公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2025.3.16
第53巻 p.29-38(DK530007k) ページ画像
大正7年5月1日(1918年)
是ヨリ先、久原房之助ノ計画ニ係ル製鉄会社ヲ当
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会社ニ合併シ、九州戸畑所在ノ其所有地ヲ当会社工場敷地ニ充ツルコトトナリ、之ガ合併仮契約成ル。是日、帝国鉄道協会ニ於テ、当会社臨時株主総会開カレ、右合併仮契約承認セラル。栄一之ニ与ル。爾後、製鉄所建設ノ工事進ミ、大正八年五月十日、火入式ヲ挙行ス。尚、大正十年四月十五日、当会社工場ノ経営ヲ八幡製鉄所ニ委託ス。
集会日時通知表 大正七年(DK530007k-0001)
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集会日時通知表 大正七年 (渋沢子爵家所蔵)
五月 一日 午前十時 東洋製鉄会社臨時総会(鉄道協会)
中野武営翁の七十年 中野武営伝記編纂会編 第四六八頁 昭和九年一一月刊(DK530007k-0002)
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中野武営翁の七十年 中野武営伝記編纂会編
第四六八頁
昭和九年一一月刊
○八 晩年十余歳の貢献
(32)東洋製鉄会社
○上略
当初、此の東洋製鉄会社敷地としては、九州各地を調査する中、偶ま、久原房之助氏企劃の製鉄事業との合併談が起りました。此の久原氏の製鉄事業といふのは、福岡県遠賀郡戸畑市の地を卜し、已に其頃土地総計五十八万七千八百余坪の買収を了し、用水・石炭等の関係も極めて有利の地であり、原鉱と資本の豊かな東洋製鉄と合併する事は両々相俟つて好都合でもあり、国家経済の大局から見ても、機宜に適したものと認められました。依て大正七年五月に両社合併の手続を遂げました。そこで資本金は四千万円となり、総株数八十万株といふ事になつたのです。此の戸畑といふのは八幡に隣接した地区で、八幡の官営製鉄所と其の広さも同じ位あり、其の製鉄能力も之に匹敵する位の予定であつたのです。それにしても、中野翁存命中には設備丈けで実際営業を開始したのは其歿後大正八年五月十日に始めて火入式を挙行したといふので、此点中野翁にしては、胎児を知つて出産を見得なかつた憾みありとも申しませうか。○下略
青淵先生関係会社調 雨夜譚会編 昭和二年七月二十六日(DK530007k-0003)
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青淵先生関係会社調 雨夜譚会編 昭和二年七月二十六日
(渋沢子爵家所蔵)
東洋製鉄株式会社
一、創立 大正六年十一月三十《(一)》日
一、資本金 三千万円(創立当時)
四千万円(大正七年四月)
一、場所 東京市麹町区銭瓶町四(仮事務所京橋日米ビル内)
一、創立の目的 西野恵之助氏談を参照
一、創立当時の関係人
青淵先生・西野恵之助・大橋新太郎・和田豊治・中野武営・中島久万吉・倉知鉄吉・藤山雷太・郷誠之助・麻生太吉等
一、青淵先生との関係
創立発起人として尽力
創立総会に於て議長たり
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創立と同時に株主たり
