・卅七年上半
 - 第51巻 p.520 -ページ画像 
には各千百二十円、二百三十七円の失損を出す。斯くて卅八年下半期決算に於て後期繰越金僅々八千二百四円を得。
        因て卅八年十一月五日臨時総会にて資本金を六拾七万五千円に減ずることを可決
       チ同年十一月八目は熊谷・大宮間線路完成の予定期日なりしも、経費関係にて工事遅延。已むなく既成線を熊谷・波久礼間に短縮
       リ同四十一年二月二十八日再び臨時総会に於て減資を決議、資本金を六十万円とす
       ヌ同四十三年二月廿七日臨時総会に於て百万円に増資し、四十万円の優先株を募集することを決議
       ル同年上半期決算に於て初めて利益配当を得。爾後業態改まり配当を継続(諸井恒平氏談参照)
       ヲ同四十三年七月十五日より波久礼・金崎間の延長鉄道敷設工事を開始。四十四年九月十一日主なる工事を完成。引続き藤谷淵(波久礼と金崎との間に在り)より大宮迄の鉄道敷設を行ひ、大正三年愈々完成開通
       ワ大正五年二月廿五日の臨時総会に於て、第二優先株式四十万円募集の件を決議
        同時に名称を秩父鉄道株式会社と改称
       カ同六年九月十日同社に於て石灰石業兼営の件に就き主務官庁の認可を得
       ヨ同年九月秩父影森間の延長線完成開通
       タ同八年二月廿八日の臨時総会にて六十万円の普通株式と八十万円の優先株式との差別を撤廃するため普株式中の二十万円を減資切捨(諸井恒平氏談参照)同時に八十万円を増資して、結局二百万円の資本金と成す
       レ同九年二月二十六日臨時総会に於て、影森・白久間延長線敷設の件を決議(但しこの線は昭和二年八月現在未完成)
       ソ同十一年五月二十二日の臨時総会にて、北武鉄道株式会社を合併の決議に伴ひ、資本金五百五十五万円に増資するの件を可決
       ツ同年三月末に運輸列車の電化を完成。この事業は大正八年に計画着手されたるもの
       ネ同十五年七月卅一日の定時総会に於て、資本金を千二百万円に増資することを決議
       ナ一般運輸営業の外に、長瀞その他の遊園地及水道の経営並に《(石灰石の脱カ)》採掘・加工・販売等の附帯業務を営み、尚関係事業に投資する迄に事業を拡張
最後に明治四十三年の増資後、即ち青淵先生が援助される様になつた
 - 第51巻 p.521 -ページ画像 
以後の業績を総括するに、四十三年上半期決算に於いては同会社創立以来最初の利益配当を行ひ、爾来配当を続行してゐること前述の通りである。今第一回利益配当率を示せば左の如くである。
 優先株の先取権に対し年八朱
 普通株・優先株の両株に対し平等当配年一朱三厘六毛
斯くて業態一新して、行悩んでゐた波久礼・大宮間の鉄道敷設も着々進捗し、大正三年にはその完成を見た外、明治四十三年七月には藤谷淵・金崎間の分岐線をも開通した。なほ鉄道は目下漸次延長線工事中にある。而して大正十一年には列車の電化を実行し、電気機関車の運転を開始し、列車を増発する傍、乗客の吸収を計るために長瀞の勝景を利用して遊園地を設備する等、明治四十年頃の悲境を回顧して社業業蹟に隔世の感なきを得ない。
一方附帯業務として秩父山地の石灰石採掘・加工・販売を行ひ、水道事業を計画実行するに至つた。
この間本業たる鉄道運輸業務に於ては北武鉄道会社を買収合併し、資本金も昭和二年現在では千二百万円に膨脹し、上武鉄道株式会社として誕生した際の資本金九十万円に比較して、将に十三倍を突破してゐる次第である。



