デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

3章 商工業
6節 窯業
4款 秩父セメント株式会社
■綱文

第52巻 p.541-548(DK520071k) ページ画像

大正12年1月30日(1913年)

是日、日本工業倶楽部ニ於テ、当会社創立総会開カル。栄一、渋沢同族株式会社名義ヲ以テ株式ヲ引受ケ、又、当会社重役ニ渋沢家代表トシテ増田明六ヲ推薦スル等、当会社ノタメ援助ス。


■資料

(増田明六)日誌 大正一一年(DK520071k-0001)
第52巻 p.541-542 ページ画像

(増田明六)日誌  大正一一年      (増田正純氏所蔵)
十月三日 火 晴
○上略
午後三時日本工業倶楽部ニ於テ秩父セメント会社設立ニ関スル協議会
 - 第52巻 p.542 -ページ画像 
アリ、同族会社ヲ代表シテ列席ス○下略
  ○中略。
十一月三日 金 晴
午前十一時阪谷男爵ヲ日本倶楽部ニ訪問して秩父セメント株式弐千株引受の同意を得たるが、先之同株式壱千弐百株引受の事を同族会ニて決議したるを、更ニ其主唱者たる諸井恒平氏より子爵ニ尚より以上の引受を請ふ旨の来談ありて、斯くハ増加の協議ニ行きし次第なり○下略


青淵先生関係会社調 雨夜譚会編 昭和二年八月(DK520071k-0002)
第52巻 p.542 ページ画像

青淵先生関係会社調 雨夜譚会編  昭和二年八月
                    (渋沢子爵家所蔵)
    秩父セメント株式会社
一、創立  大正十二年一月三十日
一、資本金 五百万円(創立より現在まで変りなし)
一、場所  東京市日本橋区三代町六番地(創立当時)
      同麹町区永楽町二の一日本工業倶楽部内
                      (大正十五年五月此処に移転)
一、創立当時の関係人 後援者 青淵先生・和田豊治等
           発起人 諸井恒平
○中略
一、創立迄の沿革 諸井恒平氏談参照
一、創立後の沿革 イ大正十二年一月卅日東京市麹町区永楽町二の一日本工業倶楽部に於て当会社創立総会を開く
○下略