一、創立迄の沿革 西野氏談参照
一、創立後の沿革
イ大正七年四《(五)》月五《(一)》日東京市有楽町一ノ一帝国鉄道協会に於て臨時株主総会を開き、当社と戸畑製鉄株式会社との間に締結したる大正七年三月十八日附合併仮契約書を承認
ロ同時に資本金三千万円より四千万円に増資
ハ同七年十月上旬より基本鉱石たる桃冲鉄鉱石を運搬開始し、また配合鉱石たる朝鮮の利原鉄鉱石は、十二月より運搬開始す。また筑豊炭は当社場内鉄道と鉄道院九州本線との連絡工事の完成を待つて運送開始、支那開平炭は十二月に第一回運搬船来着の予定(大正七年下半期営業報告書)
ニ七年十月八日社長中野武営氏長逝、同年十二月七日取締役男爵郷誠之助氏社長に当選
ホ作業概要(大正八年上半期営業報告書)
米国より購入せる百五十噸熔鉱炉使用の骸炭を製造すべき急設仮骸炭炉たるハルデー式骸炭炉百二十基は、二月中旬其工を終へ、直ちに作業を開始し、期末には一日約百五十噸の優良骸炭の産出を見るに至り、自給上確信を得たり。百五十噸熔鉱炉は組立期間中降雨甚だ多かりし為め、予期の進捗を見る能はざりしと、一方当務者は作業開始の後故障の発生せる先蹤不尠に鑑み、各構成部分に就て努めて其試験を綿密鄭重にせるとに因り、五月十日に至りて初めて火入式を挙行し作業を開始したり云々
へ作業開始直後の業績(大正九年上半期営業報告書の抜書)(前略)三月中旬来本邦財界の激変に伴ひ、鉄鉱市場も亦其影響を免るゝ能はずして、市況一変し、漸く擡頭し来らんとしつゝありし市場は、玆に頓挫して再び漸落歩調に移り、新規の注文全く杜絶せるのみか、金融の極端なる梗塞に因り、既契約品の受渡に就きても種々なる困難を惹起するに至りしは、頗る遺憾に堪へざる所なり云々
(以上の如く財界不振に影響されて業績挙らず、創立より今日まで、欠損を出したことはないが、無配当を継続してゐる次第であることを附言しておく)
ト同十年四月十二日東京市麹町区永楽町二ノ一日本工業倶楽部に於て、臨時株主総会を開き、当会社戸畑工場を八幡製鉄所に経営方委託に関する件を決議す同十五日戸畑工場事務所に於て、当会社並に製鉄所双方の幹部立会の上、滞りなく同工場を製鉄所へ引継の手続を了した
チかくて現在も工場の経営方を八幡製鉄所に託してゐ
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る状態である。
○下略
西野恵之助談話筆記(DK530007k-0004)
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西野恵之助談話筆記 (財団法人竜門社所蔵)
昭和二年七月廿一日
於芝白金三光町自宅
○上略
東洋製鉄会社の事ですか?私の知るだけお話しませう。此の方になると話がコロツと変つて来ますネ。
大正三年から初まつた世界大戦争の結果、外国から鉄が来なくなりました。鉄の輸入が絶えてしまつたのです。此ではいかぬと眼覚めて鉄の自給が是非必要だ。即ち鉄の自給と云ふことが国家の問題となりました。
而し製鉄所を起すには、その前に礦石がなければいかぬ。けれども日本ではこれを豊富に望まれぬ。どうしても支那に求めなければならぬと云つて大冶は八幡製鉄所に鉄礦の供給を行つて居る。外に適当な山を探さなければならないと云ふ次第でした。此時「桃冲鉄礦山と云ふ山が品質よく、数量もあるから、其権利が日本に取れるから、此山から礦石を買収する事にしては如何」と云ふことを中日実業株式会社の副総裁倉知さんからいち早く子爵にお知らせしたのです。子爵は丁度外国にお出掛中で、船中で此の手紙を受けられたので、兎に角帰るまで待つ様に、帰国の上、製鉄会社の設立及礦石買収の企ても聞かうと云ひ送られた。
