デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

2章 交通・通信
2節 陸運
6款 東京地下鉄道株式会社
■綱文

第51巻 p.535-542(DK510112k) ページ画像

大正6年1月16日(1917年)

是日、早川徳次・坂本三郎、栄一ヲ訪ヒ、東京地下鉄道敷設計画ニ付キ詳述シテ、創立委員長タランコトヲ乞フ。栄一受ケザルモ、爾来早川徳次等ノタメニ種々斡旋後援スルトコロ多シ。


■資料

渋沢栄一 日記 大正六年(DK510112k-0001)
第51巻 p.535 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正六年        (渋沢子爵家所蔵)
一月十六日 晴 寒
○上略 阪本三郎《(坂本三郎)》・早川徳次氏来リ地下電鉄ノ事ヲ談ス○下略
   ○中略。
一月二十五日 晴 寒
○上略 阪本三郎・早川徳次二氏ノ来訪アリ、地下鉄道ノ事ヲ談ス○下略


東京地下鉄道史 東京地下鉄道株式会社編 乾・第三三―五〇頁昭和九年六月刊(DK510112k-0002)
第51巻 p.535-540 ページ画像

東京地下鉄道史 東京地下鉄道株式会社編 乾・第三三―五〇頁昭和九年六月刊
 ○出願時代
    一、渋沢子爵の賛同
 斯くて、苦心惨憺たる調査研究の結果、東京軽便地下鉄道の設計目論見書は作られた。こゝに他人を説得するに足る根拠を掴んだ早川氏は、この事業に一生を打ち込んで犠牲となる覚悟をきめ、いよいよ地下鉄道創設に取掛つたのであるが、取掛つて見るとなかなか容易のことではなかつた。何と云つても当時の早川氏は、未だ白面の一青年に過ぎず、大実業家としての貫禄があるではなし、実業界に有力な知己があるでもなかつた。早川徳次の名によつては、鯱鉾立しても、到底この大事業に要する資本を集めることは不可能のことで、実業界の賛同を得ることも、社会を成る程と肯かせることも出来なかつた。そこで、この事業を成功させやうと思へば、どうしても人格徳望の高い大実業家の力に俟たねばならない。看板ともなり、指導者ともなり、実業界を纏め、社会を首肯させるに足る大実業家を頭に戴く必要があるその人を得ると否とは、やがてこの事業の運命の分るゝ所であつた。而かも、この事業は只大事業であると云ふに止まらず、実に社会公共と密接な関係をもつた事業であるから、この表面に立つ実業家は、如何に手腕のある者であつても、敵の多い人ではいけない。もし敵を多くもつた実業家にこの事業を持ち込んだら最後、それはこの事業を墓場に持ち込むと同じで、出来るものも出来なくなつてしまふことは火を睹るよりも瞭らかである。斯く考へて見ると、この人選はなかなかむづかしい。早川氏もこの人選には悩み抜いた。併し、この人選がこの事業を創める上での根本先決の大問題であつたから、創立者としての早川氏の熱と力とは今やこの一事に集中されて、結局、実業界の大御所子爵渋沢栄一翁の如き財界の大人物を動かすより他はないと云ふ
 - 第51巻 p.536 -ページ画像 
結論に達した。渋沢子爵はこの時既に実業界を隠退した後であつたが併し、その声望は財界の大御所として正に国宝的存在であつた。もし子爵がこの事業を諒解し、援助と指導を承諾せらるゝならば、この事業は半ば成立したも同じである。斯く目標人物は定つても、残念なことに、早川氏は子爵と公会の席上で会つたことはあつても、個人としては一面識もなかつた。財界の大御所を白面の青年が、卒然として訪問しても無駄なことは明らかであつた。如何にして会見すべきか。如何にしてこの話を持ち込むべきか。先づこの点に早川氏は途方にくれた。
