デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

3章 商工業
3節 毛織物業・製帽業
2款 東京帽子株式会社
■綱文

第52巻 p.470-472(DK520052k) ページ画像

大正9年6月21日(1920年)

是ヨリ先、栄一ノ推挙ニヨリ当会社取締役在任中ノ八十島親徳歿シ、是日栄一、其後任トシテ渡辺得男ヲ推薦ス。


■資料

竜門雑誌 第三八三号・第五〇頁 大正九年四月 ○八十島親徳君逝去(DK520052k-0001)
第52巻 p.470 ページ画像

竜門雑誌 第三八三号・第五〇頁 大正九年四月
○八十島親徳君逝去 本社評議員兼幹事にして渋沢同族株式会社専務取締役たる八十島親徳君は昨年四月流行性感冒に罹りて肺炎を併発し○中略遂に十八日○三月午後八時三十分心臓麻痺の為め溘然として逝去せられたり。痛恨何ぞ堪へんや。享年四十有八歳。○下略
   ○八十島親徳ノ当会社取締役就任ハ明治四十二年八月二日、以来重任シテ歿年ニ至ル。


渋沢栄一書翰 土肥脩策宛(大正九年)六月二一日(DK520052k-0002)
第52巻 p.470 ページ画像

渋沢栄一書翰 土肥脩策宛(大正九年)六月二一日 (土肥脩策氏所蔵)
拝啓 益御清適奉賀候、老生事今以快方ニ至らす□床罷在候、併昨今追々快方ニ付両三日中ニ出勤相試可申と存候、御省念可被下候、然者曾而内々申上候貴会社重役之後任ハ幸ニ他之重役諸君ニ於て当方より御推薦被下候様なれハ、渡辺得男と申者今般第一銀行支店長を辞任して老生方事務所員と相成候筈ニ付、何卒同人ニ御撰定被下度候、同人ハ学生之時より老生世話致し且同県人之関係も有之、懇親も厚く且極而堅実之性質ニ御坐候、右ハ既ニ御高配中とハ察上候得共、乍略儀書中拝願仕候 勿々不宣
  六月廿一日
                         渋沢栄一
    土肥賢台
        梧下
   ○「竜門雑誌」第三八七号(大正九年八月二十五日)会員動静欄ニ『渡辺得男君同君は過般第一銀行を辞し云々』トアリ。


渋沢栄一日記 大正一〇年(DK520052k-0003)
第52巻 p.470 ページ画像

渋沢栄一日記 大正一〇年         (渋沢子爵家所蔵)
三月二日 晴 寒
○上略 五時過浜町常盤屋ニ抵リ、東京帽子会社ノ招宴ニ出席ス、兼子モ同伴シ親戚多ク来会ス、余興数番アリ、夜十時散会帰宅ス○下略


渋沢栄一日記 大正一二年(DK520052k-0004)
第52巻 p.470-471 ページ画像

渋沢栄一日記 大正一二年         (渋沢子爵家所蔵)
二月七日 雪 寒
 - 第52巻 p.471 -ページ画像 
○上略 夜飧後帽子会社専務土肥脩策氏来話ス、同会社ノ経営上ニ付種々ノ報告アリ、畢テ各方面又ハ知人ノ性行習癖等各様ノ談話アリ○下略
   ○栄一、湯河原滞留中。


渋沢栄一日記 昭和二年(DK520052k-0005)
第52巻 p.471 ページ画像

渋沢栄一日記 昭和二年          (渋沢子爵家所蔵)
一月十五日 曇 寒気昨ト同シ
午前八時過起床洗面例ノ如クシテ朝食ス○中略 食後土肥脩策氏ノ来訪ニ接シ、東京帽子会社ノ業務ニ関シテ近況ヲ聴取ス○下略



