デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

2章 交通・通信
4節 通信
1款 日本無線電信株式会社
■綱文

第52巻 p.5-13(DK520001k) ページ画像

大正8年5月12日(1919年)

是ヨリ先、栄一、内田嘉吉ト共ニ、日米間ノ通信状態ヲ改善シ又日米友好関係ニ資スルノ目的ヲ以テ、日米協同事業トシテ海底電線ヲ新タニ敷設スベキ計画ヲナス。是日、東京銀行集会所ニ於テ、朝野ノ名士ヲ招キ日米電信株式会社設立協議会ヲ開ク。栄一出席シテ演説ヲナス。又依託セラレテ、内田嘉吉ト共ニ調査委員十二名ヲ指名ス。次イデ創立委員トナル。


■資料

渋沢栄一 日記 大正八年(DK520001k-0001)
第52巻 p.5 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正八年          (渋沢子爵家所蔵)
二月十九日 晴 軽寒
○上略 内田嘉吉氏来リ、米国ニ通スル海底電信事業ヲ協議ス○下略
  ○中略。
四月二十七日
○上略
此日内田嘉吉氏来話、日米電信事業創設ノ事ヲ談ス○下略
  ○中略。
五月二日 曇 軽寒
○上略
夜食後中島久万吉氏ヨリ書状来リ、海底電線ニ関スル会同ノ事ヲ報知ス○下略
  ○中略。
五月十二日 曇 暖
○上略 十一時銀行倶楽部ニ抵リ、海底電線架設ノ事ニ付市内有力者ヲ集会シテ起業ノ件ヲ協議ス、委員十名ヲ挙ケテ立案スヘキ事ト決ス、指名ヲ余ト内田嘉吉氏トニ托セラル、畢テ午飧ヲ共ニシ○下略
  ○中略。
五月十六日 晴 軽寒
○上略 午前九時半兜町事務所ニ抵リ、内田嘉吉氏ノ来訪ニ接ス○中略 午後一時事務所ニ於テ海底電線架設会社ノ事ニ関シ委員会ヲ開ク、内田氏外八・九名来会ス○下略
  ○栄一、五月一日ヨリ大磯明石邸ニ滞在、同十日帰京ス。
  ○栄一日記、是年七月十日ヨリ同月三十一日マデ、八月二十一日ヨリ年末マデノ記事ヲ欠ク。


集会日時通知表 大正八年(DK520001k-0002)
第52巻 p.5-6 ページ画像

集会日時通知表  大正八年         (渋沢子爵家所蔵)
 - 第52巻 p.6 -ページ画像 
四月廿七日 日 午後四時 内田嘉吉氏来約(飛鳥山邸)
  ○中略。
五月一日 木 午前十時 中島久万吉男兜町ニ来約
  ○中略。
五月十二日 月 午前十時 海底電線ニ関スル件(銀行クラブ)
  ○中略。
五月十六日 金 正午 海底電線ノ件ニ付御会合(兜町)
  ○中略。
五月三十日 金 午後三時 中島久万吉氏来約(兜町)
  ○中略。
七月十四日 月 正午 海底電線会社ノ件(ホテル)
  ○中略。
七月廿四日 木 午前十一時 日米海底電線ノ件(銀行クラブ)
  ○中略。
九月一日 月 午前十時 野田逓信大臣御訪問ノ約(官邸)
  ○中略。
十一月廿二日 土 午前十一時 東郷安男来約(兜町)
  ○中略。
十一月廿七日 木 午前十一時 日米海底電線ノ件(銀行クラブ)


報知新聞 第一五一七三号 大正八年五月一五日 日米を結ぶ直通海底電線 間借同様の現在線 渋沢男を委員長に(DK520001k-0003)
第52巻 p.6-7 ページ画像