此れが子爵御帰国後実現されて、現在の東洋製鉄株式会社が生れたのです。
当時子爵は、最早実業界を隠退せられた後で、中野(武営)さんが第一回の社長になられました。此人は商業会議所会頭もやつた人です。中野さんは全く子爵の代りとして社長に就任されたわけなのです。
こんな関係で東洋製鉄会社に対しては子爵は基礎的関係があります。子爵が製鉄事業の国家に必要を感ぜられて居たことは余程古いことで明治以前徳川さんについて仏国に渡られて居た時の話をよく子爵から聞くのですが、其時子爵はベルジユーム皇帝に会見されて、皇帝から鉄は国富のバロメーターだと云ふことを聞かされになつたさうです。
此関係から鉄の必要は子爵は明治以前から知つて居られたのですネ。而し礦石の関係、石炭事業の関係から、我国に於ける製鉄事業は最もおくれて発達しましたし、また子爵の会社事業として、此の東洋製鉄会社に対する御尽力が最後のものでありませう。
東洋製鉄株式会社 営業報告書・財産目録・貸借対照表・損益計算及利息配当計算 第二期 自大正七年六月壱日至大正七年拾壱月参拾日 第一三―八七頁刊(DK530007k-0005)
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東洋製鉄株式会社 営業報告書・財産目録・貸借対照表・損益計算及利息配当計算
第二期 自大正七年六月壱日至大正七年拾壱月参拾日 第一三―八七頁刊
第一項 営業報告書
第一節 庶務概要
一 株主総会
一 大正七年六月二十四日午前十時ヨリ東京市麹町区有楽町壱丁目壱番地東京商業会議所ニ於テ第壱回定時株主総会ヲ開ク、出席株主
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(委任状共)弐千参百拾壱名、此株式数六拾万壱千四拾参株ニシテ、取締役社長中野武営氏議長席ニ着キ左ノ事項ヲ議了セリ
第一 大正六年十一月一日より大正七年五月三十一日ニ至ル第一期(初期ト次期トノ併合)営業報告書・財産目録・貸借対照表・損益計算及利益金処分計算ノ承認並ニ利息配当決議ノ件
第二 監査役参名補充選挙ノ件
但任期ハ現在監査役ト同時ニ終了スルモノトス(議長指名ニヨリ三村君平・有賀長文両氏当選ス)
二 取締役及監査役
一 大正七年六月二十四日開会ノ第壱回定時株主総会ニ於テ監査役ニ当選セル三村君平・有賀長文両氏ハ同日就任シタルヲ以テ、同年七月四日所轄東京区裁判所ヘ就任登記ヲ申請セリ
一 大正七年十月八日取締役社長中野武営氏長逝シタルヲ以テ、同月二十二日所轄東京区裁判所ヘ死亡登記ヲ申請セリ
三 第弐回株金払込通知
大正七年九月二十一日壱株ニ付金拾弐円五拾銭也ヲ同年十二月二日限リ払込ムヘキ旨各株主ニ通知セリ
○中略
第二節 業務概要
国家的立脚地ヨリ観ルモ、会社経営ノ利益ヨリ察スルモ、一日モ速ニ製鉄作業開始ノ要アリトハ会社当務者ノ痛感スル所ナリ、斯クテ頻々タル降雨ト労働者ノ欠乏トノ障碍ニ抗シテ鋭意努力シタル結果、各般ノ設備ニ対シ予定ノ進捗ヲ見ツヽアルハ、株主各位ト共ニ会社当務者ノ愉快トスル所ナリ、今主ナル工事概要ヲ挙クレハ左ノ如シ
一 百五拾噸熔鉱鑪《(炉)》
