デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

3章 商工業
4節 製紙業
4款 樺太工業株式会社
■綱文

第52巻 p.491-495(DK520058k) ページ画像

大正2年12月(1913年)

是月、当会社創立総会開催セラレ、栄一、座長トナル。


■資料

阿部房次郎伝 同編纂事務所編 第二三〇―二三一頁 昭和一五年四月刊(DK520058k-0001)
第52巻 p.491 ページ画像

阿部房次郎伝 同編纂事務所編 第二三〇―二三一頁 昭和一五年四月刊
 ○八、朝鮮干拓、江商、樺太工業及王子製紙
    樺太工業及王子製紙
○上略
 大正二年十二月、大川平三郎を社長とする樺太工業株式会社(資本金二百万円)が成立した。同時に翁○阿部房次郎は取締役に選ばれた。樺太工業は大川の熱心な主唱に依るもので、関西においては翁が殆んど其の全部の斡旋にあたつた。応募株は忽ちにして幾層倍に達し、東京及関東方面の人気も著るしく、創立総会のとき座長になつた渋沢栄一子をして「自分もこれまで沢山の会社に関係したが、短時日の間に斯る好い成績を見た会社は始めてだ」といはしめたほどであつた。○下略


樺太工業株式会社第弐拾四回報告書 大正拾四年下半期 第二頁刊(DK520058k-0002)
第52巻 p.491 ページ画像

樺太工業株式会社第弐拾四回報告書 大正拾四年下半期 第二頁刊
 ○事業報告書
    処務要件
○上略
一、同○大正一四年拾弐月弐拾弐日当会社ト中央製紙株式会社トノ間ニ会社合併ニ関スル仮契約ヲ締結シタリ
一、同拾弐月弐拾四日当会社ト九州製紙株式会社トノ間ニ会社合併ニ関スル仮契約ヲ締結シタリ
一、同拾弐月弐拾五日当会社ト中之島製紙株式会社トノ間ニ会社合併ニ関スル仮契約ヲ締結シタリ
○下略


樺太工業株式会社第弐拾五回報告書 自大正拾五年壱月至同年参月 参ケ月決算 第一頁刊(DK520058k-0003)
第52巻 p.491 ページ画像

樺太工業株式会社第弐拾五回報告書 自大正拾五年壱月至同年参月 参ケ月決算
                        第一頁刊
 ○事業報告書
    株主総会
一、大正拾五年壱月参拾日東京市麹町区永楽町日本工業倶楽部ニ於テ定時株主総会ヲ開キ、前期事業報告書・損益計算書・貸借対照表及財産目録ノ承認並ニ利益金ノ処分ヲ議決シ、取締役・監査役ノ全員任期満了ニ由ル改選ヲ行ヒ、左ノ通リ当選就任セリ
○中略
次ニ九州製紙株式会社・中央製紙株式会社及中之島製紙株式会社ヲ当会社ニ合併ノ件並ニ定款改正ノ件ヲ附議シ、総テ原案ノ通リ可決セリ

 - 第52巻 p.492 -ページ画像 

樺太工業株式会社第弐拾六回報告書 自大正拾五年四月至同年九月 第一頁刊(DK520058k-0004)
第52巻 p.492 ページ画像

樺太工業株式会社第弐拾六回報告書 自大正拾五年四月至同年九月
                        第一頁刊
 ○事業報告書
    株主総会
大正拾五年五月弐拾八日東京市麹町区永楽町日本工業倶楽部ニ於テ定時株主総会ヲ開キ、左記原案ノ通リ承認並ニ決議ヲ為シタリ
一、大正拾五年壱月壱日ヨリ同年参月参拾壱日ニ至ル事業報告書・損益計算書・貸借対照表及財産目録ノ承認並ニ利益金処分ノ件
二、九州製紙株式会社・中央製紙株式会社及中之島製紙株式会社トノ合併成立報告ノ件
三、定款改正ノ件
定款第十四条ヲ左ノ通リ改正ス
 当会社ノ取締役及監査役ハ各拾弐名以内トシ、弐百株以上ノ株式ヲ有スル株主中ヨリ総会ニ於テ選挙ス
○下略