報知新聞  第一五一七三号 大正八年五月一五日
    ○日米を結ぶ直通海底電線
      間借同様の現在線
        渋沢男を委員長に
近時日米間電信の輻輳渋滞甚しく、四・五日若くは一週間以上を要する事は普通とされてゐるが、六年度には百万語であつた通信が七年度には五百万語に増加して居るから、本年度は当然七百万語以上になると思はれる、然るに日米間の海底電線は、桑港から布哇、ミツドウヱー、グワムに至り、其処で分岐して一は比律賓に、一は小笠原を経て日本の線と接続する物が僅に一本あるのみで、謂はゞ日米間の通信は線の半分を使用し得る丈だから、仮に其線の能率を八百万語とせば、其半分の四万語を超過せば滞るのは必然の理で、従つて外交上・商業上尠からず支障を来たし、従来之が為に被つた我の損害は莫大な物がある、之に奮起して近く日米間直通の海底電線を敷設して夫等幾多の弊を一掃し、以て日米親善の実を挙げたいとの企てが、内田前逓信次官の主唱、渋沢男の援助、実業界諸方面の有力者賛助の下に生れ、十二日銀行集会所で其第一回の会合を催し、近く委員を選み実行に着手する事となつた、主唱者たる内田嘉吉氏は語る「日米間海底電線敷設は愈々近く事実となつて現はれる事になつた、今は北方アリシアン諸島を経る線と、小笠原からミツドウヱーを経る線と、現在のグワム線と三つの説があつて、其孰れを採るかは未定だが、第一案に依れば延長五千七百哩で工費三千七百万円、第二は六千六百哩で五千二百万円第三は七千二百哩で五千四百万円、工事は一箇年半か二箇年で完成する筈、発起人は私で渋沢男を委員長とし、十二人の委員を選み更に協議を重ねて実行に着手する、経営は無論私設会社で、或は米国の実業
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方面と交渉して共同事業とするかも知れない、商業上から云つても合衆国は日本の最高のお得意で、其輸出高でも第一位にある事人の知る処で、国際上から云つても合衆国程我を誤解し我に紛糾の種を播く国は無いが、夫は畢竟彼我通信機関の不備な為、我事情を十二分に先方へ伝へ難い事が有力な原因を成して居ると思ふ、我等今回の企てが完成さるれば大に其不便を除き、国交上・商業上日米は手袋を脱して堅き握手を交すを得可く、真の日米親善の声は其電波の響より生れ、直に全米土に谺し全き実を結ぶと信ずる」


竜門雑誌 第三七二号・第四一頁大正八年五月 ○日米電信創立計画(DK520001k-0004)
第52巻 p.7 ページ画像

竜門雑誌  第三七二号・第四一頁大正八年五月
○日米電信創立計画 日米通信状態を改善するが為め、現在の海底電信電話線の外に新線を敷設する計画は、以前米国のウイリヤムゼレイン氏に依り主唱せられたることありしも、当時は未だ其計画の実現を見るに至らざりしが、其後日米間の通商益々盛なるに従ひ、現在線のみにては両国の不便を感ずること甚だしく、特に世界大戦後に於て最も其不便を感ずるに至れるを以て、今回内田嘉吉氏の主唱にて、当局の許可を得、日米海底電線を敷設せんとする計画あり、五月十二日
 青淵先生・大倉喜八郎男・大谷嘉兵衛・安田善三郎・団琢磨・小野英二郎・井上準之助・金子堅太郎子・有賀長文・山下亀三郎・浅野総一郎・藤山雷太・深尾隆太郎・伊東米治郎氏の外秦逓信次官・田中通商局長其他三十二名
の有力なる朝野の名士銀行集会所に集合し、内田氏より右計画の主旨を説明し、金子子爵亦明治二十二年以来海底電線布設の要務を帯び政府より欧米に視察を命ぜられ相当材料を齎したるも、当時の状勢にては到底覚束なく遂に今日に至りたる旨を述べ、更に青淵先生も日米間将来交通貿易の益頻繁ならんとする際、現在の状態にては甚だ不完全なるにより、是非共日米両国政府援助の下に設立の急務を唱道し、青淵先生・内田氏指名の下に十二名の調査委員を設け、創立に対する各種の調査をなし、具体的に進捗を図るに決し散会したるが、右電信会社設立の際は資本金を五千万円となし、日米資本家の協同事業となす計画なる由。
○下略