曩ニ米国ニ於テ購入シタル百五拾噸炉ノ材料輸送ハ、船腹ノ不足ト米国内地輸送上ノ支障ノ為、当初ノ予定ニ比シ遅延シタルハ遺憾ナリト雖モ、幸ニ大ナル障碍ヲ受ケス、既ニ全部到着シ、基礎工事ハ七月末竣成セルヲ以テ、目下極力之カ組立ニ努メ大ニ其進捗ヲ見タリ、而シテ其所要骸炭製出用トシテ建造中ナリシ仮骸炭炉モ略落成ヲ告クルニ至レルヲ以テ、大正八年二月末ニハ作業開始ノ予定ナリ
二 参百噸熔鉱炉
米国百五拾噸熔鉱炉ニ次テ建設スヘキ参百噸熔鉱炉ニ対スル基礎工事ハ既ニ大ニ進捗ヲ見、又所要鉄材約千参百噸ハ八幡製鉄所ノ供給ヲ仰ク筈ニテ、既ニ過半ノ受渡ヲ了シ、更ニ附帯ノ汽機・機関・捲上塔其他モ内地各工場ニ対シ註文ヲ発シ、目下夫々製造中ナリ、而シテ本炉ニ対スル骸炭炉ハ副産物捕集ノ計劃ニシテ鋭意其工ヲ急キツヽアリ、斯クテ本鎔鉱炉ハ大正八年十月作業開始ノ予定ナリ
三 製鋼工場
六拾噸平炉参基及混洗炉壱基並ニ附属瓦斯発生炉ノ建造ニ就テモ、材料ノ内主要ナル一部ハ既ニ米国ニ注文ヲ発シ、其他ノ諸材料ハ内地市場ニ於テ漸次購入シツヽアリ、而シテ本炉モ亦参百噸鎔鉱炉ト略同時ニ竣工ノ予定ナリ
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四 厚板工場
第一期製品計劃ニ係ル厚板工場ハ既定ノ計劃ニ基キ、既ニ主要材料ノ註文ヲ了セリ
五 工場用水引入工事
小倉市外紫川取水場工事ハ略其基礎工事ヲ終リ、之ニ据付クヘキポンプ並ニ電働機ノ準備モ完整シ、紫川ヨリ鞘ケ谷ヲ経テ工場ニ通スル水管埋設工事モ大部分ノ布設ヲ了シ、今ヤ順次工場地内工事ニ移リツヽアリ
六 海岸荷揚設備並ニ構内運輸機関
工場敷地ノ西方若松渡船場附近ニ延長四拾余間ノ木造桟橋ヲ架設シ、弐台ノ起重機ヲ据付ケ海運諸材料ノ荷揚ニ便シ、更ニ海岸ヨリ工場内ニ至ル間ニハ軌条ヲ布設シ、構内主要部分ニ連絡セシメ、諸材料ノ運搬ニ供シツヽアリ、而シテ一方鉄道院九州本線ニ対シテモ連絡セシムル計劃ニテ、既ニ其許可ヲ得、専用鉄道引込線工事ニ着手シ、本年末ヲ以テ完成ノ予定ナリ
七 諸原料
基本鉱石タル桃冲鉄鉱石ハ十月上旬ヨリ運搬ヲ開始シ、既ニ第一回ノ到着ヲ見タリ、配合鉱タル朝鮮利原鉄鉱石ハ十二月ヨリ運搬ヲ開始スヘク、又筑豊炭ハ当社場内鉄道ト鉄道院九州本線トノ連絡工事ノ完成ヲ待テ運送開始ノ筈ニシテ、支那開平炭ハ十二月中ニ第一回運搬船来着ノ予定ナリ
第二項○略ス
第三項 貸借対照表 大正七年拾壱月参拾日現在
貸方 負債之部
金四千万円 株金
金参千七百八拾九円五拾九銭 未払配当金
金拾六万九千六拾六円参拾六銭八厘 前期繰越金
金壱万八千六百九拾九円六拾七銭 掛買金
金弐万参千九百七拾壱円八拾参銭 仮受金
金弐拾五万壱千壱百七拾八円参拾参銭 銀行預金
金七万壱千四百五拾壱円七拾弐銭 当期利益金
合計金四千五拾参万八千壱百五拾七円五拾銭八厘
借方 資産之部
金弐千九百六拾八万参千円 未払込株金
金壱百九拾七万九千八百四円五拾参銭八厘 用地
金参万弐千七百八拾円参拾参銭 雑礦地
金四万参千円 地所家屋
金九千弐百拾九円六拾六銭 什器
金壱万五千六百弐拾五円 有価証券
金五百四拾参万七千弐百参拾円弐拾五銭七厘 建設勘定
金六拾九万四千七百五拾壱円弐拾弐銭 貯蔵物品
金壱百六拾九万円 貸付金
金九拾壱万五千八百八拾円弐拾八銭八厘 仮出金
金弐万壱千七百弐拾七円四銭 未収入金
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金五拾五円 提供保証金