樺太工業株式会社第弐拾七回報告書 自大正拾五年拾月至昭和弐年参月 第一頁刊(DK520058k-0005)
第52巻 p.492 ページ画像

樺太工業株式会社第弐拾七回報告書 自大正拾五年拾月至昭和弐年参月
                        第一頁刊
 ○事業報告書
    株主総会
一、大正拾五年拾壱月弐拾五日東京市麹町区永楽町日本工業倶楽部ニ於テ定時株主総会ヲ開キ、前期事業報告書・損益計算書・貸借対照表及財産目録ノ承認並ニ利益金ノ処分ヲ議決シ、次テ資本金ヲ金七千万円ニ増加ノ件及ビ之ニ伴フ定款第五条改正ノ件ヲ決定シタリ
○下略


大川平三郎伝[大川平三郎君伝] 竹越与三郎編 第二九九―三一三頁 昭和一一年九月刊(DK520058k-0006)
第52巻 p.492-495 ページ画像

大川平三郎伝[大川平三郎君伝] 竹越与三郎編 第二九九―三一三頁 昭和一一年九月刊
    第十四、樺太工業会社の成立
 明治四十三四年頃の事であつた。大川君が東海道を旅行しつゝある時汽車の中で、井上静雄と言ふ大川君の知り合ひの人が、他の一壮漢と頻りに談話しつゝあるのを聞いてゐると、樺太の事を語り合ひ、全島悉く山林であるから、彼の様の処で、事業を起さば面白いであらうが、我々素人には手を出す方法がないと言ふのである。大川君は右の井上静雄氏に、其の話し相手の壮漢の名を聞いたが、それは山本久顕と言ふ人であつた。大川君は之より、樺太の事に深き興味を持ち、頻りに調査して見たが、中々有望であるらしい。そこで田中文太郎といふ独眼多才の人物を、樺太事情調査の理事に採用して該地に出張せしめたが、最初は僅かばかりの材木を伐採して、四日市・中央・九州等の内地の工場に送らしめ、製紙の材料としての試験をしたのである。次には運送の便宜、気候の関係を調査せしめたが、此の試験と調査に三年を要したのである。
 斯くて万事調査の結果として、略ぼ決心がついたので、大正二年七月大川君自ら、樺太に出張して、初めて泊居に上陸した。此の事に就いては、大川君自身をして語らしむるのが、最も捷径である。
 - 第52巻 p.493 -ページ画像 
  そこで愈々工場を建てるに就いては、僕が自分でゆかなくちやならないので、自分で行く事にした。其の前に田中文太郎を派遣して材木の伐出をさせて見て、それがよい工合にゆくから、是れならば運送もさう心配はない。気候とてもさして恐るゝにたるべきものではない。僕の最も恐れたのは、冬になつて迚も仕事が旨く出来ないといふ様な故障に遭遇しはしないか、何しても零度以下三十度になる。それで先づ田中文太郎に、二年ほど本当に研究させて見たが、彼はズツト樺太の沿岸を悉皆歩いてみた。で我々が着目したのは西海岸であつた。樺太は先きに西海岸から開けて、それから漸々に東の方に開けて行つたのです。西海岸の方にはいくらか暖流が来るので、東海岸の太平洋に面した方面の様に、非常に海が荒いといふ程でない。故に先づ西海岸の方面から始めようといふのであつたのです。けれども始めて行きました時には七月だつたが、内地では最早や可成り暑いのに、樺太では私は毛皮のオーバーコートを着て居つたのです。それから四日市製紙会社から相談相手になる人達を六・七人連れて行きました。上陸をしてから、手足や顔を洗はうと思つても清水がない。それはズンドラ地帯であるからです。人々は已むを得ず皆な其のズンドラの渇色の水を飲み、ズンドラの湯に入つてゐるのです。けれども私が行つて後に上の方のズンドラ地帯を離れた奥から水を引いてやれば宜いと考へたので、段々それを研究して見ると、水がありました。我々はズンドラの水で炊いた飯を食ひ、ズンドラの水の湯に入つてたが、いやなものである。