渋沢栄一書翰 ジェームズ・ディー・ローマン宛一九一九年九月一六日(DK520001k-0005)
第52巻 p.7-8 ページ画像

渋沢栄一書翰  ジェームズ・ディー・ローマン宛一九一九年九月一六日
            (ジエームズ・ディー・ローマン氏所蔵)
               (COPY)
           Baron E. Shibusawa
            No. 2 Kabutocho,
             Tokyo, Japan.
                   September 16, 1919.
Mr. J. D. Lowman:
  Seattle Chamber of Commerce,
  Seattle, Washington, U. S. A.
My dear Mr. Lowman:
  Your favor of August 1 duly received and I wish to thank
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for the interest you and your Chamber have shown in the improvement of the means of communication between your country and mine.
  I am very happy to know that the Seattle Chamber of Commerce has been making investigations in the project of laying a new cable line between our two countries. We Japanese are thoroughly convinced that the new cable laid by the cooperation of our two nations will not only serve to facilitate the means of communication but also promote cordial relations between America and Japan.
  Yes, both Mr. Uchida and myself are on the board of the promoters of the new cable line. Mr. Uchida left Japan in early August for the United States to carry on negotiations with your Government authorities and the leading men of your country. He is expected to sail from New York for Europe at the end of this month and will return to the United States within a few weeks to resume negotiations with the American authorities. I feel sure that he will be interested in your proposition. I hope you will communciate with him immediately, for I will write him about your proposition. His address is as follows:
    c/o Japanese Embassy,
    Washington D. C.
 or c/o Messrs. Takata and Co.,
    50 Church St., New York City.
 or c/o Messrs. Takata and Co.,
    57 Bishopsgate St.,
    London, E. C.
  We have not yet decided upon the route for the proposed cable, and hence Mr. Uchida will no doubt give his serious consideration to your proposition. I earnestly hope that this enterprsie of American-Japanese cooperation will be brought to a speedy consummation with the assistance of your Government secured through the efforts of your Chamber.
  …………
            Very sincerely yours,
            (Singned) Baron Eiichi Shibusawa.
  …………


雨夜譚会談話筆記 上・第五一頁大正一五年一〇月―昭和二年一一月(DK520001k-0006)
第52巻 p.8-9 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  上・第五一頁大正一五年一〇月―昭和二年一一月
                     (渋沢子爵家所蔵)
  第三回 大正十五年十一月十三日 於飛鳥山邸
先生「無線○無線電信会社は内田嘉吉氏が早くから心配して居た。これは経済界よりも米国との関係で私を入れることになつたので、初めは海底電信で通信する有線の計画であつたものが、其内に無線になつた
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それは米国人の技師が、技術上無線でやれと云ふのでさうしたのである」
  ○此回ノ出席者ハ栄一・渋沢敬三・増田明六・高田利吉・岡田純夫。


日本無線 第八六号創立拾周年記念特輯号・第四五―五〇頁昭和一〇年一一月 「我社の創立されるまで」回顧座談会 二、民間側より見たる我邦国際通信機関及之が整備に関する民間有志の計画(DK520001k-0007)
第52巻 p.9-13 ページ画像