金壱万四千壱百九拾円八拾四銭 振替貯金
金八百九拾参円参拾参銭五厘 現金
合計金四千五拾参万八千壱百五拾七円五拾銭八厘
第四項 損益計算及利息配当計算 自大正七年六月壱日至大正七年拾壱月参拾日
金拾壱万六千壱百八拾五円九拾九銭五厘 総利益金
金四万四千七百参拾四円弐拾七銭五厘 総損失金
差引
金七万壱千四百五拾壱円七拾弐銭 当期利益金
金拾六万九千六拾六円参拾六銭八厘 前期繰越金
合計金弐拾四万五百拾八円八銭八厘
金弐拾五万円 利息配当金
株金払込総額金壱千万円ニ対スル大正七年六月壱日ヨリ大正七年拾壱月参拾日ニ至ル半期間利息配当額年五分ノ割即壱株ニ付金参拾壱銭弐厘五毛ニ当ル
右定款第参拾参条ニ依リ之ヲ支出ス
差引
金九千四百八拾壱円九拾壱銭弐厘
右金額仮出金勘定ヲ以テ処分ス
右之通リニ候也
大正七年拾弐月七日 東洋製鉄株式会社
取締役社長 男爵 郷誠之助
専務取締役 男爵 中島久万吉
常務取締役 西野恵之助
取締役 大橋新太郎
同 和田豊治
同 倉知鉄吉
同 藤山雷太
同 麻生太吉
同 鮎川義介
右調査ノ結果其正確ナル事ヲ承認候也
監査役 原富太郎
同 安田善三郎
同 三村君平
同 有賀長文
株主名薄 (大正七年十一月三十日現在)
株数 府県 株主名
○中略
シ之部
二、五〇〇 東京 渋沢栄一
○下略
東洋製鉄株式会社 営業報告書・財産目録・貸借対照表・損益計算及利息配当計算 第三期 自大正七年拾弐月壱日至大正八年五月卅壱日 第四頁刊(DK530007k-0006)
第53巻 p.35-36 ページ画像PDM 1.0 DEED
東洋製鉄株式会社 営業報告書・財産目録・貸借対照表・損益計算及利息配当計算
- 第53巻 p.36 -ページ画像
第三期 自大正七年拾弐月壱日至大正八年五月卅壱日 第四頁刊
第一項 営業報告書
第一節○略ス
第二節 作業概要
米国ヨリ購入セル百五十噸熔鉱炉使用ノ骸炭ヲ製造スヘキ急設仮骸炭炉タルハルデー式骸炭炉百二十基ハ二月中旬其工ヲ終ヘ、直チニ作業ヲ開始シ、期末ニハ一日約百五十噸ノ優良骸炭ノ産出ヲ見ルニ至リ、自給上確信ヲ得タリ、百五十噸熔鉱炉ハ組立期間中降雨甚タ多カリシ為予期ノ進捗ヲ見ル能ハサリシト、一方当務者ハ作業開始ノ後故障ノ発生セル先蹤不尠ニ鑑ミ、各構成部分ニ就テ努メテ其試験ヲ綿密鄭重ニセルトニ因リ、五月十日ニ至リ初メテ火入式ヲ挙行シ作業ヲ開始シタルニ、従来罕ニ観ルノ好成績ヲ以テ十二日以降出銑アリ、其品質亦極メテ優良ナルハ会社当務者ノ最モ欣幸トスル所ナリ
第三節○略ス
和田豊治伝 同編纂所編 第三五〇―三五六頁大正一五年三月刊(DK530007k-0007)
第53巻 p.36-38 ページ画像PDM 1.0 DEED
和田豊治伝 同編纂所編 第三五〇―三五六頁大正一五年三月刊
第十五章 世界大戦時代の活動
東洋製鉄と豊治君 ○上略 豊治君は大正六年十一月東洋製鉄会社の創立せらるゝや、自ら進んで其の取締役となれり。是れ東洋製鉄会社が当時の国情に鑑みて、真に国家的意義ある事業とせられたればなり。豊治君は初め製鉄事業は独り国防の見地よりのみならず、経済実業の見地よりするも、国家として重要なる基礎工業の唯一のものなりと考へ居たりしが、会ま欧洲大戦の勃発するや、我国は果して鉄の欠乏を感じ、自給自足の方法を講ぜざるべからずと云ふの議論有志の間に興り既設の官営による製鉄所以外、一大民営の事業を起して、国家としての基礎工業発達の安全を図らざるべからずと為し、大正五年一月渋沢子爵・中野武営君等が米国より帰朝するや、相協力して、東洋製鉄会社の創立に力を尽すに至りたり。