デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

3章 商工業
4節 製紙業
5款 製紙所聯合会(日本製紙聯合会)
■綱文

第52巻 p.496-498(DK520059k) ページ画像

明治43年10月22日(1910年)

是日、上野精養軒ニ於テ、当聯合会総会開カル。栄一、出席シテ演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一日記 明治四三年(DK520059k-0001)
第52巻 p.496 ページ画像

渋沢栄一日記 明治四三年         (渋沢子爵家所蔵)
一月十三日 曇 寒
○上略 十二時第一銀行ニ抵リテ午飧シ、食後直ニ桂総理大臣宅ヲ訪ヒ、大川・高橋二氏ト製紙事業ニ関シ輸入税増加ノ請願ヲ為ス、更ニ農商務省ニ抵リ大浦氏ニ面会シテ同様ノ事ヲ懇請ス○下略


竜門雑誌 第二七〇号・第八一頁 明治四三年一一月 日本製紙聯合会総会(DK520059k-0002)
第52巻 p.496 ページ画像

竜門雑誌 第二七〇号・第八一頁 明治四三年一一月
日本製紙聯合会総会 同会は十月廿二日上野精養軒に於て開かる、青淵先生には御出席の上一場の演説を試みられし由


紙業雑誌 第二六巻第一〇号・第五―六頁 昭和六年一二月 渋沢男爵の席上演説(明治四十三年十月廿二日晩餐会)(DK520059k-0003)
第52巻 p.496-497 ページ画像

紙業雑誌 第二六巻第一〇号・第五―六頁 昭和六年一二月
    渋沢男爵の席上演説(明治四十三年十月廿二日晩餐会)
 諸君、本日は日本製紙聯合会秋季総会を開かれたるを機とし、老生をも此盛宴に招かれ、諸君と歓晤を共にするは甚だ光栄とし、深く感謝する所なり。諸君よ、老人は兎角過去の事を語るを喜ぶものなり。少壮なる諸君は将来に向て多大の計劃希望を抱き、其実行を楽まるゝも、予の如き老人は、只過去を偲びて之を楽むのみ。是れ老人が昔話を最も愉快に感ずる所以なり。爰に謝辞を述ぶる序を以て、製紙業に関する予の昔話を試むるも亦一興ならん乎。只今高橋義雄君より予が商工業に於ける功労に就き、溢美の賛辞を受けしが、皆予の敢て当らざる所なるも、只同君が蓋し製紙は渋沢が実業の第一着手ならんと云はれしは、全く事実なり。予は慶応三年即ち西紀千八百六十七年の秋に、先般薨去せられた徳川民部卿の随行を仰附られ、欧羅巴に往きしが、白耳義に於て民部卿が国王レオポルド二世陛下に謁見の際、種々の御物語ありし中に、白耳義(国王)陛下が尚ほ幼年の民部卿に対して仰せらるゝには、(卿は将軍慶喜公の実弟なり)『貴国にては鉄を多く用ひらるゝ哉、鉄を多く用ゆる国に非ざれば、富国強兵となる能はず、英仏其他の諸国も多く鉄を用ひ、又多く之を産出するも、我国の鉄は価最も廉にして質最も良し、故に貴国に於ても富国強兵の道を計られんには、我国の鉄を買はれよ』と勧められた。此会話は故陽其二氏の通訳により、予も卿の傍に侍して聴きしが、予は実に驚きたり。日本にて斯る商賈的として卑賤視したる談話は、大名は固よりの事、苟も士たる者が口にするを恥づる所、予自身の如き百姓出身にして、僅に士に取立てられたる者と雖も、到底口外せざりし所なり。然るに一国の主権たる国王陛下が、商人の口吻にて諄々と口説かれ、恬とし
 - 第52巻 p.497 -ページ画像 
て恥づる模様も見へざりし。是に於て予は熟ら考へたり、日本が文明国なれば欧洲諸国は極めて野蛮なり、若し欧洲が文明なれば反対に日本は野蛮なりと。(笑声)
 予は欧洲滞在中種々の文明事業を視察したる中にも、製紙は文明の進捗を助くるに最も必要なる事業と考へたり。帰朝後明治の新政府に採用せられ、大蔵省に出仕する身となりしが、或時故福地源一郎君に製紙の事を語りしに、同君も大に賛成を表し、且つ同氏自身も官途を辞して新聞記者となりたき希望なりと告げられたり。福地君が多年新聞業に従事したるは諸君の知らるゝが如し。又予は在官中明治四年の事なりしが、当時政府の為替御用たりし三井・小野・島田三家に対し各資を合せて製紙業を起すべしと勧誘したる事ありし。其後島田組の某氏は如何なる心算なりし乎、他の二家に協議せず、単独にて米商館ウオルシユ・ホールに機械の注文をなしたるにぞ、三井の三野村利右衛門氏、小野の岩谷嘉平氏等は之を不快に思ひ協同の意を絶ちたり。然るに島田は独立にて経営する能はず、該事業は一時蹉跌の有様なりしかば、故後藤象二郎君が此事を憂ひ、予に調停の労を取れと依頼せられた。予も当初の関係あれば快く之を諾し、種々斡旋した結果、漸く以前の如く三家にて経営することゝなりし。
 明治六年五月には予も官途を辞して民間に下りしが、前述の縁故ありし為め終に推されて製紙会社を経営する任に当りしかば、明治六・七年には、斎藤順蔵氏《(斎藤純造)》と共に関口水道町、井の頭を初め、外二・三ケ所水利の便ある地を視察せしが、終に王子の最も便利なるを確め、千川の清水を引くことゝなし、一製紙工場の設立を見るに至れり。今の王子製紙会社則ち是れなり。当時を追想すれば実に滑稽なる事尠なからず、工場の建築・機械の据付等には、無論西洋人を雇はざるべからず、依てウオルシユ商会の周旋にて、最初米人バツトムギー《(バツトムリー)》を聘用し此人を教師とし、技師として、専ら其指導に頼らざるを得ざりしが、後年大川平三郎君が渡米中に、此人の身元を調べたるに、製紙の技能を有するにあらざりしのみか、曾て或る製紙工場の門番を務めたのみの履歴なりし事が判明したり。(笑声)以て当時甚だ幼稚千万なりし事を想像せらるべし。而して其製紙業も我国文明の進歩に伴ひて、漸次拡張せられ、今や全国には二十有余の大工場あり、其営業は時に消長を免れずと雖も、益々進歩の状態にあるは、国家の為に慶賀すべき所なり。即ち四十有余年前に於て、予が最も必要なりと感じたる事業が斯く盛大に赴きしは、予も亦聊か先見の明ありし心地して、愉快に堪へざる所なり。(拍手喝采)
   ○右ハ栄一死去ニ際シ「紙業雑誌」ノ掲ゲタル関彪ノ編述ニヨル「故渋沢子爵を追悼す」中ニ引用セラレタルモノナリ。