(増田明六)日誌 大正一二年(DK520071k-0003)
第52巻 p.542-544 ページ画像

(増田明六)日誌  大正一二年      (増田正純氏所蔵)
一月廿九日 月 晴
○上略
此夕諸井恒平氏子爵を訪問、同氏の主唱にかゝる秩父セメント会社明日創立総会なるが、渋沢家より代表者を重役として出され度し、可相成ハ渋沢篤二様に願度しと之希望なりし、子爵ハ一応同族とも協議の上回答すべしと答へられ、常盤家ニ於て之を佐々木勇之助・明石照男両氏ニ別室にて内談意見を問ハれたるニ、佐々木氏ハ第一銀行ニ於て取締役に補欠あるを以て本年七月にハ推薦セんと思ひ、兼て子爵を始め穂積・阪谷両男爵ニ御協議セんと期居りしが、偶々玆ニ其談出でたるニ付御話する次第なるが、其場合ニハ寧ろ他ニ関係無き方佳なるべきニ付き、願ハくハ秩父セメントにハ他のものを出す事ニセられてハ如何との意見なるに、子爵も明石氏も誠ニ尤もと同意セられ、子爵ハ即坐に然らハ増田を代表者として同会社ニ出すべしと命セられしかば同席ニ在りたる小生は御言葉ニ反するハ恐縮の至りなれと、同社にハ渋沢正雄様已ニ発起人として加入セられ居るに付き、同氏を御推薦セられたしと申陳へたるニ、子爵も明石氏も同氏は富士鋼の関係また整理付かさる際他の多くの会社ニ関係するハ面白からさるニ付、増田の推挙コソ可然、依テ増田ハ明朝諸井氏を訪問して、篤二様の推薦を断ハり、如何しても渋沢の代表者を必要とセは増田を出すべしと答へよ
 - 第52巻 p.543 -ページ画像 
と命令セられたり
一月三十日 火 晴
早朝諸井氏を訪問セんとする際、恰も同氏より電話にて秩父セメント重役の件如何と問合セあり、依て子爵申付の儘答へたるニ、左らハ之より和田豊治氏と重役の詮考を為す筈なれハ其積にて協議すべしと之事なり
定刻出勤、秩父セメント社員来訪し、兼て同族会社にて引受申込を為したる同社株式の内若干かを増田の名義にて申込呉れと之事なり、依て明石氏と協議の上内弐百株を増田明六名義にて申込をなし、同族会社の申込書の千五百株を千参百株と訂正した○中略
秩父セメント会社創立総会ニ於テ監査役ニ撰任セられたり
○下略
  ○中略。
二月一日 木 晴
午前八時阪谷男爵を小石川原町の同邸ニ拝訪し、秩父セメントの監査役に当撰するニ至りし次第を報告して御同意を得た○下略
  ○中略。
二月五日 月 晴
○上略
午後三時日本煉瓦会社に於て秩父セメント会社重役の顔合ハセを兼ね会議を開き、左記事項を決定す
一取締役会規程
一職員採用規程 此規定は大友幸助氏(明治卅九年帝大出身理学士、応用化学なり)独特の理想を現ハしたるものにて、感すべき種々の点あり
一社長及常務互撰の結果諸井恒平氏を社長に、社長の指名を以て大友幸助氏を常務取締役とす
一本社を三代町日本煉瓦会社三階ニ置く
一重役報酬を諸井・渡辺・塚口及小生の四人詮考委員となり、協議の上左の通決定
 社長年額参千円 常務同六千円
 取締役・監査役各年額五百円
 但社長及取締役・監査役ハ株主配当ヲ生する迄ハ右半額を受くるに留むる事
一機械購入の件ハ社長・常務に於て尚充分調査の上、向後の重役会に附議する事
一工場位置の撰定も前と同し
大体如左決定《(右)》
○下略
  ○中略。
三月十八日 日 晴
○上略
午後三時秩父セメント会社重役会出席す、同会社ニ於けるセメント製造機械買入ニ関する協議なり
 - 第52巻 p.544 -ページ画像 
○下略
  ○中略。
五月九日 水 曇               定刻出勤
正午工業倶楽部にて開会之秩父セメントの重役会に出席す○中略議は工場処地買収代金の決定と云ふのであるが、始め崖地一坪壱円、平地・田畑を平均して同参円位の予定で、総計拾万円を設する予定であつたが、実際に当たて見ると、平地の方は畑一反弐千円、同田千八百円と云ふ倍額以上の高価なので、併かも夫れより減価せぬと頑張る有様、到底予定の価格にては購入覚束ない、種々協議の上、予定の二割増金拾弐万円迄買上くる事として、之を社長及柿原取締役の取扱ニ一任する事ニ一決し、午餐を共にし散会す
○下略


(秩父セメント株式会社) 第二回営業報告書 大正拾弐年下半期(自大正拾弐年六月壱日至大正拾弐年拾壱月三拾日) 第一―九頁刊(DK520071k-0004)
第52巻 p.544-545 ページ画像