 併し窮すればまた通ずである。この時早川氏に旨い考へが浮んだ。渋沢子爵は故大隈侯と維新以来の親しい友人である関係から、早稲田大学に取つて最も大きな後援者で、而も同大学の維持員会々長であつた。為めに、早川氏の恩師高田早苗博士は渋沢子爵と学校の経営上に於て深い交渉を持つてゐた。その上高田博士は渋沢子爵と同郷人であつたから、博士と子爵は辱知懇親以上の間柄であつた。これを憶ひ起して見れば、早川氏に取つて財界の大御所も全く無縁の人でなく、一抹縁故の糸は母校を通じて繋がれてゐた。藁をも掴もうと云ふこの際これこそ早川氏に取つて掴むべき唯一の手懸りであつた。思ひ及んでこゝに至つた早川氏は、はたと膝をうつて、恩師高田博士の紹介を得て渋沢子爵に会見しようと意を決した。これは最も機宜に適した途であつて、久しく地下鉄道計画の行く手を閉してゐた運命の帳は、之によつてかすかながらも開かれ、前途に一道の光明が認められた。
 早川氏が高田博士を国府津の別荘に訪問したのは大正六年一月十一日のことであつた。これは麗はしい師弟歓談の一場面であつた。早川氏は早速その立案計画しつゝある地下鉄道に就て述べ、収支の計算等を示して、この事業の根拠の確実なることを説いた。さうしてこの事業は大事業であること、社会公衆と密接な関係のあることは勿論、東京市の交通機関完備の上にも必須の事業であることを強調し、この事業を成功させるには、どうしても渋沢子爵の出馬を煩はす外はないことを力説し、この事業の成否の分岐点は、子爵の諾否によつて決せられる運命にある旨を述べ、是非ともこの際、子爵の諒解指導を得たいと衷情を披瀝して語り、子爵を動かす為には是非、博士の紹介を得たいと懇請したのであつた。
 高田博士はこれを聞いて、早川氏の地下鉄道計画に満腔の賛意を表した。元来、博士は聡明な人で、その上、既に欧米を漫遊して、地下鉄道の必要なる所以をよく知つてゐた。従つて諒解することも早く即座に承諾して、氏の面前で渋沢子爵へ宛てた紹介状を書いた。而かも門下を思ふの情は単に紹介状のみでは気が済まず、同時に早川氏の為人や、事業の計画概要を述べて、自分の賛成する理由を明らかにした長文の書翰が認められた。○中略
 明くればいよいよ一月十三日の朝九時、早川氏は約に従つて坂本氏と共に、滝野川の渋沢子爵邸を訪ねた。高田博士の書翰は果して効顕があつて、子爵はこの来訪を予期してゐたのみならず、要件についてすら諒解してゐたのであつた。子爵は快く両人を引見し、地下鉄道事
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業に関する調査報告意見書、並に収支計算等について、早川氏が今日迄の蘊蓄を傾むけて熱心に説明するのを、極めて綿密に聴取した。子爵はその事業の緊要なること、その調査研究の妥当適正なることを認め、早川氏の熱意に動かされて賛意を表した。殊に子爵は東京市参与となつて東京市政に携はつて居る関係から、市政に関すること、都市の施設に関することには特に関心を持つて居たので、「高速度鉄道を東京市内に敷設して交通機関の完備を計ると云ふことは最も必要なことと思ふ。」と賛同したのであつた。併し、斯くの如く莫大なる資本を要する大事業を、この貧弱な日本の経済状態に於てやり遂げると云ふことは容易なことでない、と前途の困難を予言し、尚この事業が資本関係のみにて成立するものでない事に説き及び、鉄道院・内務省・東京市、その他の監督官庁の諒解を得て置かなくてはならないことを指摘した。これに就ては「自分が鉄道院総裁後藤新平伯・東京市長奥田義人氏等に会つて、政府や市当局の意のある所をよく聞いてあげやう。」と気さくに援助と世話とを引受けた。併し、よし当局の諒解は得ても、まだそれ丈けではこの事業は成立しない。「この事業は大事業であるから、誰れか力あり信用ある立派な人物を頭に戴かなければその成立は覚束なからう」とは子爵の意見であつた。早川氏の渋沢子爵訪問の眼目もこれであつた。早川・坂本両氏は口を揃へて、「我々もさう考へたが、なかなか適任者と思ふ人がない。人選に悩んで、結局子爵の出馬を願ふ外ないと云ふ結論に達した。」と、これが今日訪問した要件の眼目であつたと述べ、是非社会公共のため、この事業の斡旋指導を得たいと、熱誠込めて子爵の奮起を懇請した。