日本無線  第八六号創立拾周年記念特輯号・第四五―五〇頁昭和一〇年一一月
 ○「我社の創立されるまで」回顧座談会
    二、民間側より見たる我邦国際通信機関
      及之が整備に関する民間有志の計画
○上略
      日米電信会社創立事務開始
東郷 世界大戦中、我国は遠く極東の地にあり、戦禍に災せらるゝこと少く、却て欧米諸国が血みどろの戦争に没頭して居る虚に乗じて空前の輸出貿易の盛況を呈したがため、国内の産業は俄かに勃興し之に伴つて外国電報の数量が激増し、是がため、我国を中心とする対外電信設備に非常なる不足不備を来し、遅延停滞誤謬等日を逐ふて甚だしく、遂に日米間の如き、電報の輻輳する区間には、停滞電報を一括して之を定期船に乗せて託送するの余儀なき事態に立至つた、洵に電信疏通上空前絶後とも言ふべき大混乱を演じたのであります、是がため、通商上は勿論、外交上・国防上非常なる障碍を来したことは、猶未だ各位の御記憶に新なる所と存じます。
  大戦当時の逓信大臣は、故男爵田健治郎氏であつて、其次官は内田嘉吉氏でありました。内田氏は深く此事態を憂慮し、何等かの方法を講じて対外通信施設の充実拡張を図りたいと思つて居つたけれども、在官当時僅かに実行し得たのは、千葉県の船橋にたつた海軍の無線電信所を、時間借にして極めて不完全な通信を布哇と交換し得る程度でありました。而して予算面に於て具体化し得た最も顕著なる事業は、福島県原ノ町に対米大無線局を建設して、日本で最初の独立の大無線電信局を建設することでありました。
  それから間もなく、大正七年に内田氏が官をやめ民間に這入つてから、在官中官業としては到底遂行の望がなかつたところの、日本人の手に依つて新に太平洋横断海底電線を敷設して、日米間に会社組織を以て通信事業の経営をなさむとすることを思ひ立ち、当時財界の第一人者渋沢子爵に諮る所がありました。同子爵は以前から日米親善論者であり、且此計画は日米間の通商上最も緊急を要する国家的施設であるから、直に此計画に賛同の意を表せられ、引続いて創立事務の開始に着手することになつたのは、丁度大正八年の春まだ浅き頃でありました。
○中略
      何故民間通信会社を必要としたか
東郷 偖、翻つて此事業を何故民間で実行しなければならなかつたかと云ふことに対しては、当時より今日に至る迄、一貫したる主義主張を持つて居つたのであります。
  夫れ等事情につき、先づ対外的の必要から申述べて見ますならば先年世界大戦開始の劈頭に於て、参戦各国は固より世界列国が今更
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の如く目覚めて、狼狽し後悔したのは、世界の通信網、即ち其当時に於ける海底電信の実権は悉く英吉利の掌中にあり、世界の海底電信網は悉く英吉利を中心として発着することになつて居つた為に、それ迄は特に気が付かなかつたけれども、世界戦争の開始と共に世界の通信権を把握して居る英吉利に対し、其以外の国々就中強国を以て自ら任じて居つた独・仏・米・伊等の諸国を挙げて、如何に英吉利が平素通商上・外交上果又軍事上、横暴を極めて居つたかと云ふことが初めて分つたのであります。
  而して戦争中は英吉利の海底電信を有する優越権に対し、屈服するの已むを得ざるに至つたのみならず、更に当時漸く実用の期に達した無線電信の働きに由つて、独逸が四面楚歌の封鎖裡にあるにも拘らず、尚且国内から自由に世界の各地と通信を交換し、宣伝を放送することが出来たことに対して、各国は非常に悩まされた。其処で、戦後米国を初め何とかして、将来の国力の発展に必要なる施設として、国際通信権の上に自国独自の実権を把握することに努めなければならぬことに気が付いたのであります。殊に亜米利加は甚だしく、此点に付国論沸騰し、遂に『亜米利加の将来は空にあり』と云ふ標語さへも唱へられて、戦後経営の第一着手として、英国の海底線に対抗して、新興の無線電信設備を充実することを計画したのは、寔に無理もない次第であると思はれました。