〔参考〕日本鉄道史 鉄道省編 中篇・第六三三―六三四頁大正一〇年八月刊(DK510110k-0006)
第51巻 p.521 ページ画像

日本鉄道史 鉄道省編 中篇・第六三三―六三四頁大正一〇年八月刊
 ○第十四章 第三節 新設鉄道
    第三十二 上武鉄道
明治二十二年六月、群馬県高崎町矢島八郎外二名ハ資本金二十万円ヲ以テ、埼玉県熊谷町ヨリ秩父大宮・小鹿野ニ至ル武陽馬車鉄道ノ創立ヲ願出テ、二十四年三月特許ヲ得タリシカ、線路実測著手ノ延期ヲ願出テタルモ不許可ト為リ、十月特許状ノ返納ヲ命セラレタリ、越エテ二十七年ニ至リ東京市村上彰一外三十八名ハ武陽馬車鉄道ノ線ヲ襲キ四月十日ヲ以テ上武鉄道ヲ発起シタリ、即チ日本鉄道線熊谷ヨリ田中寄居・皆野ヲ経テ大宮郷ニ至ル約三十哩ノ本線ト、田中ヨリ分岐シ比企郡小川町ニ至ル約八哩ノ支線トヲ経営スルモノニシテ、資本金ヲ一百二十万円トセリ、然ルニ同日ヲ以テ入間郡川越町竹谷兼吉外十四名ハ埼玉鉄道ヲ発起シ、資本金一百五十万円ヲ以テ日本鉄道線大宮停車場ヨリ川越・松山ヲ経テ小川ニ至リ、寄居ヲ経テ大宮郷ニ達スル約五十哩ノ線ヲ願出テタリシカ、二十九年四月却下セラレ、同月上武鉄道発起人ハ目論見変更願書ヲ提出シ、田中・小川間支線ヲ削リ熊谷・大宮郷間三十哩ノミトシ、資本金ヲ九十万円ニ改メタリ、之ニ対シ六月仮免状下付セラレ、三十一年十一月十二日免許状下付セラレタリ
明治三十四年十月七日熊谷・寄居間十一哩五十二鎖開通シタリ、此際起点熊谷ニ於ケル業務ハ日本鉄道株式会社ニ委託セリ、三十六年四月二日寄居・波久礼間二哩四十三鎖亦開通シタリ



〔参考〕日本鉄道史 鉄道省編 下篇・第五六八―五七〇頁 大正一〇年八月刊(DK510110k-0007)
第51巻 p.521-522 ページ画像

日本鉄道史 鉄道省編 下篇・第五六八―五七〇頁 大正一〇年八月刊
 ○第二十章 第二節 既設鉄道
    第十四 上武鉄道
 - 第51巻 p.522 -ページ画像 
上武鉄道ハ熊谷・波久礼間十四哩十五鎖ヲ営業シタリシカ、明治四十四年二月十六日軽便鉄道法ニ依リ主務大臣ノ指定ヲ受ケ、爾来同法ニ依拠スルモノト為レリ
会社ノ資本金ハ六十七万五千円ナリシカ、明治四十一年ニ於テ六十万円ニ減資シ、四十三年ニ於テ之ニ四十万円ヲ増シ優先株ヲ募集シタリ払込額ハ四十三年ニ於テ合計七十万円ニ達シ、建設費ハ六十万四千八百四十八円ヲ算シ、外ニ未成線ニ投シタル建設費ハ十万千四百三十七円ニ上レリ、同年ノ車輛ハ機関車三輛・客車十一輛・貨車二十輛ニシテ、旅客十八万六百六十三人・貨物八万七千六百五十五噸ヲ輸送シ、営業収入ハ五万四千五十円、営業費ハ四万三千七百九十四円ニシテ、益金ハ建設費ノ一分七厘ニ相当シ、同年ニ於テ優先株ニ対シ上半季九分四厘、下半季九分、普通株ニ対シ上半季一分四厘、下半季一分ヲ配当セリ
明治三十九年二月以来取締役社長柿原万蔵外取締役五名、監査役藤田善作外七名在任シタリシカ、明治四十年二月総員ヲ改選シ取締役五名監査役三名ヲ選挙シ、柿原定吉ヲ社長ニ互選セリ、然ルニ役員中ニ失格者又ハ辞任者生シ取締役三名、監査役一名ト為リシカ、四十一年二月監査役二名ヲ補欠シタリ
明治四十四年四月野上ヨリ分岐シ国神字金崎ニ至ル軽便鉄道ノ免許ヲ受ケ、九月十四日波久礼・本野上間及本野上・秩父(金崎)間六哩六十九鎮開通シ、尋テ分岐点ヲ宝登山ニ改メ、大正三年十月二十七日宝登山・秩父(大宮郷)間七哩五十七鎖開通シ、支線秩父(金崎)ヲ国神ト改称シ、五年一月再ヒ分岐点ヲ国神(藤谷淵)ニ改メ、支線国神(金崎)ヲ荒川ト改称シ、同時ニ旧支線ノ一部ヲ廃シ、又五年六月秩父・影森間ノ免許ヲ受ケ、六年九月二十七日該区間二哩二十鎖開通シ全線三十哩二十六鎖ト為レリ
上武鉄道ハ大正五年秩父鉄道ト改称シタリ