(秩父セメント株式会社) 第二回営業報告書
      大正拾弐年下半期(自大正拾弐年六月壱日至大正拾弐年拾壱月三拾日) 第一―九頁刊
    大正十二年下半期第二回営業報告書
              東京市日本橋区三代町六番地
                   秩父セメント株式会社
○上略
      社務要項
一、株主総会 大正十二年六月二十二日午前十時東京市麹町区永楽町二丁目一番地日本工業倶楽部ニ於テ、第一回株主総会ヲ開キ、大正十二年一月三十日ヨリ同年五月三十一日ニ至ル上半期間ノ業務成績及貸借対照表・財産目録・損益計算書ノ承認並ニ利益処分案ヲ可決セリ
○中略
七、庶務要件
  一、罹災ノ概況 大正十二年九月一日未曾有ノ大震火災ニ際シ、不幸ニシテ当社モ亦罹災焼失ノ難ヲ免カルヽ事能ハズ、殊ニ遺憾ナルハ○中略設計室ニ於ケル図面ヲ取出スノ暇ナク、之ヲ焼滅セシメ、本年二月以来半年有余心血ヲ注ギタル努力ヲ一朝烏有ニ帰セシメタルハ、誠ニ一大痛恨事トシテ長大息セシ処ナリシガ、天祐ナルカナ、曩ニ其幾部分ヲ建築資料トシテ松井建築事務所ニ送付シ置キタルモノ、該事務所ガ○中略類焼ノ厄ヲ免レタル為メ該図面ノ無事ナリシト、経理ニ属スル重要書類ト印鑑全部ハ勇敢ルナ社員ノ行動ニヨリ、之ヲ全フスルコトヲ得タルハ不幸中ノ幸トイフヘシ
  二、事務所移転 九月一日ノ大震火災ノ為メ本社事務所焼失セル為メ仮事務所ヲ東京市麹町区永楽町二丁目一番地日本工業倶楽部内ニ設置セリ
○中略
 右之通リニ候也

  大正十二年十二月   秩父セメント株式会社
              取締役社長 諸井恒平
 - 第52巻 p.545 -ページ画像 
              常務取締役 大友幸助
              取締役   小倉常吉
              同     渡辺勝三郎
              同     柿原定吉
              同     塚口慶三郎
              同     楠本武俊
              同     浅野泰治郎
              同     三輪善兵衛
 前記ノ各項相違無之候也
              監査役   根津嘉一郎
              同     増田明六
              同     鈴木六郎


              相談役   和田豊治
    株主名簿(大正十二年十一月三十日現在)(イロハ順)
       株数    府県     氏名
○中略
      一、三〇〇  東京  渋沢同族株式会社 社長 渋沢敬三
○中略
      五、〇〇〇  東京  諸井合資会社 社長 諸井恒平
○中略
   計一〇〇、〇〇〇      計一五四名


(増田明六)日誌 大正一三年(DK520071k-0005)
第52巻 p.545 ページ画像

(増田明六)日誌  大正一三年      (増田正純氏所蔵)
十二月十三日 土 晴
午前八時五十五分上野駅より乗車、秩父セメント会社工場及原石地視察ニ赴く、同社相談役大橋新太郎氏・監査役鈴木六郎氏並ニ社員斎藤氏同行、熊谷駅ニて秩父鉄道ニ乗り換へ十一時秩父駅ニ下車、諸井社長・柿原取締役の出迎を受け、直ちニ事務処ニ至り午餐の後、建築中の工場を視察し、夫れより粘土及原礦の所在地を踏察したり、午後五時秩父会館にて晩餐の饗を受け、六時五十分秩父駅発電車ニ乗し前路を取り十時帰京す
同会社の要する純良なる原料豊富にして、運輸の便稀ニ良く(秩父鉄道が其姉妹会社たる関係なるが為めなり)、而して建築就中工場ニ就てハ最も改良されたる機械を使用するを以て、之が製品ハ必す既設会社の夫れニ劣る事無かるべく、加ふるニ、原価ハ一切のコーストを併セて一樽東京渡金四円五拾銭を上らさる計算なるを以て、同会社の前途ハ相当望を嘱するニ足るものと思惟せらるゝなり