樺太は非常に寒いので、泊居に行つて見ると、宿屋はロクなものがない、それで岡野栄次郎といふ人のやつて居る郵便局がありました。其の郵便局の二階に留めてもらつた。六・七人ですから何でも八畳の間に六・七人寝たのです。それから泊居といふ処には炭山があつて、政府が其処で石炭を掘つて輸出をするといふことで、大分石炭に手を着けた。それから海岸には一寸した桟橋が出来て、約二里ばかり山奥まで石炭を搬出するレールが架つて居つた。其の為めに一時は石炭に非常に望を嘱して、樺太庁が手を着けてやつて見たが、断層だらけである。且つ困ることは、斯ういふ層はズツト下を掘つて見てもいくらも掘れないので量が少ない。けれども是だけ沢山石炭があれば先づ石炭には困らない、斯ういふ処に着眼をしたのです。
 右の如く大川君自ら樺太に出張し、現場を見て愈々決心を固めて、泊居に樺太工業会社を起したが、九州・四日市・中央・木曾工業の四社が力を合せて、大川君も又私財を提供し、渋沢男や阿部・岡崎・小西の諸氏等も之に参加して此の計画を遂行したので、会社は瞬く間に成立した。
 其の資本は最初は百二十万円で、樺太林産会社といふのであつたがほどなく樺太工業会社とあらため、二百万円の資本とし、東京で創立総会を開いて大川君が社長に就任したのである。此の泊居工場は大正三年五月に起工したが、折柄世界大戦が勃発して、欧洲に注文したスチームタービンは其の積込の独逸船が埃及亜歴山港に抑留されて来なくなつたり、瑞典に注文したダイゼスター二基が延着したり、それか
 - 第52巻 p.494 -ページ画像 
ら小形発電機を積載した同国船が南米を迂廻せんとして智利国に避難したり、意外の危変があつて、是れ等の代用品調達の為め随分苦心したのである。そしてやうやく大正四年八月竣工して翌月から操業を開始したが、一方此の大戦の為めに欧洲とアメリカおよび東洋との海運が杜絶し、東洋が必要とする紙は一切日本で製造せねばならぬことゝなつた。かゝる異常の国運に際会して最初は三銭でつくつたパルプを四銭で売つても有利であると言ふ計算であつたのに、大川君が樺太の工場を巡視中に五銭五厘に売れ、つひには八銭迄昂騰し、工場に注入したる二百五十万円の資金は一ケ年間に回収してしまつた。是れはもとより大川君の着眼がよく、努力が異常であつた為めではあるが、また国家勃興の運勢の賜物であることは言ふまでもない。大川君はつねに此のことを回顧して、是れ決して自力ではない国運の賜物であると言つて居る。
○中略
 斯くて樺太工業会社の工場は泊居に開設せられたが、それは主としてパルプ製造に全力を注いで居つたのであるが、大川君は一体樺太をパルプの産出地とするは国策上不可である。一歩進んで製紙の策源地とすべきである。之が自然の順序であると主張し、其の土地は樺太の南部にあつて比較的温暖の地を選ぶことゝなり、略ぼ本斗を候補地とすることゝなつた。併しながら此の工場で消化すべき材木の伐採権に就いては、此の時未だ許可を取つて居らなかつたのである。然るに此の間に政変があつて、政府は平岡長官を廃めて岡田文治君を新たに樺太長官に任命したが、岡田君は樺太に一つの港湾を作らねばならぬと提唱したので、全島民皆な之に賛同したが、愈々港湾を作るべき地点を選定する段となつて、彼は島民の期図に反して本斗を以て港湾とする事を決定した。島民は皆な真岡が築港に選定せらるべきものであると信じて居つた矢先であるから、深く失望し、失望は憤激となり、重大なる出来事を生せんとする形勢となつて来た。元来真岡は暖流の見舞ふが為めに樺太中最も温暖であり、他の地方より概して十度程の高温を示してゐるので、住民が自然に招致せられて、已に人口五千人の大部落となつてゐる。本斗は之に反して真岡から五・六里の南方に僻在する寒村であるから、此処に築港する事は自然の勢に反する無理な決定であつた。