東洋製鉄会社の発起人会は大正五年九月東京商業会議所に於て開かれしが、豊治君は渋沢子爵、郷・中島両男爵等二十余名と共に創立委員に選ばれ、一面民間有志に説きて之が賛同を求め、一面政府に対して斯業奨励の方途を講ずべしと進言し遂に当局をして大正六年の第三十九議会に向つて奨励法を提出せしめ現行の製鉄奨励法の実施を見るに至らしめたるものなり。東洋製鉄会社の事に関し政府当局に対する運動、民間有志に対する勧誘等会社設立の計画は順序よく進みしが、工場敷地の選定に関して甚しく悩む所あり、三・四の候補地を九州方面に物色して研究したるも、何れも一長一短ありて容易に決定せず、是非なく会社は何れかに決定を与へんとしたる際、偶ま久原房之助君より其の計画に係る製鉄事業と合同せずやとの問題起り来りたり。当時久原君は製鉄事業開始の目的を以て既に広大なる敷地を九州戸畑に所有し、計画設計の如き略ぼ完成し、而して其の地勢の上より見るも用水・石炭等の関係等頗る好きを以て若し両者を合併せば、製鉄事業に関する要素を具備すること甚大なりと言はれたり。此の合同提議は初め久原君より郷男爵に告げられ、郷男は直に之を豊治君に伝へ、豊治君は之を中島男に伝へて、相互に考
- 第53巻 p.37 -ページ画像
慮する所ありしが、三人の議此に合して久原の提議に応じて交渉を進むることゝなり、三人相携へて関西に赴けり。当時東洋製鉄会社に関しては、敷地問題其の他諸種の事情錯綜して、世人の注意を惹くこと甚しかりしかば、豊治君等三人は世人の耳目を避けて合同の交渉を進むるの必要を感じ、故らに京都久原君の別荘に於て協議することゝなし、豊治君等三人と久原君及び鮎川義介君を加へて五人会商し、合同の基礎条件此に成立し、細目は東京に於て議定するの約を定めて一旦帰京したり。此の時西野恵之助君は豊治君の勧誘により、日本工業倶楽部の建築を助けつゝありしが、更に豊治君は西野君を東洋製鉄の常務取締役に推薦したるを以て、東京の会商に於て西野恵之助君を加へ久原側との交渉を継続し、関係者間の覚書に由りて一切の合同条件を暫定し、玆に初めて重役会議に附し、重役会議は一致して暫定条件を承認し、工場敷地問題を解決して天下に発表したり。当時の関係者中島男は東洋製鉄の代表者として、豊治君一人の存在が如何に久原家に対して重きを作し、其の発言が円満なる協商の成立に向つて如何に有力なりしかは、余の十分観取し得たる所にして、和田君の真価は斯の如きの間に在りて、最も良く之を認むべく、余が常に同君を評して重鎮と謂ふ所以のもの、亦蓋し玆に在りと云ひて、当時の周旋の多く豊治君の力に俟つ所ありしを語れり。以上の如く豊治君は其の成立当初より重鎮の位置に立ち、中野武営君を社長とし、郷・中島両男を初め久原房之助君・大橋新太郎君等と其羽翼となりて経営方針を審議し、常に竪実の議論を以て重役会に望み会社の安全なる発達を謀れり。豊治君が如何に竪実安全の策に依るべきかを主張せしかは、大正七年九月十七日の日誌に『第二案たる百五十噸、三百噸の熔鉱炉出来上りたる上は、製鋼製板の事業に取り掛るの案に確定す、余は第一案たる銑鉄のみを当分の間拡張して、銑鉄を内地に於ける各種製鋼製鉄会社に販売する方、今後安全なりと主張せしも、多数の意見に従ひ第二案となりたり、其他雑件の重なるものは戸畑競馬場の土地二万三千坪を七十万円以内にて買収する事とし、一切専務・常務に一任のこと』と書したるにても明かなり。