  ソコで戦後に各国共海底電信は無論の話、将来発達すべき運命が明かになつて来た無線電信事業に対しても、相当注意を向けるやうになつて来たのであります。
  我が日本に於ても、将来『国際日本』の建設の為には、是非共此方面に向つて、最先に戦後の経営に着手しなければならない必要に迫られて居つたのでありました。
      国内事情から
東郷 他面又、之を国内の事情から考へて見ても、単り逓信事業ばかりでなく、百般の国務は戦後非常なる膨張を来し、之に伴ふ予算は加速度を以て膨脹する形勢にあつたのであります。就中、海軍の建艦競争は次席に其のテンポを早め、又亜細亜大陸を目標とする陸軍の整備計画、殊に大戦の教訓に因る兵器其他整備の改良充実に要する費用は、何れも莫大なる計数に上るのでありました。即ち海軍にあつては最初八四艦隊の計画に始り、次いで八六、最後には八八の充実に迄も及ばんとする形勢にありました。陸軍も亦、所謂二十一箇師団並に之に伴ふ軍備内容の充実改善に要する費用の計上を強調して、陸海軍合せての軍事費が総予算の半額にも及ばんとする形勢となつたのでありました。
  而して其当時から軍部の言つて居る所は今も変らざるが如く、平和を確保するが為の軍備、もつと平たく言へば、戦争を避けんが為の軍備充実だと云つて居るからして、其以外の文化的施設、産業充実等に要する国費は甚だしき窮乏を免れざる情勢にあつたことは当然であります。
  かゝる情勢から、到底当時並に近き将来、通信事業に十分なる予
 - 第52巻 p.11 -ページ画像 
算の獲得を望めない、仮に幾分の予算を獲得し得たとしても、何十年来の懸案である電信電話の拡張充実費が、先以て当面の必要であるから、到底海外通信に必要なる国際通信事業費の如きに対し、充分なる予算の計上は望み得られないと云ふことは真に火を睹るよりも明かであつたのでありました。然るに電気事業、就中無線電信の如きは、千八百九十六年マルコニーが始めて無線電信原理を実用に供して以来、長足の進歩をなしつゝあり、是が発達は恰も飛行機のそれの如く、僅かばかりの政府予算に計上しても、到底世界の進歩に追付くものではないことも明かでありましたから、此種の事業は出来るならば豊富なる民間の資本を以て経営し、国家は之に対して単に必要なる監督をなして行くと云ふ風な組織にして見たならば、今後我国の対外通信政策実現の上に、最も適当な組織が出来はしまいかと思はれたのであります。
  勿論私共は、明治政府以来、我国の電信法の根本方針として、電信の運用は政府の専掌する所であることは、万々承知の上であり、固より異議のない所でありまして、今更之れを根本的に覆さうとするのではないが、時代の進歩に従つて、法の運用如何に依つては、国家政策の実現上適当なる解釈と有効なる機構が考へられることを固く信じて居つたから、当時種々なる非難や異論があつたけれども此点固き決心を持つて、終始一貫国家のため是が遂行に努力したのでありました。
  当時外国の例から見ても、各国政府に於ても亦必ずしも之を官営とせず、官民両者に亘つて適当なる組織をなして居る所もあるし、又米国の如く全然自由主義に依つて民営を認めて、其進歩発達を図つて居る所もあつたのであります。而して、従来日本の如く極端なる官営主義は、国際間の通信事業の運営に当つては、往々にして不利不便を生じないとも限らない、之を民営として置くが却て有利なる場合もあるのであります。さう云ふ次第であるから、此種の事業の為には、所謂国家社会主義の見地に基いて、一種の民間会社を設立することが、将来『国際日本』の発展の為、極めて適切なる処置であると確信したのでありました。
      海底電信計画に着手
東郷 以上の趣旨を以て、大正八年春渋沢子爵の名前を以て、日米海底電信会社の創立発起人を募集し、同年五月十二日東京銀行集会所に於て、新に日米間に海底電線を敷設する目的を以て一事業会社を計画することを発表し、同日集つた人々から渋沢男爵の指名に依る十名の小委員を選定して、実行委員とすることになりました。其の顔振は次の通りであります。
     伊東米治郎君      原富太郎君
     小野英二郎君      和田豊治君
     門野重九郎君      高田釜吉君