斯かる事から真岡町民は之を以て真岡の繁栄を本斗に奪ふものとして、大挙して岡田攻撃を開始し、其の尖兵二十余人は東京に集まり、貴衆両院の議員を訪問して頻りに陳情に勉め、そして其の一部は泊居に工場を有してゐる関係から大川君を訪問して、此の問題に就いて助力せんことを乞ふのであつた。大川君は彼等に対して静かに言ふには「樺太長官が既に決定したことを攻撃した所で仕方がない。余は近く本斗に工場を建設する計画を廃し、真岡に工場を開設し決して真岡の繁栄を本斗に奪はれぬやうにするであらうから、此の事は余に一任せよ」と取り静め、そして樺太長官に此の間の事情を開陳し、真岡の工場に必要とする木材の伐採権を許可せんことを願ひ、附近七・八里の地に其の権利を取つたのである。それは林間川流域で一千万石、年額約八十万石といふのであるから、之で原料の心配はない
 - 第52巻 p.495 -ページ画像 
ことになつた。真岡村民も之によりて鎮静し、そして岡田君も百姓一揆の禍から逃れ得たのである。
 右の如くにして真岡に工場を建設することが宣言せられた。工場が出来れば職工も群居する。物資も流動する。真岡の繁栄を拡大する計画は玆に定まつた。唯だ玆に一大欠点は、製紙事業に最も必要である流水がないことである。唯だ一条の手井川があるが、それは問題にならぬ小川である。若し玆に流水を利用する方法がなければ、工場は開始することは出来ぬ。従つて工場を中心とする一切の計画は水泡に帰せねばならぬ。然るに如何なる危局に対しても必ず対策を案出し得る大川君の頭脳に、一道の尖先が閃めき、玆に卒然として一個の妙案が浮んだ。それは此の附近唯一の手井川は小流ではあるが、其上流には十数里に亘る森林がある。此の森林の積雪が融解するとき、その水量は幾億立方尺にも達するであらう、此の流水を堰き止めて一大ダムを作れば、工場に要する水を十分に取ることが出来るであらうと云ふのが大川君の対策である。そしてダムを作ることもまた困難でない。真岡の町の背後に一道の山脈があり、山脈の尽くる処が真岡であり、両山相接する処は幅一町位であるが、大川君は此の一町の挟地に八十五尺の堤防を築きて、一大ダムを作れば、玆に連山より流下する雨水雪融の水渓流などを准集せしめて、之を貯蔵することが出来るであらうと云ふのである。そこで大川君は山林の面積を測量し、雨量や積雪の統計を調査した結果、此の地方では三尺の雪が積もることを前提として、其の雪融の水量、そしてそれが一秒間に一分五厘づゝ蒸発することを計算し、八十五尺水深のダムの中に一億五千万立方尺の水を貯へそれによりて一年中工場の使用に供し得ることを考量し、遂に五十万円の費用を投じて之を築造したのが大正七年であつた、此の時会社の資本金は壱千壱百万円となつて居た。爾来十数年、真岡工場は此の水によりて事業を継続して居る。雪水を計算してダムを作るといふが如きは、恐らくは世界に於ての絶無の事業であらう。当意即妙、如何なる場合にも泰然として対策を案出するところは、古の河村瑞賢などゝ共通な所がある。
○中略
 斯くて泊居と真岡の工場開始の後、樺太工業会社の隆運は旭日の昇るが如き勢で、一年にして資本金を取り返したことは前項に記した如くである。大川君は此の勢に乗じて、更に奥地に向つて其の勢力を拡張せんとして調査した所が、恵須取といふ有望な土地がある。此処には広大なる山林がある、そして樺太の中で最も広大な恵須取川流域の中であるので、此の流水を利用して木材を動かすの便利がある上に、石炭は豊富でほとんど無代価同様であるので、愈々恵須取に着手せんとする矢先に、泊居の工場が一夜にして焼失してしまつた。それは大正十年二月五日である。○中略 然るに其の年の五月、また真岡の工場が自火で焼失してしまつた。
○下略