(増田明六)日誌 大正一四年(DK520071k-0006)
第52巻 p.545-546 ページ画像

(増田明六)日誌  大正一四年      (増田正純氏所蔵)
十七日○一一月 火 雨              出勤
午後一時諸井恒平氏と共に復興局長官清野長太郎氏を同局に訪問す、諸井氏より秩父セメント会社の製品、就中今般独逸より雇聘したるセ
 - 第52巻 p.546 -ページ画像 
メント製造技師アドルフスペンゲル博士に依りて製出せられんとする高級セメントに就き、種々説明を為し、是非同局用品ニ採用せられたしと懇談し、小生亦之ニ和して懇請したり、長官は篤と了承したれは技師に命し調査せしむる事とすべしと答へられたり
○下略
  ○中略。
二十六日○一二月 土 晴             出勤
午前九時秩父セメント会社重役会(工業倶楽部)ニ出席、塚口取締役逝去ニ付き其補欠として米山氏(秩父鉄道専務取締役)を推薦し度き諸井氏の希望ありたれハ、之ニ同意し置きたり
同十時株主総会開会(同上)、本年下半季決算報告は原案可決、又取締役任期満了改選の件は、株主喜多貞吉氏の発言ニ依り議長諸井恒平氏の指命ニ一任と決し、即同氏を含ミたる現任全員重任と新ニ米山氏を加ふる事と決定した
○下略


(増田明六)日誌 大正一五年(DK520071k-0007)
第52巻 p.546 ページ画像

(増田明六)日誌  大正一五年       (増田正純氏所蔵)
九月十七日 金 曇                出勤
午前十一時秩父セメント会社重役会ニ出席す、諸井同社長・大友専務ハ同会社樽製造(請負として他ニ経営せしむ)の職工の罷業ニ聯絡して会社の職工にも罷業の兆候ある由ニて、其警戒の為め工場を離るゝ事を得さる由ニて欠席す
○下略



〔参考〕渋沢栄一書翰 増田明六・白石喜太郎宛(大正一三年)八月一八日(DK520071k-0008)
第52巻 p.546 ページ画像

渋沢栄一書翰  増田明六・白石喜太郎宛(大正一三年)八月一八日
                    (白石喜太郎氏所蔵)
○上略
増田氏之来書一昨日落手、秩父セメント会社関係之件ハ諸井恒平氏より詳細ニ被申越、今朝ハ又浅野良三氏態々当地まて参り会見之上其後之経過も承及候も、一寸調停困難と思惟候ニ付、暫時此儘ニ保留し、老生帰京まて双方共過激之行動無之、可成忠恕ニ注意有之様浅野氏ニハ説得せしニ付、諸井氏へも一書送付仕候、御含有之度候
○中略
  八月十八日
                    香山客舎ニ於て
                      渋沢栄一
    増田明六様
    白石喜太郎様
         各榻下