併し七十一歳の時に、一切の関係事業をやめて実業界から隠退してしまつた子爵はその時、只社会公共のためになる社会事業だけをやつて行かうと決心して、今日までその決心通り実行してゐるので、今この懇請に会つても更に応諾の色はなかつた。「今更、この地下鉄道事業が如何に国家社会のため、東京市のために最も必要な事業であるとしても、この事業を引受けて実業界に復帰することは出来ない。」とは子爵の意嚮であつた。子爵の奮起の望みは畢竟無理であつた。併し、子爵は無下に拒絶したのでも、素気なく逃げを張つたのでもなかつた。自分に代る適当な人物を推薦しようと、この点に対しても、子爵は好意ある態度を示した。推薦したのは、その頃東京市会議長であり、東京商業会議所会頭であつて、また実業界の長老であつた中野武営氏であつた。「中野氏こそ最も適任だと思ふ。併し、この人は容易に引受けてくれない人だから、これは先づ私から話して見てあげやう。」と子爵は中野武営氏への交渉をも引受た。斯くて早川氏等の渋沢子爵訪問の目的たる子爵の奮起を促し、担ぎ出しには失敗したが、子爵の好意ある裏面の指導と援助を得るに成功し、且つ子爵に代る人物を得ることになつたので、この訪問は大成功であつた。この会談を了つたのは正に十一時二十分過ぎで約二時間半の長きに及んだ。その間子爵は熱心に早川氏の説明を聞き、その事業を成功させるためにいろいろ適切な注意をし、乗気になつて多忙の中を各方面への交渉まで引受たのであつた早川氏が帰朝以来続けて来た努力はこゝに初めて酬いられた。山師だ
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法螺吹きだと世間から相手にされなかつた計画が、財界の大御所から認められた。子爵の賛同と尽力を得たことは、やがて財界で仕事が緒についたと同じであるから、早川氏たるもの感涙を浮べて勇気百倍したことは想像に難くない。
 会談を終つて辞去する両氏をわざわざ玄関まで送つて出た子爵は、こゝでもまた、子爵が初めて外国へ行つた時紡績事業をもつて来たことを話し始めた。これが日本へ紡績事業をもつて来た初めであつて、それを今日までにするには、子爵は非常な努力と犠牲を払つてゐた。「何んでも最初の事業を成功の域に達せしめるのは容易のことではない。この大事業をやり遂げやうと云ふには、余程大決心をもつてしつかりやらねば」と自分の過去の経験を語つて激励するのであつた。冬の寒い日に、火の気のない玄関先で十数分間もの立話は、老体に対して只恐縮するばかりであつた。爾来、早川氏は渋沢子爵の高徳に感激瞻仰し、その高風を欣慕して止まない。今でも当時を回顧して感激の新なるを覚ゆると云ふ。
 私が東京地下鉄道の創案をもつて渋沢子爵を訪問した時、多忙な子爵は初対面の一青年の話を二時間以上も熱心に聞かれ、親身になつて相談に乗られた。なほ辞去する時は玄関まで送つて出られ、その寒いところで老齢の身をも顧みず、十数分間も、初めての事業はなかなか困難なもので、しつかりやらねばいかぬと激励し、訓戒されたのであつた。私は子爵の熱心な指導精神を感じ、日本国家の発展のため、東京市のため、我が国実業界のために、如何に熱心に考へてゐるかを知つて、感激措くあたはず、同邸の門を出ても涙の滲み出るのを禁じ得なかつた。(早川徳次氏談)
○中略
    二、中心人物物色難
 滝野川邸にて会見の後数日を経て、その後の経過を聞くため、早川氏は渋沢子爵を兜町の事務所に訪ねた、子爵の語るところによれば、鉄道院総裁後藤新平伯は満腔の賛意を表したので、これによつて忖度すれば、政府当局方面の空気は無難であることが明らかである。一方東京市長の奥田義人氏も大体は賛成であつたが、尚、早川氏に面会して、その設計の内容、将来に対する希望等詳細に聞いた上で確答すると云ふことで、何事にも慎重に石橋を叩いて渡る奥田市長として無理もないことであつた。「至急奥田市長を訪問して、よくその計画内容を説明して来てくれ」とは、これに対する子爵の指示であつた。この指示を受けた早川氏は早速東京市役所に奥田市長を訪問して、その計画の大要を述べて熱心に説明したのであつたが、繁激な市長の職務は長くこの説明を聞いてゐることを許さなかつた。奥田市長はこの時も尚即答を避けて、「詳細のことを聞きたいから、三番町の私邸に明朝訪ねてくれ」と希望した。