斯の如く豊治君は名は平取締役なれども、此の間屡ば九州に下りて、西野専務等と共に工場建築の状態より、規模結構の様式に至るまで詳細に実地の検案をなす等、殆んど専務取締の為すべき事を為したりき。特に大正七年七月下旬、支那に於ける紡績事業の視察に赴くや、特に桃沖鉱山の視察を兼ね、東洋製鉄会社より技師伴工学士を同伴し、具に鉱山の視察をなせり。十月十五日の日誌には、『益田技師の案内にて鉱山を巡視す、同鉄山は中日実業会社を経て東洋製鉄会社に鉱石を供給する約束に依り経営を始めたるものなり、同鉱山の鉱量の多少は直に東洋製鉄会社の運命に関するものにして、余は取締役の一人として是非調査し置くの必要あり、今回上海まで来りしを幸ひ登山せし次第なり、河岸の設備を始め、鉄道其他の施設大に順序よく進行し居り、殊に鉱石の豊富にして鉱質の良好なるは余の満足する所にして、前途安心せり』と記しあり。豊治君は尚ほ伴技師を桃冲鉱山に止め、自己は大冶鉱山に向ひ途中蕪湖の三菱会社の貯鉱所を視察し、獅子山の鉱区を視、大冶の鉱山を一巡し、大冶倶楽
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部に於て盛大なる日支人有志の歓迎を受け、其の席上に於て製鉄事業今後の大勢より自己が東洋製鉄会社を起したる由来を述べ、支那鉱山の実地見学の結果を披瀝して一場の演説を試みたり。豊治君が東洋製鉄会社の為めに尽力する所は斯の如く熱心なるものありしが、大正八年欧洲大戦の終了と共に、財界の景況従前の如くならず、特に製鉄事業は其経営頗る困難の時代に入り、将来の推移全く予測し難く、該会社の如きも事業経営の方針に関して困惑を極めたる時、更に九年春期の反動期に逢着して、一蹶また起つ能はざるの状態に立ち至らんとし重役・株主共に維持保全の方法に付き、何等かの対策を講ぜざるべからずとして苦悩せしが、此の時に当り豊治君は財界の将来を洞察し、多数株主の為めに、また多数従業員の為めに、また企業地繁栄の為めに、慎重考慮を運らして、会社の事業は之に隣接せる八幡製鉄所に経営を委託するの方途に出づるの外なしと主張して、其の議を政府に提唱したり。豊治君は時の逓信大臣野田卯太郎君に向つて、八幡製鉄所が四囲の地理的関係より是れ以上事業の拡張を行ふべき余地に乏しく而して東洋製鉄の工場敷地は広大なる水際を有し、将来大工場地たるの資格を具へ、僅に八幡製鉄所との運輸連絡をさへ完全にせば、同所の拡張計画を移し、此処に実行し得べきこと十分にして、畢竟彼此の相互利益にして、且つ国家的利益とも認むべきを以て、東洋製鉄は今日全く無条件に其の工場敷地と敷地内の現存の設備とを挙げて、八幡製鉄所の使用に委するも可なりとの旨を進言し、政府の考慮を求め、或は白仁製鉄所長官と会商し、或は重役会の議を纏め、或は株主総会の決議を促し、幾多の経緯を経て、大正十年四月十五日より、東洋製鉄は八幡製鉄所に其経営を委任することゝなり、年々其の契約を更新しつゝ今日に及べるものなり。会社の関係者及び株主は今日財界の状勢より観察して、当時豊治君の主張が実に先見の明ありしに感ぜざる能はざるべし。豊治君は大正七年十二月中野社長の逝くや、郷男爵を推して社長たらしむべく奔走し、会社の信用と営業とを失墜せざらしむべく苦心せしが、中島男爵の如きは、今日尚ほ此処置に感歎措かずと云ふ。