〔参考〕中外商業新報 第一〇一四九号 大正三年七月二五日 ○東京帽子会社(DK520052k-0006)
第52巻 p.471-472 ページ画像

中外商業新報 第一〇一四九号 大正三年七月二五日
    ○東京帽子会社
         本社 東京市小石川区氷川下町十六番地
                (電話長番町二〇八)
         分工場 同市本所区柳島元町百卅九番地
                (電話本所一二四〇)
              取締役会長   馬越恭平
              取締役兼支配人 土肥脩策
              取締役     八十島親徳
今を去ること廿有余年前即ち明治廿二年の交本邦に於ける氈帽子(中折・山高帽子の類)の需用漸次増加の傾向を示し、前途有望なる事業たるべきを観破し、渋沢栄一・蜂須賀侯爵及び益田孝の諸氏発起人となり、資本金十万円を以て、現在の本社所在地に日本製帽会社を設立し、英米両国より二人の技師を雇聘し、廿三年五月より製造を開始せり、是実に本邦に於ける斯業の濫觴なりとす、然るに同社は創業幾干ならず、其年八月不幸にして火を失し、工場全部を烏有に帰せるも、其翌年工場の再築をなし、再び製造に着手せるも、如何せん全く経験なき新事業なりしかば、其困頓の甚だしき実に名状すべくもあらず、幾多の試験と苦心とを重ね稍見るべき製品を出し、之より進んで順序的製造をなさんとせるに際し、前年の火災を始めとし事業の不熟練よりして多大の損失を醸し、経営愈々困難に陥り、遂に明治二十五年十一月臨時株主総会を招集し、営業相続者を求め、之に会社の権利義務一切を売却するの案を可決し、株主に対しては百円に付五円の割戻を以て会社を解散することとなりぬ
此時に当り渋沢男爵は再興の率先者となり、蜂須賀侯爵を説き製帽会社の権利義務一切を継承し、資本金三万六千円を以て新たに当会社を組織し取締役会長として親敷画策の任に当られ、日夜製造の改良を謀り、始めて一定の製品を産出するの機運に達し、第一期に八朱の株主配当をなし、忽ちにして資本の不足を感ずるに至り、翌年資本金を七万二千円に増加し、益々業務の発展を期したりしに、時恰も日清戦後の好機に会し製品の売行意外に盛況を極め予想以上の利益を獲得し、会社の基礎益々鞏固となれり、爾来年を逐つて製品の信用を高め販路の増進するに随ひ、始めて国家的有利の事業たることを認識せらるゝと同時に、大阪・浜松・東京等に同業者を続出するに至りしが、当会社は此間に処し社運日に盛大に赴き、明治四十一年には明治製帽株式
 - 第52巻 p.472 -ページ画像 
会社を買収して分工場となし、資本金を十五万円に増加し、翌四十二年には之れを廿二万五千円に増資し、鋭意事業の発展を謀りつゝありしが、此年渋沢男爵には従来の関係会社取締役を辞任せらるゝことゝなりし結果、因縁深き当会社の会長をも辞任せられたり
元来製帽事業は一見頗る時運に適したる仕事にして、且つ年々其の需用を増加すべきが如く思意せらるゝも、実際は之に反し其速度遅々として振はず、幾度か延ひんと欲して其志を達し能はざりしが、計らざりき明治四十四年の末に至り清国に革命起り断髪を励行したる結果、兼て夢想しつゝありし隣国の需用忽然として起り、而かも最も急劇に多数の注文一時に重なりしかば、全力を挙げて製造を奨励せるも、到底限ある製産力を以て無限の需用に応ずべくもあらず、相場は突飛奔騰して底止する処を知らず、帽子の型あるものなれば如何なる品にても高価に売行が如き盛況を呈せしかば、翌四十五年一月中迄に、全国に散在せる各種の背負込品所謂ローズ物迄で悉く輸出し尽くすの実況となれり、爰に於てか当社は両工場を拡張し、資本金も亦一躍五十万円に増加し、以て需用の大勢に抗すべき準備をなし、大正二年春に至り拡張の一段落を告ぐるに及び、取締役兼支配人土肥脩策を欧洲各国に遣はし斯業の実際を視察せしめ、同人帰朝後は従来の製造法に一層の改良を加へ、最早外国品と比較し敢て遜色なき製品を出すに至れり嘗て各種博覧会・共進会等に出品して金銀牌を受領せしと、大正博覧会に於ては名誉大賞牌を授与せられ、当会社の信用に一層の光輝を添へることとなりたり、現今我国に輸入する帽子は最も優等なる品質のものに限られ、其数量内地製の約一割以内にして、殆ど輸入の大部分を防遏し、尚且海外に向て輸出をなすの盛運を迎ふるに至りたるは最も喜ぶべき現象と謂ふべし
   ○右ハ広告記事ト思ハル。