 そこで早川氏は翌朝奥田市長を三番町の奥田邸に訪ふて、設計の内容を逐一説明し、今後東京市としてこれが敷設の必要なる所以を、二時間に亘つて詳述した。○中略
 この時、奥田市長の東京市とこの事業との関係に対する見解によれ
 - 第51巻 p.539 -ページ画像 
ば○中略 奥田市長は地下鉄道を東京市営にする意なきを明らかにし、殊に事業の性質上民営とするを当然とするとの意嚮を示した。「殊に渋沢子爵から懇々の御話もあるから、自分も出来るだけの援助は惜しまぬつもりである。」と充分の好意を示し、折角東京市のため、この事業を完成するやう奮闘せよと早川氏を激励したのであつた。
○中略
 斯くて、早川氏の奥田市長との会見は大成功を収め、市長の賛成を得たのみでなく、市会議員の賛同を求める六韜三略の虎の巻まで授けられたのであつた。早川氏は百万の援兵を得たやうな気持で、渋沢子爵に報告に行つたところが、行つて見ると子爵はもう知つてゐた。子爵のもとへは奥田市長から早川氏に会つた模様を伝へ、賛成したからと云ふ挨拶の電話であつた。
○中略
 斯くて地下鉄道に対する政府並に東京市の、両当局の意見も判然とわかつたので、今はこの事を進める上に代表者となる中心人物を得ることが急務となつた。渋沢子爵も「この上は中野武営氏に話してあげる」と橋渡の労を取つて呉れた。こゝに於て早川氏自身が中野氏に会ひ、事業の説明をして賛成を求め、この事業を主宰することの承諾を得て、その指揮に従つて活動する手順となつた。
 渋沢子爵の橋渡しの後、早川氏は東京商業会議所に中野武営氏を訪問して計画に就いて詳述し、同氏の賛同を求め、進んで委員長たらんことを懇請したのであつた。之れに対して中野氏は事業そのものに就いては大に賛成したが、東京市会議長の職にある為に委員長を引受けることについては難色があつた、○中略 斯くて渋沢子爵が白羽の矢を立てた中野氏は、結局市会議長たる立場上から、委員長たるの承諾を得ることは出来なかつた。○中略
 併し○中略 早川氏は○中略 故大隈侯爵・故渋沢子爵等の紹介で、諸葛小弥太・早川千吉郎・村井吉兵衛・大橋新太郎・森村開作・豊川良平・志村源太郎・仙石貢・小池国三・添田寿一・神戸挙一等の諸氏に会つて、地下鉄道の必要を説き、一方には同郷の先輩で早川氏が高野鉄道支配人として就職中、同社の社長であつた根津嘉一郎氏等に、その計画を説明して賛同援助を求め、事業の創立進展に懸命の努力を続けてゐたのであつた。
 併し、何分前途には、東京市会の承認を経ねばならぬと云ふやうな難関があり、資本も莫大なる投資を要することであつたので、率先して賛成し、積極的に乗出してくれる人を見出し得なかつた。
 斯くて容易に中心人物を見付けることは出来なかつた。
   ○早川徳次ハ早稲田大学出身、大正五年九月外遊ヨリ帰リテ、東京市ニ地下鉄道敷設ノ計画ヲタテ、其調査ヲ遂ゲ、案成ルヤ是年一月十一日高田早苗ヨリ栄一宛紹介状ヲ得、翌十二日早稲田大学理事坂本三郎ヲ訪ヒ同行ノ約ヲ得テ、是日ノ栄一訪問トナレルナリ。
   ○右両氏ノ飛鳥山邸訪問ノ日ヲ上掲「東京地下鉄道史」ニ一月十三日トスルモ、渋沢事務所所蔵「集会日時通知表」(大正六年)ニハ、一月十三日ニ其記事ナク「十四日午前八時早川徳次・阪本氏来約(飛鳥山邸)」トアリ但シ同日栄一ハ午前八時二十分王子駅発汽車ニテ血洗島ニ赴ク。ココニハ
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姑ク綱文日付ハ日記ニ従フ。