  男爵 中島久万吉君      内田嘉吉君
     串田万蔵君       藤瀬政次郎君
  男爵 郷誠之助君    男爵 渋沢栄一君
 - 第52巻 p.12 -ページ画像 
  右委員の中から、更に常務委員を嘱託し、内田嘉吉氏、中島男爵の二名が専ら其衝に当たられることになりました。更に該委員は同年五月三十日帝国ホテルに会合を催して、海底線線路の比較研究、敷設費の計算等に関して、斯道の専門家に調査を依頼することになりました。其氏名は次の如くであります。
    電気試験所長        工学博士 利根川守三郎君
    東京帝大名誉教授      工学博士 浅野応輔君
    前逓信省通信局工務課長心得 工学博士 大井才太郎君
    逓信省通信局工務課長心得  逓信技師 浦田周治郎君
    東京帝大理学部教授     理学博士 山崎直方君
    〃工学部教授        工学博士 斯波忠三郎君
    逓信省管船局        逓信技師 山本幸男君
    〃通信局          逓信技師 稲田三之助君
    東京EC工業株式会社取締役兼技師長   斎藤正平君
    海軍水路部         海軍少将 布目万造君
    海軍々令部         海軍大佐 鳥巣玉樹君
    逓信省通信局        逓信技師 松橋清助君
    〃             〃    鈴木寿伝次君
  右の中、浦田工務課長逝去の後を継いで、逓信技師小島牛五郎氏が之に代り、それから海軍水路部長布目少将の転任に依り海軍大佐小松直幹氏が其後を継いで、新に委員となられました。右技術委員会は其後屡々会合を催した結果、太平洋横断海底電線敷設の為に、四個の原案を作り、審査の結果、其第一・第三の両案に付て、更に研究調査を遂げ、之に修正を加へて、遂に同年の七月十二日に至つて、我国の南洋委任統治の区域内にあるロンゲリツク島経由の線を最終案として採用することに決定しました。
  其処で、同年七月二十四日創立委員会に於ては、右敷設計画並に敷設概算調書を慎重審議の上、之を承認し、其設計を是認して、新に会社創立に要する定款案を作り、愈々新会社の創立計画を進めることになつたのであります。是が為商法の規定に依る発起人総会に至る迄の事務を取扱ふため、創立委員二十名を選定しました、其氏名は次の如くでありました。
     須田利信君         原富太郎君
     小野英二郡君        和田豊治君
     門野重九郎君        高田釜吉君
  男爵 中島久万吉君        串田万蔵君
     藤瀬政次郎君     男爵 郷誠之助君
  男爵 渋沢栄一君         内田嘉吉君
     金子直吉君         松方乙彦君
  男爵 住友吉左衛門君    男爵 藤田平太郎君
     堀啓次郎君         末延道成君
     浅野良三君         大谷嘉兵衛君
 右委員の中から互選を以て総代二名を選定しました。即ち渋沢男爵と内田嘉吉氏の両人であります、此処で、初めて海底電信敷設計画
 - 第52巻 p.13 -ページ画像 
の根本が確立し、一面政府に向つて交渉を開始し、其国家的重要性に鑑みて、政府と円満なる諒解、必要なる後援を求めることにし、他面米国の政府当局並に民間当業者との関係を結ぶ為に、恰も内田嘉吉氏が外遊するのを機会として、米国政府との交渉を依頼することになりました。
○下略
  ○右「我社の創立されるまで」回顧座談会ハ昭和十年九月十八日開催、出席者左ノ如シ。(弧括内ハ当時ノ官職)
   (逓信省経理局事務官)林栄作・(大蔵省国有財産整理局長)太田嘉太郎・(逓信省事務官)渡辺弥門・(逓信次官)米田奈良吉・(逓信省工務局電信課長)高田善彦・(逓信省経理局主計課長)久野茂・(大蔵大臣官房文書課長)荒井誠一郎・(逓信省経理局長)最所文二・(逓信省通信局電信課長)三宅福馬・(逓信省電務局長)畠山敏行・(逓信技師)中上豊吉、主催者側トシテ(男爵)東郷安・(逓信省電務局外国電信課長)吉野圭三