渋沢栄一日記 明治四四年(DK520059k-0004)
第52巻 p.497 ページ画像

渋沢栄一日記 明治四四年         (渋沢子爵家所蔵)
六月二十七日
○上略 六時過、帝国ホテルニ抵リ《(ル)》、製紙業者ノ案内ニヨリテ聯合会ニ参席シタルナリ、食卓上小野金六氏ヨリ挨拶アリ、依テ一場ノ答辞ヲ述フ○下略
 - 第52巻 p.498 -ページ画像 


渋沢栄一日記 大正二年(DK520059k-0005)
第52巻 p.498 ページ画像

渋沢栄一日記 大正二年         (渋沢子爵家所蔵)
一月二十七日 晴 寒
○上略午後五時半築地新喜楽ニ抵リ、製紙業者聯合会ヨリノ招宴ニ出席ス、食事中余興アリ、且営業上ニ付テ現在及将来ニ関シ種々ノ談話アリ、一同歓ヲ尽シ、且情意融和シテ散会ス
○下略


関彪談話筆記(DK520059k-0006)
第52巻 p.498 ページ画像

関彪談話筆記            (財団法人竜門社所蔵)
                昭和一四年一一月二〇日、於日本製紙聯合会揖西光速筆記
    渋沢さんと製紙聯合会
 渋沢さんは創立当時大いに尽力され、其後も午餐会等には時々出席されましたが、総会には殆ど出席されませんでした。渋沢さんを一々煩はす必要もなかつたのです。直接の事務には大川さんが関係されました。従つて渋沢さんと製紙聯合会との関係は、私が「紙業雑誌」第二十六巻第十号(昭和六年十二月)に「故渋沢子爵を追悼す」と題して書いた以外には御座いません。その記事中明治四十三年十月廿二日晩餐会での渋沢さんの演説は私が記憶して翌日書き残しておいたものです。当時速記術を知らなかつたので、予め御相談をして地名とか人名とかが出る場合にはテーブルをトントンとたゝいて貰つて、それだけは仮名でその際書き留めておきました。「斎藤順蔵氏」とあるのは「純蔵氏」の誤りです。既に故人となられてゐたのではつきり記憶がなかつたのです。当時の傾向として言文一致体があまり採用されなかつたので文語体にしました。
   ○関彪ハ日本製紙聯合会書記長ナリ。