渋沢栄一 日記 大正九年(DK510112k-0003)
第51巻 p.540 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正九年       (渋沢子爵家所蔵)
二月二十五日 晴 寒
午前八時起床洗面シテ病褥中ニ在テ朝食ス、高田早苗・増田義一・池田竜一三氏来リ、東京市地下鉄道布設ノ事ニ付阪谷男爵ヘノ依頼アリ○下略


東京地下鉄道史 東京地下鉄道株式会社編 乾・第一七六―一八〇頁昭和九年六月刊(DK510112k-0004)
第51巻 p.540-541 ページ画像

東京地下鉄道史 東京地下鉄道株式会社編 乾・第一七六―一八〇頁昭和九年六月刊
 ○会社創立時代
    二、会社設立準備
○上略
 さて、発起人の陣容も整ひ創立に関する万般の手順も着々と進捗し今や会社の設立を目睫の間に迎へることになつたので、玆に再び創立委員長選任の問題が重大問題として考慮されることゝなつた。勿論この創立委員長は会社設立の上は社長となるべき人であるから、何人を以てこの重任に当らしめるかは会社の運命にも関する重大問題で、その人選は慎重の上にも慎重を要することは云ふまでもない。先に出願準備の当時に於て、渋沢子爵の斡旋により、中野武営氏がこの人選の任に当つてくれることになつた次第は前言したが、未だその人選の約を果さずして不幸易簀し、爾来今日まで委員長問題はそのまゝになつてしまつてゐた。○中略
 然らば、果して何人がこの枢要なる椅子に置くに最適任者たるであらうか。○中略 早川氏等は委員長の適任者として阪谷芳郎男に白羽の矢を立てたのである。○中略
 そこで阪谷男の承諾を得る最善の途として先づ渋沢子爵を煩はす外ないとの見解から、高田早苗博士を通じて、渋沢子爵に阪谷男推薦方を依頼し、他方では、増田義一・池田竜一の二氏から、渋沢子爵に直接阪谷男説得方を懇願し、その結果子爵はこの旨を阪谷男に伝へてくれた。それは同年○大正九年二月二十八日のことであつたが、その翌日即ち三月一日には早川徳次・松方五郎・池田竜一・増田義一の諸氏が阪谷男邸を訪問して創立委員長受諾を懇請したのである。
○中略
 然るに、その起意を阻むが如き情勢は次第に展開して来た。先に男の周囲が自重を望んだ理由は、東京市との面倒なる関係を考慮しての結果であつたが、この頃に至つて発起人中の不統一・軋轢といふことが更に重大なる理由を為すに至つた。それは上に述べた如く、東京鉄道との実質的合同の結果、多くの異分子を包含するに至つた当然の帰結でもあつた。即ち阪谷男の出馬は早川氏等の完き勝利で、その地位を磐石の如くに確保するといふことになるから、三井系即ち、反早川派の連中は明らかにこれを喜ばず、男の受諾を阻むべく暗中飛躍を開始したのであつた。即ち早川氏と東京鉄道側の飯田義一氏等との不一致を誇大に吹聴し、早川氏に対して離間中傷の矢を盛んに放なち、惹いては渋沢子爵すら首をかしげるに至らしめた。この策動は蓋し男爵
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の決意を鈍らすに充分であつた。
○下略
   ○早川徳次等ノ東京軽便地下鉄道株式会社ノ創立計画ニ対シ、東京高速度鉄道・武蔵電気鉄道・東京鉄道等ノ競願者続出シタルモ、特ニ東京鉄道株式会社ハ飯田義一・森恪・室田義文等ヲ発起人総代トシ、三井系ノ資本ヲ背景トスルモノ、競願ノ不利ヲ以テ、大正八年四月三日早川徳次等東京軽便地下鉄道発起人トハカリ、合同覚書ヲ交換シ、同年十一月後者ノ免許セラルヽヤ、ソノ合同ヲ実現セントシテ十二月準備委員会ニ於テ協議スルトコロアリ、未ダ正式ノ両者合併ニ至ラザルモ事実上合同成立セリ。前掲記事中「実質的合同」云々トハコレヲ云フ。
   ○創立委員長選定ニツキテハ大正九年三月二十三日ノ発起人総会ニ於テ、根津嘉一郎・飯田義一・山本悌二郎ノ三名ニ人選一任セラレタルモ、遂ニ決セズ、安田善三郎以下十一名ノ創立委員ヲ選ビ、且ツ社名ヲ改メテ東京地下鉄道株式会社トシ、三月二十七日名称変更ヲ届出タリ。
    而シテ四月五日ヨリ四千万円ノ株式募集ニ着手シタルモ、偶々財界ノ大恐慌ニ遭ヒ、同年八月二十九日創立総会開催、同時ニ資本ヲ一千万円ニ減ジテ会社成立ヲ見タリ。古市公威社長ニ、早川徳次常務取締役ニ、阪谷芳郎及ビ野村竜太郎、相談役ニ選バル。
    爾後曲折ヲ経テ大正十四年九月ニ至リ起工、昭和二年十二月上野・浅車間地下鉄道工事竣工、二十九日開通式ヲアゲ、運輸営業ヲ開始ス。(「東京地下鉄道史」ニ拠ル)