〔参考〕諸井恒平談話筆記(DK520071k-0009)
第52巻 p.546-548 ページ画像

諸井恒平談話筆記             (財団法人竜門社所蔵)
                         昭和二年七月
    工場経営について
 - 第52巻 p.547 -ページ画像 
私の会社経営の大綱は、全然青淵先生の唱道される道徳経済の合一主義に外ならぬのであります。今日の社会には経済を無視した道徳はあり得ないだらうと思ひます。貧すれば貪に陥ります。而も貪は不道徳に外ならないのであります。玆に道徳の経済化の必要が生じます。同時に経済も亦道徳化してこそ其の発達は円満であり、順調でありませう。云ふことを憚りますが、昨今の銀行・会社の破綻は此の自明の真理を捨てて顧みない結果かと思ひます。真理は平凡であります。道徳の経済化、経済の道徳化亦然りであります。私はこれを実行して居ます。即ち秩父セメント会社は出来る限り借金経営を避けてゐます。絶対にしないとは云ひません。こうなれば窮屈です、道徳心は窮屈を厭ひます。宜しく心神濶達にして、而も自ら則を越えないところに妙味があるのではありますまいか。この借金をしないと云ふ政策は成功して、此の五月には利益金三十八万円余を挙げ、外に銀行預金四十余万円を有するに至りました。また支払手形は絶対に出しませんでした。以上は社業経営の一端でありますが、なほ私は工場其他で働く社員・職工に対する、所謂労資間の関係についても一定見がある積りであります。
労資は不可分であり、一体であります。勿論区別はあります。恰も人体の四肢五体の分科がある様に区別はあつても、其の間徒らに軽重の差を設くべきものではあるまいと思ひます。それではこの主義は会社で如何なる方法で実行してゐるかと云ひますれば、社内に有恒積立金制度と云ふ制度を規定してゐます。この規定によれば従業員はその営業期間の総所得、即ち月給・出張手当・夜業手当・居残料等一切の労務に対する報酬金の総額を出資額と見做し、之に対して株主と同率の配当を受けるのであります。但し在職中は渡しません。そして恩給の形式によつて無事に会社を退く場合に限つて支給するのであります。蓋しこの制度の主眼とする所は、従業員に恒産を作らしめることにあるのでありますから、玆に罰則を設けて、左の事項に触れたものは積立金を没収することにしてゐるのです。
 一、積立金通帳を入質又は他人に譲渡した場合
 一、会社に対する不都合の所為によつて解職された場合
 一、ストライキを起し若くはこれに参加した場合
若し右の事項に依て没収金が生じた場合は何うするかといひますと、これは会社の所得とせず、その期末に於ける現在従業員に頭割に分配するのであります。この場合従業員は技師長より小使に至るまで、全く給料の高下を問はず頭割にするのです。これは全く労資協調の趣旨に出たのであることは前述したところであります。大言する様ですが此の制度は蓋し日本に於いて余り類を見ない所だらうと思ひます。
論語に「恒産なきものは恒心なし」とあります。この恒産が即ち私の云ふ経済であり、この恒心が即ち道徳なのであります。これによつて見ても道徳を離れて健全な経済なく、経済を無視して円満な道徳が存せないことを信じ得られるのであります。道徳が経済の因となり、経済が亦道徳の果をなしてこそ、社会文明の精華も望める事かと思ひます。要するに今日の社会には恒産ある人は僅であり、多数の者が恒産
 - 第52巻 p.548 -ページ画像 
の備へがないのです。それに一方智識は漸く進んで来ます。頭のみ異常の発達を遂げて体の成育が之れに伴ひません。これは異状であります。異状は病状であり、不健全の徴に外ならないのです。此処に欠陥もあれば矛盾もあります。即ち思想の悪化も生じて来ます。さればこの不健全を治さねばなりませぬ。その治療法は種々ありますでせうが多数人に恒産を持たしめることが第一ではないかと思ひます。その具体策としてセメント会社は
 一、従業員の家族に内職の奨励
 一、精神訓練として修養団主義の実施
の二つを行つてゐます。そして両者ともに相当の好成績を揚げてゐるのであります。
就中後者の修養団主義の実施については、同胞相愛・流汗鍛錬の二ケ条をモツトーとしまして従業員全員一人の漏なく団員となり、秩父支部を設けて精励大いに努めてゐるのですが、この影響は会社内部から附近に及んでゐる次第であります。これ「徳孤ならず、必ず隣あり」の謂でありませう。依て従業員住宅の附近に地を卜して先年講堂を建築し、益以て修養鍛錬に資してゐるのであります。去年四月にはこの修養団の盛大なる発会式を行つたのでありますが、これと同時にこの講堂に掲揚する大額に青淵先生の御揮毫を仰ぎましたら、先生は早速御引受になり「無恒産者無恒心」の句を書いて下さつたのです。現在講堂に掲げられてゐるのがこれであります。
終りに望んで一言附け加へます。私が青淵先生に恩顧を蒙つたことは昔と今に於いて何等変つたことはありません。たゞ昔は先生に物質的御援助を仰ぎ、現在は精神的感化を受けてゐると云ふ次第でありますそして私は先生の道徳経済合一主義実行の先駆者たることを以て自ら任じてゐるのであります。