〔参考〕東京地下鉄道史 東京地下鉄道株式会社編 乾・第五二―五四頁昭和九年六月刊(DK510112k-0005)
第51巻 p.541-542 ページ画像

東京地下鉄道史 東京地下鉄道株式会社編 乾・第五二―五四頁昭和九年六月刊
 ○出願時代
    三、出願
○上略
      軽便鉄道敷設免許申請書
今般東京府東京市芝区高輪南町ヲ起点トシ、同市浅草広小路町ニ終リ猶ホ其線路中同市下谷区車坂町附近ヨリ分岐シ、東京府北豊島郡南千住町ニ至ル間ニ軽便鉄道ヲ敷設シ、旅客輸送ノ業ヲ営ミ度候ニ付御許可被成下度、別紙起業目論見書・線路予測図・敷設費用概算書・輸送営業上ノ収支概算書・仮定款相添此段申請候也
  大正六年七月十八日
      発起人○住所略ス    士族 阪本三郎
                     池田竜一
                     浦辺襄夫
                     前島弥
                     田中四郎左衛門
                     増田義一
                     早川徳次
    内閣総理大臣伯爵寺内正毅殿
○中略
      起業目論見書
   第一 目的
一、軽便鉄道ヲ敷設シ旅客ヲ輸送スルコトヲ以テ目的トス
   第二 鉄道ノ名称及ビ主タル事務所設置地
 - 第51巻 p.542 -ページ画像 
一、本会社ノ名称ハ東京軽便地下鉄道株式会社ニシテ、本社設置地ハ左ノ如シ
  東京市京橋区山下町一番地
   第三 事業資金ノ総額及ヒ其出資方法
一、事業資金ノ総額ハ金二千一百万円ニシテ株金ヲ以テ之レニ充ツ
   第四 線路ノ起点終点及其経過スべキ地名
一、東京府東京市芝区高輪南町ヲ起点トシ、芝区烏森町並ニ下谷区広小路ヲ経テ同市浅草区公園広小路町ニ終リ、猶ホ其線路中同市下谷区車坂町附近ヨリ分岐シ、東京府北豊島郡南千住町ニ至ルモノトス
   第五 鉄道ノ種類及軌間
一、電気鉄道ニシテ其方式ハサードル式トス
一、軌間ハ四呎六吋トス
一、鉄道ニ使用スル電力ハ他ヨリ供給ヲ受クルモノトス
   第六 営業ノ期間
一、本鉄道営業期間ハ許可ノ日ヨリ三十ケ年トス
右之通リニ候也
○下略
   ○大正八年十一月十七日免許状下付セラル。(「東京地下鉄道史」乾第一五四頁)